ADHD関連

KYの受動型AS

 受動型ASのスタンダードなイメージは、「表面上世間的にはは非常に気配りもできてトラブルも起こさず、慎ましやかできちんとしている」という一方で、「パートナーや親など愛着の対象の前では豹変して異常に理不尽な要求を異常にしつこくし続ける」という人だ。
 
 愛着の対象に対する要求が少しでも通らないと、たちまち「自分は居ない方がいいのか?」というボーダー的な試し行動などが出てくる。「必要とされることへのアディクション」と言ってもいいような認知と行動の構造だ。

 私はこの「100が当たり前」という要求と、外面の異常に良いところ、この両者のギャップで受動型ASを鑑別することが多い。
 
 前述したが、依存型ジャイアンと表面上似ているところが多いが、これは「ジャイアンは結果が大事なので嫌われるまでしつこくはしない」というところや、受動型ASは「表向き自分からは動かない」あたりで見分けることが可能だ。

 スタンダードなタイプは主に非言語的な状況察知能力を使って器用に世渡りをしていくので、表面上は「普通」であるのに対し、KYの受動型ASは見た目ジャイアンのような「荒っぽさ」があるので、ジャイアンとの区別に迷うこともある。
 
 特に学習障害を伴うケースに多いのだが、自閉的特徴が激しく、その割には注意欠陥も激しいので表面上はADHDのように見える面もあり、見かけからは診断に苦慮する。
 
 よくよく見ると「自分からは動かない」「愛着の相手に対して突然豹変する」という特徴ははっきりあるので、ADHDと区別はできる。

 母親に「今すぐ帰って来い」と要求したり、「今自分の話を聞け」と異常にしつこく話し続けたりする。母親がジャイアンだったりすると、「毎回ジャイアン母親がぶち切れるまでしつこくする」ということが起こる。

 頭においておくべき一群の人だ。


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コメント

    • そよかぜ
    • 2009年 5月 24日

    一言でいうと「しつこい」。そのしつこさは、始まったらエンドレス…
    外ではりっぱでかしこい、おもしろい、人のよい、ということで通っているでしょう。
    それはそれで、実はこういう人なのといってまわったところで、信じる人はおらず、心身ともに消耗するだけなので、そこでまた私は耐えることになります。
    自閉性などといっても信じてもらえないどころかかえって、こちらの正常性を問われるでしょう。理解できないことに対するおうむ返しや、何かを強制的にやらせたり、言わせようとするのも1つのクレーン現象だと感じていました。非常に不快でした。
    だけど、自分と娘の心身の安全を守るために、対処しなければなりません。
    なんらかの診断がついた本人は、援助が得られるかもしれません。
    困ってもいない。診断なんて必要としていない、超本人からたまたま愛着され、そのような侮辱や、ひどい仕打ちを受けたにしても、誰も援助などしてくれません。
    理不尽だと訴えたところで、そのしつこさはなくなりません。
    誰も教えてくれないし、正しいかどうかもわからないけど、自分なりに勉強して、「自分の要求を力づくでも通そうとする」「要求が通らない、予定通りにならないと怒りだす」など自閉的な特徴として、「どうにもならないもの」と判断して、自分なりの対処として「無視」し続けています。
    「必要とされることへのアディクション」というのはよくわかり、「いやがることをして口論に持ち込んだり、もめたりする「プロセス」が好きなように感じるし、かまうと「喜んでいる」ようなに感じます。「いかないで」とか引き止められる状況を好んで作ろうとすることは多かったです。ひたすら「挑発」には乗りません。
    つづく

    • そよかぜ
    • 2009年 5月 24日

    ACでもなく、共依存でもなく、ただ単に相手にとって「魅力的」であったため愛着されただけだと思います。
    私の対処の仕方は正しいのか、間違っているのかわからないけど、気が狂ってると思われようがなんだろうが、誰にも助言は得られないから自分なりにやるしかありません。
    そんな相手にでも出会ったことで得ることがあったはずと考えて、許し、感謝しなさいなんて、心理学のお説教なんかくそくらえと思っています。
    そんな神様みたいな、僧侶みたいなひとになりたい人はなってください。
    わたしはこの精神的奴隷のような状態が早く終わってほしい。それだけです。自分が精神的に安全ならばそれでいいのです。
    理不尽なことが人生にはあるんだな。なんて物わかりよく元気をなくして絶望して生きたくはありません。
    あなたがどんなつきまとおうと、私の人生棒に振ったりはしない。私には私の人生を生きる権利があるのです。あなたは勝手にあなたの人生を歩んでいってくださいともう何度もいったと思うのですが。きこえないのでしょうか。苦しいです。

    • のぞみ
    • 2009年 5月 25日

     私がふりまわされた人もこのタイプの引きこもりだったため、前回の二面性の内容から続けて、とても納得できるものです。
     他人のプライバシーにとてもこだわり、プライバシーをしつこく要求。そのしつこさは異常に感じられました。
     距離感が以上に近く、他人の領域にずかずかと入り込んでくるため、不快であることをいくら伝えても理解しようとはしない。
     自分の思う通りにならないと思った瞬間「こきおろし」の嵐・・・。
     出会ったASの人たちは他人の細かい言動にこだわったり、他人の言動をかなり非難したりする反面、自身は矛盾することを平気でし続け、それを「ヘンだ」と指摘されてもわからず、本当に「二面性」という言葉が合っています。(「偽善者」だと思っていました。)
     ASの人にしつこくされた場合、どう対処したら一番問題が少なくてすむのでしょうか?
     愛着を乗り換えた後、ASの人にとったら過去の愛着はどう映っているのか気になります。
     最初から無かったことになるのか、それともボーダーのように愛着の対象がまわりから消えた時、「使える愛着」として再び思い出されるのか・・・。

    • のぞみ
    • 2009年 5月 25日

     長くなって申し訳ありません。
     ASの人とやりとりしていて感じたことがありました。
     それは、「ただそばにいて見守る」という行為が誠意として理解出来ないように感じたことです。
     そんなのは誠意として「理解できない」とはっきり言った人もいましたし、別のASの人も見守るという行為は何もしないのと同じ、どうしても誠意というならそれは相手の自己満足だという受け止め方をしていました。
     あとひとつ、ASだけでなく自己愛性やボーダーの人全般に感じたことなのですが、「比喩」や「例え話」が言葉通り理解されないことがとても多いと思ったことが何度もあります。
     「これは林檎のような」と言っても、「それは林檎だ。」という解釈をされ、何度も話がかみ合わないという経験がありました。(林檎かそうでないかしか理解しようとはしない白黒思考なのかな?と。)
     言葉では「わかる」というのですが、いざ話していくと、明らかに違う解釈で誤解しているのがわかります。
     「例え話」が通じないことがとても多いのは認知問題の特性なのでしょうか?
     私が出会った人たちは、みな揃って「例え」が通じないのと同時に、非常に思い込みが激しいため、説明をいくらしても「通じない」という状況が多々ありました。「どうしてそう理解してしまうんだろう」という場面が何度も。
     彼等は話はじめの段階で、少ない情報を「色眼鏡」という思い込みを通して物事を見聞きするので、いくら説明しようとしても、最初から伝わりにくい印象があります。いくら「違う」と説明してもなかなか信じないし、ひどい場合、「自分が思い込みをしていて事実と違っていてもどちらでもいい、自分はこう思っているのだからそれでいい」と言いはり、あくまでも「正確に受け止めようとはしない」姿がありました。
     このため、白いものも黒くなってしまったことがありました。
     これもまた、認知に関する性質なのでしょうか?それとも私が出会った人が毎回変わってるASやボーダーの人たちなのでしょうか?
     あまりにも共通点が多いので・・・。
     こことは少し話がズレますが、お忙しいとは思いますが、「自分で治したい人のページ」の更新もたまにはお願いします。
     余談ですが、FireFoxとオペラで「ADHDの種類と経過」の表を見ると、表が崩れていました。

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 27日

    そうか、私と似た感性の人はこの一群から選べばいいのですね・・・冗談にもなりませんね。大戦争になります。
    前記事でもう一つ先生に掲載を控えられたコメントがありまして・・・何か足りない気がして、一日経って載ってないことを思い出し、確かよくする字数ミスではないと思うのです・・・そこで、私は危険で過激な思想に頭が傾いていたということだろうと受け取りました。
    『誰の側にいても自分が傷つくか、こだわって近しい人を傷つけるかのどちらかにしか傾いていけない人は、結局身近な人間にも全員『外面』を作る環境を支援を借りながら自分で手に入れて、家族にも社会にも周囲の人全部によそよそしくする努力の結末として精神的に自立するしかないような気がする。そこでASの自立は完成するのでは。』という人権丸無視の仮説で、『同時に過干渉したいリバウンドを尊大に解消する合法的な場所があれば・・・』等の条件付けもぶつぶつ書いていました。
    私のプライベートは、誰の側にいても、どう近しい人の人権を守り尊厳を尊重したつもりでも、疑念や被害意識の再燃がわさわさと湧く頭は変わらないです。「すみません。」と一言謝るだけで、不調の日は「す」「み」「ま」・・・の一文字ずつが頭に反響するような気がするほど気になって仕方がないこともありますし、ひどいと気配を感じるだけで頭が勝手に緊急体制を取って言葉の添削を始め、進行中の一切の用事が手に付かなくなる反応が出ます。統合失調症のかたは常時症状が続くのでしょうが、私は環境を変えればぴたりと治まるのです。
    受け身なので、リラックスしろと強い命令を受ければ解決かというと、日本語として成立しないミス発言しか出来なくなる不注意しか出なくなります。
    仮に「絶交。」等はっきり口にすると必要以上に角が立ちすぎて、手に負えないほど違うことにも影響が波及しすぎます。
    続きます。

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 27日

    続けます。
    このブログに参加するまでは先生に書き送った症状を主に、見聞きしてきた他人の交遊が具体的に常に頭に自動再生してつきまとわれ続けたように、他人の動きは情報として頭に入ります。しかしそれを反射的に真似したい欲求を表に出さないように自制するのは自分の責任でした。
    大好きでも大嫌いでも、両極どちらかの人間を作ると結局トラブルを起こすなら、常に環境に抑圧を取り入れることが望ましいジャイアンに習うわけではないですが、相手の意向に関係なく受動ASが「接近」だと感じる関係を作らないで排除してしまえばどうなのかと思ったのです。
    これはただの受動型ASではなく、KYの受動型の症状に近いのですね。
    トラブルを起こさない努力を「危険」?「不適切」?だと評価をいただいても、危険要素をどう取り除いて、トラブル回避も人間への接近もしたらよいのか、まだ全然分からないですね。ごめんなさい。
    このコメントを載せていただけるかどうかは、先生のご判断にお任せいたします。

    • 2009年 5月 27日

    初めまして。
    のぞみさんの、
    〉愛着を乗り換えた後、ASの人にとったら過去の愛着はどう映っているのか気になります。
     最初から無かったことになるのか、それともボーダーのように愛着の対象がまわりから消えた時、「使える愛着」として再び思い出されるのか・・・。
    部分、確かにどうなんでしょう。
    個人的には内面、外面の別なく、この手のASの人は対象との距離感を制御しかねているのでは、と思うのですか。
    うまく「使う」ことも出来ないというか、0だった記憶の中の愛着が、ある瞬間100として立ち現れ、また0になるというか。
    制御出来ないことへの知覚が過剰で、制御しようという意思や行動が異様に立っている、そんな人に思えます。
    我が身を振り返って、なのですけど(笑)
    いきなりの引用、お気を悪くされたらすみません。

    • 匿名
    • 2009年 5月 28日

    話題の当事者のような自覚があるので、コメントさせていただきます。
    私はASかジャイアンかは判断しかねますが、愛着については最初からは思っておられるような即物的な感覚はないつもりです。なにがしかのコミュニケーションを試みようとする、少なくとも同意的な気持ちがあったと思います。色眼鏡がつくとすれば、空気を読めないところはあるかも知れませんが、その空気を作っている部分だけを本能で感じているみたいで、その時のやりとりの中で瞬間的に先入観が出来上がっていたような気がします。基本的に単純ですから、プラス思考には載せられることも多いのですが、反対にマイナス思考の言葉を掛けられ続けたり、否定的な態度を見せられたりすると、再起不能になることもあります。
    人間関係のシステムが今ひとつ理解できていない、というか言葉が難しいのですが、やりとりの「かけあい」とか「計算」とか、関係をよりよくするための(普通に行われているであろう)行動がもうついていけなくて、そんなシステムが私にとっての理不尽だったかもしれないです。
    本音と建て前を使い分けること。
    異常なほどの謙遜。
    時には「丁寧」と呼ばれるしつこさ。
    カラクリ芝居のようで、気持ち悪くなってしまうのです。
    「加害者?」の感じ方の一つを説明したいのですが、うまく表現できないですね。
    続けていいですか?

    • 匿名
    • 2009年 5月 28日

    続きです。
    「なんでだろう」と思いながら育って(親はきちんと教えてくれていたと思うのですが理解に至らなかったのですね)、ある時から、そんなできごとが起こっている人間社会が経済、お金で動いているということがなおさらに気持ち悪いことのように思えてきました。
    今、生活のためにはどんなにきれい事を言ってもお金が必要です。
    豊かな生活にもつながり、それはどこかで貧困を生み、
    安心にもなるけれど、どこかで人間を不安にも駆り立てる・・・・そんなもの(いや必要なのは理論的には解ってますよ)に巻き込まれながら生きていかなければならない人間に嫌悪して、思考停止みたいになる。だって、お金という「物」で人間が動いているんですよ。(普通は不思議に思わないんでしょうね)
    「正しいこと」も「そうでないこと」も時と場合によってカタチを変えていくことがあることも解っていても、納得は出来ない。書きながら思いますが、この「納得できない」のがポイントかも・・・・。こんな多々ある日常を意味不明に感じていることが他者にとって「意味不明な人」なんでしょうね。
    生産性のない自分は意識しないけれど理不尽な存在になっていて、それは疎んじられるけれど、世の中は理不尽がまかり通っていて、たとえば「愛着」に対しての結果として権力(社会的地位という責任を果たしているという事実)を持ってしまえば、意識的なジャイアン的行動であっても、それは特権であったりするでしょう。「子どもの社会的自立」ではなく、成功した暁の還元を期待するかのような熱心な教育はジャイアン的だとも思いますし。
    けれど当たり前のようにそれらはそこにあって、「そうなんだから」と納得できないのが「意味不明」と言われるとそうかもしれないです。わかろうがわかるまいが社会に適応できるだけのことを身に付けなければならないのは誰でも同じで、でもそれは「お金」の上に乗った行動で、人間関係維持のために社交辞令みたいな時には大ウソの一つも言わなければならない・・・・ここでパニック、堂々めぐりのできあがりです。
    幼稚かといえば、園児はこんなんじゃないです。たぶん異星人みたいです。
    続けていいですか?

    • suzuki
    • 2009年 5月 28日

    はじめまして。
    自分はずっと、周りとの違和感に疑問を抱いてきたものです。
    まさに「表面上世間的にはは非常に気配りもできてトラブルも起こさず、慎ましやかできちんとしている」という一方で、「パートナーや親など愛着の対象の前では豹変して異常に理不尽な要求を異常にしつこくし続ける」という人でした。子ども時代は、親には手に負えないほどの内弁慶と、うとましがられていましたが、教師等からの評価が高く、教師等からほめられると親は不思議そうに「本当に手のかからない子で・・。」と返していたものでした。
    幸いなことに勉強がオタク的にできるタイプでしたので、そういうことになったのだと思いますが、自分は一皮むけば、餓鬼のような動物だと、露呈を恐れてきました。
    社会の中で「自分はここに居ない方がいいのか?」という考えがすぐに頭をもたげ、その考えを抑えつけながら、何事もないように振舞い、世間話などをしなくてはならないことばかりで、いまもこれにはひどく消耗します。
    10年以上も前、愛着の対象に去られた時、しつこく追いすがり、自分はストーカーなりそうでした。相手を殺して自分も死にたい等、本気で考えました。何年も鬱に苦しみました。最近になって、やっとこの執着から解放されつつある気がします。自分の思っていた相手は、自分の作り出した幻想で、自分は相手のことなどしっかり見ていなかったし、そんな余裕もなかったと思えてきました。
    愛着の対象であった死別した曾祖母についても同様で、自分は彼女のことなど何も知らなかったというとに気付きました。
    別れた相手が何を思っていたかなど、もはや確認する術はなく、それが別々の人間であるということなのかと考えるようになりました。
    自分がASなのかわかりませんが、異常な愛着(執着)は薄まりつつあると思います。
    自分は注意欠損なのか、すぐに物事にのめり込み、ほかのことが見えなくなるせいか、ガラス戸や電柱にぶつかったり、転んだり、メガネをかけてメガネを探すといったことが頻繁にあります。そのことで、自分は「完璧な外面」を保つことができません。そのようなことで、「馬鹿だね」と周りから笑われる時、ずっと感じ続けている違和感や、孤独を一瞬忘れます。そういう時、自分は幸運な人間だと感じます。

    • 匿名
    • 2009年 5月 29日

    ここのコメントを読んでいて、他の当事者(かも知れない)の方がすごく冷静に自分を見つめておられるなあ・・・と思います。私はASとかではなく人格障害か人格崩壊者くらいに位置するのかな・・・と妙に納得したりします。
    コメントを引用させていただくと、過去の愛着(あまり好きな言葉ではないけれど)に対しては私は普通に「いい人だったな」って懐かしく思うくらいです。実際に聖人君子みたいな人でもない普通の人ですし、私も単純を逆手に取られて騙されることもあったみたい(なんか他人事)だし、報復もあります。一緒に居るときは自分の感情に振り回されるのですが一旦離れると、先方の群を率いての集中砲火を浴びても「いい人なのにな」・・・って、客観的になってたりして。(おい、ボロボロにされてるんだよって自分に言うのですが)
    表現はそうですが、そこまでの経過が「しつこさがエンドレス」の話しと続く部分があるかもしれなくて、それは別にしつこくしているわけではなく、きっと何かを感じたときにその時点で止まっているんじゃないでしょうか。時間の流れがないから、時間的に終われない。変な表現ですけれど、「点」の次の空白みたいなところで離れちゃったりすると、たぶん急速に過去の「点」になっていたんじゃないかな・・・と思います。
    でも、社会もそんなもんじゃないかと思っているのがまた「くどい」んですけど。
    仕事していたら組織の愛着になることもあろうし、よほどの実績を積まなければ「過去の点」にもなりますし、社会性ということ自体が本音を出せない「二面性」を必要とするものですが、それをあえていうなら必要な偽善なんでしょうか?
    それを「白か黒かの判断しかできない」と言われるときっとそうなのですが、「柔軟性」と「いい加減さ」も見方次第では似ているようにも思えるし、暗黙の了解というのはただの「闇」に近くて、理屈で解っているようでも直面すると見通しが悪いな・・・と感じるものだし。解らなくても、ある文化のパターンを覚えて訓練すれば出来ることもあるでしょうが、なんでそこまでして・・・と考え始めると気が遠くなるのです。
    求めているのは分かりやすい「点」に近く、けれど自分はすごく流動的で、そのあたりのギャップがまわりにとって不可解なところかも知れません。

    • ひまわり
    • 2009年 5月 30日

    そよかぜさんのコメントを読ませてもらい・・・
    10年前の自分を思い出しました。
    >困ってもいない。診断なんて必要としていない、超本人からたまたま愛着され、そのような侮辱や、ひどい仕打ちを受けたにしても、誰も援助などしてくれません。
    >そんな相手にでも出会ったことで得ることがあったはずと考えて、許し、感謝しなさいなんて、心理学のお説教なんかくそくらえと思っています。
    そんな神様みたいな、僧侶みたいなひとになりたい人はなってください。
    >あなたがどんなつきまとおうと、私の人生棒に振ったりはしない。私には私の人生を生きる権利があるのです。あなたは勝手にあなたの人生を歩んでいってくださいともう何度もいったと思うのですが。
    私も、毎日毎日エンドレスで、こんなことを思いながら生きていました。
    そよかぜさん、さぞかし苦しいことでしょう。
    私は、子どもを育てるため、我慢して20年一緒に暮らしました。
    心身ともに限界が来てしまった頃、
    動けなくなる前にと、別れるための準備をし出しました。
    結局、離れていく相手の気持ちなんて到底理解し得ない人(旦那)なので、
    離婚の話し合いなど無理だと感じた時点で、家を出ました。
    未だに、別居状態です。5年目です。
    離婚話を進めない理由は、
    >「パートナーや親など愛着の対象の前では豹変して異常に理不尽な要求を異常にしつこくし続ける」という人だ。
    ・・・ということです。
    今、安定した毎日の中で、元気を取り戻しつつあるのに、
    再び、旦那の異常さに立ち向かう勇気はまだありません。
    suzukiさんのコメント読んで、旦那もそんな自分に気付いてくれることがあるんだろうか?と考えます。
    …が、無理なようです。
    あれから徐々に愛着の対象が、私から末娘に向かっていき、異常な要求やしつこさを娘が引き受けることになっている。
    娘が無視でもしようものなら、
    >「自分は居ない方がいいのか?」というボーダー的な試し行動
    ・・・に旦那はでてくるため、今娘がヤバい状態にあります。
    どうすればいいのか・・・
    ここで、勉強し旦那がASかも・・・と分かったけれど、
    解決方法が分からず、困り果てています。

    • 宙子
    • 2009年 5月 30日

    私はたまたま身の流れで自閉症の診断になりました。
    自閉症(高機能自閉症 アスペルガー)の人ならここ読んでも
    自分のことだとわからない
    …んじゃないかと
    察知すらできない
    文章読む力すらないというか、
    スルー するというか

    • ひまわり
    • 2009年 5月 30日

    宙子さんのコメント
    ウチの旦那なら、まさに言われる通りだと思います。
    絶対、自分の事だとは気付かない、分からない。

    • Sakura
    • 2009年 5月 31日

    そよかぜさんのコメント、よくわかります。
    私の父も、そういう人です。
    母は以前、父の無理難題にとことんつきあっていて、私や弟が反抗すると、「理不尽でも従え」と言い続けました。
    ところが、ここ数年は母の友だちが相談にのってくれたおかげで目が覚め、父を無視するようになりました。
    現在は、離婚したいけど年齢的に無理かも・・・と考えているようで、定年退職後完全に家に引きこもりの父と、顔を合わせないように、毎日出かける予定を入れてなんとかしのいでいます。でも、それはそれで「俺の小間使いが何で外で遊んでいるんだ」と言い掛かりをつけられるため、すごい精神的ストレスがかかっているようです。
    母は母で、問題のある人ですが、持ち前の愛嬌(というか周りが手伝ってくれるように仕向けるのがうまい)で、なんとか世の中と関われていますが、父のように、発達障害のマイナス面がフォーカスされるうち、やがて「厄介者」になってしまい、家族からほとんど無視されているのをみると、気の毒に・・・と思います。
    でも、私も弟も、父に関わりたくない(執着されたくない)ので、頭では気の毒だと思えても父には近づきません。
    自分たちにも、バランスの悪い遺伝子がしっかり受け継がれ、父と似ている性格を感じるたび、消えたくなってしまいます。

    • のぞみ
    • 2009年 6月 02日

    >Tさん
     コメントありがとうございました。
     距離感の近いASの人は、その距離感の近さに違和感を抱く私がおかしいという態度で、その部分は常にこきおろしの嵐でした。
     距離感がとれないのは「私の方」だとでもいいたげで、距離感をとろうとしているのかすら疑問です・・・。
    >絶対、自分の事だとは気付かない、分からない。
     という、ひまわりさんのコメントはそのとおりだと思いました。
     自分とは別次元の話だと思っていて、自覚以前の問題としか思わないし、感心もない気がします。

    • 宙子
    • 2009年 6月 02日

    >異常に理不尽な要求を異常にしつこくし続
    自分でできない範囲の要求の、クレーン現象でしょう
    障害だから自分でできない、でも「必要だ、自分は快適になりたい」という欲求はあり、身体機能にも障害がある脳だから、そう映るのではなかろか
    あるいみ、しっかりした自閉症に見えます。
    欲求することさえないまま子供時代を過ぎてる自閉症兄弟もいます ← 家のこと

    • 匿名
    • 2009年 6月 03日

    続きますが、
    私は正当化しているわけではなく、どんな風に感じているか書いているつもりです。
    よくわかりませんが、たぶん物心つく前から人間社会の入り組んだ構造の部分を肌で感じながら生きてきたんじゃないかと思っています。ごくふつうの環境ですよ。その中で大人の顔色とか声音とか、社交辞令みたいなこととか、「なんかまっすぐじゃない」って不思議に感じるんですね。
    すごい記憶ですが、おそらくはまだベビーカーに乗っている頃だと思いますが、小さな私をあやすために過剰に機嫌をとる人に対して、きゃっきゃと笑いながら「うさんくさー」(その時はそんな言葉は知りませんがそんな感覚です)とか考えていた。
    かわいげは、ないですね。
    人間を近くに感じすぎるというのはあたっています、もともとそのまま感じてましたから。
    読むべき空気はその後に付いて来るものだから、感覚的に必要には感じなかったのかも知れません。表現は難しいですが、空気は読むものですが、人を感じるというのは振動に近い感じです。小さい頃は当然、まわりには大きな人がたくさんいるのですから、小さい頃はその振動が怖いことが多かったように思います。
    やさしい言葉でも、その人の強制意識や、
    こわい言葉でも、頼もしさや、
    気配りしてもらっても「義理だから返せよ」とか、ぜんぶ身体にびしびしと響いてくるのです。
    あまりの感覚に身体が完全拒否することもありましたが、それらがあったから今のようになったのではなく、それがそのまんま今なのでしょう。違うかな?
    先生の症例の一つくらいにはなるでしょうか?

    • 2009年 6月 03日

    のぞみさん、お返事有り難うございます。
    確かにそういう行動をしてしまいます。そのときさえ、自分がおかしい、とは思わないですし…。と言うのも、ストーリー至上主義、自他問わず人を人と思わないからです。表すべき自己はなく、状況に合わせて脚本を書くので必然受動的であらざるを得ません。
    (物腰から口調から仕草、ファッションまで)外面を良くするのも、あくまでコントロールのための方便に過ぎないという考え。
    恋愛においても、そこにあるのは愛情というよりストーリーで、自分も他人も状況も区別なく、全てが脚本の中で等価。しかし、ストーリーが中途でありながら距離が近いと打ち切れば、
    「勘違いするな!脚本上全く近くない。勝手な演技をするな」
    とダメ出しが始まるでしょう。あるいは冷たく捨て去るかもしれません。
    また双方が近づいたと納得出来た状況でも、「あるがままで良い」は大変です。「あるがまま」と言われても、「あるがまま」が存在しないのです。結果、野獣と化します。「あるがまま」=「脚本外のことをして良い」、混乱状態に陥ります。脚本外のことは分からないのです。
    だから、「近づい」ても、これはどこが終わりなのか溢れるまでコップに水滴を垂らします。満杯になり零れる水に、ある種の安心を感じます。そのときには限界が見えているからです。しかし、時既に遅し。修復不可能な関係になっています。半ば望んだことではありながら、限界が分かればコントロール出来るのに、という相反する意思の狭間で、やはりこの場合も野獣になるのです。
    「脚本外で良いと良いながら、嘘ではないか。そもそも脚本内でもお前の演技はメチャクチャだった」
    と、過去を掘り返してまでダメ出しを始めるかもしれません。ドツボ。視界から消え去るしかないのかも。
    自分は内省的で粗野、物心ついてから友人、恋人、親、教師、散々異常だと言われ、親がカウンセラーを呼んでも一笑に付し、長ずるにつれ身に付けた上っ面の愛嬌と傾倒するものへの造詣、ここ一番の学力を免罪符に、社会に出るまで異常を自覚しませんでした。まあ、社会に出てからも異常を自覚したというより不便を自覚した、が実感に近いですが、それで足を向けたというところです。
    自分語りと長文、お目汚し失礼致しました。

    • matiko
    • 2009年 6月 04日

    はじめまして
    このサイトは
    すごく興味深いです。
    受動型ASの内弁慶なところ、
    思い当たります。
    受動型ASであるだろう私が
    自分のことを解説するならば、
    自分のストーリーに酔っているような感じがします。
    自分が主人公で周りの人を配置して、
    頭でストーリーを練るのが好きな感じ。
    私は本来は人の内面を知るのは怖い方です。
    なぜだか知りませんが、
    すごく勇気がいるからです。
    生々しいのが苦手です。
    それなのに、
    自分の内面を一方的に突きつけて
    おかしく感じないのは、
    おかしいですね!
    今、矛盾に気がつきました。
    要求というのも
    ストーリー上では理不尽ではない。
    本来はそれは要求してはいけないものなのに、
    自分のただの妄想癖というか、
    ただのお楽しみなのですが、
    家の中だからとかそういうので、
    タガを外してしまってて
    癖になっている感じ。
    ストーリ練り上げるの大好きなんだろう、頭が。
    それを近しい人だと境界線ないから、
    ぶつけているというかんじ。
    相手の苦しさは痛さは想定していませんでした。
    私は本来は人の内面を知るのは
    すごく怖いタイプなんです。
    成育歴とか育ったころのトラウマとかも
    聞くだげで混乱するので。
    もし相手の痛さを想定したら
    何をしていいのか
    急にまったくわからなくなって
    しまいます。
    相手に対してそんな要求を突きつけるのは
    なんかストーリーの中へ
    頭がトリップしている状態なんだと
    わかりました。
    そのおかげで
    現実が生きづらくなってしまうのですが。

    • as
    • 2009年 6月 23日

    はじめまして。先生の仰るとおりです。私はそれで苦しんでいます。そして理解してくれそうな先生を見つけるのはとても困難です。どうしたらよいのですか?どうやったら、この苦しい状態から抜け出せるのですか?どんなプロセスをたどって、生きやすくなる状態までになるのでしょうか・・。藁おもつかみたいです。

    • そよかぜ
    • 2009年 8月 23日

    インプットされたデータから、何かを予想し、自分の思った通りになるかどうかというような事柄に対する、こだわりがあるのではないでしょうか。
    このことから、人へのコントロール、かけごとへのこだわりが強く、見かけ上依存ということになるのではないでしょうか。
    接触するたびに、私だけにわかる、暗号や、韻を踏んだ物言い、ダブルバインドで私が動揺するかどうかを予測するのが、楽しいのでしょう。私を怒らせたり、ぶち切れさせたり、しつこくして私がいやがることが楽しいんでしょう。思った通りに腹を立てたらおもしろいんでしょう。きっと。
    やめませんねきっと。
    こっちの身にもなってみろよって、誰もいない洞穴にでも向かってさけぶしかありません。
    愛着はコントロールがきかず、人を非言語的にコントロールする能力がずば抜けていれば、共依存に巻き込まれてもしかたないのではないでしょうか。
    ボオロボロになった上、育ってきた家庭の機能不全とか、ACとか、そういうことでひとくくりにしてさらに自尊感情が低くして、何か意味があるのでしょうか?
    やり場のない怒りです。すみません。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 20日

    愛着以外のパワーゲームの話は、出来ることなら知らない振りして触れたくないのですが・・・。
    有名なハリネズミ症候群は針を立てるという自分を守る作業で傷つけ合いますが、昨今、仕事外の世界は守るも何もガラス細工のように触れ合えば壊れるような人間関係しか無くなっている気がすることがあります。
    だから仕事で幾ら疲れても累積するばかり、どこかを当てにするのが嫌です。そして仕事の注意力は危険にさらされる。
    幼い頃から、大人の理屈の作り方を見てきて自分も成長しながら思うに、個人の問題、公的な問題、組織の問題、右、左、どちらの答えを出しても間違いだと糾弾する視点をどこまでも見つけられるほど、日本人は変に賢くなったと思います。
    ASに取っては寝食を忘れる程気に掛ける価値のある、誰が傷つく、傷つかないとか、誰が白で誰が黒の議論、これを飛ばすことで仕事が進むなら、意味があり効率的な会話が続行できるなら私は謝ることがありました。
    自覚前、診断前のたぶん多数増加中の発達障害者が、特に対人関係の取り方の特徴が大きい依存型ジャイアンや私達受動型ASが周りに振りまく影響を放置しすぎると、大きな話になりますが、いずれこの国はあらかじめヒビが入っているガラス細工のような、口を開けば壊れるような人間関係しか無くなりそうな気がします。私はそれを選択しない。しかしそれは私一人の意志では何の足しにもならないことです。
    こういう持論を勢いでインターネットに書くと、ここに出会うずっと昔に『自分にも謝れ。』という意味の言いがかりを顔も知らない人間に書かれた経験もありまして、それには当然、普段の抑圧の反動を隠さずに反撃させてもらいましたが。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 20日

    続きます。
    自分の意見をまず考えろと仕込まれれば考えます。考えて提案して答え合わせを願います。正しい答えに沿って動くためなら、申し訳ないけど是非指摘の際に言い負かして頂きたいとも願います。聞けと言われれば聞きます。聞くなと言われれば場を察します。必死でやれと言われれば過集中します。望まれてることを言われないまま、その動きは違うと言われたときが非常に困ります。業務連絡の取り方とは言え、一つでないことは分かるつもりですが、そもそもそれを取り違えて危ないから、こうして謝って生きている。
    私への指示ツール?はどんな形で上司からチーフに降ろされているのでしょうね・・・?
    「まずは憂鬱にしないように休ませないように、言葉選んで指示出してやって。とりあえず元気にしといて。」なら、私は元気に指示に従うことを優先して望まれているのですから、自分の意見をぶつぶつと聞いて頂いてることがいわば出過ぎた行動とも言え、それを許してくれるというサービスになります。
    「ひよよなりに試行錯誤はしているらしいから、まず自分の意見を言わせて。不足分もきちんと指摘して。面倒を見すぎてはいけません。」なら、私にかけていただく気遣いのある言葉やそれなりに一貫性のある分かりやすい承認の言葉がサービスということになります。私が正解の仕事をしている限り、無視する自由のある中、サービスをしてくれていると解釈することができます。
    どっちなのでしょう?
    どちらか分からないままやみくもに私は感謝しているようです。
    それでも、私の業務理解は申し訳ないことに、足りないのです。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 20日

    すみません、続きます。
    働く意志のある、凡才のASはどう扱われて生きろと、この国はビジョンを描いているのでしょうね。
    マスコミはもちろん、国すら向き合おうともしない。
    就労していいよ、結婚していいよ、辞めていいよ、放り出していいよ、沢山薬を飲んでいいよ・・・何をしてはいけなくて、何をすべきなのかすらも、個人に任されっ放しに感じています。
    このブログに出会う前から、こうしてインターネットに慣れてきても、率先して行動する当事者(ヤンバル先生にも言えると勝手に思ってます。)すらも必ずしも名誉を受けていない実態や、行動力の価値を知っている人がインターネットからそそくさと距離を置く様子を見てきて、“やった者勝ち”ならぬ“やった者負け”な、同族嫌悪(自省も込めて・・・。)まがいの空気にも私は憤りを感じてきました。
    この先を考える責任はいくら一当事者と言えどもう私には無いと考えます。
    分からない人間に考える責任は負えません。似た者が複数で集まったとしても分からないものは分からない、それが発達障害者です。
    支援センターでは現実問題として、せいぜい謝れる人間まで訓練して終わり、電話して予約取って何時間も自己肯定感が満たされる空想をして過集中して出かけていった成果がそこまででどうせ終わりです。
    しかし私達は失敗が終わらない人種です。
    しかも軽度発達障害は中途半端な社会性があるから、罪悪感も強迫観念も自己卑下も疎外感も恥の意識も一通り持ち、訓練次第で際限なくそれを引き延ばすことや増やし続けることが出来ます。
    どうもすみません、続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 20日

    続きます。
    それを多数派の都合で操作して、解離でもさせれば存在そのものをその場から消す自由も多数派にはあります。そうして消耗品のように精神的に壊れるまで謝らせながら働かせ続ければ次に取り替えて終わり、引きこもるならご自由に、知的能力があるから自己責任、お金があるなら薬、のスタンスでそれでもういいのでしょうか。消耗品という形で、私達は体よく見捨てられているのでしょうか。このままのペースなら永遠にこの国の私達の扱い方なんて決まりません。他の国は知りません。
    私が自分の意志で、勝手に外(社会)を出歩くことで、今日も明日も明後日も、この先もずっと迷惑がかかる人間が出るのです。
    それを私も私なりに知っていて、周囲の人間も恐らく知っているのです。いつまで私は欠けたガラス細工をしているのでしょうか。
    過去に「無い。」と言われたことがありますが、教習所や婚活トレーニング組織のように、何時間何千円のメニューでSSTを集中的にしてくれる機関等、出来ないのでしょうかね。

    • KEI
    • 2012年 1月 05日

    我が家の夫、依存型ジャイアンだけでなく、ASだったんだ、、、。とこの記事を読んで初めて確信しました。
    ちなみに私はADHDです多分。
    夫は家の中では、とにかく「かまってちゃん」で注目を浴びる為なら嫌われるのもいとわない。、、、これをやったら嫌われる、とか理解できないのかもしれないです。多分相手の表情が読めないんじゃないかな?と思います。
    また、しつこさが異常です。優しく注意しても聞かないので、結局こちらが本気で怒っている、という姿勢を見せないとしつこくまとわりついたり、食い下がるのを止めません。
    その辺りの理解度は「欠落」という言葉がぴったりだと思います。ストーカー予備軍ですね。
    四六時中あんたに注目している暇ないよ、、、というのが正直な所。子供たちが乳幼児の時には、どちらが私の注目を浴びるかを争っていました。今は成長した子供達にも無視される始末。ペットのうさぎちゃんが家族内では一番の友達です。
    夫の家族はメンバー全員がしつこいので全員ASかもしれません。

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