前記のA1「言語的非言語的器用」、A3「言語的不器用非言語的器用」のケースを、主として非言語的な威圧とフォローの中で養育し、言語的な説明がなされず、屁理屈を無視して通さなかった場合、「依存型ジャイアン」へと成育する。
「非言語的なジャイアン優位」の場合は、持ち前の非言語的な状況察知およびアピールの能力をますます研ぎ澄ます成長を遂げる。
行動は悉く「その場の状況で非言語的に有利な立場になる」ことを目的とし、徹底的に場当たり的、瞬間に生きる。
合理的な思考はあっさり捨てられ、ついさっきの瞬間の行動と今の行動とがまったく首尾一貫しないことに頓着しない。過去は振り返らず、学習もせず、「責任」も認識しない。
すべては「結果」であり、「メリット」は認識しても、「意味」は理解しない。
「他者」を実感することは無く、他者は「(無生物的な)状況」の一部でしかない。
一貫した「自分」は存在せず、その場で力を持った中心人物に巧みに非言語的な能力を駆使して依存し、自分の優位を保つことだけを追求する。
合理的、一貫した思考自体が無いから悩むことも無い。自己突っ込みも無い。逆にうまく状況をコントロールできない場合は「いじめられている」と認識する。
このタイプは表面上は「ちょっといい加減だが普通の人」である。「とにかく表面的に自分の立場を悪くしない」技術に長けており、「利害が対立する2者の間に立って調整する」職業などでは特に実力を発揮する。
身近な家族やパートナー、子供などの距離で継続的に接すると、その首尾一貫性の無さの結果、周囲はボロボロに傷つく。
人を人とも思わない。ただその場で自分に有利に「利用」しているだけで、利用価値が有るか無いかだけが関心事だ。発言も考えも行動も状況に応じてころころ変わり、「自分が無い」ために、本人に「責任」や「誠意」を求める身近な人は非常に空しい思いをし続ける。
本人は合理的、継続的、一貫して考えないため、自分の問題に気づくことも稀で、むしろ「うまくやっている」と認識している。
唯一の壁は、人生の中で、「親としての責任」と「パートナーとしての責任」などの「責任」を問われる場合だ。
「責任」の意味すら認識できず、のらりくらりその場の機嫌取りを続けるため、「無責任」「誠意に欠ける」と見なされ、身近な他者から見放される。
その結果、別の共依存相手を探して同じプロセスを続けるか、あるいは問題を自覚的に認識できないままに身体症状やうつ状態となる。
「自己愛性人格障害」あるいは「精神病質」と呼ばれる人の一部はこの「依存型ジャイアン」で説明できると私は考えている。
類は類を呼ぶのか、様々なタイプのジャイアン、アスペルガーに囲まれている、超合理的強迫型ジャイアンの私です。最近は合理的思考追究の一環として、非言語的コミュニケーションをいかに合理的に把握するか、について考え中です。ここに自分の道が開けているような気がするからです。精神分析学などを素人ながらに勉強するうちに、非常に理解が進んできました。
ところで、私にとって一番たいへんなのは、依存型ジャイアンとの付き合いだと思います。何しろ、言語的合理性がまったく通じないのですから。(多くの依存的ジャイアンは知的であるから理解できるのに、意図的に合理性を無化します。そのプロセスは本当にあっけにとられます)
私にはひとり徹底した依存型ジャイアンの友人がいるのですが、彼女は色々なものを壊しながらせつな的な幸福感の為に生きています。人として、その先に何が待っているのでしょうか。友人としてその生きざまに心を痛めています。彼女にとって、人生はドラマ、私は主人公、他の人はバイプレーヤーで、主人公の人生を飾り立てる添え物にすぎないのです。だから人の気持ちを考えずに、やたらに問題をドラマチックにして周りを荒廃させてしまうのです。それがどんなに残酷な行いなのか、どうしたら分かってもらえるのでしょうか。
超合理的ジャイアンにとって、依存的ジャイアンとは最も高度なコミュニケーション術が要求されると思います。超合理的ジャイアンは、依存的ジャイアンとの七転八倒の中で、体で非言語的コミュニケーションの緩急を体得していくことができるのではないかと思います。その為には、もちろん、「自分は非言語的コミュニケーションを学んでいるのだ」ということに意識的でなくては、相手に呑まれてしまいますが。
いつか依存的ジャイアンは、何かこう、、、、自分の中に「芯」のようなものを見つけることが可能なのでしょうか。ぜひ先生の考察をお聞きしたいです。
母が依存型ジャイアン、父は積極奇異型ASです。
結婚して実家を離れて数十年も経つのにが未だに両親の言動には苦しめられています。
特に母です。
自分の都合よく虐待の過去すら慈愛に満ちた行動へと書きかえて得意気にしています。
絶縁するしかわが身を守る術はやはり無いのでしょうか。
夫と私の破綻した結婚生活の原因を、ほぼ完璧にストライク
ど真ん中に総括してあるようで、読後感が爽やかですらありました。
「結果がすべて」「自分にとってメリットかどうかだけ」
という言葉はよく、夫の口から聞いていましたし、
彼に(なぜか)執着されずっと側にいる状況になっていた
私がなぜボロボロになってしまったのか、そして私は
最終的に彼を「見放した」ことで心身の安定を得たことの、
本質がようやくわかった気がします。
依存関係に持ち込ませてしまった私にも責任はありますが、
やはり夫の生育環境が先生の指摘どおり(AS父による
徹底した屁理屈の無視あるいは論破 & ジャイアン母の
非言語的威圧・フォロー)に間違いないので、
完全版依存型ジャイアンの王道を歩んできた夫だったのだと
思います。
現在の彼はまさに「ちょっといい加減な普通の人」「やたら
世渡り上手」「上司ウケ抜群」で
法的交渉の実力発揮しまくりで成功しています。
そして、出産して子の世話で手一杯の妻はもはや
利用価値が薄くなったため「離婚したくてしょうがない、
養うのは金の無駄」、
息子が産まれてからすぐ「うつ状態」で通院、現在
は慢性疼痛で苦しんでいます。
先生の書かれたとーーりの典型パターンです。
いやはや・・・彼自身が自分で問題を解決できることは
あるのかどうか。離婚も含めて、人間関係を清算
したほうが、お互いにとって良いだろうと、なんとなく
確信しつつある今日この頃ですが・・・。
ずーっと前の記事で、依存型とか、ジャイアンのタイプ分けが載ってた時は自分がどれに当てはまるか分かりませんでしたが、この部分を見たら自分はこれに当てはまると思いました。子供の時は屁理屈を徹底的に無視され、理屈を説明されることがなかったとか。メリットを考えるとか。
・・・これを読んでも何が悪いのかよくわからないんですが・・・・うーん。。。
昔聞いた話ですが、現職場に来る前の若い時に、この記事に出るようなジャイアン素質の人にパワーハラスメントを受けていたらしい話を同僚が話していました。
怖い話でした・・・。
話をした当時になっても、病的と言えるほど自分を出せない人だったため、「(悪用しないし理解したいから)話してくれる?」と上手に聞き出した職員がいて、私は聞こえる距離で静かに残業しながら耳をダンボにしていました。
いくら権力のありそうな人に対等ぶろうと目論んでも、この仕事は働いた結果が子どもから返ってくるので、目に見える変化(能力向上だけでなく、信頼とか懐いている様子等指して。)が無いとたぶんどこかでボロが出るものでしょう。
要はそうして中心欲求が満たされず、他の能力にも恵まれなければ転職も叶わず、苛立つ欲求不満があまり拒否のできない若者に向かったようです。気分不安定で振り回されれば、拒否できず、周囲もその若い職員を守れなくする操作をされたのだと、つまりそういう筋のようです。
もともとその人は誘われれば同僚と遊べるし、たまらなく子どもを可愛がり、デスクワークもできるいわゆる“使える職員”だったため付いてきた『話を聞き出してもらえ受けとめてもらえる』という特典でした。
所詮、健常者が受けられる特典なんですよ・・・。w
思えば『立場を利用した操作行為』は、悲しいことに一部の保護者が使うケースが年々増えてるようで・・・。
基本的に職員と保護者のお話というものは貴重な情報交換であり、口話がしんどければ「書いてくれ」とノート持ってきてくれれば良いのであり、書くのもしんどければ「お任せしてます♪」と言ってくれれば良いだけなのですが、そもそも合理的にできないのがそういうかた達なのでしょうね・・・。
無自覚ジャイアン傾向と一部の無自覚ASにも言えるとおもいますが、自己意識が自己コントロールできないことが当たり前で、外部で調節されなければならない人というのは、分かりやすいくらい感情の波がダダモレ(方言?漏れっぱなしと言う意味ですが。)のようですね。
私もばれていないと思っている気分の波が、実は誰にばれているのかと想像すると怖いですね・・・。
二十年も前のことですが、当時勤めていた会社の上司から、「実 は頭がいいよな」と言われたことがあります。勤務成績不良なダメ社員の私に何を言うのかと思いましたが、真意は理解できず、ただ言葉通りに受け取って、あれ?褒められたのかな?と内心ホクホクしていました。
>本人は合理的、継続的、一貫して考えないため、自分の問題に気づくことも稀で、むしろ「うまくやっている」と認識している。
私のこういう部分を皮肉っての発言だったのだと今ならわかります。
当時ストレスは感じていました。体にも出ていましたし、買い物依存になりかけていました。でもどんなに非常識な事をしても、周りに迷惑をかけても、それについての自己突込みは全くありませんでした。
>「責任」の意味すら認識できず、のらりくらりその場の機嫌取りを続けるため、「無責任」「誠意に欠ける」と見なされ、身近な他者から見放される。
見放されていることにも気づいていませんでした。
「責任」を意識したらどこへも出ていけなくなります。何もできません。それほど「責任」に対して恐れを持っています。怖くて怖くて仕方がありません。今も生じつつある責任から逃げ出したくて、その衝動を抑え込むのに必死です。
逃げられるなら何でもやる、というくらいの気持ちが湧いてきて、いつもそれに負けてきました。今度逃げたらもう後はないのに、それでも逃げたくて逃げたくてどうしようもありません。
合理的に考えなくてはと思うのですが、すぐ身につくはずもありません。投げ出さずに少しずつ訓練をするしかないのですよね。とても難しいです。