ADHD関連

共存の可能性

 いろいろな角度からASとジャイアンの共存の可能性を最近考えてきて、何となくポイントが見えてきた。

共存の障害① 根本的な思考のあり方

 ジャイアンはASの、「自分が多数派側に立つ」「自分の考えは一般的普遍的である」というような思考を、激しく独断的(「井戸の中」と呼びうる)と認識する。「何の根拠があってそう言えるのか?」、「あなたは神様か?」という不合理さへの反発とともに、「中心の方向から蔑まれている」という激しい反発が起こることは避けられない。(ただしこれはASが徹底的に合理的な環境で鍛えられた場合には例外は生じうると私は思う)。

共存の障害② 表現方法

 ジャイアンはASの「非言語的な表現」に過剰反応する。ここのコメントの中でもmario氏の主張に対して、ネット上の言葉での書き込みであるにも拘らず、「その言葉の背景に感じられる思考の前提」や「ちょっと漏らした本音的なためらいの感情」などの部分にジャイアン側の反発が集中している。

共存の障害③ 求めるものの違い

 ASは「必要とし、必要とされる」という情緒的な依存関係を(少なくとも非言語的な部分では)どうしても求める。「利用」という表現に抵抗があることからも分かる。ジャイアンはこれに応じれば病気になり、応じなければ非常に「うざったく」感じて振り払うことになるだろう。ジャイアンは「必要」という言葉で現されるような関係を必要としない(だけでなく有害でさえある)からだ。

 ASとジャイアンの共存を考える場合、上記の①②③はどうしても超えなければならない壁だ。いずれもASおよびジャイアンにとってかなり根本的な脳の働きの特徴から帰結しており、変えることは容易ではない。少なくとも多大な努力を要することは覚悟すべきである。

 


関連記事

  1. AS-ASカップル
  2. 発達障害と「感情移入」
  3. アスリートA氏
  4. 発達障害支援の留意点
  5. 理解不可能なことの理解
  6. 依存型ジャイアンの薬物依存
  7. ASのオモテとウラ
  8. ブログ上コーチング④ASのケース

コメント

    • さーこ(AS)
    • 2008年 7月 11日

    YANBARU先生
    このスレッドに書かれてある事は、私個人にとって、とても当たり前の事でしたが、
    こうして先生がきちんと言葉にしてくださって、私は私のしている覚悟に対して、ますます確信を深めました。
    ここにお礼申し上げます。
    >少なくとも多大な努力を要することは覚悟すべきである。
    ええ。とても、とても、多大な努力を要しますね。

    • Ax
    • 2008年 7月 11日

    最悪の相性に書かれた内容、今回のエントリ、どっちも至極納得なんですが、AS男性にはその事実は認めがたいか理解ができないんですね。
    AS(男)vsジャイアン(女)のガチンコバトルを見ていると、境界例(先生に言わせればこれらは99%発達障害のACとのことですが)の人が、中々共依存の状態に持っていけないターゲットを何とか篭絡しようとして、必死になってる姿とすごく被るんですよね(リアル経験あり)。
    すいません、これが言いたかっただけです。
    少なくとも私自身はジャイアンではないらしいので、こちらへの書き込みは以降せずに、先生のエントリとそれに喚起されたコメンターの皆さんの発言を楽しみに待ちます。

    • むーん
    • 2008年 7月 12日

    Axさん、おちょくらないで下さい(笑)皆真剣なのです。
    とは言え・・・AS(仮定です)彼と私との関係が・・・、一度たまたま母との関係を分析しようとして手に取った、ボーダーラインの専門書で、・・・そこにあるボーダーカップルの姿と全く重なり合うので驚いた記憶は確かにあります。(米国の本でしたが。)
    共依存は、確かにやってる間は楽しいですが、終わってみると疲労感と思い出だけが残るものですね。(-_-)zzz

    • Ax
    • 2008年 7月 13日

    ガチンコバトルという言葉の選択が失敗したのだろうと思いますが、私には皆さんをおちょくる意志はありません。
    エントリの意向からすると私のコメントは「だから何」的蛇足でしかないのは理解していたので、先生が検閲の際に問題視されて未掲載のまま終わるならそれでよし、掲載が許されるのであれば上記通りの理由から一言断っておくべきかと思ったまでです。
    私はジャイアン(ADHD)ではありませんがASかPDD-NOSの可能性があります(医師が明瞭な回答をしてくれませんでした…PDD-NOSよりASの方が理解がまだいいのでASと名乗っていますけど)。
    こちらへの書き込みをする方が、それぞれ必死な状態にあるのは理解しているつもりですし、その内容に気づかされることはとても多く、勉強させてもらってます。
    共存の可能性というテーマに沿って言うならば、「自分の居心地いい状態で満たそう」というエゴを、ASジャイアン共に捨てねばならないということなのかなと。
    そういう点で、認知の性質的にASというのがジャイアンから見てウィルス同様に見えるというのは、至極納得で異論のないところだなと考えました。

    • むーん
    • 2008年 7月 13日

    Axさん、失礼しました・・・
    今、自己突っ込みの嵐でどうしようもありません。marioさんがどこかで書かれていたのですが、ジャイアンと言うのはASから見ると、「前向きで明るくてちょっと天然で・・・そういう女の子と付き合ってみたいと思うとこうなっちゃう云々」みたいな事を書かれていて、ASの方々としては、ウィルスどころか悪気ないと思うんですよ・・・
    それに自分についても、この年で失恋直後とは言え呑気に家事見習いやってていいのか、みたいな突っ込みもあります。
    10年前に比べたら、完全を期しては鬱になっていたころよりましだろうと思うけど・・・
    つくづく『自分の居心地いい状態で満たそう』としないほど、むつかしい事はないです。ASに限らず、誰かと共存しようとしたら不可欠なことなんですけどね。

    • ねね
    • 2008年 7月 14日

     体の具合の悪さは子供のときからありました。
    ここで学んだことを考え合わせるとASの父の影響でジャイアンらしさを発揮できなかったからと言えるかもしれません。
     結婚してからの不調の一因はジャイアンらしさを押し殺してASの主人に合わせようとしたことではないかと思えます。
     それでも結婚して20年になりますが最近はうまくいっているように思えます。それは 思考で分かり合うことを私が諦めたせいかもしれません。これもジャイアンらしさを殺すことになるので、慣れるまでは大変でしたが、分かり合うより感じ合うほうが幸せだという結論に達しました。
     ジャイアンとASが引き合うのは 体の持つ電気が合うのだと思うます。NとSのように逆だからこそ引き合うのでしょう。
     もう一つ個人的にあう電気はやっぱりジャイアンの人です。似ているから居心地がいい。
    特にそっくりな電気を持つ人は初めて会った人とは思えない、他人とは思えないような感じを受けます。
    だから、ジャイアン&ジャイアンの組み合わせはすごく楽しいのですが常識から逸脱してしまうのでとんでもないことになってしまいます。
     この場合は話が盛り上がる割には 根本的なところで一致することなく 「あなたはあなた」の路線を外れると修羅場が待っています。
     相手が誰であれ、「ジャイアンは人は必要ない」ということを忘れた時点で人間関係のトラブルは避けられないということを肝に銘じておこうと思います。

    • むーん
    • 2008年 7月 15日

    私とAS彼の「共存」が、比較的うまく行っていたころ、周りのご老人(昭和1桁)が、私にまっさきにやっきになって薦めたのが、NHK「ちりとてちん」でしたね・・・(彼本人も気に入っていた。)
    なんで、「落語界」なのか、いまいち理解に苦しむんですけど、あれはようするに1昔2昔前の倫理観で統一された世界ですよね。AS男にジャイアン女が従うのは当たり前。
    私自身は、総集編(それも後半)しか見てないんで、よく分かってないんですが、確かACジャイアン女性が、「他人のことばかり心配している母が嫌いだった、でも今はそんな母親と同じ生き方が豊かで大好き」とか言い出して、女落語家を引退して、子供を出産するとかいう滅茶苦茶な話になっていた。
    でも、昭和1桁の共感は大いに得られたみたいですね。
    私も、時々彼と付き合っていて、「これが50年前だったら、こんなモラハラも当たり前の男女関係だったのに」とよく思いました。
    何が言いたいかというと、もしAS男とジャイアン女で「共存」したかったら、ここにいる全員で新しく「落語界」を設立するといいかも知れないです・・・。別におちょくっているのではありませんので誤解なきよう。

    • るる
    • 2013年 10月 12日

    *怒りの感情に向き合うことを続けているうちに、自身の
    1.・強迫的な“すべき”思考
      ・自己正当化
      ・刹那的有利・優位への執着
    という〈脳のつくり〉がわかってきました。
    2.思春期ごろには既に〈利用〉に気づいていながら、それに罪悪感を持っていたことに気づきました。
    3.本来のADHD、“素の自分”に戻るためには、自分の依存と向き合う必要があると思います。
    今の私にとってそれは〈手放す〉という言葉がしっくりきます。
    たぶん、今が好機です。
    自分自身のことなので、たとえば「すべき思考」に気づいても、今度は「そう考える必要はないと考える『べき』である」となってしまい、すごろくの“ふりだし”にもどります。
    ですから諸々、気づいたことで「よし(お利口だね)」とするという方向性でいくのが良いのでは、と思います。
    利用についての自己突っ込みに耐えられるかどうかということについても、考えていきたいです。

    • るる
    • 2013年 10月 12日

    先ほどの投稿を、よく読み返さず投稿してしまいました。
    ・・・自分のすべき思考や正当化が「脳のつくり」によると書いてしまった気がしています。
    「有利・優位への執着」は脳のつくりによると思いますが、すべき思考や自己正当化は、自分の脳にしみついた「価値観・思考の傾向」のようにとらえています。
    しかし一方、自己突っ込みが脳のつくりに由来するならば、すべき思考も必然的に発生するような・・・。
    ・・・逆に、素に近づいて「強迫的すべき思考」がなくなったとしたら、生活自体が成り立つのかという不安が生じます。
    その点ほどほどに、合理的に、ということなのでしょうか。

    • るる
    • 2013年 10月 14日

    *中心志向*
    折しも、実家から私の幼少の頃の育児日記や通知表などが出てきました。亡母が箱に入れて保管しておいたようです。
    自分では、無口で暗くぼーっとしている子どもだったと思っていましたが、母や担任の記述によると「自己主張が強く、どこでも誰とでも大声でしゃべっているが、引っ込み思案である」と書かれていました。
    高学年になると「おとなしくて穏やかだが、驚くほどきつい面がある」とのこと!何だか笑えました。
    以下に、今の自分の考えを書かせてください。
    自分の中心志向は、脳の根本的特徴であると思えました。
    “中心志向それ自体”は、良くも悪くもないことだと思います。

    中心志向があれば同時に「有利・優位への執着」が発生し、他者に対するスタンスは「利用」となる。

    中心志向であるが故の「自己突っ込み」も必然的に発生する。

    「自己突っ込み」からは、これまた必然的に「すべき思考」や「自己正当化」の気持ちも生じる。
    私の場合、
    1.私の中心志向に気づいた母や周囲の人間からの、有言無言の否定的メッセージを感じ取った。
    2.幼稚園以降は、同質性が是とされる集団生活の中で、自分の中心志向は矯正すべきというメッセージを感じ取った。
    3.同時に、人を「利用」するのはよくないというメッセージを感じ取った。

    ①自分の激しい怒りは、幼少時から“素の自分”を否定された怒りが積もり積もったエネルギーの“爆発的発現”?
    ②他者利用に対する罪悪感が「共依存」関係へ?
    そこで、自分が“素の自分”にもどったら?と考えました。
    ・・・周囲とのバランスが取れてさえいれば、自己中でも結構ではないか。
    例えば、今の私は「居心地のいい空間・居場所」を大切に思っているので、自分専用の「すわり心地の良い椅子」を買ってくるなど。(家人の了解は必要かもしれませんが。)
    中心志向そのものは単なる個性で、善悪の問題ではない。(と、私は思います。)
    「利用」についても同様に、脳の特徴の問題であって善悪の問題ではない。
    言動に問題があるとしたら、自己正当化のために他者を過剰に攻撃する部分です。
    これからは、自分を無意味に責める必要はないんだ、、、と思います。

    • るる
    • 2013年 10月 15日

    *AC・依存*
    自分の問題と他者の問題との区別がついていないということ。
    この意味が、ようやくわかりました。
    そういう自分に、ようやく気づけました。
    同居人qのみならずpに振り回されている自分に気づき、むしろpとの関わり方が一番の問題だということがわかってきました。彼の問題を、ほんとに気づかずたくさん引き受けちゃってました。
    ◎気づけたことが、よかった
    他者の言葉を、言葉通りに受け止める半面、他者の表情に対し過剰に反応する自分。
    それはパートナーに対してだけではなく、子ども・友人・仕事関係にも当てはまることでした。
    以前に自分の怒りの考察で、家族の並行曲線をイメージしました。
    その考え方そのものが依存的だったのだと、今の私は思います。
    ◎今まで、自分の脳で考えていなかった! ←気づけてよかった
    「素の自分」にかえった時、私は“他者はどうでもいい”のだと思います。(すでに、そうなってきている。)
    そんな自分が、どこまで「私」を主張するか。
    ◇周囲に合わせることが主目的であるかのような多数派との関わりは、あいまいな態度が最適である。これからも刹那的好奇心で質問等をしたり、一抹の寂しさを感じつつ、ひっそり自分らしくふるまおう。。。

    KYな私が、読めない空気を読んで多数派に合わせようとすることは、様々な視点から見て無意味・無駄だと思いました。
    ◇同居人pとは、本音を言えば週末婚くらいの関わりがちょうどよく、qとの関わりでは別居が最適と思える。

    さしあたり、同居人たちとは「物理的に距離を置く時間」を増やし、自己中モードは「一人の時間を確保」「お気に入りのティーカップ購入」程度にとどめます。
    ◎ひっそり・目立たず がポイントかな。

    • るる
    • 2013年 10月 17日

    *“素”の自分*
    先生のブログを読み始めたきっかけは、子どもの社会不適応問題からでした。
    しばらくの別居を経て、今春に突然帰ってきた子どもを前にして、途方に暮れた自分。先生のブログとコメント欄を参考にしつつ、「子どもの問題」としてではなく『自分自身の問題』として考えられたことが、実に幸運だったと思います。
    具体的には「怒りの感情」からパートナー関係を考え、自分自身の問題を見つめ、結果、思いがけず“素の自分”を感じることができました。(できたと思っています。)
    いつから自分自身の脳で考えていなかったのか?
    というか、いつから表面的には考えることを諦めつつ、無自覚に歪んだ形で表現してしまっていたのか、考えてみました。
    ・・・物心ついた頃には、すでにそうなっていたな。
    物心ついたころからずっと、表面的には周囲の有力者の顔色をうかがって生きてきました。
    そうなったのはやはり、母が主因だったと思います。
    子どもにとって、母親は様々な意味合いで“非常に重い存在”ですね。(だから母親の責任だという意味ではありません。)
    あれこれ考えるうちに、成長過程で心身にしみついた思考法(?)・価値観は、「気をつければ変えられる」というレベルのものではないことを、実感しました。
    それほどまでに、丸ごと自分の一部になっているのでした。
    私のシンプルな欲求は、気ままに過ごせる居心地の良い空間を確保したい、周囲を好みの品だけで満たしたいという欲求です。(自分で認識する限りは。)
    素に近づきつつ(多分)ある今、誰に遠慮することなく、自分の身辺のことを決めていいのだという開放感は、とても心地良いものでした。
    スリッパ一足程度の購入でも、自分の意志だけで決めていいということが、素直にうれしかったです。

    • るる
    • 2013年 10月 17日

    *こどもとのこと*
    ASの子どものことを理解するに当たっては、コメント欄がとても参考になりました。
    当時の私(ジャイアン)には「ありえない!」の一言に尽きる子どもの言動を「あり得るんだ・・・」と考えることができたのは、ASさん方のコメントを読ませていただいたおかげです。
    母親(私)の存在が並々ならぬ影響力を持つことに気づいた時には、愕然としました。
    私が植え付けてしまった価値観をすべて抹消したい!
    消しゴムでゴシゴシこすって消すことができたらどんなにいいか!
    などと思いました・・・。
    落ち着いて考えれば、それらを含めて「子どもの人格」が形成されていくのだと認めざるを得ませんでした。
    るる的には居心地よくあるべき(笑!)リビングは、子どもの私物で(私の心情的には)75%程度占領されています。
    ここは譲って、私の不可侵空間は半径80センチ程度の確保で折り合いをつけておきます。
    今は、親(自分)の気配を消すくらいの気持ちでひっそり淡々と暮らしたいものだと思っています。

    • るる
    • 2013年 10月 17日

    *パートナーとのこと*
    私のパートナー(p)は、無口な人です。
    彼を理解するにも、コメント欄はとても参考になりました。
    かなりしつこく先生のブログ購読を勧めましたが、今のところ彼は読みませんし、たぶん今後も読まないでしょう。
    私の(必ずしも客観的ではない)説明により、
    ・子どもの問題行動は、家族関係や自分(父親)にも関わっている
    ・自立には、子どもの成長を待つしかない(“時間を上げる”“親は手出しをしない”という私の言い方から翻訳したらしい)
    ・るるはブログ上ではジャイアンと分類され、ASと分類される自分とは根本的に違うが、根は悪い人間ではない
    という理解をしているようです。
    “脳”が根本的に異なることは、理解してもらえたようです。
    今後は、(主に経済面での)pの利用と、それに対する軽い自己突っ込みをくり返しながら暮らしていくのが現実的なのではないかと思います。
    ここでもポイントは、ひっそり目立たず、、、です。
    全くの自己都合で、唐突にpへの感謝の念がわくことがあるので、最近は「急に思ったから今言うけど、ありがと!」と言うことにしています。
    彼は満更でもなさそうな顔をしていますので、まあ、これでいいのかな。
    先生
    全くの自己都合でコメント欄を延々と使わせていただき、本当にありがとうございます。
    おかげさまで、現状で最大限、“今後の現実的生き方”をイメージすることができたと思います。
    (現状では、ここまでが精いっぱいです。)
    実際にご覧いただけないのが残念ですが、「激怒すること」は、最近ありません。この点、パートナーから指摘がありました。
    (たまたま激怒するほどの事態が発生していないだけかもしれませんが「パートナー関係でそういう事態が起きないということ」にも意味があるように思えます。)
    無自覚に家族支配・自己正当化に傾かないよう、自分を責めず、自分の言動へのふり返りを欠かさずに、と思います。

    • るる
    • 2013年 10月 26日

    *パートナーとのこと・その後*
    まずは、他者への怒りを感じることが少ない状態が継続しているように思います。
    子どもに対しては、子の生活スタイルが自分の思い通りにならないという苛立ちの気持ちは生じますが、「あなたは、今はそういう状況なんだね」という目で見て考えることができているので、怒りの感情としては抑えられていると思います。
    パートナー関係では、双方が忙しくして顔を合わせなければ、淡々と暮らすこと=共存ができています。一緒にいる時間が長くなると、彼の言動の端々に“積年の恨み”的な怒りの感情が芽生えます。
    自分の心の動きを注視してみたところ、(先生のブログを根拠に)彼の認知はAS的な歪んだ認知でしかない、と心に留めて「不必要な影響を被らないようにしよう」と努力しても、そう思った時点で既に、影響を被ってしまっているように思えました。
    ◎会話の中で「今、私はpの言葉に影響を受けているな」と、気づくに留める
    『今自分が、そういう状態にある。』
    シンプルにそう捉えることが、一番、穏やかにいられる心構えだと思いました。
    そう考えれば、影響を受けて動じるのは自分の問題・自己責任で、“彼のせい”ではないと思えるので。
    (物理的距離を置きたいな!・・・というのが本音ですが)

    • るる
    • 2013年 10月 26日

    *その後のその後*
    先ほどコメントしてから散歩等に出かけ、考えがまとまってきました。
    ①自分には、脳内で出口のない迷路をさまようかのような思考をする癖がある

    暇そうなpの顔を見ると、思いをつい口にしてしまう
    理由は、a.答えを出してくれそうな気がするから
        b.共感・同意してくれることを期待するから
    ⇒ごくまれに、気の利いた言葉を返してくれることがあるので、それにすがる自分。
    ◎このパターンに気づいたこと自体に価値を見出し、自分に2重丸付けておきます。
    ②数日前から、pを利用することへの自責の念が膨らみ、(pのためというより自分の気を収めるために)pを気遣う提案をした。
    するとpは、私の思いもかけない視点から否定的発言をした。⇒怒の発生!

    これからは、つまらぬ気遣いはせず、自責の念が生じたらpの好物でも買って帰るなど、現物支給とする。
    ・・・過去の自己コメを読んでもリアルな自分の言動を振り返っても、まったくもって同じようなパターンで行きつ戻りつしております。。。まあ、これからも事あるごとに一つずつノウハウを蓄積していくことが、現実的な共存の仕方なのかなと思いました。

    • るる
    • 2013年 10月 28日

    *その後の気づき*
    pとの会話が『評価』の応酬になっていることに気づきました。評価以外の会話って、ほとんどしていません!
    ・・・それで私はまず「評価」されるのがいやなのだと考えましたが、そうではありませんでした。私は、評価されたくないのだけれど、一方でpからの(良い)評価を求めている!
    「独自の断定をし認知の偏りがある(と私が感じる)pの評価に自らすがりつく不合理」と「諸々を評価の目で見る傲慢な自分」に気づきましたから、気づいた時には自責より客観視=淡々と自分自身をごまかさずにいよう、と思いました。
    同時に、こちらへの書き込みをすることは先生に(るるは正しいと)認めていただきたい気持ちがあることに気づきました。これも私の依存心なのだと思いました。
    先生。
    私にとって先生のブログは、リアルな付き合いでは口にしづらい自分の個性や子どものこと、家族関係のことなどを表現し、省みる貴重な場となっています。ですから私は、これからも先生のブログ上で感じたことをコメントさせていただきたいです。
    ただ、当「共存の可能性」に今後もコメントを続けさせていただく時には、「このコメントはYANBARU先生への依存だ」という明確な自覚の上で書き込みさせていただこうと思いました。
    今までコメントをお認めいただき、ありがとうございました。

    • るる
    • 2013年 11月 08日

    先生のHP中・ACの項にありますように、私にも「あの時ACになったと思える場面」がありました。
    幼稚園時代に、友達の母親の付添いのもとで複数の子どもたちと公園で遊んでいました。その場の流れで、私は(母に叱られそうだから)気が進まなかったことを(周りの子が皆することになったので)友達の母の許可を得た上で、ある行動をとりました。
    その後、公園に来た母から「なぜそんなことをしたの!」と叱責されました。居合わせた友達の母は「私がいいと言ったのだから」と母を止めに入ってくれましたが、一見温厚なイメージの母がきつい調子で「いえ、これは我が家の問題ですから」と返していて、私はすごくこわかった。
    あんなに母が怒るなんて自分が悪かったのだ。友達の母親は大人のくせに愚かなのだ、とさえ思いました。
    その日以来「たとえママがいなくても、ママのいやがることをしたらおそろしいことになる」と確信しました。
    にもかかわらず母は、思春期を迎えた私に向かって「私の意見はないの、あなたの好きなようにしていいのよ」と言った。・・・私は母親に対し、激しく怒り反発しました。
    思春期以降は、本心を言わない母に事あるごとに怒りの感情を表してきたように思います。しかしながら子育てに関して「母が合理的でなかった」ということには「たった今」気づきました。
    今までずっとずっと、(概ね)正当で合理的な親だと思っていました。ジャイアンな私を社会に適応させるため、支配的強権的一面があったのだろうなどと考えており、それにしては自分が依存的なのは何故だろう?と思ったりしていました。
    「社会適応」を重視すると、自分自身は少しAC気味な方がうまくいくようにも思えます。素の自分は、果てしなく暴走しそうだからです。
    しかし長期的視点あるいは「人生」として考えると、、まずはACから脱した上で「最低限の適応」を自ら考えること、自分の暴走に自ら歯止めをかけることこそが大切なように思いました。それはきっと大変な作業なのだろうと想像しつつ。。。
    最新エントリを読ませていただいて感じたことなのですが、こちらのエントリに書きたくなりまして。。。
    思いのまま行動にうつしました。

    • るる
    • 2013年 11月 27日

    最新エントリでコメントしたことは、実はそのまま「子ども=同居人q」に伝えたいことでした。(リアル子どもには、今までもこれからも伝えることはありません)
    事実を淡々と書いたつもりが、読み返すと被害者意識が表れており、穴があったら入りたい心境になりました。
    自身のそのような一面を曲がりなりにも直視できたことは、意義深い経験でした。
    ジャイアンは(少なくとも私は)ことにASに対して、『自分が「ある感情」に至った経緯を、本人(私)の納得のいく程度までには理解しろ』と強要し、逆にASの言動についても『自分(私)の納得のいく説明をしろ』と求めすぎるきらいがある。
    ジャイアンは他者を必要とはしないけれども、感情が湧き上がったときに「相手の理解」「相手の理解の努力」を求める点で、やはり人を求める側面がある。
    「利用」したら用済み(きつい表現ですみません)だとしても、やはり人が必要な時があります。
    まあジャイアンも「人」ですから、当たり前と言えば当たり前のことですが。。。
    互いに「あきらめ」の要素を含んでは、共存に行きつくことはできないと思い至りました
    ジャイアン(少なくとも私は)がASと共存するためには、細かな事柄について各々『他者(外の世界)に対してどこまで求め得るのかという妥協と納得』をすることが必須だと、胸に落ちました。
    pとqとの関係は、これからも多様な経験を積んで、様々な側面から思い悩み、自分特有の“納得のしかた”に「最低限のラインで折り合いをつける事」を繰り返す。
    経験を積むことで、pやqをひとりの人として尊重できる境地に至ることができたとき、それが私の合理的出口であるような気がします。

    • るる
    • 2013年 12月 16日

    私は現在フリーで専門職に就いていますが、来月よりひとつ仕事が減るかも知れないことになりました。
    それは私が原因ではなく単に“以降継続されないことによる減少”なのですが、漠然と、自分が至らないから継続されないのだという気持ちがぬぐい切れずにいました。
    上記の近況とは別に、このところ「ゆるす」ということについて考えていました。私には現在、ゆるせない人がいるのです。
    昨夜も、ゆるすとは「許せない気持ちを持った自分を許すことなのかな」などと考えながら眠りにつきました。
    すると、今朝の夢の中の話なのですが。。。
    私は自分なりに工夫して仕事をしているところに(無関係な)母が現れ、仕事の仕方を批判しはじめました。
    それに対し私は面と向かって反論するのではなく、追い払うような“態度”で不快さを示しているうちに目が覚めました。
    「専門知識もないあなたにそんなこと言われる筋合いはない!あなたはどうしてああだこうだ口煩いの!あなたがうるさいから、私はいつも本心を言うことを躊躇ってしまっていたのよ!」
    と、できれば夢の中で直接言えたらよかったです。
    ともあれ夢の中の母の言動も、仕事上の漠然とした思いも、私の責任によるものではなく、自分の考えが不合理であることが胸に落ちました。
    同時に「ゆるすこと=和解」ではないのだと思い「人をゆるさないままで生きること」をゆるす気持ちになれました。
    そして「自責」だの「ゆるす」だの、傲慢なことだと思い至りました。
    夢の話とその後の思いは、こちらに投稿したくなりましたので、思いのままに書きました。
    コメント欄を使用させていただき、ありがとうございます。

    • るる
    • 2013年 12月 18日

    上記の自己コメを読んで。
    冷静に考えてみれば自分の「ゆるせない気持ち」は相手の一部の言動に対してでしかないのに、相手を全人的に許せないと考えること。これはゼロ百思考でもあり、傲慢なのでした。。。
    シンプルに「あの言動については(今のところ)ゆるす気持ちになれない」でいいのだと思えてきました。
    あとは自分自身の問題として、相手を全否定せず、受容するのでもなく、適度な距離をおくことができればいいですね。

    • るる
    • 2013年 12月 22日

    このところ新着コメントに上がっているいくつかのエントリから新たな発見があり、同時に過去の自己コメントを読み返す機会を得ることができました。
    昨日は「自分が大した存在じゃない」と、本当にすっと熱が下がるように自然に思えましたが、今朝にはその思いが消えていたので、我ながらかなり驚きました。
    脳からこぼれおちてしまっている。そんな感じでした。
    本当に、私は刹那的です。
    しばらくの間、覚えている限り毎朝「おはよう。ところで私は大した存在じゃないんだ」と唱えることにしました。
    昨日はもうひとつ、自分の素の心が幾層ものミルフィーユにくるまれているイメージが湧きまして、こちらの方は今日も頭に残っています。
    過去の自己コメを振り返り、自責や倹約などの具体的・個別的な認知の修正は、ある程度できたことが実感できました。
    ミルフィーユ構造底部に圧縮された(と自分では思える)ゼロ百思考〈先天的?〉・見捨てられ不安〈後天的?〉は、容易に変えられない部分なのだと感じました。
    表層部に現れた個別事項をひとつずつ修正していけば、結果的に厚い層もはがれやすくなり、中核に近づけるような気がしています。
    このエントリに書き込むことについて、自身が2ヵ月前に「依存だ」と記しており、今日コメントする折に再考しました。
    当初は無我夢中で怒涛の書き込みをさせていただいていましたが、ある時ふっと依存的側面に気づきました。
    しかし今あらためて読み返すと、連投したため自分の変化が手に取るようにわかり、(あくまで私的印象ですが)自分の変化・成長にも気づくことができました。
    成長したのは私だけではなく、私を通して、同居人p・qも、先生に成長させていただいていると思えます。
    自分自身についてこれほど納得できる説明をして下さる方は、先生をおいて、未だかつて出会っておりません。
    今日は、先生に心から感謝する気持ちでコメントをさせていただきました。

    • るる
    • 2013年 12月 24日

    非言語メッセージへの過剰反応についてです。
    元来、非言語メッセージの方が「言葉」より原始的・本能的であるといえますが、ジャイアンな私は非言語メッセージをうまく受信できないのだと思うのです。
    非言語が苦手な分、ことに対人関係に関わる「言葉」については間違いなく解釈しようとして独自の厳格さを追求し、結果として偏りのある定義づけをしてしまっているように思いました。
    たとえば私にとって『尊重』という言葉も、
    相手を大切に扱う⇒失礼があってはいけない⇒相手に不快を与えないようにふるまわなくてはならない
    となり、自身の負担感・重圧へ帰結します。
    私は「負担=不利益」を本能的に嫌うので、人に対しての反応は
    1.基本的には本音を言えない=相手の顔色をうかがう
    2.思いでいっぱいになると一気に感情をぶちまける
    の両極端になります・・・
    そしてこの行動パターンがAC的・依存的であることに気づきました。
    対人関係で「本音を言えない」と「ぶち切れ」とを比べた場合、後者の方が実質的不利益が大きいと思いました。
    だとしたら、「本音を言えない(言えないストレスを感じる状態)」ではなく『本音を言わない選択をする』ことが、より賢い合理的な生き方だという思いになりました。
    私はこんなにも、察することが苦手だったんだ!
    ・・・と叫びたい気分です。
    私には、同居人たちの非言語メッセージに「反応・同調しないことを選択する自由」があったことに気づきました。
    これが私にとっての最低限の適応なのではないかと。
    上記の気づきは、ジャイアンが共存を考える上で大切なことに思えました。

    • るる
    • 2013年 12月 27日

    年末にあたり半生を振り返りまして、多くの不安を抱えながら(あくまで自分なりに)よくがんばってきたなぁと思いました。
    自己コメにある「相手(AS)にどこまで求め得るか」「ひっそり目立たず」などが、相手の非言語メッセージにとらわれ、顔色をうかがうことなのだと気づけましたので、心に留めます。
    「私を理解してくれるかどうか」「私の反応をどう捉えるか」は、相手の問題でした。
    それから、私の好きな「仮に○○だとすると・・・」については、「・・・」の部分を真理だと思い込まず「・・・である可能性もある」と考えるよう常に留意します。
    先生がご自身を厳しく律していらっしゃることに、敬意を表します。(私の思考レベルでの感じ方ですのでなんだか申しわけないような気もしたのですが、一読者としてお伝えしたかったので書かせていただきました。)
    今後もAS家族と多数派に囲まれた生活が続きますので、実生活上で、私の「わかってほしい心情」を理解してもらえる機会はあまりないのではないかと思います。
    今は、「100%は理解されない自分であり続ける」という自覚の先に、自身の自立・他者との共存があるように感じています。
    こちらのブログには、型や道程は違っても同じ境地を目指す方々がいらっしゃるように思えています。
    ブログを通じて出会えましたことをうれしく思っています。

    • るる
    • 2014年 2月 05日

    「傷つくのは弱い人間だ。強い人間は傷つかないものだ。」
    という強力なメッセージを親から受けていたことに、今朝なぜかふと気がつきました。。。
    怒りでいっぱいになりました。
    そのメッセージのために「私はそんなことでは傷つかない」
    と、どれだけ自分の心にふたをしてきたのか・・・
    くやしいっ!!損したっ!!(この状況、損と思える)
    今まで気づけなかった自分にも腹が立ちますが、親の呪縛を子どもの側から気づくことは極めて困難なこと。ともかく悔しいです。

    • るる
    • 2014年 2月 06日

    上のコメント、ありのままの気持ちを書かせていただきありがとうございました。
    こうして積み重なった思いが少しずつはがれていって
    最後に残る部分には、何があるのだろうかと思いました。
    私はミルフィーユを 上の層から順にたべているけれども
    一番下のパイ生地には 何かメッセージがあるのだろうか。
    きれいな食べ方は、ナイフで垂直にサクッと切って
    口に運ぶというもの。
    気持ちを垂直に切り取って消化するやり方もあるかもしれません。
    私的な落としどころは
    「わかってもらえないままに 生きていく」
    のように思います。
    与えられた環境で 必死に生きてきて
    なんだかんだで今の自分があるのだし。

      • r.
      • 2015年 8月 08日

      コメント欄を読み返し、コメントさせていただけたことにあらためて感謝しています。

      1年半の間、様々な経験について、上に書いたループのような思考を繰り返しながら、
      少しずつ自己理解が深まったと思っています。

      今では、ACジャイアンはACを脱し「最低の自分」を直視して、自ら「下の基準」を設定することが、
      人として成熟に向かうことなのではないか と思っています。

      私にとっての「下の基準」は、家族や知人や、その他外出時に関わる人(電車で隣り合わせになるなど)が、
      この人(←私)なら「自分の家族」あるいは「自分の知り合い」あるいは「電車で隣り合わせ」であっても許せる
      と思ってもらえる程度に「他者に配慮する」ということだと思います。

      おかげさまで、好きなものが買えるようになったし、好きなものが食べられるようになったし、
      家事を手抜きしても罪悪感にとらわれることは(ほとんど)なくなったし、
      言い訳をしなくなったし、
      何より、やりたいことを素直にやれるようになったし、
      いやなことは、その場で言えなくてもタイミングを計って(強引につくったりして)
      いやだと言えるようになりつつあるし、
      「脳に選択させられている不自由」にも、まあ、そんなものか と思えるように
      なりつつあります。

      ほんとに、おかげさまで。
      ありがとうございます。
      (暑い夏の日に)

    • r.
    • 2015年 10月 31日

    孤立型ASD に書いたことの続きですが、内容が自分自身のことになると思うので
    こちらに続けます。いつもありがとうございます。

    「わかってもらえずさびしい」という気持ちは、何度も経験した感情でしたが、
    今回の「さびしい」は、「誰とも永遠にわかり合えないのだ」という、
    砂嵐の砂粒さえも飛んでこないような「絶対的(?)孤独感」でした。

    「わかってもらえずさびしい」の奥には、自分の中に、社会に関わるべきだという
    強い価値観が備わっているように感じます。これは、
    1、親からの刷り込み
    2、すごいね!と言われたい、自分自身の欲を満たすため
    3、社会的に孤立した人間は人とは言えない、という自分自身の考え
    からきているように思えます。

    そして、私が実際に社会と関わって発生する(させる)感情は、
    1、理にかなっていないという「怒り」
    2、すごいと言われたい「欲」
    の二つ、ほぼこれだけです。

    しかしこれらをストレートに表現することは、周囲の人間に、
    悪目立ち・クレーマー的・ビミョーな人、という印象を与えます(よね?)。
    私は、そういう評価を受けることが「こわい」です。

    一方で、通じないであろう人に自説を展開する「愚」、「相手がどう感じるか」という視点欠落の「愚」、
    (相手の反応に応じて自分の態度を変えることには、どうも不実を感じてしまうのです・・・)
    すごいと言われてもうれしいのは一瞬 = 意味があるのか?という思いも、同時に抱えています。

    これに対し「絶対的(?)孤独感」は、ひょっとして 精神的自立 というものへの気づき?
    だとしたら、これはむしろ喜びの局面なのかもしれません。

    ここまで書かせていただき、自分が「最低限の適応」というオールマイティカードを
    探し回っていたことに気づきました。
    日々「小さなよかった」を大切に生きていくなどと書きながら、いつの間にか
    「最小限の努力で最大効率」化の方向に走っていました。

    そんなカードはあるわけないですね。(秋たけなわ)

    • r.
    • 2015年 11月 06日

    前回の書き込みから2つのことを思いましたので、書かせてください。

    ・2年半前の自己コメを目にしました。
    なんとその時も「社会からずれるのがこわい」と書いていました。
    日頃、日常生活を送る上では気になっていないように思えるのですが、
    よっぽど「こわい」んですね、私。。。

    この点についてはこれだ!という記憶が浮かばないので、なんともわからないのですが、
    社会(親?)から外れると周囲(親)から何をされるかわからないという恐怖?
    そもそも社会に沿った行動というのがよくわかっていないにもかかわらず「こわい」のは
    他者を(親を?)信じられない、よって社会を信じられないから「こわい」のではないか。
    信じたいのに信じられないから不安になる。だからこわい。
    こんなふうに思いました。

    ・違うことは違うと言いたいという気持ちは少なからずあると思うのですが、
    クレームをつけることには、自分の思いを理解してほしいという側面があります。
    つまり私が思っていることを「わかってほしい」「わかるべきだ」。
    今回、クレームは社会に対する壮大な依存 と捉えられると思いました。

    「社会からずれることへの恐怖」と「クレームをつけること」とは、うまく言えませんが、
    表裏(?)の関係にあるような気がしています。
    日頃、社会から外れないよう涙ぐましい努力をしているのに、その「社会」そのものの合理性が
    脅かされているなんて、とても平静ではいられない、とでも言ったらいいのかな。

    今の私は、人間は孤独な存在だと痛感しています。だからこそ
    親も、パートナーも、子どもも、隣人も、社会も、もう丸ごと「信頼」する。
    少なくとも自分に危害は与えないだろうという意味で、人を信頼すること が社会に居続けること
    なのではないか。

    信頼関係とは、思いが通じてわかり合えて共感し合える関係 だと思いこんでいましたが、
    それは幻想で、私の思い違いだったのだ と思い直しました。

      • r.
      • 2015年 11月 11日

      「孤独」「たった一人感」については急速に、自分の中で処理できたというか…
      こちらに書かせていただいたおかげもあり、淡々と消化しつつあります。

      最近になってはっきり自覚したのですが、私には、同じことをしつこく何度も聞き返したり、
      くどい説明になってしまうところがあります。(今から、改めます)
      これについては以前から「しつこい」とパートナーに指摘されていました。
      しかし私としては、しつこく繰り返さないと、何事も自分の想定通りにはならないのだ
      と強く思っていましたから、彼からの指摘では納得できなかったです。

      ところが「絶対的孤独」にひたるうちに、現実とは想定通りになることは少なく、
      他者は想定通りには動かないものであり、今まで想定通りになったことはむしろ幸運だったのだ!
      と、「うまくいくこと」に自分のしつこさや確認癖は相関がないことが、実感としてわかってきました。

      「こわい」については、つまり「未知・予測不能 がこわい」のだと気づきました。
      しかし、そもそも万物は、未来がわからないままに生きているのですから、
      現状が未知・予測不能なのは当たり前です。
      むしろ「今」が変わらず続くことを疑わない方が、無謀だともいえます。(と書きつつ、
      私自身も現在が継続するだろうという予測のもと、せっせと書き込みを続けていますが。)

      予見不能のことをこわいと感じるのは、正当なことだと思いました。むしろ、勘がいい。
      私は、「わからないこと」に恐怖を感じ、必死になって「過去」という不変のデータベースを参照したり、
      よくわからない他者 に意見を求めたりしていたんだな。

      ・・・人の記憶は思い出すたびに書き換えられているというし、他者はよくわからない存在。
      よくわからないものに頼るより、これからは自分自身に聞いてみよう。

        • r.
        • 2015年 11月 17日

        実母と私、私と子、の親子関係について書きたくなったので、書かせていただきます。

        私と口論になると、実母はよく「自分の考えなんかない」と言っていました。
        私は当時も、そして最近まで「うそばっかり」と反発・怒りという反応を覚えていましたが、
        母の言葉はあながち うそではなかったかもしれない気がしてきました。

        母には「輪郭」だけしかなくて「依存と支配」で人格を形成していたのかなあ、と。
        その場に沿うような気遣いだけで生き、かつそういう生き方しかできなかったのかも。

        私は、母の依存的生き方を「正しい気遣いの方法」と変換して、ピント外れの多数派対応を身につけ、
        同時に、母の支配的側面を自分への押し付けと捉え、怒りと(それに従えない)罪悪感を持ち続けていた。

        ・・・のかもしれないと思いました。

        「自分の考えを述べないやり方」での母の支配・コントロールには、その前提として
        「評価」があります。

        「評価され続けてきた自分」

        AS被影響症候群というのは、私にとっては、
        的外れとは断言できない、ASDの「評価 ≒ 批判」に打ちのめされること
        だったかもしれません。

        ジャイアン(少なくとも私)には、「こんな自分で申しわけない」的な気持ちが確かに存在します。
        いわば「原罪」とでも言ったらいいような思いです。
        ASDは、そこを突いているつもりはないのでしょうが、私にとっては痛いところです。

        ジャイアンの原罪に相当するのは、ASDにとっては「実は孤独な存在かもしれない恐怖」
        ではないでしょうか。
        (家族を見ていると、そんな気がします)

        自分の子どもに対しては、実は今、食事のマナーについて言いたくてたまらない点があります。
        上に書いた「評価され続けてきた自分」を自覚すると、私がなぜ子どものマナーが気にかかるのか
        少しわかってきたことがあります。

        「子どもにマナーを教えない親はダメ親」と評価されるのがいやだから。
        換言すれば、子どもを自分の成果物だと思っているようなものです。

        もう 評価 は やめ!

        ジャイアンの「原罪」も、ASDの「個で在り続けるかもしれない恐怖」も
        もう しかたない。

        人生、しかたないことばかりだが、それでも人として生きるにはスキルが必要で、
        「お天道様に顔向けできない」的なことは、たぶん承継に足る価値観なのだと思いました。
        効率よい承継の役目を担うのは、第一に親、第二に社会 なのかなぁ。
        もう私は、社会にお任せしたいと思います。

          • r.
          • 2015年 11月 22日

          いつのころからか、今日はいい夫婦の日だということになっていますが、ふと
          「家庭の団らん(らしいムード)」というのは、主婦(役)の犠牲の上に成立するものだと思いました。

          主婦の役割を務める人が有形無形の世話を焼いているから、(互いに無自覚であっても)
          他のメンバーが快適に過ごせるのだ と思ったのです。

          今まで、パートナーとの生活を続けることについて、私の自己突込みは 常に
          「収入においてはパートナーに依存している」ということに帰結していましたが、

          今まで主婦役をやってきたのだから まあいいか・・・ という心境になれそうです。

          「社会から外れるのがこわい」を自覚したら、あまりこわくなくなった。
          「優位に立ちたい欲」をよくよく考えたら、まあ、いちいち比較しなくてもいいか と思えた。
          「孤独」に向き合ったら、むしろ『たった一人』を自覚した方がさびしくない ことがわかった。

          私は子どもに、どんな価値観を押し付けたのだろう?
          私は親から、どんな価値観を押し付けられたのだろう?

          よくよく考えてみると、どちらの回答も 「?」 です。

          ただ、どれほど場の空気が読めない人間であっても、自分の世界を護りたい人間であっても、
          生まれた瞬間から何らかの形で、社会との折り合いをつけていかなければ、
          生きていけないのだろう とは思いました。

    • Jenga
    • 2015年 11月 10日

    「社会からずれることへの恐怖」と「クレームをつけること」とは・・・表裏(?)の関係にある。うわ・・なんて面白い言葉なんだろう。
    この言葉だけを読んで思ったことを書かせて下さい。それも昨日のはなし。

    仕事の帰り道、私はまじめにチャリで左側の狭~い歩道をのんびりと走っていたわけです。踏切のある三叉路のややこしい道路で、たまたま前いた自転車が踏切前でストップ。そのまま私が後ろにつけたら、前方から後ろにガキンチョをのせた逆走ママチャリがやってきたわけです。
    歩道も車道も狭く、しかも車が頻繁に通り過ぎていく。
    私の前のチャリが振り返り曰く
    「私、(この場所で)道路わたるから(止まってるの)」←とクレームをもらう
    挙句のはてに前方の二人乗り逆走チャリも踏切に突っ込んできて、ひどく不機嫌そうな顔をして(←非言語によるクレーム)無理やり歩道に入り通り抜けてい行きました。

    ・・・・「?」・・・・
    この3人のなかでは、交通ルールを守っていたのは私だけよねっ!!
    なんで私が二人にクレームもらわんといけんのじゃあああ!!!

    と、思うような上記のことが、あったのです。
    まあ・・私もチャリで右側通るし、踏切があるのをいいことに、道路を横断することなんてよくやるから、奴らを責められやしないのだけど・・でも・・私がクレームをもらういわれはない!!といいたい。
    でも、なぜそうなったか・・。
    思うにあやつらは、私からクレームをもらうのが怖かったらか先手をうってクレームをつけたのではないか。つまり「社会(のルール)からズレ(て責められ)ルことの恐怖」が「クレーム」になったということじゃないか。

    でも、それは、つまりようするに・・
    ・・「自己中」っていうことですよねっ!!!!

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP