AC、人格障害関連

不適応と合理的思考②

 世間で普通にASと診断されているケースはほとんどが状況察知能力の低いASだ。
 私は多くのケースと面接してきて、同じ対人的な愛着の特徴を持ち、時には典型的な自閉症的なこだわりを持つ非言語的状況察知能力が高い(KYでない)一群の人たちがあることを見てきた。
 
 基本的に正直で、「理解されたい」という強い衝動を持つ点で発達障害に分類するべきであると考えるが、おそらく世間では、「境界性人格障害」あるいは「重ね着症候群」等と診断されているだろう。
 
 乳幼児期から人見知りが極端であることが多く、特定の人にしかなつかない。環境の変化に適応するのに非常に時間がかかる。言葉は「最初少ないが、突然文章を話し出す」ようなケースが多い。親よりも優位に立とうとするジャイアンとはまた違う、依存的な意味で「育てにくい」子供だ。
 
 同じように「仕切りに行く」「目立ちに行く」が、ADHDであるジャイアンとの違いは、「自分でも非言語的な表現を使える」ということだ。(ジャイアンは非言語的な察知は出来ても、非言語的な表現を使いこなすことは出来ない)。
 
 それで居て、基本的にASは自己突っ込みは無く、よほど意識的に努力でもしない限り積極奇異型ASには「自分の考えが世界の標準であり中心だ」というAS独特の自己中心性があるので、それが周囲から見ると、「とんでもない目立ちたがりで、自分のことしか考えていない」「ずる賢い子供」という印象になる。
 例えば、不器用なジャイアン兄に愛着を持つ高機能な積極奇異型AS弟のあるケースは、兄に愛着があるので習い事は全部兄の後を追い、音楽でもスポーツでも学業でも全て兄を上回って、片時も兄から離れず、「兄ちゃん何でこんなことも出来ないの?」と毎回言うという不幸な経過になったりする。
 
 一方で受動型ASは自己中心的に目立ちに行かない代わりに、愛着の相手に対して異常な支配的な態度を示し、表情や行動の全ての手段を使ってコントロールする。コントロールできないと「自分は居なければ良いか」という極端な発想となり相手の誠意を試す行動に直結する。
 愛着以外の世間で全く穏やかで自己主張が少ないことと対照的に、愛着の相手にだけ異常に支配的な行動を見せるという2面性を持っている。自傷などをするケースで自閉症的なこだわりが少ないと、実際「境界性人格障害」とどこが違うか?という姿になる。

 ASの本質は「人を無視できない」「人の近さ」であると私は考えるが、非言語的な察知とコントロールを使えて、しかも使い方が(多数派から見て)アンバランスな自己中心的な目的であるとなると、結局「人格障害」に近くなってしまう結果になる。

 だからASの場合も「非言語的なやりとりを分かりもせず使えもしない」というKYなASの方が幸せなのだ。
 少なくとも積極奇異型の場合は、「浮いてしまっても気づきもしない」状態になっても本人は気づいていないから問題なく、また、言語的に突きつけられても言語的なカウンセリングなどの方法がある。
 ASの診断と説明があれば少なくとも理屈の範囲では修正が可能だ。(ただ愛着の部分の行動はダブルスタンダードなので、言語的に説明しても修正不可能なことが多いが)。


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コメント

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 10月 09日

    >ただ愛着の部分の行動はダブルスタンダードなので、言語的に説明しても修正不可能なことが多いが
    痛い、とても、とても痛い指摘です。
    >基本的に正直で、「理解されたい」という強い衝動を持つ点で発達障害に分類するべきである
    定型発達の多数派も「理解されたい」という欲求、他者からの自己肯定欲求を持っていると思います。
    この基本的欲求が”ない”or ”薄弱”なのがADHD、代わりに>親よりも優位に立とうとする<中心志向性、これがねじれ屈折した依存性(従属性)でもって世界の中に自分の居場所を作ろうとする。
    ASは「人を無視できない」位に欲求が”強い”or 特定の相手(愛着対象)は”既に私を理解している”と心理的に見做す、そして他者との繋がりを「仕切りに行く」「目立ちに行く」ことで形成しようとする or 既に「私が仕切っている」=支配的態度をとるのではないかと思います。
    >ただ愛着の部分の行動はダブルスタンダードなので、言語的に説明しても修正不可能なことが多い
    痛い、ただただ痛い。

    • ぴよよ
    • 2009年 10月 10日

    >非言語的状況察知能力が高い(KYでない)一群の人たちがあることを見てきた。
    今まで直接お会いしてきた医師の多くは、KYで自分の世界で感情を完結できるASしか診ていなかったり、情報をご存じなかったようです。だから私のような者は往々にして「問題がないように見える。」と言われることがあったのだと思います。
    症状が存在していることを認め、問題視してくださり、ヤンバル先生ありがとうございます。
    昨夜は寝る前に重ね着症候群について初めて調べました。
    何となくは分かってきました。根底に発達障害の疑いがある患者の場合、それを視野に入れて診ないと本来の欲求を一方的に、医療の力と患者を取り巻く関係者の力皆で抑圧してしまうことになる可能性は、確かにありますね。
    私でも、いくら多量に心理検査をされても、職場では職場で必要な言動をして、実家では実家に言いたいことを言いたい欲求は変わりません。それに落差があることは、私に悪意がある訳ではなく、そうなる理由を知りたいのは過去の私のほうでもあったのですよね。
    やり直しの欲求というか・・・因縁を付けたいのではなく、過去に言い足りなかったことを思い出すから言いたい。
    例えば、以前にここに書かせて頂いた冠婚葬祭の愚痴もそうですが、20年近く前に運転免許を取ったときの延長教習料(当時は今のパック料金制度が地方にまで広まっていなかった時代でした。一時間何千円でかかりました。)当然私は少なくない額でかかったわけですが、父親は納得していませんでした。
    しかし当時十代の私は、まさかこれで日常生活に支障を来す程自己嫌悪に病む訳にもいかず、でも何故延長が付くのか、時々暗くなった父親にはどう対処するのが正解なのかも分からず、想定外事態なので何も言えなくなりました。
    多くの謎が解けた今なら、言えます。父親の無念さに共感できます。自分の不甲斐なさも言葉にして返せます。
    『お金! お金! あのお金! もったいない! 私だって悔しい! あのお金が悔しい!』等と、きっと三時間は騒げます。
    父親のことを考えたり、似たような話を見聞きすると、あらゆるエピソードと一緒に連想するように『お金!』と再燃して、頭が占領されることがあります。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 10月 10日

    続きます。
    私は、父親にたぶん傷ついている訳ではないのです。
    20年近く前から、未練を表現するのが“保留”になっていただけであり、方法が分かり、再燃させられるツールが分かったから、まだしていないものをしてしまいたい、そういうセットを過去に自分にしていただけ(だけ、で説明が付くものではないのでしょうが。)なのではないかと考えています。
    それを憎しみだのフラッシュバックだので分析されても、たぶん違います。
    六十代の父親本人は既に理解の限界であろうとするなら、違う人間が三時間私の騒ぎを聞いて「あなたは金銭感覚が正常にある人なのですね。あなたは金銭については常識を意識できる人なのですね。分かりましたよ。」等と、IメッセージならぬYouメッセージでフィードバックしてくれるだけで、この事についてはかなり頭の負担が軽減されるのではと想像しています。(年々三時間騒ぐ体力にも衰えを感じているのですが・・・体力とは別に未練が色あせる様子はまだ無いと感じます。)
    ただ、これが実現しないのは、これを仲介者無しで親に伝えると全国の“オレ様”ASが起こしている問題を、私も起こしてしまうだけだからなのです。
    今は、私が実家で拘りを起こそうとすると、まだ騒いでいなくても母親が一般人らしい色々な理由を振りかざして私を押さえる作業を一人で引き受けようとしてしまいます。
    でも「帰ってこい。」と言います。実際、帰れません。
    私の頭にはまだ幾つもの時限爆弾のようなセットやプログラムがされているでしょう。
    それは、実家で栄養のある食事を摂って寝て来ただけでは修正不可能なことであり、しかしそれが自立した大人と実家の間の限界でもあり、しかし問題に能動的に対処する責任は私にあり、しかし「大人として問題を抱えていてもとりあえず帰れる場所が実家ではないのか?」という両親には両親の言い分がある。こうして“しかし”を繰り返すしかない拗れ方をさせて、未だ進展がないのが現状なのでした。
    続きます。

    • ぴよよ
    • 2009年 10月 10日

    すみません。続けます。
    >言葉は「最初少ないが、突然文章を話し出す」・・・依存的な意味で「育てにくい」子供だ。
    内言語が多量にある上に、簡単に、例え立って歩いていても手軽に“赤子の手を”どうかするように影響を与えられる人間であるのかもしれません。自我や状況認識力のように選り分ける“ザル”が無いと、プログラムされ放題です。
    一方ザルを身につけると、私のように『何故共依存だと予想が付くのにこの行動をしなければならないの? いい年してタイムアウトされる程問題起こすの? そんな対処する人もいない、親にはそんな腕力は無い。だらしない、みっともない、下品だ!』と凝り固まり、帰省もできない程一人で抱え出す。
    世の引きこもりのかたには、私のような経緯で価値観や美意識が納得せず、結果的に何も出来なくなった人もいるかもしれないと想像します。
    もしかするとAS的なナルシスが入った美意識が引き金であるだけで、当人には人を責める気も敵対する気も無いのに、違う論点から治療されたら受け入れがたいだろうなと思います。
    過去にいた、インターネットの当事者の居場所には、隠れ積極奇異(私もその一人なのかもしれませんが。)のようなかた達が、立て板に水のようにとうとうとご自分の美意識だけを綴っている例がありました。
    たぶん、直接お会いしたとしたら、私が相づちの代わりに無関係なカレーの作り方を淡々と呟き続けても気にしないかもしれない様な、浸りぶりでした。
    本当に“カレーの作り方”をBGMにして自分語りをしても満足できるなら(詐欺や依存被害、犯罪に逢いそうで心配ですが。)幸せな部分はあるかもしれません。
    しかし、語っている自分文化や専門知識を解って相づちを打てる相手かどうかを察知してしまう能力があったら、そしていない現実に妥協できない、精神的な許容量に限界があったら、それは半端ではない危機になると思います。
    私の老後にも、他人事ではなくこの悩みも加わるのではと想像しています。

    • pal
    • 2009年 10月 15日

    adhdもasも多数派とうまくいかないから、世の中でうまくいかず鬱になったりするのかと思いこんでいましたが、違う場合もあるのかと読んでいて初めてわかりました。
    自分のテリトリーに少しでも攻撃材料のある中心志向者がいれば見逃せない、攻撃せずにはいられない。社交能力にたけていれば、その場だけなびく多数派もまきこんで。
    そんな攻撃をうけて鬱になる場合もたくさんあるのだと。
    だからトラブルの対処の際、念頭に置くのは、単純に多数派との関わり方ではなく、相手がどんな考え方をする人かを考えなければいけないのだと。
    そこにいてどんなに多数派に合わせても、他人の中心志向を許せない人がいたら、攻撃され続けてしまうのだから、その人を負かせられない限り、またはその人より多くの多数派を引き寄せる能力がない限り、新しい場所を探すしか他に解決策はないのだろうと。

    • YK
    • 2009年 10月 22日

    この頃感じます。
    年齢と共に、集中力が落ちてきて、
    以前できていたこと、
    暗記、相手を読んであわせること、
    ねこかぶり、マスク・・・、
    長い間かけて、痛い思いを何度もして構築してきた
    社会適応のためのあれこれがだんだんできなくなってきていることを。
    あまりに大変すぎて長続きせず、
    すぐ疲れて退散してしまったり、
    不機嫌になったり・・・。
    そんな自分が恐くて、
    まるで爆弾抱えているようで引きこもりたくなる衝動。
    激しさを増す落ち込み、眠気、疲れ・・・。
    せっかく社会適応できるようになってほっとしてたら、
    「老い」「老化」がやってきて、
    せっかくの努力は無に帰してしまう。
    なんと虚しいことだろう・・・。

    • ぴよよ
    • 2009年 10月 31日

    いよいよこのPCも私の頭のペースに着いていけなくなってきたようです。
    書いている途中で勝手に電源が落ちました。
    昔は怒りを爆発させながらでも書いていたことのかなりを自力で思い出せていたのですが。もうほとんどが飛んでしまいました。
    PCではなく、人に再燃の解消と精神安定を依存している当事者は、こうして相手を壊していくものなのでしょうか。
    上映中の映画の話なのでご承知おきいただけるかただけ読んでください。
    “刑罰執行猶予中人生”の私なのに、花火や夜景などキラキラ点滅するものに、ついふらふらと惹かれるので、その乗りで映画を観に行ってしまいました。
    MJ(検索で無関係な人が引っかけないように、イニシャルにしてみました。)が私服なのに光っていました。
    完璧さや、フレンドリーさを沢山讃えた内容でした。
    コミュニケーション力、経験、スタッフも全てが一流でした。それはそれは当然、効率的に平和的に業務連絡が進んでいるように私には見えました。
    作られた平和。
    一流の技術と経験値と成熟した自制心に支えられた平和な仕事。
    MJはことごとく極端に二面性がある評価に囲まれていた人間だと思います。
    素晴らしがる人と迷惑を被る人と。
    その不便さ、自分の全体像が誰にも見えていないことを知りながら生きる不便さ、極端に一面しか見えていない人間達に日々囲まれる不便さなら、少し分かる気がしてしまいました。
    先天性の才能を持ったがために、そして偏った親を持ったために、一般庶民としての経験の色々が欠けてしまった者。
    それでも限られた(家族と離れた思春期からも結局アーティストとばかり交流してきたらしい。)経験の中でのみ気遣いを覚えてしまった末路。他人の思わんとすること、言わんとすることを、限られた場だけで読める者の末路。
    正直、声を出すのに身体が辛かったんじゃないか? と思わされるシーンもありました。

    • 林檎姫
    • 2010年 2月 19日

    わたしは、おそらく、積極奇異型ASみたいです。
    このところ、ずっとここのブログと先生のHPとを行き来して、自分なりに考えてましたが、もやもやしていたものが少しクリアになってきました。
    はじめはBPDと診断されて、今は、特に診断名はなく、生きづらさと戦ってます。
    心理検査や知能検査をなぜ、はじめにしなかったのか?という疑問があり、十年経った今、検査をはじめました。
    今の日本には、成人の発達障害に詳しい医師は、そんなにいいないとわかってますが、専門家がいれば楽なのになと他力本願に・・・
    でも、ここまで見捨てないで、粘り強く「気付き」と「ふり返り」に付き合ってくれているわたしの主治医は世界一と思ってます^^
    知識プラス腕がなければ、一流にはなれないですよね。
    一度は、心理の道をあきらめましたが、またこうやって勉強できてることがうれしいです。
    これからも、生きる道しるべとして、ここを活用させていただきます。

    • のら
    • 2010年 11月 03日

    私は家庭でも職場でも相手の人の立場にたって考えることが難しく客観的に物事をみれなかったけど、そうすると主観だけが以上に膨らんで自分の要求や不満ばかりになっていつも苦しかったです。相手の人を思い通りになんてできるわけないのに。変えられるのは自分だけなのに。(自己突っ込みは入るのですが客観的になれないため、こうしなければいけないのに!のような形で客観的な突っ込みではなかったです)
    自分の中からわいてきた感情を人と自然に分かち合うことができる人だったらきっと愛着なんて必要ないんでしょうね。。それができないからASなのかなぁ。。難しいなぁ。人といるときはいつもどこか気をはってくたくたになってます。(自分の気持ちを無理やり人に合わせるような感覚です)
    愛着の人はやっと見つけた自分がきちんとコミュニケーションとれると思った相手だから失いたくないけど、好きな相手に怒りをぶつけたり傷つけたりはもう疲れました。
    完璧主義と理想主義はやめて、まずありのままの自分を自分が受け入れようと思います。
    人と感情分かち合うのが苦手な自分、想像力ないから融通がきかない自分、人にも自分にも正しさを求めて異常に厳しくなる自分‥。
    もしかして私が一番自分の人間らしさを拒絶してたのかも?理想主義が一番大切で社会に組み込まれてロボットみたいになりたかったのは自分かもしれません。
    人との距離が近くて、人の気持ちに敏感すぎるのは変わらないけど、人と一緒にいても自分らしさを維持できるようになりたいです。人ばかり見てるのはやめたいです。
    優しくなりたい、人から好かれる自分でいたいって思ってたけど、自分をないがしろにして人にばかり優しくなんて出来るわけないですね。。
    まずは自分の感覚を大切に。
    ASゆえの障害をどう乗り越えたらいいのかは、自分を大事にしつつ考えていこうと思います。

    • 182
    • 2015年 4月 28日

    行き当たりバッタリでこの記事を読み、何だか妙な事を思い出してしまいました。

    私は、極端に言えば、世界には「私」と「環境」しかなくて、要するに親兄弟さえ「他者」ではなく「環境」としか認識でき無いADHDです。

    思い出した妙な事とは、姉についてなのだけど、まぁ、この人は私の認識では「姉というフラグを持った人」という存在なワケですが、その姉が、ここの記事にある様に、割と後から私を真似して習い事を開始する事が、そう言えば度々あったなぁ、と。

    逆のパターンは無かったんですよ。姉だけ習ってる事ってあったけど、私は興味が無い事はやらなかった。
    ただし、親の方針で不本意ながら同じ習い事に「通わされている」と言う状態はあって、それで、真面目な姉が通っているのを尻目に一人サボっていたりしました。
    授業料ドブに捨ててサボってたら「やめて良い」と言うと思って、コッソリでは無く堂々とサボっていた訳です。

    そういう習い事で成績が姉に勝て無い事は、中心志向持ちのジャイアンでも「合理的に納得」できるのです。ま、言うまでも無く当然だもんね。
    興味のない、ヤル気のない事でも勝たなきゃ気が済まないって程、カオスなジャイアンでは無いって事かしら?

    で、この記事と逆なのは、私が好きでやり始め、後追いされた方の習い事において、私は姉より成績が劣る事が無かったため、これまた当然に中心志向が傷つく事は無かったけど、どうやら姉の方は私に勝て無い事で中心志向が傷ついていたらしいぞ、と今更ながらに思うのです。

    そう言えば、ある習い事について姉が「今からやっても182の下になるから嫌だ」と母に話していたなぁ、と。
    その時私は「へぇ、お姉ちゃんってそんな事考えてるんだ?」と、とても意外に思った覚えがあります。
    ジャイアンである私に理解可能な「下になるのが嫌」発言によって、その瞬間、姉が私の中で人格を持つ様な感じがします。
    だからこそ、この発言を今でも覚えているのでしょうね。

    それで思う事は、私と母とでは記憶がかみ合わない事が沢山あるのだけれど、それって結局「理解できないから記憶できない」って事なんだなぁと。

    ASDの人は(夫に言わせると)過去の記憶ってまるでVTRに保存しているように記憶できるらしくて、だからその時には意味が理解できない事でも記憶できる、「丸暗記」ってのができる人ってイメージです。

    私はもう絶対ダメ、丸暗記教科は超苦手だったなぁ。
    だから数学的、論理的、合理的思考の方に偏っていったんだろうね。再度の不適応を起こす程強迫的に。

    最近、強迫的合理主義で同僚を追い詰めて半泣きにさせちゃって、反省、反省、の日々。
    「社会は合理だけではできていない。」と一生懸命自分に言い聞かせながら、、でも議論の場になると合理的でない事、論理的でない事にイラついて攻撃してしまう、、、少なくともイライラして攻撃的になるのは明らかに私の方が反社会的だよ。。。

    でも、ま、「イライラ」の正体について、だいぶん見えてきた気がするなぁ。

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