ADHDがASと日常的に接した結果、ADHD本来の場当たり的で大雑把なスタイルと違うASのような強迫的な行動パターンとなる現象を私はAS被影響症候群と呼ぶ。
少し前のスレッドの書き込みに少しヒントを頂き、この影響の中身について想像が進んだ。
ASの人は、(特に積極奇異型は)自分にも人にも非常に強迫的で厳しい「完全さ」を求める。発せられる言葉はほとんど「完全と比較して」ということになる。
ADHDは何でも言語的に断定口調で言われると「それもそう」と思ってしまう傾向があり、まずこの形での「影響」はあるだろう。
もうひとつ、ジャイアン型ADHDが積極奇異型ASから受ける場合に全く別の形で起こる「影響」は、「中心志向が強化される」ということだ。
積極奇異型ASと接して、中心志向を「当然」のように示されると、ジャイアンの中にある中心志向を合理的に「非現実的」と否定することが非常に難しくなり、中心志向の鬼のようになって、自分にも非常に厳しい自己突っ込みをして強迫的になり、例えば子供にも異常に厳しくなる。
「ASと接することで中心志向から来る自己突っ込みがひどくなる」ということが起こると私は思う。
助かる道はこの反対で、徹底して合理的なパートナーから、徹底して合理的に中心志向を否定してもらい、本人の中にある合理的な部分を強化してもらうことにあると思う。
ジャイアンの回復の根拠は、「片方の足は合理的なADHDの場所にある」ということだ。自分の合理的な部分をどう使って回復するか、もうしばらく考え続けよう。
ASも(人によっては?)「完全さ」を非現実的なものとして、現状を容認する場合がありそうですがどうでしょうか?
私は完全なる自分を目指してはいますが、今の不完全な自分の現状を自然なものとして容認する事も出来ています。あるいは高みへ到達する道筋が見つからない故のAS的な先延ばしかも知れません。
それでもなお、目は高みを(完全なるものを)見つめています(その意味でASは夢を語りそうですが、どうですか?)。
印象でですがADHDの方は、上を見たらそこへ向かわなければならないのではないかと?ASが上を見て話をしたら、それに納得したADHDはそこへ向かい、それが到達できない高みであれば挫折するのではないかと?
で「ASと接することで中心志向から来る自己突っ込みがひどくなる」事を、AS側から避けるにはどうしたら良いでしょうか?相手を丸ごと容認するってのは分かります。そのつもりでいても、上を見て話をしてしまいそう。完全なるものを熱く語ってしまいそうです。
中心志向&合理的。
いっくら考えてもこの2つの意味や違いが私には全く理解出来ません。。。
私がADHDのACでジャイアンだから?
どなたかこの2つの意味と違いを私に具体的に教えて下さいませんでしょうか・・・
>ADHDは何でも言語的に断定口調で言われると「それもそう」と思ってしまう傾向があり、まずこの形での「影響」はあるだろう。
その通りだと思います。
私の場合、ASな旦那の自信満々な強い口調に、まさに『あなたがそう言うなら…「それもそうだろう」』といつも思わされていました。
marioさんの言われる、
>ASが上を見て話をしたら、それに納得したADHDはそこへ向かい、それが到達できない高みであれば挫折するのではないかと?
私の経験からして、確かにそうだと思います。
私の場合、『到達できない』→『挫折する』を繰り返し、自分でも気付かないうちに、心身共にボロボロになり、とうとう死にたくなってしまいました。
自尊心はズタズタになり、自己評価は下がりに下がり、かなり危険な状況に陥っていました。
そこから、どうやって抜け出せたのだろうか?
ASな旦那は、「俺が稼ぐから…」と、私を家庭に閉じ込めていましたが、
ありがたいことに、女は母親として、子どもの事で学校や地域と関わる機会があり、
そこで、『常識的な事』や『適当(いいかげん)な生活』を耳にすることができ、
本来合理的である自分が、合理的に分析を行なえる瞬間があることで、
自分を保てたように思います。
私達夫婦の場合は、離れて正解だったと思います。
今の私は、『場当たり的で大雑把なスタイル』で、毎日適当に過ごせています。
・・・しかし、旦那にそっくりなAS娘には、呆れ返られています。
そんな時は、やっぱり娘から距離を置こうと、無駄に職場で長居をしたりします。
※私も、中心志向っていうのがどんな状態なのか、イマイチ分かりません。
ASな旦那に「お前は、中心でいたいのか?」と怒鳴られたことがありますが・・・
私は『中心でいたい』と自覚したことはないです。
ここのテーマは、発達障害の根本につながる部分なのでしょうね。
私の感触では、ジャイアンも積極奇異型ASもどちらも
「自分の高い判断基準で、人を評価する」ことで社会的な窮地に陥ることが多いように思えます。
発達障害の完全性とは、判断基準が高いところから来るのでしょう。
先生の言う、「低い自己評価」とは、当事者以外から見ると、「低い判断基準(といっても普通の人に近づけるだけ)」と言い換えた方がわかりやすいように思えます。
判断基準を低くして、他人を許す、自分を許す。
ぼーっとしていると、つい判断基準が高くなって、他人を壊し、自分を壊す。こんな感じかと思っています。
これは、社会的に快適に生活をすることを求めた場合にはいい方法だと思いますが、
基準が高い→超人的な努力→超人的な成果
というジャイアンの特性を殺しかねない諸刃の剣であるとも思います。
発達障害者のあるべき姿は、多数派からは想像もつかないことでしょうが、
「自分に対しては高い判断基準を持ち、他人に対しては低い判断基準を持つ」
という姿なのではないでしょうか?
「人に優しく、自分に厳しく」
これを自然にこなせるようになると、本当の幸せになれるのではないでしょうか?
言うのは簡単で、実行は難しいです。
受動型ASの場合に限り、これを実行するのは比較的容易です。
受動型ASの場合は、自分でできないことというのは本当にできません。誰と比較してもできません。
よって、自分の得意なことに対しては完全性を求め、自分の苦手なことに対してはあきらめの気持ちを持ちます。
よって、自分の中に、
「自分に厳しく、自分に優しい」という矛盾した感覚を既に持ち合わせているのです。
この感覚を他人に適用することは比較的容易です。
それに対して、そのほかの発達障害者、特にジャイアンは、頑張ればたいていのことはできてしまいます。
だから、自分に優しくする気持ちが育ちづらい、だから他人にも基準を下げて評価してあげることができない、そんな気がします。
ジャイアンの人は、1人でやるようなことは自分で何でもできてしまう。だから、社会性が育ちづらい。人間は本当にうまくできているものだと思います。
AS被影響症候群も必要だから、存在すると考えます。
先生の言うとおり、ジャイアン(積極奇異型ASも)は、放っておくと評価基準はどんどん高くなっていきます。
それは、自分ではどうやっても治せない。そして、積極型の発達障害者が他人の助けを必要とするのはこの部分。
受動型ASに愛着されて、「あなたは周りの人間と比較して完璧」といいまくられる。
そう思い込むと、自然と自分には厳しい評価を残したまま、他人には優しい評価ができるようになります。
ASから言われただけでは信用できないでしょうが、この状態になれば、自然と周りからの評価も高まります。
もともと、ジャイアンは実行能力自体は優れているのですから。
そうやって本物の自己評価を確立していくのだと思います。
受動型ASは、自分の実行能力が著しく低いため、どうしても他人の助けが必要になり、社会的能力・人の活かし方が成長することになります。
過保護な親に育てられた場合、最大の能力が育たなくなるので、何もできない人間になってしまう危険性もありますね。
「基準が高い→超人的な努力→超人的な成果」
ジャイアンは特定の事柄に対して上記を実践して、それ以外に関しては低い基準で楽に過ごすってのが妥当な線ではないかと思います。私の元妻であれば、仕事に集中し努力して、家事や子育ては低い評価基準で楽に過ごす(それを結果的に許さなかったのは私のミスです。まぁ元妻が職に就いてから状況が激変してAS的に付いてゆけなかったのですが…)。そう言えばYANBARU先生の「偏屈者宣言」にも同じような事が書いてあります。
ASは自分の高い評価基準を周囲に適応しない。特にパートナーは、自分とは別の基準と方法を持った存在だと強く意識する。ADHDに対しては高い基準を話さない事も必要かも(これは未だ良く分かっていません)。
それともう一つ(このスレッドから話題が離れますが)、ASは自分の高い評価基準と自分自身が乖離したとき、それを埋め合わせる道が見えなくても、失敗を恐れずに(周囲の目を恐れずに)一歩を踏み出す。失敗は大した問題ではなく、失敗したら単に次のチャレンジをすれば良いと意識する。人はそんなに自分の事を見てないと意識する。これはAS自身が前に進むために必要であると同時に、自分が失敗を経験することで、周囲の失敗に寛容になれますから。
更に話が逸れますが、ASは自分にある程度の自信を持っていると積極奇異型的になり、自信を失うと周囲の目が怖くて引きこもり(孤立型的になり)、自分に自信がない事柄については受動的になり責任を回避する(受動型的になる)印象があります。少なくとも自分の中には、分類されたASの全てがあるように思います。
>発達障害の完全性とは、判断基準が高いところから来るのでしょう。
とても理解のふところに入ってきやすい言葉だと思いました。
完全性とも呼べますが、裏返して障碍とも呼べるかもしれないと思いました。
ぼーっと自然体でいると完璧主義に陥り、他人も自分も壊す、悲しい障碍。
『完璧主義』という障碍ですね。障碍と付くかどうかは、その症状で人生が困るかどうかが基準だと文献で読みましたが、昔の私も、コメントの皆さんも、十分困り感がある、と思わされました。
AS被影響症候群、これはADHDに当てはまる用語だったのですね。
発達障害者同士が関わり合ってしまった場合の、共依存の一つの形のようですね。
積極奇異は関わらないではいられないし、ジャイアンは拒否もしたいし支配も自己突っ込みもしたい、参ってしまうわけですね。
私は振り回されるジャイアンを距離を置いて何人も眺めた経験はあります。
しかし、仕事上どうしても相性の良いとは言えない相手と関わりを作らなければならない場合は、他人のコントロールの仕方が分からなくて悩みます。こんな気持ちなんだろうなと思います。
ただの閃きで、既に書かれていたらすみませんが『多動症状』で言われる体の多動、頭の多動、口の多動のように、ジャイアンにも頭の(空想の中だけの)支配願望、他人の支配願望、自分の人生の支配願望などのタイプ分けがある可能性はないでしょうか? それなら私も当てはめられる気がしますが?
自説を続けてしまってすみません。
何故ここまでの年月をかけて障碍の勉強に精進しても、私は人と打ち解け合っていないのか。
発達障害者同志のコンタクトが、インターネットなどあらゆる選択肢で繋がるようになりました。進んでいる病院は患者同士を紹介する方法を取っているところもあります。
同志だと自分で見抜く目を持った者も増えてきているはずです。
本来は、支援が揃った外国ほどでなくても、チャンスは選べるほどあってもいいはずだという気がします。
もう、インターネットに出てきていない当事者達は、合う居場所を見つけているのかもしれません。
何故、私が残されているのか。
そして、何故私には同志が見えないのでしょうか。
他人の傾向を見抜く目がまだないのでしょうか。
発見に時間がかかるのろまですが、ACは少し見えます。
他人の迷惑にならないかを必死に確認するADDもたまに見えます。
フローチャートに添って考えたがるAS傾向、何人も見えます。
あからさまなジャイアンは目立つので誰の目にも見えます。
要領を心得えて、ただの元気な人として振る舞うジャイアンらしき人も見えます。会話していると、人の賞賛を自分に集めたい本音の切れ端を感じることもあります。
大抵の大人の当事者は、もう手の届くところから同志を見つけられている気がするのです。ACなら一度吹っ切れると、フィーリングを合わせる能力は高いので、妥協してでも付き合うでしょう。しかし、私はする気がない。
仮説ですが、私は、ただののろまのADDとASではないのではでしょうか。
続けます。
続けます。
仮説ですが、私はただののろまのADDと受動的ASではないのではないでしょうか。
隠れていたのは、のろま過ぎて他人を壊す能力が育たなかったから。そして、痛みに過敏であるため自分を傷つけるだけの実行機能能力も、衝動性も育たなかったから。
実行を伴わず、空想で頭の中だけで中心志向を繰り返すタイプのジャイアンが存在するのなら、私がたくさんの人にお世話になっておきながら、あらゆる人に対して、心から折れることが出来なかったことの説明が付きそうです。
受動的ASなら、利用できると思った人は利用するはずです。余分な自己主張は、しないでおけるはずです。しかし、それも私はできないです。医師ですら、私を拒否したわけではないのに一度、納得への限界を感じると距離を置いてしまいます。冷静に振る舞おうと最善を尽くしますが、そういうときの私は、確かに頭にきています。
あまりに心からホイホイ折れすぎても、私のペースで依存させてくれる力のある人間がいなかったから、受動を試せなかったという経緯もありますが・・・。受動的ASの得意技も使えないほど、私の脳波はのろいのかもしれません。底尽きを経験して“自分には人間関係が必要だ”と感じた受動的ASなら、妥協するはずです。
それとも、苦労してきたつもりですが、私の底付きはまだなのでしょうか・・・? もうこれ以上葛藤しても、健康が持たなくなって部屋が汚れ続けるだけのような気がしているのですが・・・。一度精神的に落ちると、誰も邪魔しなくても回復にひたすら時間が掛かり、持病が増えてQOLが落ちて大変なのは、何年も繰り返して経験してうんざりなのですが。
たぶんジャイアンなら、例え合理的思考で黙っていようと努力しても、練習中の発展途上ならたまに発言したことが失言になる可能性もあったでしょう。若い頃はそんな失敗もありました。失敗は練習と環境調整で刻々と減らせました。
それとも、やっぱりただのAC混じりの不注意優性型ADDと受動的ASの、ひねくれ者なのでしょうか。障碍すら、中途半端な受容しかできていない、半端者なのでしょうか?
>受動型ASに愛着されて、「あなたは周りの人間と比較して完璧」といいまくられる。 ~ そうやって本物の自己評価を確立していくのだと思います。
m2さんのこの説明は、とてもよく分かりました。
私の職場での状況・立場が、まさにこの状態でして、
ASな(年下の)先輩から仕事ぶりを絶賛され、
『自分には厳しい評価を残したまま、他人には優しい評価ができる』ようになりました。
ASな先輩の完璧で融通の利かない仕事ぶりに、面白みのなさを感じていた私でしたが、
そのASに絶賛されると、上手く乗せられてしまうのです。
これで、『本物の自己評価』を確立できる、というのならば、嬉しい限りです。
このコメントは管理人が不適切と判断したので以下に移動しました。
http://bbs.kodama.com/bbs/kakkounohina/
>marioさん
>更に話が逸れますが、ASは自分にある程度の自信を持っていると積極奇異型的になり、自信を失うと
私もそうも思います。
自信があるときは支配的になり、自身が無いときは依存的で、完全に自信を失うと引きこもり・・
と自分の中にも状態によって全ての要素があるように思うのです。
m2さん、私のつたない仮説に相手してくださり、ありがとうございました。
>ACでジャイアンらしい振る舞いをすることは押さえ込んだまま、頭の中でだけジャイアン思考が走り回る、というのは結構ありそうな気がします。
そうですね!
だとすると、赤ん坊のジャイアン天然素材の頃から芽を先手を打って潰してきた私の親は、養育者としてかなりな一面があったとも言えますね。
親曰く、「当たり前の子育てをやっただけ。昔の親はもっと子だくさんでも皆育てていた」としか言いませんが、何故こなせたのか今でも真似できません。第一次反抗期には興奮で毎日のように吐いていたので、感情的そうな人と雑談するときには乳幼児期に吐いたか聞くことがありましたが、そういう人には今でもお目にかかれません。
(昔と現在と違うことは、子育てで体罰もしてはならない時代になったことだと思います。構造化もタイムアウトも無かった時代ですから、なだめに時間がかかる癇癪には、それしか無かったですから。込み入った説明が必要なときには後でされました。でも今は、湯水のように時間がかかる時代になった気がしてなりません。筋を通すことも、気持ちをケアすることも全部こなす親像を社会が求めているようで、恐いです。)
少ないか多いか分かりませんが、今まで私も何人かの発達障害が分かる支援者や当事者や医療者にお会いしました。
そこで私は素直なASや、強迫があっても穏やかなADDとしての扱いをしていただいたと思います。でも、後ですごい満たされない思いを引きずりました。職場などどこでお会いした人でも特定のタイプに目を付けられ、私もひどく気になり何年も記憶する癖があります。これはと感じた人と意見が違うと、まれに一歩も譲歩できなくなることがあります。
そして、結局は孤立して体調に支障を来している現状があります。
その答えの一つが出勤中に閃きました。
私は、やはり境界線人格障害なのかもしれません。
過去に医師に否定されました。ヤンバル先生の説も読みました。でも・・・自分に“治療”が必要な根拠がこれしか付けられないのです。
YANBARU先生、これちょっと前までありました。私のAS彼の中心志向はずばり「神」だったので、(ハイヤーパワーと言うべきでしょうか・・・?)彼の、強い断定口調でミーティングに出さされる度に、楽になるどころか、本来の自己突っ込みが激しくなって死ぬ思いを味わいました。
ミーティングは、本来は「自己を発見する」「助け合いの場」の筈なんですが、私には駄目だった・・・強迫的に「自分はACだ」と思い込むようになって、とても苦しかったです。
結局、自分ではない合理的なパートナーと、しばらく友人ともカウンセラーともつかない関係性を保っている内に、なんとか落着きが取り戻せましたが。