AC、人格障害関連

ジャイアンの根本的矛盾

 (コメントされる方へ

 「批評」はご遠慮ください。例えばASからADHDを想像することは非常に困難であり、ここでは主にジャイアンの本人の自己分析を突き合わせながらかなり微妙なジャイアンの心理の分析を深めて行きたいと考えています。              コメントされる方は自分自身か、あるいは明らかにジャイアンだろうと思われる特定の人の実際の発言であるとか、行動などの実体験に基づくコメントをお願いします。遠い対岸からの「批評」は論点をそらすことにしかなりません。)

 

 私はADHDであるので、私の中の自己突っ込みは、徹底して合理的な部分がある。その部分は私のジャイアン的な自己中で醜いエゴイストの部分に絶えず突っ込みを続け、逆にジャイアン的な部分は優位に立てないことに対して突っ込み続ける。

 ADHDとして合理的であることと、ジャイアン的にエゴイストであることは根本的に矛盾していて、この矛盾がジャイアンの根本的な不安定さの底にあるように私は思う。

 「低い自己評価を自分に言い聞かせ続ける」ことは、このジャイアン的な部分をいったん押し殺し、合理的な部分の自己突っ込みの立場に立つことを意味する。

 その結果表面上は「合理的なADHD」と同じ立場に立つことに近いことになり、自己突っ込みの痛打を一時逃れて安楽な時間をすごせる。自己評価を下げることで合理的なADHDに近づくことになるのだ。

 逆にジャイアン的なエゴに身を任せると、限りなく不幸で苦痛に満ちた悪循環にはまることになる。

 ジャイアンはもともと両立不可能な二つの自己突っ込みの戦いの上に立っており、その意味では自分を「許す」ことは根本的に困難であるように感じる。

 


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コメント

    • 匿名
    • 2008年 2月 18日

    そのとおりです。ジャイアンの一番つらく苦しいところは決して自分を赦す、許すことができない、ということだと思います。死ぬまでこの苦しみから逃れられないと思うとそれだけでもぞっとします。そういう感情も多くの場合瞬間的ですが。しかしそれを毎日毎日延々とくりかえすわけです。なんと矛盾に満ちたことでしょう。

    • あひる
    • 2008年 2月 18日

    相手を許すことが困難だと思っていました。
    自分のことも許してないんですね。
    相手にイライラしながら
    相手の気持ちに添えない自分に突っ込みを入れる...
    こともあるのかもしれない。
    >両立不可能な二つの自己突っ込みの戦い~
    天使と悪魔の戦い...と言いたいところですが
    戦っているのは両方とも悪魔ではないか?と思えることもあるのです。

    • エイト
    • 2008年 2月 18日

    YANBARU先生の冒頭の注意と今回のテーマは正に私のことです。
    「うつと身体症状と自己突っ込み」のところでm2さんとWhiskyさんへの私のコメントですが。
    その内容は、相互理解しましょう(合理的ADHDの部分)と言いながらジャイアンの全てを分かっていないお二人にイライラして自分ジャイアンを押し付ける(ジャイアン的エゴイストの部分)。明らかに矛盾しています。
    それにそのことに気付かない(きちんと自己突っ込みをいれていたら絶対にあんなコメントは書けない)ということは、今まで私が「自己突っ込み」だと思っていたことは他のADHDの方やYANBARU先生の「自己突っ込み」とはかなり質が違うということです。
    私の「自己突っ込み」は、自分本位な部分を少しでも客観的な目で見てみること、のはずだったのですが、まだまだ謙虚さが足りないと実感します。いや、もしかすると「自分を正当化するための言い訳」をしていたにすぎない、ような気がしてきました。
    こうしてブログに参加していると自分自身に「気付く」ことがたくさんあります。 

    • 匿名
    • 2008年 2月 18日

    エイト様
     上記の注釈はあなたに当てては居ません。でもそれを見て合理的に自己突っ込みしているところは「それが一番」という姿勢ですね。
     上記の注釈はあまりに自説を展開したいだけにしか見えない独善的なASの人に対して当てたものです。あまりに遠い勝手な思い込みとか決め付けを見るとがっかりします。(これもジャイアン的な反応であると百も承知の上ですが)。
     「だったらコメントを削除して掲載を許可しなければよかったのに」という自己突込みを自分にしつつ。
     あなたも私も同じです。ご一緒に少しずつジャイアンの心理について考えて行きましょう。

    • エイト
    • 2008年 2月 18日

    ADHDとして合理的であることとジャイアン的にエゴイストであることは矛盾する
    今まで何回も思いました。前述のように、矛盾してもそれには「自己突っ込み」をしないので、平気で他者に2つの違うことを要求したり、自分が出す答えも2種類の両極端な答えとなり、そのどちらも正しいと思えて仕方ない、おかしな感覚。
    まるで自分の中に二人の自分がいる感覚。
    どちらが合理的ADHDとしての思考なのか、自分で見極めることすらできない。
    「自己突っ込み」しないので痛みはないけれど、どちらを優先していいのかわからず混乱してしまう。自分の中の不思議ベスト3です。
    「低い自己評価」を目標にして合理的ADHDを目指しつつ(純粋の合理的ADHDにはなれないとしても)、ジャイアンとしての自己分析を続ける、という私にとって至難の業に挑戦してみます。

    • どらねこ
    • 2008年 2月 18日

    「低い自己評価を自分に言い聞かせ続ける」
    今回のエントリーで脳内関所を飛び越えたというか、いまいちピンと来なかった部分がストンと頭に入りました。
     私のジャイアンな部分はどう考えても割に合わないし、合理的な自分から見たら恥ずかしくて押し入れにしまい込んでしまいたくなるような部分です。これを人様に年中さらしている事を振り返る事になるのです。
     けれども、この自己愛の固まりのような自分と合理的な自分との葛藤こそがハンデを跳ね返す原動力となってきたのだという気がしてなりません。
     こんな自分でも好きなのです。だからジャイアンのままなのでしょう。
     YANBARU先生のサイトに出会えてからは合理的な自分に免罪符を頂いたような気持ちです。ありがとうございました。

    • たかこ
    • 2008年 2月 18日

    多数派の私から見ても、ジャイアンとASには、どうしてもお互いの事が許せない部分が強いように見えます。その確執は根深いものがあり、長年にわたった確執はどちらかが、完全にあきらめるしかないように思えます。双方の立場から見てどうしてそういう考えになるかが、わたしには多少分かるところがあるのですが、なんというか特にADHD側からすると特にASが常に許せないという思いが強いように感じられます。確かにADHDは自分の至らなかったところとか、常に至らない部分を知っていて、厳しく自分を戒めながら生きている感じがするので、自分を許すことなく、反省し続けるほうが、いい意味にはたらくのではと思えます。ASの方は自分を許すというか、ある程度弱みを見せられるようになる場所がどこかに方が、バランスをとって生きやすいのではと、漠然と思ったりしています。

    • エイト
    • 2008年 2月 18日

    YANBARU先生、直々にすみません。
    私のこのテーマでの2回目のコメントも、仕事の合間に少しずつ書いたので先生のコメントは知りませんでした。
    ACの名残りか、つい自分のことでご迷惑をかけたのかと思いました。
    ブログに参加している皆さんそれぞれが「自分の胸に手をあてて」みればよいのですね。
    でも、このことで新たな発見がありました。
    自分を見つめるコメントを書くときはとても素直な気持ちになれて、自分をさらけだしているのになぜか清々しい気分です。
    そして最近の悩みは、「低い自己評価を目指す」ことに徹してブログに参加するのはやめようか(ジャイアンに舞い戻ってしまうため)、それともブログに参加してジャイアンとして突っ走ろうか(この2つの全く違う答えというか思い込みが混乱のもと)だったのです。これこそAかBかみたいな両極端な思考です。
    でも何が一番合理的なのかを考えたら、2回目で書いたとおり、今までならば無理だと最初から諦めていた考え、「両方目指す」という答えに自分でたどり着くことができました。
    私にとってはこんなことが凄い進歩です。ありがとうございます。

    • 志ん輔
    • 2008年 2月 18日

    冒頭のコメントを読み、気づいたことがありました。
    「私は被害妄想が強すぎる」ということです。
    冒頭のコメントのように、「名前を伏せて誰かに注意」をされると、ほぼ自分のことだと思うのです。
    私は成人してからは、ずっと低い自己評価で生きてきました。
    ※自分には能力があるという思いは根底にあるのだけれど、社会では「教えてください」と素直に言えることのほうがずっと「金になる」からです。(給料のいい仕事に就いても、職場でつまはじきになっては、情報も入ってこないし、仕事自体が続けられない)
    低い自己評価で生きていると、社会生活においては苦労が減ります。しかし、「自分に自信がない」という状態に陥りやすく、せっかくのADHDらしい行動力が減少してしまうように思います。
    表現するならば、「確固たる自己を持ちながら、腰を低く」したいのですが(普通の人はきっとそれを、そつなくこなすのでしょう)まだやり方を模索中です。

    • エイト
    • 2008年 2月 18日

    たかこさん、違うのです。
    許せない、ということではないのです。
    私がASの方に言いたいことは「物事の理解」について
    「正しい意味で理解したい」のかそれとも「自分の頭の中で理論付けて考え出した理解のようなもので自分が安心したいだけのか」ということです。
    ありとあらゆることを自分に関連付けてつながっていないと不安(間違っていたらすみません)、自分に理解ができないことがあると不安、これらのASの思考の特徴を差し引いても、ASの方がADHDについて語るときに、ADHDは驚いたり、傷付いたり、他者から見てもそのASの方の人格まで疑われそうな内容を平気で活字にしてしまうことがあるのです。
    私的には「勝手に決め付けないで」とか「誰がそんなこと言ったのよ~」とか「ぜんぜん違うから・・・」とか思います。
    でも私の1回目のコメントは私のACと早トチリのせいだと確認できたので、これからも「ASの方のADHDへの理解が適切ではない」と感じたときは、時間が許す限り「ジャイアンからASへの突っ込み」を入れたいと思います。
    それはそのASの方にとっても利益になるはずですから。

    • 匿名
    • 2008年 2月 18日

    YANBARU先生
     私もADHDの依存型ジャイアンです。今までの、先生の記事は、すべてプリントして今勉強中です。先生のおかげで自己分析できました。本当にありがとうございます。M3のブログを続けてください。私は、妹によく”お兄さんは、自分勝手のエゴイストだ。”と言われていました。なかなか自分が、ADHDということを受け入れる事ができませんでした。今は、無理をせず、最低限の夫、最低限の父親、最低限の院長として、周囲に悪影響を与えないように、努力しています。変なコメントには気にせずに、ブログを続けてください。

    • アールグレイ
    • 2008年 2月 19日

    ADHDがある場合根本的に矛盾を抱えていることはよく理解できます。
    ただ、低い自己肯定感を目指すというのが良く理解できていません。
    私はセルフエスティームが高い方が病気にまでなる落ち込みにならないためには良いと思うのですが、これと低い自己肯定感とは同じことなのでしょうか。
    「出来ないことがある自分も、失敗をするダメな自分も自分である」ということを肯定的に受け取ることとは違うのでしょうか。このところが良く分からないでいます。
    私は主治医から、行動するときは常にWIN,WINの関係、両方とも勝者の関係になるように心がけるというアドバイスを受けました。これは今の私にとってはとても役に立っています。ジャイアンが出そうな時、合理的な行動に移すためのおまじないのようなものです。
    そして常に障害を見据えること。自分そして周りを許すことを覚える。(これは初めからは出来ないからこそ覚えるとなっている気がします)これらはバークレー先生の「ADHDのための12の原則」の中の言葉ですが12の原則は忘れないように努力しています

    • エム
    • 2008年 2月 19日

    教えて下さい。身内にジャイアンと思われる人がいます。
    時に突然、単なる愚痴なのか、私への批判ないし要求なのか、よく分からない話〈メールもあり)を一方的にしてきて、私が動揺すると、しばらくして「ごめん。忘れて、気にしないで。」などと、前言を撤回します。でも、一旦聞いてしまった以上、私はその言葉に影響され振り回されてしまいます。突然の乱心(そう感じます)をみると、日頃の善人ぶりが信用できず、偽善者のようにも思えます。
    ACのとれつつある合理的ADHDの私(たぶん)としては、しっかりとこのジャイアンに向き合いたいのですが、この乱心時の言葉こそ「ジャイアンの本音」と捉えていいのですか?
    少し深読みして、察してあげるといいのですか?

    • エイト
    • 2008年 2月 19日

    「ジャイアンの根本的矛盾」 
    このテーマの1番わかりやすい例が、今の私の心理だと思うので書きますね。
    ( )の中は「自己突っ込み」です。Aが「合理的ADHD」でBが「ジャイアン的エゴイスト」の気持ちです。
    Whiskyさんの 1番になる不合理を悟って万人に対して同様に接することができるのかな? のコメントとたかこさんの「ASの言語の非対称性」のところでのコメントに対して思うことです。
    Whiskyさんへ
    A:私がWhiskyさんと1対1でやりとりしていた時はWhiskyさんは紳士的な方だと感じたのですが、このコメントはどうしたことでしょう。かなりショックなのですが。Whiskyさんは何を言いたいのかわかりやすく教えてください。
    B:最後まで読んでも意味不明。ADHDへの冒涜?謝ってほしいです。(大袈裟な、言いすぎでしょう)しばらく反省してよね、反省できたらまたコメント許可します。(これは先生のブログでしょう、いつから自分のブログになった?)
    たかこさんへ
    A:なんだかご心配かけてすみません。もう気にしていません。
    B:本気で仲裁する気持ちがあるなら、Whiskyさんのこのコメントを読んで、代わりに正しい意味を解説してください。ご自分でわからなければ本人に聞いて確かめてください。(そんなの無理だってば、ほんとに性格悪いよ)
    YANBARU先生へ
    A:このブログのなかではASとADHDは平等だと、お互い様だとわかっていてもついつい反応してしまいます。多数派もASもADHDも誰も悪意なんかない、と自分に言い聞かせたら、「自分はやっぱり発達障害」だと思い知っただけでした。やっぱり私は自分の文化を1番大事にして生きていきます。自分で自分の心を守るために。
    B:崖から海の底まで突き落とされた気分です。(嫌味?)でもこんなことは氷山の一角です。3時間ぐらい落ち込んだら立ち直れました。崖、海、崖、海のくり返しでも平均したら海抜0mだから、溺れずに生きていけそうです。(意味不明)
    ひとつの出来事に対して、こんなに複雑な6種類の気持ちが湧くのです。「ジャイアンの根本的矛盾」の見本です。普段はお粗末な自分を出さないように注意していますが、今日は自分のために、また最適な例として書きました。

    • 匿名
    • 2008年 2月 19日

    エイト様
     これを率直に書いてしまえるところが今のあなたの立派なところです。きっぱり書いてしますとすっきりしますね。
     私もジャイアン的な部分はほとんど同じです。私の場合はこのAとBの二つがお互いに突っ込みあって、その場に居られない「消えたい」気分になります。
     最近は独善的で腹が立つ人の書き込みは管理人の権限で削除するようにしています。
     忘れたり思い出したりしながら、ぼちぼちやって行きましょう。 

    • m2
    • 2008年 2月 20日

    >私はセルフエスティームが高い方が病気にまでなる落ち込みにならないためには良いと思うのですが
    私も、ずっとそう思っていました。
    でも、ジャイアンの人々が言う「低い自己評価」が良いというのも今では理解できます。
    「低い自己評価」は「自分を許すこと」につながるのでしょう。まだまだ自分は未熟だ、だからできなくても仕方が無い、でも努力しなければならない、そうやってジャイアンの努力家イメージが築かれていくのでしょう。
    この溝を埋めようとしたところ、発達障害の成功パターンが見えてきました。
    ASもADHDも「低い他人評価」が必要なのではないでしょうか。
    これは他人を見下すということでは無く、過去にYANBARU先生も言っていた通り、「多数派はそんなに深く考えているわけではない」とか「多数派は単に多数派というだけであり、ADHDやASと比較して優れているわけではない」とのように考えられるようになることが大きな1例でしょう。
    ADHD(特にジャイアン)にとっては、「低い自己評価」は上記の利点だけでなく、「低い他人評価」を得るためにも利点が大きいのでしょう。自己と他人が対して変わらないと悟れた非ACにとっては、自己評価が下がれば他人評価も相対的に下がり、「他人を許すこと」ができるようになり、さらに優れたADHDが持つ本物の奉仕精神(このページもYANBARU先生の奉仕精神から来るところも大きいと感じてます)につながってくるのでしょう。
    「低い自己評価」で自分に努力を与え、自分を高める。無理がありそうな時には自分を許すこともできる。
    「低い他人評価」で他人が困っている時に奉仕することができ、他人から罵倒された時にも許容することもできる。
    まさに天使ですね。
    一方、「低い自己評価」は達成しても「高い他人評価」だとAC状態になり、自分で努力はできるが、他人は許せず他人にも自己突っ込み同様の高い要求をしてしまう。
    これだと、あまりうまくいかないですよね。
    自己評価を高めるのでなく、他者評価を低める形でセルフエスティームを高めないといけないのですね。ADHD(特にジャイアン)は。

    • m2
    • 2008年 2月 20日

    この問題をASから見ると全く反対になります。
    ASは「高い自己評価」こそ一番生きやすくなると考えます。
    ASは「高い自己評価」を持つと自己愛性人格障害にはなりやすいですが、それは私の見る限り、「高い他者評価」を持ち合わせている場合です。
    相手に対して自分を押し通せない恐怖、それが自分の意見の押し付けを呼びます。その押し付けには、他者に対する配慮が感じられません。
    一方、ASが「低い自己評価」のときにどうなるか?
    それは社会から離れる手段をとることになるでしょう。
    孤立型AS、積極奇異型ASのAC、受動型ASで過保護にされたケース、等いろいろ考えられますが、まさに「自閉」になります。
    ASは「高い自己評価」を得ることにより、社会性を持つことができます。そして、いろいろな不安から解き放たれ周りに流されず自分の信念を貫くことが出来ます。
    「低い他者評価」を持つことにより、自分の信念を貫く際に他人を配慮することができます。自分の信念を更に強固にすることができます。
    だいたい、信念が間違っている場合は、そのような自己認識ができませんので、その点は心配いらないはずです。
    「高い自己評価」で「低い他者評価」だと傲慢な人間に思えますが、ASの場合はこの程度の自己認識でちょうど良いようです。
    ADHDは極めると天使(悪魔)のイメージですが、ASは極めると神か仏(疫病神や貧乏神になったりもしますが)と言うイメージです。
    発達障害は少数派である以上、高い他者評価となりやすい。
    その他者評価を成長により下げることにより生きやすくなる。なんとなく自然の摂理からはありうる話のような気がします。

    • mario (AS)
    • 2008年 2月 20日

    ジャイアンの自己矛盾、良く分かりました。そして、(私の場合は主に元妻に対してですが)可哀想だなと思ってしまいます。
    ところが、そのように見られること自体、ジャイアンには耐えられないのではないかと思うと同時に、人をそう見る自分も好きじゃない。可哀想と思う事自体、自分が上にいます。そんな高慢なことをして良いのか、苦しみます。
    が、m2さんのコメントに唸りました。うん、この状態なら、相手を許容し、許し、気遣い、配慮し、言葉と裏腹の気持ちにも思いやって、対処できます。
    でも、本当にそれで良いのかな?上手く付き合う技術としては分かります。でも、技術を使って人と付き合って良いのかな?実はそれこそが、このサイトの全体にわたって感じ続けている疑問です。誠実ではない、嘘つきな自分と感じる点で、苦しみを感じます。
    相手を苦しめないためには、自分が嘘つきになるか、孤立するか、その二択しかないのでしょうか?誰か否定して下さい。

    • どらねこ
    • 2008年 2月 20日

    mario (AS)様へ
    一人のジャイアンのつぶやきとして聞いていただければ・・・
    猫など小動物に対して優しくする事は立ち位置が上です。人間の感情としては当たり前に行っている事だと思います。相手にとってもそれはメリットにもなっている事でしょう。また、猫の側からすれば自分が下だなんて微塵も感じていないと思います。
     悪い関係どころかこれは良い関係ではないでしょうか?
     ヒト対ヒトにこの関係を当てはめることは乱暴かもしれませんが、生き物間に上も下も無いですしね。(理由付けしないと次に進めないなんて面倒くさい自分だと思います)
     自己決定できない人に対して尊重してあげることは無理を強いる事にもつながりかねません。「上に立っている」という認識ではなく、実は支え合っている(共依存でなく)と考えるようにしてみたらどうでしょうか?
     どのような行動を取ったとしても相手のことを考えてから決定することを『誠実』と言うのではないでしょうか。
     (私なんて周りの人からは空気読めないかわいそうな人って思われていることでしょう) かなり乱暴な意見で答えとは違うと思いますが、参考意見の一つにでもなればと思い書き込みしました。

    • たかこ
    • 2008年 2月 20日

     今まで、先生のテーマごとに自分のまわりの身近な人に思い当たる事や、以前から感じていることを、私なりには配慮しつつ書かせていただいているつもりですが、配慮のない内容、気に障られる事や、全然違っていると反論されたい事が多いのかも知れません。すみません。
     私のコメントに対してもコメントいただいていたりしているようですが、私としてはどうお答えしていいのか分からないというのが本当のところです。ここにコメントされている方の内容は非常に私から見ると、レベルが高く、それぞれの方の内容をしっかり理解していく事はわたしの頭ではとてもむずかしいことです。
     なので失礼とは思いながら、お返事しないままになっている事は申し訳なく思っています。先生の注釈にあった事も、「自説を展開したり、学術的な内容を求める…」といったことは私の事かと反省しています。
     身近なASやジャイアンから、DV的な事やモラハラ的なことを受けてきましたので、正直言って、その恨みみたいな感情は抑圧しているだけで、まだくすぶっていると思います。
    そういう負の感情はほかに吐き出す場が自分にはありますので、こちらでは、なるべくそういった感情は出さないように前向きなものを目指していますが、自然とそういう消化しきれていない負の感情がつい出ているのかも知れません。以後今以上に注意します。
     私たち夫婦は、一般でいうまごころやおもいやりといわれるものを、伝え合って、平和に、支え合って生きるためには、そのままでなく、変換、工夫が必要だと思うし、すれ違いによる対立はなるべく少なくしたいのです。それをこちらでたくさんのヒントをいただいていると思います。ありがとうございます。
     

    • エイト
    • 2008年 2月 20日

    YANBARU先生、直々にありがとうございます。
    前回の私のコメントは、書かないことには不眠症になる、と思い書いてしまいました。
    また自分自身を整理できました。「ジャイアンの根本的矛盾」は、私には少なくとも2種類あるようです。
    ひとつは自分の身に直接起こった時、前述のように1つの出来事に対する2つの本音、それも相手により異なるので永遠に2×2×2・・・の複雑な感情が生まれること。活字ならまだしも、本人を目の前にすると上手く伝えようとすればするほど複雑な言い回しになること。多くの人を前にしたら、黙るしかありません。(今はブログのおかげでだいぶ調子は良いですが)
    もうひとつは、自分に関係ない他者の出来事に対する2種類の反応。自分は控えめで相手を立て、相手が困っていれば協力を惜しまず、心から相手の幸せを願う態度(合理的ADHDの部分)。正反対の、恐ろしく冷静に相手を見つめ、自分の蒔いた種は自分で刈るしかない、と突き放す冷たい態度(ジャイアンのエゴイストの部分)。
    自分のなかのこの複雑な感情は一体何なのか、知りたくて知りたくてたまりませんでした。正体は合理的ADHDとジャイアンだったのですね。やっと答えがでました。
    自分がジャイアンでなかったら、どんなにか楽な人生だったでしょうか。人も自分も責めることなく。
    ジャイアンがどうしてこんなに記憶力が悪いのか?もし過去の全ての記憶を覚えていたら、懺悔と羞恥と後悔の念で生きていけないから、だと思います。

    • 匿名
    • 2008年 2月 20日

    初めまして。ADHDと思われる者です。
    随分以前から拝見させて頂いていましたが、
    自分自身の慢性的ないごごちの悪さを代弁していただいた感がして、書き込ませて頂きました。
    そうなんですよね、何をしても(上手くいっても行かなくても)イライラして、ダメ人間な気持ちになります。
    ちょっと自信のあることを言って目立ってしまっては、
    家で「(自分が調子に乗って)バカじゃないか」とじたばたしたり。
    その場では人に遠慮して自分の案を採用しなくてもも、後でこっそり参加させてたり、またそれを反省したりと矛盾だらけです。
    これがジャイアンと合理的の葛藤なんだなと思いました。
    それから、もう一つ、
    私自身、子どもの頃からの、たび重なる細かい失敗(忘れ物、遅刻、重要な話を聞いてなくて大変な失敗をするなど)で自尊心ゼロなんですけど、
    根本的には負けるのが大嫌いで努力はつづけるので、
    なぜか予想外の評価をうけたりします。
    褒められても落ち着かないので、
    やっぱり家に帰ると「みんな本当の姿を知らないんだー」
    とまたじたばたします。
    子どもの時はバカなのか利口なのか分からないと言われましたし、こういった自己評価の矛盾も不安定さの要因なんでしょうね。
    ただ、職場に完全なジャイアンタイプの方がいるのですが、
    まったく自尊心が傷ついている様子がなく、
    話を始めると独演会状態です。
    (後で恥ずかしくならないだろうかと思ってしまいますが)
    自分のした話を覚えていなかったり、予定をすっかり忘れている事はしょっちゅうなので、
    私と同様、子どもの頃はさぞかし失敗は多いと思われますが、同じADHDでもなぜ自己評価が高いままでいられたのか非常に不思議です。
    周りに大切にされたか、自己評価に影響しないほど完全に周りが見えてないということなんでしょうか。
    長々と失礼しました。

    • m2
    • 2008年 2月 21日

    >相手を苦しめないためには、自分が嘘つきになるか、孤立するか、その二択しかないのでしょうか?誰か否定して下さい。
    どこで自分に嘘をついているのでしょうか?
    ADHDが「自己評価を低く」するとうまくいくこと、
    ASが「相手を見下す」ようにするとうまくいくこと、
    どちらも世間の常識では「やってはいけないこと」とされています。
    技術的には、そうすれば良いのはわかっているが、どうしてもできない、その状況と言うのは、多数派の常識という呪縛に囚われている状態ではないかと思うのです。
    このサイトでやっていることは、発達障害者がいかにして常識という呪縛から抜けられるか? を探っているのだと思うのです。
    この「呪縛から逃れようとする」ことが「自分に嘘をついている」と認知してしまうのではないでしょうか?
    結構この2つは、ASもADHDも自己防衛のために自然にやっていることだと思うのです。
    私には、今までが「奥さんをかわいそうと思って見ているわけではない」と嘘をついて生きてきているように見えるのです。
    自分の衝動を、多数派の常識にとらわれずに素直に認知する。そうして、自分に素直に生きる。
    自分に嘘をつかないことこそ、相手を苦しめないこと、と思いますけど、いかがでしょう?
    読み返して見ると、偏屈者宣言そのものですね。これって。

    • mau?
    • 2008年 2月 21日

    自分がADHDであるかどうかは分からないけれど、ADHD的であり、なおかつジャイアン的であると感じます。
    そのジャイアン的な自分を考えると、自己評価は常に低いと言う訳ではないと感じますね。
    なんと言うか、「高過ぎる(根拠の無い)自己評価(自尊心?)」と「低い自己評価」が同居している感じです。
    そして、「高過ぎる自己評価」で相手を見下し操作しようとする試みに対して、「低い自己評価」が冷静に自己の言動の矛盾に突っ込みを入れると言う形で行われます。
    例えば、「相手を声高に批判する」と言った行為に対して、「相手を批判できる程の高潔さを持っているのか?」と、過去の自分の行動を振り返ると言う感じです。
    また、自分の行動をシミュレートしての自己突っ込みなどもある気がします。
    これは、自分がジャイアンでいる為に、「周囲から突っ込まれない様にする為の予行演習」といった感じでしょうか。
    予行演習の結果、「この点ではジャイアンである事が出来ない」と理解して自己の行動に制限が掛かる事も多々あります。
    もちろん、困った事に自己突っ込みが行われず、ジャイアン的な素が出る事も多々ありますが…。
    個人的な感覚として、「低い自己評価」は「高過ぎる自己評価」を持つジャイアンにとって周囲との潤滑油であり、形を変えた「謙虚さ」である様にも思えますね。

    • エイト
    • 2008年 2月 21日

    「ジャイアン的エゴイスト」について思いだしました。
    ジャイアンは自分の中のエゴを十分に分かっている、それゆえに他者の中に潜むエゴを鋭い嗅覚で嗅ぎわけ見抜きます。
    他者の中のエゴ、たとえその人が自覚していなくても。あるいは他者が覚悟して丸出しにしたとしても。
    おしゃれな人がおしゃれな人に注目するように、ジャイアンは他者のエゴに敏感に反応します。
    ジャイアンが他者のエゴを見たとき、ジャイアンは自分の合理的ADHDや自己突っ込みにも問いかける。あの人のエゴについてどう思う?と。その人がジャイアンに全く関係ない人ならば、「放っとけばいいよ、そのうち本人が気付くでしょう」と。その人がジャイアンに少しでも関わる人ならば、「あの人のエゴを認めることは私のエゴを抑えることだよ。それでもいいの?戦ったほうがいいよ。」と。「目には目を」のジャイアン版は「エゴにはエゴで返す」です。
    普段、なるべくエゴを表にださないように注意しているだけに鬱憤もたまっていますから。
    あ~、私は今まで何回戦ってしまったことでしょう。思い出したくないです。お互いに鼻血程度で和解することもあれば、私の自爆テロみたいな終結もあります。
    今、私の対人関係部門は、合理的ADHDが窓口係りとして対応しています。相手が怪しい雰囲気だと、奥の部屋で昼寝していたジャイアンがのっそり起きてきて確かめる、そんな感じです。

    • エイト
    • 2008年 2月 21日

    YANBARU先生、度々すみません。
    またまた自分の整理が進みました。
    今回のテーマの私の1、2回目のコメントのところの、なんとなく把握しきれていなかったモヤモヤについて。
    最初は私には「ジャイアンの根本的矛盾」のほかにもうひとつ、別の矛盾があると思いました。もし名前を付けるなら「条件反射矛盾」とか「自然発生矛盾」。ひとつの出来事を目の前にしたとき、瞬間的に同時に発生する矛盾です。合理的ADHDともジャイアンのエゴともいえないもっと素の感覚です。
    おもしろいことに「ジャイアンの根本的矛盾」は私の場合時間差で発生する(まず合理的ADHDで次にジャイアンのエゴ、時間差は10分のときもあれば1日のこともあります)のに対し、この「条件反射矛盾」は同時に発生します。
    例えば、主人の目の前に美味しいケーキがあるとします。彼は甘いもの好きなので、私は素直に「よかったね!」と共感します。と同時に彼はメタボなので「でも、食べないほうがいいよ、太るよ。」と。彼が「どっちだよ!」と怒ると、「早く死にたいなら食べれば!」と冷たく言ってしまいます。1つの出来事に同時に3つの感情が生まれるので自分でも呆れます。
    これは別の角度から見たら、無意識レベルの「突っ込み」です。「他者突っ込みトリプルバージョン」です。
    こう考えると、私は24時間365日「突っ込み」と「矛盾」を繰り返しているようです。
    さすがにペットにまでは疲れるので「突っ込み」ませんが、睡眠中でも眠りが浅いときに「突っ込み」と「矛盾」をしている自分を感じます。 
    やっぱり私は意味不明な人です。

    • パパイヤ
    • 2008年 2月 21日

    最近の記事やコメントは、ジャイアンの生きやすい方法の新たな発見があります。m2さんの、「多数派は気にしてない」から始まって自己評価を低くすれば安定するという辺りの。さっそくやってみていますが、自己突っ込みは確かに減っていい感じです。
    AS元夫と一緒にいるのがいやだったのも、私が低い自己評価で安定しようとするのを許してくれなかったからかなーと思います。常に高い基準を求められて苦しい。自分にはできないのに。m2さんが、ASは低い他者評価をめざしたほうがいいというのはこういうことだろうなあ、「人には優しく」という意味だろうな、と思いました。
    エイトさんの、多重人格的会話例も、自分もその通りなので面白かったです。というか、普通の人はそうじゃないの?エイトさんとYANBARU先生(とその他のジャイアン)だけがそうなの?という新鮮な驚きを感じました。

    • mario (AS)
    • 2008年 2月 22日

    どらねこさん
    「出来ないと決め付ける」のを避けようとすると「無理強いすることになる」のですね。何だか良く分かりました。YANBARU先生のお話も加味して考えると「お願いだけして、結果は求めない」になるのかな?
    m2さん
    なるほど「相手を見下してはいけない」は多数派の呪縛ですか… すぐに呪縛から逃れられるわけではないのですが、前から思ってる事があります。それにそのまま繋がりそうです。どらねこさんの話とも繋がります。
    ADHDに対しては(あるいは人間関係一般的にも)、子育てと同じにすれば良いんだな…と。子供に対しては、見下している訳じゃなくとも出来ない事は仕方がないと自然に思えます。何かを期待して、適切な方法を示して、あるいは自分が実践して、上手くできれば褒めるし、出来なくてもそれはそれで当たり前。「こうすれば出来る」ってのは「親は、大人は、いや自分はこうすれば出来る」なだけ。
    何となく見えてきたような気もします(まぁこれまでに何度も「分かった!」と思ってるんですけどね)。
    パパイヤさん
    「私が低い自己評価で安定しようとするのを許してくれなかったからかなーと思います。常に高い基準を求められて苦しい。」
    私は自分の元妻の言葉として受け取りました。特に子育てに関して妥協しなかった(結果として妥協を許さなかった)ために、追い詰めてしまったんだろうなぁと思い返しています。ごめんなさい。
    多重人格的会話は…自分にはありません。無理やりにでも納得し、考えていることと言っていることを一致させますね、きっと。思っていることを言わないと「嘘をついている」事になり凄く苦しい。逆に、ADHDは(ジャイアンは)そんな風になってるんだと面白かったと同時に、妙に納得もしました。

    • エイト
    • 2008年 2月 22日

    私が「ジャイアン的エゴイスト」を考えるとき、避けて通れないのが、「ジャイアンの罪」です。
    私には3つの罪があります。「ジャイアンの迷惑」は数限りなくありますが、私が罪と認めるものは3つです。思い出して泣いて謝っても、後悔しても、落ち込んでも、「罪がなかったこと」にはなりません。
    私だって「他者からの罪」の被害者だと、だからお互い様だとどこかで自己正当化していました。でも苦しかった。
    今、私は先生のブログを「教科書」だと思っていますから、生徒としてはステップアップしなければ申し訳ない。
    今回のテーマの冒頭にあるように、「ジャイアンの自己分析・・」なので、「他者からの罪」はジャイアンの得意技「健忘症」で忘れることにしました。許すのではなく、忘れます。
    ジャイアンはフェア精神を愛しますから、私の罪も絶対に許さない、と決めました。これからは、罪を作らない、ことに徹します。私の罪の素、エゴが生まれるのは「脳の問題」なので仕方ない現象ですが、エゴを表に出さないことは、自分の努力でできます。
    もちろん「エゴにはエゴで返す」はこれからも続けます。その他者にもきちんと自覚させないと、被害者が増え続けますから。「わがまま大魔王」はダメです。口論でも肉弾戦でも自爆テロでも、最終的にそれぞれが自分のエゴを反省すればいいのです。(という、これもエゴかも・・)
    これで安心して、再び「低い自己評価」に戻れます。今回のテーマでは私は得るものがたくさんありました。
    ありがとうございます。

    • 匿名
    • 2008年 2月 26日

     実はm2さんからは自ら「不適切」と断られた上での反論のコメントもありましたが、私はいったん少し載せた上で削除しました。その他にも第三者的な意見のいくつかも載せないで置いています。
     今回のことは、おそらくASのことを我々が論じても同じ結果になると私は考えています。
     m2さんにはASに限定した掲示板を作っていただき、私は一閲覧者としてコメント出来ればと思います。
     m2さんが書いておられた積極奇異の人と理解し合うことの困難さと同じ感じをおそらく今私は受動型を含むASの人に対して感じています。
     私はASの人に対しては、個々のケース毎に外来診療などで実際に関われる人を除き、言葉だけが独り歩きするネット上ではあまり触れないほうがいいのかなと考えるようになりました。
     今回も実は「ADHDから見たAS」という観点から書いているのではありますが、ASの人を刺激するような表現は今後は慎みたいと思います。 

    • エイト
    • 2008年 2月 27日

    YANBARU先生へ
    今回、私がしたことで先生には大変なご迷惑をかけてしまったことを、反省します。
    私がブログ上で感じたこのストレスを、先生は数えきれないほど、日々受けているのですから、先生の身体が心配です。
    私などは、昨日は動悸が激しく、よく眠れなかったです。ASの人に意見するのは、「命懸け」くらいの覚悟がいるんだと、学習しました。
    やはり私にはASの人との対話は困難です。積極奇異の人はまだわかりやすいですが、受動型の人は、私のようなACを含む濃いジャイアンとは、同じレベルで頑固ですし、こだわる部分は違っても、こだわりの度合は同じだと思いました。ハブ対マングースみたいです。
    先生はこのブログで、営業したいわけでもなく、診察したいわけでもなく、感じたままを書いている、私はそのことに感謝している、ただそれだけのことなのに、やっぱり私は命掛けです。ラクをして欲しいものは絶対に手にはいらない、人生はそういう仕組みになっているのだと思います。
    今まで何十冊も発達障害の本を読んだり、子供の診察にや訓練にも通いましたが、私のなかには浸透しませんでした。まず自分が変わらなくてはと、わかっていてもできませんでした。でも先生のブログに出会ったときに、先生の言葉を理解していくこと、それは世界で唯一私が変われる手段だと、直感で確信しました。ほんとうに感謝しています。
    ブログの参加者は、ADHDは自分の欠点を自覚したうえなので、大きなトラブルはないかと思いますが、AS(特に男性)には「欠点」とか「反省」とか「わきまえる」という感覚が薄い、あるいは感覚がないのだと実感しました。
    でも、ブログに参加することで、またひとつ得るものがありました。次男は9割ジャイアン、AS部分はあるとしても1割程です。ASの人とのやりとりで、私とは全く違う異質なものを感じました。次男のなかに、そういう部分はありません。これも大きな収穫です。ありがとうございます。
    なんだか、まとまりのない文章ですみません。素直な気持ちで書いたのですが、この内容がまたASの人を刺激したり、私が先生に諂っているとか、媚びているとか感じる人がいると思うと嫌になります。掲載は先生のご判断でお願いします。

    • mario (AS)
    • 2008年 2月 27日

    ASと理解しあう事が困難であっても、こうしてやり取りする事は有意義だと思ってます。少なくとも私は、少なからず変化していると感じています。
    ASに関して論じると、m2さんであろうとYANBARU先生であろうと(誰であれ)、納得することも多ければ違うなと思う事もあります。自分には理解できない(自分は持たないと思う)性質も出てきます。
    論点が逸れないように気を付ける必要はあるにせよ、先生から見た(あるいはADHDから見た)ASの情報も、ASに無い視点ゆえに私には有益です。出来れば、これからもASを論じて頂きたいと思います。以上、個人的希望です。

    • どらねこ
    • 2008年 2月 27日

    mario (AS) 様に触発されてのコメントです
    私が感じた事は例え話だとこんな風です
    ある国の人「日本人は集団で群れたがる。他の人と同じでないと不安になる奇妙な人種だ。」
    「アメリカ人は自己主張が激しい。何でも権利や契約だなど自分勝手な要求ばかりだ。」
    「だからあの人たちには何を言っても通用しない。」
    「考え方が違うのだから何を言っても無駄。」
    ・・・こんな風に言われたらいかがでしょうか?
     あくまでも傾向であって、個々で見れば違いがあるはずです。
    例えば、ある人は色鉛筆を使って絵を描く。
    ある人は鉛筆だけで絵を描く。
     単色だけでも奥の深い表現をする事も出来ます。
    色鉛筆を持っていても色だけに頼って平面的な絵を描く人もいます。
     使える能力、認知機能の違いがあっても、工夫や考え方によっていろいろな物が生まれてくると思います。
     この人は○○だから・・・
     私は××だから良い物は作れない。
    決めつけ手しまえば何も生まれないと思います。
     このページを見るようになってASの方の考えの一端を見ることができ、私の世界は広がったように思います。

    • ねね
    • 2008年 2月 28日

    今回のASとジャイアンのやり取りでわたしは自分がジャイアンであることを確信することができました。それは、エイトさんのm2さんに触発さた命懸けのコメントのおかげです。
     そして、自分がジャイアンだと確信したときACになって以来はじめて大地を自分の足でしっかりと踏みしめている感覚を味わいました。これがYANBARU先生がADHDを認めたときACが劇的に治るといわれる瞬間なのだと思いました。今回の一連のやり取りがなければ、わたしは依然ふわふわしたままだったでしょう。これからは迷わずジャイアンの問題に向き合っていけます。
     YANBARU先生、エイトさん、m2さん、そしてコメントを書かれた皆さん、ありがとうございました。 心から 感謝しています。

    • ねね
    • 2008年 2月 28日

    それでは、さっそくジャイアンの問題に向き合いたいと思います。
     ジャイアンの矛盾として先生は合理性とエゴの対決について書かれていましたが、エイトさんは条件反射的に相反する感情が浮かぶと書いていましたね。このことによってダブルバインドが生じます。子供たちをACにしてしまったのはジャイアンのエゴ的部分もありますが、相反する感情によるダブルバインドの影響が強いことがわかってきました。
     これは激しさがないだけに問題として捉えにくく、親子で話し合う中でたどり着いた結論です。ただ、そのときはAC由来のものだと思っていました。今でも、ジャイアン由来のものか、AC由来のものか区別がつきません。そして、この感情にどう対処していけばいいのかわかりません。

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