DSM‐Ⅳによる依存性人格障害(Dependent Personality Disorder)の診断基準
A.他人に世話をされたいという過剰な欲求があり、そのために従属的でしがみつく行動をとり、分離に対する不安を感じる広範な様式である。成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。以下の8つの基準のうち、5つ以上があてはまる。
1. 日常の些細なことでも、他人から有り余るほどの助言と保証が無ければ決断できない。
2. 自分の生活のほとんどの主要な領域で、他人に責任をとってもらいたがる。
3. 他人の支持または是認を失うことを恐れて、他人の意見に反対を表明することが困難である。
4. 自分の判断や能力に自信がないため、自分で計画を立てたり物事を決めることができない。
5. 他人から愛情や支持を得るために、自分の不快なことでもやってしまうことがある。
6. 自分で自分のことができないという強い恐怖や無力感を感じている。
7. 親密な関係が終わったときに、自分を世話して支えてくれる別の関係を必死で求める。
8. 自分が世話をされずに放っておかれるという恐怖に、非現実的なまでに捕らわれている。
受動型ASと呼ぶ一群の人々は、本質的に依存的で、「必要とされる」ことを求め続ける。
必要とされないと非常に不安となり、「自分が相手に必要な存在であること」を確認するために自傷行為などもする。実際に「自分は要らないのか?」と言い出して境界例のように依存させてくれていた相手を試すような行動を取る。
認知と行動全体が「受動的」に出来ており、「自発的な行動
」自体、自分の責任ということ自体が分からない。
その結果、「何故行動したか?」と聞かれれば、「依存相手がこうしたから、こう言ったから」と言い、「結果的に責任転嫁の言い方になる」ということになる。
この一群(受動型AS)は「人格自体が依存的に出来ている」ので、この仲間と診断されうるだろう。
もう一つ、ADHDで強い依存相手の顔色を伺う刹那的なスタイルになった一群(私は「依存型ジャイアン」と呼んでいる)がこれに似ている。
強迫的で支配的な依存相手の指示なしには何も決定できない。口うるさい母親のような依存相手から言われないと何もしない。その意味では非常に依存的だ。
「責任」の観念自体が分からないケースが殆どだ。
本質的には全く異なる発達障害の二つの帰結が結果として表面上非常に似通った言葉で表現されうるのは面白い。
ちなみにこの二者の根本的な違いは、依存型ジャイアンは「人を人とも思わないで利用するだけ」「自分の有利になることしか考えない」のに対し、受動型ASは「相手を怒らせて嫌われても依存に執着する」というところだ。
ADHD群は対人個体認識の障害であるので、「依存」と言ってもほとんど「利用」であるが、「ASは人に執着しすぎる障害」であるので、本当に病的な依存と言えるところだ。
ちなみにケアは、依存型ジャイアンは認知療法で「責任」や「意味」を教えて劇的な「再インストール」が可能であるが、受動型ASは現在のところ私は「愛着の相手から空間的に遠ざかる」という現実的な調整以外の決定的なケアの方法を私は開発できていない。
実際にケアしている受動型ASのケースは結局夫婦のケースは別居で安定し、親子のケースも子供の施設入所を真剣に検討している。
徹底的な言いなり彼女はこういう例なのか。。
私は、当てはまらない。
先生、4月4日~7日までNHK教育放送で大人の発達障害者についてやっている。
午後8時~8時30分(再放送あり)
再放送 4月11日~4日 12時~12時30分予定
福祉ネットワークです。
ゲストに沖縄のNHKフォーラムで講演した田中さんが出ています。見逃しても再放送します。
先生
不良、非行する人、引きこもりの中にも発達障害者がいるが気がつかなくて悩んでいる。
近所の女の子も授業・人間関係などについて行けず悩んで
親と病院に行って、発達障害者を理解されず薬漬けをされて入院された。攻撃性が強いです。
もし、デイナイトケアの所で診療するが多くの発達障害者を救えることを願っている。発達障害者がやっている当事者の集まりに参加を出来たらいいね。
依存型ジャイアンの破壊力のすごさは他に比べるものもないと思いますが、結局利用されているだけですから、嵐が過ぎれば結構こちらとしてもあっさりのりこえられるような気がします。
一方、依存型ASの「思い」のエネルギーが持つ強さには、あがらえない引力のようなものを感じます。乳飲み子が母を渇望するような一途さがありますね。だからどうにもならなくなって距離を置いた後も、何か自分の一部をまだ握られているような、そんな感じがします。人ひとりの思いがそんなすごいエネルギーを持てるなんて、、、と思ってしまいます。
記事とは直接関係ない内容のコメントですみません。
最近、また「自閉症スペクトラム」の図を眺めてあれこれ考えています。
その図にはアスペルガー症候群と健常者の間に「健常とアスペルガーのボーダー」という区分があります。
診断する医師の側からするととても難しい区分の人たちだと思いますが、自分や2人の子供の実感からすると明らかにその区分は当てはまりますし、納得できます。
自分がその区分のどこかの位置に属しているという自覚を持つことによって、人間関係で無理をしなくなり楽になれる場合があり、その場合は特に専門家の診断を待たなくても自分の中で自覚するだけでも十分に意味があります。
私がAC(アダルトチルドレン)のままだったら、きっと自覚的にはしっかり健常者の中に自分を位置づけて、必死に無理をして周囲に合わせているのだろうなとも思います。この部分が微妙なところです。
統合失調症の娘はAS診断の結果、「黒に近い濃いグレー」とのことでした。それから考えて私と息子は「娘よりは薄目のグレー」だと考えられます。息子は何とかギリギリ就職でき、私も就職した経験があります。
3人とも生きることに苦労はありますが「健常とASのボーダー」だと自覚できたことはとても意味があったと思っています。
はじめてコメントさせていただきます。
ずっと前先生にメール相談し、ジャイアン+ACと思われると受診を勧められ、その後診断されました。
きっかけをいただいて感謝しています。
ところで今回の記事を読ませていただいて、自分は受動型ASに近いように思いました。優しくしてくれる人への思い入れ方は尋常じゃないようで、嫌われたり怒られたりしながらも対象の人をすごく取り込んでしまうか、拒絶されてしまいます。後から申し訳なく思うのですが繰り返してしまいます。
先生のお見立てではジャイアンでしたが、後天的学習やACの影響など入り混じって判別が難しいと考えていいでしょうか。
先生が、一般的にASとADHDは併発するといわれているところを、その区別を明確にされているのは、治療方針が違ってくるからですよね?先生のブログを拝見しながら自分がどちらに当てはまるかをよく考えるのですが判然としません。
それと私は女性なのでいじめっ子で乱暴者の「ジャイアン」といわれるのにすごく抵抗があります。私たちが周囲の人に迷惑をかけているいましめとして悪いイメージの「ジャイアン」という表現をあえて使われているのですか?
すでに触れられていたらすみません。理解力があまりないので、もし不快に思われる方がいたら申し訳ありません。不適切でしたら削除してください。
「あなたが私を必要としないならば、私はあなたに執着しません」
何度も受動型ASの方に切り札として突き付けられた言葉です。
本当に執着しないのならば、度々そのような言葉で相手の意思を試し、確認する事はないだろうなあとぼんやり感じます。
本当に他人に興味がもてないADHDの自分からすれば不可解極まりなく、ただただ「めんどくさい人だなあ〜」と思ってしまうのです。
自分の無頓着さにも時々とても哀しくなります。
人生ってほんとに難しいですね。