ADHDのACについてはこれまで何度もここで書いてきたが、最近私はADHDのACは「幼少期のASまたは自己正当化型ADHD(による)被影響症候群」であると考えている。
自己評価が極端に低く、見捨てられ不安と似た「世間から置いてきぼりにされる不安」の中で、周囲に異常に気を使っている自覚があるにもかかわらず、他者から見ると「天然」に見えるという状態であり、本人が努力してある程度修正しているのでADHDらしくも見えず、またACとしては他者から見た悲劇のヒロイン風の深刻さが欠けており、「考えすぎ」と言われてしまう。
ADHDのACも自分の評価に関わる周囲の態度にはASの「関連付け」に近い過剰反応や思い込みがある。これは私は「AC的」と考えている。ASの関連付けとの違いは、「思い込み」に近いということで、断片的で首尾一貫性に乏しい。
また人間関係も不安から異常に相手に執着したり、依存とよく似た状態になることもある。これも思い込みの激しい「AC的」に干渉したり、一見支配的になったりもするが、基本的に「自分を理解してもらう」ことが主であり、特定の相手が必要なASの愛着とは区別できると思う。
予測についても、基本には「世間から置いてきぼりにされる不安」があるため、評価を(勝手に)過剰に気にする結果、「予測できなかった」失敗は不安であるので逆に極端に「完璧に」予定を立てたがったりする。
ASとの区別は、ACの最中には容易ではないが、「気分によって急激に変わる」ような一貫性に欠ける印象を持たれる場合や、「天然」と評される場合はADHDのACと考えたほうが回復が早い。何故ならばADHDのACは「自分がもともとADHDである」ことに気付くだけで劇的に回復するからだ。
ここしばらく、妻の状態に付いて再評価してました。
妻の父(故人)は、会った事が無いものの、聞いた話や、その生き方、実家に残る生活に関する細かな取り決めの張り紙などを見るにAS、しかも強権的な(自己中心的な)ASだったと思われます。妻の母はハッキリとADHDです。
妻は…自己正当化型のADHDなんでしょうね。そしてAC。最近になって周りの評価に過剰に反応するようになってしまったし、思い込みも激しさを増してます。
妻のそんな姿をこれまで知らなかったのは、私と出会って、私の評価を最大限に気にして行動していた時期からそのまま私のASに取り込まれていったから。今では、私によるAS被影響症候群から逃れたので、本来の自己正当化型ADHDのACに戻っている。
自分のADHDを否認していて、周りの評価に右往左往して、生活の基盤を維持することに精一杯で、一人でもがき苦しんでいる。こちらが要求を飲み続けても何も改善しない。逆に追い詰めても反省や自己認識に至らないと思います。どうやったら楽にしてあげられるんだろう…
時々、このまま一生彼女の要求を飲み続けてあげるしかないのかなと、絶望的な気持ちにも襲われます。
marioさん・・・。
marioさんのコメントを読んでいると、ちょっとせつないです。なんだか、『こんなに理解してあげようとしてるのに』って脅しているみたい。だから、奥さんは心の鎧を緩めることができず、ますます固くしようとしてる。なんとなくそんな気がする。
私は事情を全部知ってるわけではないけど、ここのところ私も夫とのやりとりで、奥様の立場で考えることも多かったので、かなり奥様よりのコメントになりました。
もちろん、奥様のしてることを全面的に認めるということではありません。ただ、気持ち的には共感できるところもあるなって思うので。
『そのままの君が好き』という言葉が好きです。大切な人がみんな、ありのままの個性をそのままに、生き生きしてる姿を見ているのが好き。たとえ自分が、家族のなかでかやの外にいても、大切な人がすぐそばにいなくても、それでバランスが取れて、みんなが充実して生きているなら。・・・それが私のパーフェクトワールド、かな。
AS的には、きっと『ありえない世界』だろうと思うけれど・・・。
初めまして
私はこのブログや関連サイトを始めて閲覧して以来
自己分析、自己診断を始め、結果ASっぽいADHDのACだと思っています。
「[予測できなかった][世間に置いてけぼり]」にされるという結果、不安は増大し、それが結果的に今まで楽観視していたという事に気付き、自己評価は低下し、周りからの評価を(勝手に)過剰に気にするあまり立てた「完璧な」予定も成就できずに自己評価が低下していき…ACへ
今の私はまさにその通りです
脅してるかぁ…
これも別スレッドの“父性的対応”なのかも知れません。相手に対して上段に立ってしまってるのですね。でも、どうしたら良いんだろう…
『そのままの君が好き』
そう思っていても「大切な人がすぐそばにいなくても」と言う発想がありません。この状況でも、「妻を見捨てるわけには行かない」「妻を守らなくては」って思ってます。それを止めてしまった事を想像した時に、妻との関係が分からなくなってしまうのは、私自身がその点で妻と繋がっているからなのか…庇護の対象として妻を扱っているのか…
上段に立たれて庇護される関係、自立した大人としてそんな関係には耐えられない事は客観的には分かります。で、それを自分が妻にしていた…
今日分かった事は、ショックが大きすぎますが、しばらくこの事を考えてみます。今のところは、どう扱ったら良いのか全く分かりません。
今日は、あまりの驚きで何てコメントしていいのか・・。
そういうこともあるのかと、この私の不自由さがどこから来ていたのか、霧が晴れてきたような気持ちです。
ASにのめり込んでいる最中に、夢の途中で起こしてもらったような感覚です。
まだ、はっきり先生から診断してもらったわけでもないし、先生は私をどう診断するのかも分かりませんが、「本当の自分を取り戻しても良い」とお許しが出たような気持ちです。
YANBARU先生のブログに初めて来たとき、「認めたくないけど、ひょっとすると私は自己正当型ADHDのACかも。」と思いました。正直、今でも認めたくないです。その一方で「もしかしてそういう可能性もあるかもね。」と思う自分もいます。
YANBARU先生の家計管理方法にインスパイヤされて簡便な家計管理を1ヶ月してきましたが、今日銀行に行って「生活できるだけのお金があってほんとにありがたいなあ。」と思いました。そして、元夫と両親への感謝の念も初めて心から沸いてきました。「こうしてお金に不自由しないのも元夫と両親のおかげだなあ」と。(私自身自立できるだけの収入はあります。念のため。)同時に、今まで腹が立って関係が悪かった人たちにも、本来は感謝するべきだったのじゃないか?と思いました。心配してくれたりアドバイスしてくれたり、実際に助けてくれたりしたのに、心配を「干渉」「私のことを信用してない、馬鹿にしてる」と思ったりしてました。
(正直今でも心配されるのは好きじゃないです。が、心配されないように振舞うのもうまくなってきました。先手を打って「いつも親身になってくださってありがとうございます」「~だから大丈夫です」「わたしも~してるので心配しないで下さい」「あまり心配されると却って不安になってしまうので、遠くから見守ってください」と丁寧に言うとか)
そろそろ多忙になりそうなので、こちらのブログも卒業のときが来たかもしれません。一進一退かもしれませんし、また書き込むときがあるかもしれませんがよろしくお願いします。
YANBARU先生、記事を書いてくださり、他のADHDやASの方たちと議論できる場を提供して下さり、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません。
最後に置き土産として、妻を一人前に扱わない夫について私が深く共感した話を貼っていきます。興味のある方は見てください。発達障害とは関係ないですが、OKWeb の今週妻が浮気しますの20Pt良回答、ANo.84のところです。
http://okwave.jp/qa763621.html
今回のは、かなりよく解りました.ほとんどそのまんま自分...って思いました.
私のは愛着と違うの? という疑問も、
>人間関係も不安から異常に相手に執着したり、依存とよく似た状態になることもある。これも思い込みの激しい「AC的」に干渉したり、一見支配的になったりもするが、基本的に「自分を理解してもらう」ことが主であり、特定の相手が必要なASの愛着とは区別できると思う
で、かなりすっきりしました.確かにそうだな...と.
前にyanbaru先生が、ADHDの人への執着には理由があるというようなことを書かれた時、同情とか、恩とか、正義感とかそういうものかなと、思い当たる気はしていましたが.今回はより明確にそうだと思えました.
今回少し?なのは、この2点.
>自己評価が極端に低い
ということの実像はどういうものなのか.
高い社会的評価を得ているのに、それに見合うだけの自己評価ではないということだったりするのでしょうか.例えば客観的にはお金持ちなのにそれに見合った暮らしができにくいとか(あまりいい例えではないかしら?).
もう一つは、
>ADHDのACは「自分がもともとADHDである」ことに気付くだけで劇的に回復する
ACが劇的に回復するのですよね? 私はしてないように思うのですが、ADHDであるという気付き方が足りないのでしょうか? あるいは、ADHDであると気付く前に、大抵のことを自分なりに合理的にクリアしてしまっていて回復効果が薄い?...のかしら?
ACであること、その原因を明確にしないと回復しないような気がするのですけど...
そして、被AS影響症候群は、ACであるが故の結果なんでしょうか.ACが治ったら、ASに依存的執着をしなくなるのかなと思っているのですが.
被AS影響症候群はSM的な苦しさのようで、脱却したいようであり、したくない...するのが怖い.
これが依存なんでしょうね...(溜息)
パパイヤさん
まるで妻の将来の言葉を聞いているかのようでした。妻の言う“自立”の意味が少しだけ分かったかも知れません。No.84も読みました。相談に乗ってもらっている友人(ADHDっぽい女性で離婚容認派)が言っていた「あなたの奥さんには失敗する権利がある」と言う言葉も今では少し分かります。
一方、未だ妻を手放したくない自分がいて苦しいです。妻との関係をこれからどう捉えたら良いのか、すっかり分からなくなってしまいました。
私は、母と生活していた時は「ADHDのAC」。
否定形で育ったので極端に自己評価が低い。
(実際評価すべきいい点がないから低くていいのかもしれないが)
周囲に気を使っているつもりで、どんどん変な方向にいく。
二十歳になっても「親が怒るから」と親の機嫌を第一に考えていた。
夫と一緒にいたときは、「AS被影響症候群状態のADHD」。
いいところはいいと認めてくれたので
(それまでは自分を認めてくれる人がいなかった為、)
「夫の価値観こそ絶対的なもの」だと思ってそれにあわせようとしていた。
ただし夫の価値観自体がゆがんでいた為
結果的に「俺は全て正しくて、従えないお前は出来ないやつ」という
考えが植え付けられてしまった。
今はその両方の負の部分を背負い込んでる感じで
「何も出来ない、周りに迷惑をかけっぱなしの、最低人間」という
自己評価に陥っています。
まいってます。
どうしたら、自分を肯定できるでしょう。
どうしたら自分を受け入れられるのでしょうか。
AS被影響症候群、ADHDのACと、いろいろ考えるところがありました。
新婚当初、私はすっかり鬱気味になってしまい、気力を失い、家事どころではありませんでした。
旦那は今もそのときのことを恨みがましく言います。そして「アレは何だったんだ??」と回答を求めます。
なんだったんだろう、環境がかわったことの鬱ではないか。引越し鬱とかあるし。結婚後も鬱になる人いるというし。
でも多分それだけではなく、AS被影響症候群じゃないかなと今は思います。旦那は私が外出するのも、いちいち干渉していました。結婚後、友達とも会えない日々でした。実家から結構はなれたところに嫁に行ったのでまあ仕方ないですが。
1度友達と旅行に行きたいと申し出たら、とんでもない、俺が実家に帰る!と大騒ぎされて駄目になりました。ネットで鬱友達をつくり(みんな主婦です)隣県まで彼女らに会いに行ったりしましたが、嫌味の連続でした。
「今日は何やった!?」…何もしてません。「なんで何もしないんだ!」なぜだろう、気力がない。その繰り返しでした。
旦那の言い分は、鬱気味で気力のない私をひとりで外出させるのはどうしても駄目らしいのです。私はひとりで外出もできないと思うと余計無気力になります。その悪循環でした。
今はどうかな、私が順応してるかたちかもしれません。
ACの部分は旦那により回復しつつあると感じています。旦那は自分と私とを一心同体のように扱っていますから、安心感はとてもあります。これは独身の頃には感じたことのないかけがえのないものだと思っています。
ただ、旦那との関係が健全(?)なものとはあまり思えていないのです。というより、自分がまだ、どう自分を扱えば良いのかがはっきりわかっていないのかも知れません。
長文失礼しました。
>marioさんへ
奥様との関係を考える前に『他者には他者の意思がある』ということがイメージできますか?
守ってあげたい大切な奥様には、意思がある。こうしたいという意思、こうありたいという理想の人間像があるということを、イメージできますか?
その自由意思を守る、という発想。
実は恋愛も含んだ人間関係というのは、『意思と意思との交流』だということ。・・・これがイメージできますか?
・・・・・
『今週、妻が浮気します』はドラマは見てます。これも『常に上を目指す堅実、実直な男性』と『ものごとにとらわれない自由奔放な妻』のカップルではあります。だから夫AS妻ADHDカップルに見ようとすればできますね(^_^;)ただ、ドラマ的にはそういう設定ではないと思いますけど。
今後このドラマのカップルの行く末を楽しみにしつつ、私なりの『夫AS妻ADHDカップル』についてイメージしてみようと思いました。
HIKARIさんへ
ん??コメントの意味が不明です~。・・・もしかしてお仲間??
>HIKARIさんへ・2
・YANBARU先生
さきほどの私のコメント、済みません、私の早合点なので削除お願いします。
そんなわけでHIKARIさん。前回の早とちりのコメントがそういう事情で削除となっていますので、これが2、ということになります(^_^;)
>ASにのめり込んでいる最中に、夢の途中で起こしてもらったような感覚です。
どういうことなのか?と考えて先の早とちりコメントになりました。
不思議とASの人の中に『自分がADHDだ』という人を時々見かけます。それがどうしてなのか、わからずずっと考えていましたが、別スレッドのHIKARIさんのコメントに、その答えらしきものを見ました。それは『母親がADHDである場合、愛着から、自分もADHDであると思いこむ』。つまり母親と同じでないと愛されないといったような、間違った思いこみをしているから。
このようなことを書くと、ASの人の心をまた混乱させる原因になるような気がして、躊躇するんですが、私は自分の考えるところは、きちんと伝えるべきであると考えます。なによりも自分という人間は、やはり正しく認識するべきだと思いますから。
HIKARIさん、あなたの子ども時代の様子はやはりASだと私は思います。もちろん診断ではありませんが。
あなたには、若干ADHDのように見えるところが確かにあります。それが先天的なものなのか、或いは後天的な、単純なお母様の影響なのか、それは私にはわかりません。
それでも、あなたはあなたです。影響を受けても、遺伝的に受け継いだところがあっても、お母様とは違う、別の人間である。・・・それがイメージできますか?
お母様とは別の人間でも、きっとお母様なりの考えで、あなたを大事に思っていたはずです。・・・どうか、安心してください。
幼少時代の私=登園拒否症、人と接する事自体が恐ろしかった。何故か、当時書いた絵に「ひとりぼっち」と題する絵があります。(本人は、結構、いい格好して書いていた記憶が。)
ところが、小学校に入るやいなや、私は、明朗活発な少女に早変わり。成績も運動能力もダントツで人間関係も良好でずっとクラス委員でした。あれが何だったのかは意味不明のまま放ってあります。
中学校くらいから、特定に親しく近寄ってくる友人との人間関係に悩みはじめました。それは、ADHDのACだったような。。。
そして、今、交友関係が広く深く豊かで、人間が大好きでいとおしくてならないと思うのは、「自分は人間ではない」「人間にはなりきれない」と思い込んでる或は諦めている部分があるからかもしれません。
振り返れば、長い道のりではありましたが、未だに鬱に入ると
自己評価は地に落ちます。
そんな時、やるのは、その日することを書き出すことです。
起きる(起きれたら○)
ご飯を食べる 朝・昼・夜(其々食べれたら○)
すごい!ちゃんと生きてる。生活できてる。。。
そこから出発するので、今の自己評価は、かなり高い。。だって、ちゃんと生きて、掃除洗濯ができるなんて、もし、買い物なんかに行けるとしたら、本当に素晴らしいことなのですから。
懐かしい言葉。私も昔、ずいぶん夫に言った事があります「私には失敗する権利がある」「失敗は成功の元(普通すぎておかしいけど真剣に)」私は職人系育ちなので、はじめから成功を望むなどは愚の骨頂、10年早いと仕込まれてます。失敗することが無ければ、プロセスへの深い理解はあり得ないのでまず失敗させられる。だから失敗が悪いことなんて、思ったこともなかった。でも、夫は私の失敗を絶対に許さない。どのような些細なことであっても「絶対に失敗など許されない(許せない)」と私にいってきました。確かに些細な失敗を繰り返す者は、歩みが遅いし、時に取り返しがつかない失敗を招くこともある。
でも、失敗を恐れてたら何もできない(これも職人の世界では普通に言われることでわざわざ言うと変だけど)。うっかりミスを恐れていたら、定型発達の人だって脅迫行動をおこすかもしれない。
夫は強迫観念によってただ失敗してはならないと考えているだけで、そこに理念はないのかもしれない、と今は感じてます。というか、理念があるとしても、私が違うスタンスを持つことをなぜ許せないのか、認められないのかがわからない(なんか、marioマニアみたいにになってるな<私(^^; 単なる符合、巡り合わせです(^^;)
どうも私は、夫は勿論、職業的にもだいぶだらしなさを矯正されてる気はします。職人も失敗していいのは最初だけで、後は絶対許されませんから。私の周りには、AS夫がいないにも関わらず、見えないAS夫に悩まされてるかのように脅迫症状やSADの症状が出てお薬飲んでる人がいますから。
先生の定義に対して、なんて書いたらいいのか。わたしのことだなー、と思うばかりで(^^; 自分のことを整理して書くのは難しいですね。よく考えてから順番に投稿してみたいと思っています(なんて悪い頭なんだろう)。宜しくお願いします。
パパイヤさん:
パパイヤさんからは、きっぱりとした強さを感じて頼もしく思っていました。私も冷静に自分をみつめて、しっかりやっていこうと思いました。リンクも拝見しました。とても大変な精神状態といえばいいのかな____を経て今の環境があるのですね。私も今のダメな状況を乗り越えるために、できることを考えていこうと思います。パパイヤさんのコメントが読めなくなるのは残念です。どうぞお元気でお過ごしください。
yurinさん
妻を「浮気でラリっている未熟な人間」とみなして、そこから救い出すことを目指すのか。「自由意志で持って新しい自分の世界を切り開こうとしている一人の人間」とみなして、それを支えるのか。自分の中でも判断がぶれ続けています。
でも、この「救い出す」って視点が庇護しようと上段に立ってる(父性的な)んですよね。そして「支える」=「妻を失う」と感じてしまうのはAS的。
例のADHDっぽい友人は、離婚しても2人の新しい関係を作れば良いじゃん、とも言ってました。まさにyurinさんの言う「皆が楽しければ」かと。そう言う自由な発想がADHDの強みですよね。私には未だ馴染めませんので「私も楽しい」になるのは難しいかも知れません… それに、少なくとも我が子は今、辛い思いをしています。
友人の言った言葉は正確には「失敗する自由がある」でした。こっちの方が自由な感じがして良いです(^^)
失敗する自由ってのは、私にはインパクトのある言葉でしたよ。不必要な失敗をしないように、石橋を叩いて渡って来ましたから。決して渡らない訳じゃないですよ、一番安全な石橋を探すだけです。私からすると、妻は(ADHDは?)目に付いた石橋を調べも比較もせずに渡る印象です。それって、果たして自由なんだろうか…
そうは言っても根っから慎重すぎるようで近頃は上司に良く言われます、考える前に失敗しても良いからやってみろと。この上司もADHD的な印象が強いのですが、バンバン事を進められるので、そして的確な指導をしてくれるので、尊敬してます。
yurinさんへ
コメントありがとうございます。
私がはっきりしたことがあります。それは私は間違いなく「AC]であることです。いろいろなサイトも読んで、今更ながらまぎれも無い「AC]であることが分かりました。これだけでも今までの「不安」の理由が分かり霧が晴れてきたような思いです。
そこで「ASのAC]なのか「ADHDのAC]なのか?ですが、今回の記事で私が自分を「AS]と思いこんでいた可能性もあることもわかりました。「ASだと嫌だ」とか「ADHDだと嫌だ」ということもありません。
どちらかというとASに憧れでいる部分もありますし、ASにのめり込んで「サヴァン症候群」まで読み漁っていた位ですから。だから「夢の途中で起こされた」感覚だったのです。
子供時代のエピソードは正にAS的ですね。本当に大好きな枕でした。それにも理由があります。母が病弱で入院したことが関係しているようにも思います。父は仕事とゴルフで退職まで殆ど家にいませんでした。
親に愛された思い出があまりありません。叱られたことも、叩かれたことも、「勉強しなさい」と言われた覚えもありません。友達の親はちゃんと子供を見てました。そういう辺りが「寂しいな」と思っていました。私には反抗期もありませんでした。反抗する理由も無かったからです。
yurinさんは私と正反対の状況で育てられた方なのかなと想像します。
これから「過集中」と「先延ばし」と続くようなので、じっくり自分と向き合ってみたいと思います。
私も自由に失敗させろといってきました。こういう件では、ありとあらゆる言葉を尽くして主張してきました。自分がせっかくみつけた世界を守るために。
でも、私が自分の世界観を守ろうとすればするほど、夫も自分の世界への圧力を感じていたようです。私といると、自分が変質してしまうとよくいってましたから。夫は石橋をたたき割って渡らない/渡らせないことがよくあります。私も目に付いた石橋を調べないで渡って堕ちることがあります。でもそれでもいいんです。寄り道はかならず糧になります。
marioさんに書いていて、手応えの違いにがっかりしています。が、人間が違うからしょうがないですね。さっき物凄い喧嘩をやりました。喧嘩の度に、夫も自分が自由を奪ったり、理不尽なことを言っていたりと気付いて私に謝る。でも、夫も頭でわかっても次にも同じ間違いをしますから。夫も、私との生活をどうにかしようと思っていれば、一体自分が何をしているのか把握したかも知れません。
月の草さん
喧嘩できて羨ましい…ってのは隣の芝生ですか?(^^;
しかも夫さん、ちゃんと謝ってるじゃないですか。私もこれだけ分かっている風な事を書いてますが、実際に書いたように対応できるかどうか、分かったもんじゃありません。
寄り道が糧になるのは分かりますよ。でもちょっと見渡せば王道が見えてるのに、見渡しもせずに寄り道?やはりAS的には分かりにくいです。
marioさん
>妻を「浮気でラリっている未熟な人間」とみなして
なぜそんな二択になるのか引っ掛かっていたのですが、
これって、未熟な妻を救い出す(戻る)か救い出さない(支える)のかって一つの考えしかないからなんですね。
これなら「支える」=「妻を失う」と感じて当然ですね。
(支えると、妻の行動を無条件で支持するは違うと思いますが)
浮気でラリッてる未熟な人を、問題ないASの自分が助けるかどうかの命題のように読めます。
この命題の前提条件には、「妻が独立した一人の人間」という概念が無いように思えます。
独立した人間というのは、あなたのコントロール下に無いという事です(お願いする事によって共同で事を行える事もあるでしょうが)。
今の妻はこの状態ですが、marioさんは救い出す出さないのmarioさんの行動だけで決定できる二択と考えているところが現状と異なっていると思いますよ。
確かにmarioさんだけの行動で決めるなら、その二択とかになるでしょうが、実際の可能性はmarioさんと妻が共通理解を通じて決める、や、妻の選択だけで決まってしまうパターンもあるはずです。
marioさんへ続きです。
一緒にいられなくなった状態の原因は、妻とmarioさんそれぞれにあったと思うので、浮気は副産物でしかないと思いますよ。
(浮気が主原因なら、妻もすっぱり別れて相手と一緒になろうとするでしょう(妻の選択だけで決まるパターンです)、そうなってないようなので、浮気が主原因とは思えませんでした。原因が両方にあると考えるのは、夫婦や恋人なら結果は二人で引き起こすのが当たり前と私は思っているからです)。
marioさんも妻も既に一緒にいられなくなったという失敗する自由を通過して今になってます。
その失敗する自由を経験したmairoさんのメリットは、相手や自分をより理解できるように考える立場(きっかけ)を手に入れたことではないでしょうか。
妻も失敗する自由で何かを得るかもしれません。強引に怒って止めさせられる事でもないでしょう。と言うか失敗しないと気付けないから仕方がないのかなと思います。
元に戻すではなく、前とは違う関係を作る事を考えないと子供のためにはいけないんじゃないでしょうか。
(前に戻したら同じような事のくり返しになりそうですし、marioさんの想定している王道とは、一度失敗している王道ではないですか?)。
前とは違う関係は、別れるという事だけでなく、「妻はあなたの選択で行動が決めれない別存在」と認めて以前と違う認識での同居の復活でも選択肢としてあっていいんですよ。
妻がADHDなら、普通に生活をするのでも大変な努力をしているはずです。そういう状況もあるから浮気相手に支えて欲しいと動くこともあるでしょう(貴方に寄かかれない状況ですので)。なのに原因の片棒に「浮気でラリっている未熟な人間」視されたら、戻りたくないと思うのもありえると思います。
個人的には浮気は悪い事だと思っていますよ。
それとmarioさんの考え方でスムーズに事が運ぶかは別だと感じます。当事者でないので冷たい視点があるのはご容赦を。
王道が見えるねぇ。それほんとに王道なのー?単にmarioさんにとっての王道ってだけじゃなくて?(苦笑)。ASの人とはいっつも利害が一致しないのよね。仮にもしそれが普遍の王道だったとして、marioさんがその王道に気付くのは、倫理的にADHDよりも優れてるからなの(^^;?
▼私は(あるいはADHDは)その用意された王道を、注意欠陥の脳によって見落とすことがある。しかし、メインの王道には気付かなくても、まったく別の新しい王道を見つけることがある。
△夫は(あるいはmarioさんは)、特殊能力によって王道を容易に見分けられる。だが、その王道は単に古道でしかない場合もある。そして、新しい王道を認識できないことがある。
▼ADHDは、その特殊脳によってまるで無関係に見える物同士を結びつけて、新たな視点を紡ぐ。
△夫は(あるいはASは)その特殊脳によって、混乱した状況を分解整理し、正しい位置に再構築しなおすことができる。
—–二人が結合すれば、素晴らしいプロジェクトが動き出すはずだった、のになー。<我が家
〇さん
的確な指摘をありがとうございます。自分ではたどり着くことの難しい新しい視点を頂きました。何度読み返しても涙が出ます。涙が出る理由も自分で良く分かりませんが、行き詰まった現状の先に可能性を感じてるのかな。
yurinさんへ
>母親がADHDである場合、愛着から自分もADHDであると思い込む。つまり、母親と同じでないと愛されないといった間違った思い込みを・・・。
これは冷静に考えて私には当てはまりません。
母と同じにはなりたくありませんでした。
私の母はあまり「母親らしく」なかったです。
「病気」を理由に家事はお粗末でした。
その割りに、日中は毎日のようにお茶会です。
夜の流し洗いは子供の仕事で、「昨日、私やった!」「エッ?昨日は私でした!」と兄弟喧嘩が始まる・・。
「こんな家庭嫌だ」と思っていましたよ。
でも今になれば、子供に何もやらせないこともあまり良いことではないように思えます。私の子供が一人暮らしを始めるときに、「最悪な場合はホットケーキでも作って食べなさい」と言ったのですが、ホットケーキも焼けませんでした・・。子供に何もやらせなかったことも「罪」なことだったのかな、と思いました。そういうい意味では、母に感謝です。
HIKARIさんへ
コメントをお読みしながら、『ADHDの母親は子どもにさびしい思いをさせているのかな』と少し反省しました。
私自身、料理はレシピが複雑になると全く憶えられず、毎度同じようなメニューが食卓に並ぶか、それすらやる気が出ないとレトルトやスーパーの惣菜が登場してしまいます(^_^;)
こんな母親はきっと不満だろうな・・・と、『簡単レシピメニュー』の幅を広げようかな・・・などと考えはしますが、好きでないのでやる気はいま1つです。
ただ、母親のイメージは1つではないと思っています。
ADHDの母親なりの良さを表現する方法・・・なんて大袈裟な言い方ですが、それは、探せばきっとあると思っています。
だから、家事の苦手な、世の中の、ACとなっているADHDの女性達には、是非自信をもってくださいと言いたいです。家事ができないからダメ主婦=だから『自分ができないから何を言われても仕方ない』と、思いこむのはやめにしましょう。
家事ができないことは、それほど引け目に感じることではないのですよ。
yurinさんへ
>ADHDの母親は子供に寂しい思いをさせてるのかなと少し反省しました。
いえいえ、私の友達のADHDの方は料理が好きで、いつも試食させてくれますよ。
私の母は~体調もあったと思いますが、レパートリーが少なかったですよ。「またこれ?」みたいな・・。でも、体調が悪いながらも、作ってくれたんだなと、こうやって「吐き出すこと」で母に対する思いも少しずつ変化してきてます。
yurinさんと私の母の違いは、「子供と向き合っているか、いないか」の違いじゃないかな?過度に向き合い過ぎればACになりそうだし、ころあいが難しいですね。私の場合は~しつこいようですが、「もっと、私を見てほしかった」です。
「見てもらってる」という安心感があれば、料理なんてどうでも良かったのです。
mario様
私は、marioさんが、自分が有利、奥さんが不利になるように、つぎつぎと少しずつ論調を変えながら、妻の悪口と、自分がいかに子供を思っているかをアピール、しているなあと思いながら読むようになりました。もし対面して口頭で話されたら、気が付かない『ずれ』かもしれません。でも、コメントは残っていて、わかるまで読み返すことが出来ます。
こういう事態は普通に男女が別れるときに良くあることのように思えます。違いは夫が自分で自覚のあるASだというところです。
例えば月の草さんへのコメントですが
>>喧嘩できて羨ましい
!?
喧嘩にならないのは、奥さんがいくら喧嘩を売っても、marioさんが(買わないで)「”怒りを収める”」「謝って感情的に治まっても、結局何も解決しないし」 でしたよね?収めた怒りを妻に追求されるのがイヤだったのですよね?
今は喧嘩できる夫婦関係が羨ましいとお考えですか?
私は自分を再構築するためにここのブログを読んでいます。(はずです。)
しかしmarioさんと、yurinさんや月の草さん他の方々のやりとりが気になってしかたありません。>>私のカードで家財を買う、(中略)この辺り、ADHDの観点から何か説明できますか?←この時点での、やんばる先生の書いたことを全部読んでないのではと思えた、何をどう言って欲しいのかなと不思議に思った、質問以来です。読んで考えていると、私が私自身の問題を直視しなくて済みますし、なにか自分の問題に役に立ちそうな気もするし、で、口を挟みたくなります。
ALVEさんが書いていた「ASの袋小路」のなかにmarioさんはいるのかもしれません。
私は、中学で英語のmustという助動詞が、「~に違いない」という「強い仮定」と、「~すべきである、しなければならない」という「強制」の、両方の意味を表すのが、不思議でした。文脈から読み取るっていったって、と思っていました。
しかし、AS的発想ではこれでいいのですね。
私のAS傾向は言語理解には及んでいないようです…。
odaさん
確かに傍から見るとAS的な袋小路の中にいるかも知れません。ADHD的には変化がなくて辛いのかも知れませんし、私のAS袋小路に今度はyurinさんを巻き込んでいるかも知れないとも思って申し訳なく思っています。
でも私には必要な作業だと思っています。そとから見える変化は小さいかも知れませんが、自分の中では着実に認識が変化して行っています。
odaさんは何が問題ですか?私の事例は参考にしかなりません。ご自分の問題はそれ自身を直視した方が良くありませんか?
mario様
お返事ありがとうございました。連続投稿でしたし、marioさんについて書いてありますので、一続きに見えたかもしれませんが、二番目の投稿「私は自分を再構築~」の投稿は、一番目のmario様への質問の続きではありません。誤解を招くような投稿をお詫びいたします。
>odaさんは何が問題ですか?
>>私は自分を再構築するために
とコメントに書きました。
それ以上の事実や思いについて、不特定多数の方が読む掲示板には、まだ投稿する気がありません。
>私の事例は参考にしかなりません。
>>なにか自分の問題に役に立ちそうな気もするし、
とコメントに書きました。了解しております。
>ご自分の問題はそれ自身を直視した方が良くありませんか?
>>読んで考えていると、私が私自身の問題を直視しなくて済みますし、
とコメントに書きました。今はまだ直視するときではないと思っています。もう少しいろいろなものが必要なのです。>>そのためにここのブログを読んでいます。
marioさんへ
確かに伝えるすべに行き詰まってしまいましたが、私としては、伝えたいことほぼ全て伝え尽くしたので、あとはmarioさん自身がどうされるか、考えればいいのだと思っています。marioさんが幸せになれる術は、やはりご自身しか見つけることができませんから。
ただ、そのために助言が必要でしたら、これからも呼んでください。
僅かでも、私の思いが伝わったかなと、少々自己満足しております。
mario様(お返事は、して貰っても無視しても結構です)
追記
一番目の投稿は、「ASの躊躇」への投稿の続きになります。独立して読めてしまったことをお詫びします。
私は、ずれていくこと、変化していくことを非難しているのではありません。むしろ、変化していくのが当然と思っています。marioさんは、いつも質問形式のコメントを投稿して、自分がどう変化したらいいのかという助けを求め、たくさんの方からのコメントを貰い、そのつど理解し変化したような返事をしています。ところが、その次の質問形式のコメントになると、貰ったコメントとポイントがずれているうえに、「自分はいつも一番正しい」「自分はいつもしっかりした道を選択している」「自分にはぶれがない」と受け取れるような書き方をするので、せっかくの、たくさんの手を差し伸べた方々のコメントが、ゴミになってしまっていくように思えます。
それで、「ずれ」を取り出して、marioさんがいつもするように(そのほうが本人にもわかりやすいのかと思いました)、質問形式で尋ねました。
>ADHD的には変化がなくて辛いのかも知れませんし、
もしこれが私にあてた文だとしたら(奥さんのことでしたらすみません)、私はmarioさんがどうしようと辛いと思うことはありません。共感も同情もしていないからです。
私が気にしているのは、「marioさんと、yurinさんや月の草さん他の方々の『やりとり』」です。参考になると思います。
marioさんはやんばる先生から診断を受けた事項まで、未診断のような書き方のコメントをしていたことも理解しました。ということは、まだまだこのブログはmarioさん関連で埋まるのだなと思いました。
>odaさん
私は、自分の書いたコメントが相手にとって『ゴミ』になることも、自分が書いた意図以外に受け止められるのも、ある程度想定して書いています。言葉の受け止め方は人それぞれであるということは、一般的には、それが当たり前の了解にもなっていると私は思います。
あまりに『ズレ』が大きいときは、その都度言葉で修正してますけどね。でも、気にしてくださってありがとうございます。
ここで、こういうやりとりをするのも、相互理解という意味で私は悪くないと思っています。
をぉ!!marioさんピーンチ(笑! 私に追われる夫みたい(笑)
私はmarioさんの胸とYANBARU先生と皆さんの胸をお借りして、夫と私の関係、私の現実を客観的に整理したくて書いてきました。また、なんとなくmarioさんのぼうっとしたピュアさが私は好きだし、言葉の使い方、表現の仕方、癖などを注視すると、どうも私の夫と似ている感性を持っていると感じる。もし本質的に似ているタイプならば、こういうブログに出て発言すること事態marioさんにとって非常事態なんだと思うし、私としても一番気持ちを聞いてみたい相手。とても貴重な人種だと思ってコミットメントしてきました。その結果、日々コミットメントの実験みたいな感じで貴重な体験ができたことを有り難く思っています。
ところで、最近、夫の言動の矛盾を追求した時「誰でも身の危険を感じたら、自己防衛するんじゃないか」と、うつむきながら心情を吐露したことがありました。
それで、もしかしたら_____ASの男性は、自分の間違いを指摘されたり、急激な変化を求められたり、圧力を受けたりすると、自己防衛のために保身にまわったり、相手に若干の(あるいは全面的に)責任を転嫁してしまうらしいこと。これは、裏を返せば自分の失敗が許せないし、自分自身が失敗するなんて有り得ないんじゃないか、といことを意味しているように感じています。でも、ASの人は気の毒なくらい正直だし、ストイック。現実をねじ曲げてまで自分が正しいと保身に回ってしまうのには矛盾を感じています。そんなわけで理由がわかりませんので、いつかYANBARU先生にご教示いただけたらとても嬉しいのですが、、、、
一昨年、こういう現実を曲解して私を非難したり、あれこれするので我が家では混乱を極めました。あまりに矛盾するので、夫に「失敗する自分が許せないから、私に責任を転嫁するのか?」とぶつけた時には、ガーンという感じだったみたいで、急におとなしくなって「そうかもしれない…..」と認めたことがあり、落ち着きました。
私は、marioさんや奥さんが実際にはどんなパーソナリティを持っているのか知りません。ただ言えることは、私は子供の頃から良くも悪くも学年一目立っていたし、見た目も派手なので誰も私に逆らう人なんていないくらい、強烈なキャラで生きてきてるというキャリアがあるので(苦笑)、夫は年下というのも手伝って、結婚前から頻繁に徹夜の議論を繰り返してます。marioさんの奥さんはそんなに自己表現して来なかったのかもしれないし、marioさんも強烈なタイプじゃなさそうなので、あんまり喧嘩してこなかったのも本当だろうと感じます(また、私のようなのが世の中にいっぱいいたら、迷惑きわまりないとも思いますし)。
そうして、私の夫は自分の非を認めざるを得ないような殺気でもって一喝され、だんだんと根負けして、みたいな……あるいは、その反対で私が死ぬ思いをするというのもあります。我が家の場合、一方が一方の価値観や存在を認めてしまうと、相殺されてしまうというか。互いが成り立たなくなるようなところがあるので、若い頃に徹夜で議論していた時には、自分の存在価値を賭けた闘いみたいな、激しいものがありました。当時は自分が何になりたいのか、どんな職業につくのかわかっていませんでしたから。立ち位置の確認が事の他重要だったのです。その結果、お互いが全く異なる尺度と価値観を持ち、その上に立って生きているのだ、これからは助け合おう、みたいな合意を得てスタートしました。その後、だんだんとその合意が緩んだのは、夫は仕事のストレスで脅迫行動がコントロールできないレベルになったり、私が義務を怠ったり、と、いろいろなことで関係が変質しのかもしれないなぁ、と、このごろ感じてます。
そんなわけで、、、なかなか本題についていけずに、余談ばっかり追求してるのろまな月の草ですが、今後とも宜しくお願いします(^^;
すみません、、さっきはとても急いでいたので、肝心なことを書き忘れてしまいました(^^; なんで一回で終わらないのか<わたし やっぱり急ぎ働きはダメですね
さっきの話は、marioさんの現実がそうである、っていう話じゃなくて、こういう可能性もあるかも、っていう話です。実際には、marioさんの現実がどのようなものかはmarioさんにしかわからないものですしー。
それから、先日の王道の話は、どちらかというとASの人が選ぶ道はつまんないなー、みたいな話になってしまいましたが、付け加えると、バランスの取れたものを好むか、アンバランスを好むかみたいなところとか、そういう脳が選択する嗜好の違いの話とかがあるのではないか、と私は考えてます。それは単に、夫と私の個性の違いだと、長年思ってきたのですが、ここにきて本質的な脳の違いがあるのかもしれない、と、面白く感じています。
もっといえば、Aが100あるのを100%とするのか、Xが100あるのが100%と考えるのか、などなど。数学ができないくせにこんなたとえ話は間違ってるかもしれないけど、、危ういぞ<月の草
それでは失礼しました。
ピーンチ!本当にASに追い詰められるADHDみたいな気分です。いや、茶化して頂いて、ちょっと救われました(^^) > 月の草さん
odaさん
書いてきた事をそう厳密に捉えて“責められる”と居場所がなくなります。odaさんがASかどうか分かりませんが、ASってこう言う感じで他者を追い詰めるのかなぁと思ったりしました。多分そうではないと思うのですが、何と言うか、悪意を感じてしまいます(^^;
私は自分自身やADHDの方、そしてASとADHDの関係を理解したくて、懸命に自分をさらけ出して(本来はとても苦手な事です)、ちょっと書き過ぎだと思いながらも書き込みを続けています。結果として、元の記事と若干無関係な内容でコメントが続いてしまうのも、ASの袋小路に辛い思いをする方が生じてしまうのも、とても申し訳なく思っています。
傍からみると袋小路かも知れませんが、私はちゃんと(少しずつかも知れませんが)変わり続けていますよ。
odaさんが、そのやりとりを参考にされるのは自由ですが、私の矛盾や枝葉末節に突っ込みを入れられてもちょっと困ります。もっと深い理解が欲しいのであれば、ご自分の事を書いて、ご自分がやり取りをして頂けると良いかと思います。
王道の話…
何と言うかAS者は無駄足が嫌いなような気がします。着実に一歩一歩登りたい。大体はそれで上手く行くけど、確かに新しい発見も少ないし、気が付くと隣の低い山に登ってしまったりする。
ADHDの方は、登らないといけないはずなのに「こっちにも道があるよ」と下って行ってしまう。「おいおい」と思ってると「違ってたー」と戻ってくる(戻って来ないかも)。無駄足が多いんだけど、発見も多いし、高い山に登る新しい道を見つけることもある。
前にも書いたけど、(ADHDの感覚を体験するため)深く考えずに(失礼)とりあえず行動してみるってのを実践してみてたりします。それが楽だったり楽しかったりする事もあるし、新しい発見もあるけど、苦しい思いをする事もあります。自分の持たないキャラクターを試すのも楽じゃありません。
私も口を挟んだのは、marioさんと他の方とのやりとりを見てじっとしていられなくなったからです。(コメントを書くまでに至るのが面倒なので意識からずれてそのまましないままが多いのです。)
marioさんは、先生の言うASとしての行動に当てはまって判り易い、ASゆえにこうなるのだろうと悪意を感じる事はなかったです。自分の中にあるであろう典型的なASのパターンを知るいい参考になっています。
逆に、月の草さんは何なのか判り難いので、ある程度の思い込みでズバッと言う様子に、なぜこの人はこうも強気で決め付けれるのだろうかと引っ掛かっていました。そういう部分がASっぽいと受け取られたんでしょうが、最初から感じたハイテンションぽさはADHDに近いと思ってました。ASよりはAS被影響症候群なのかなあと、あるいはもっと違う何か。
面倒くさがりの私には、自分も大変な状況なのに次々にコメントをつけていくその集中力に凄いとしか言いようがないです。
王道の話を山登りに喩えると
多数派 上に続く道の方がよさそうだと勘を働かせて進む。
AS者 多数派と同じ理論を使うこともあるが、自分内のこだわりで「分かれ道は右に進む」のように他から理解されないルールを唱えて進もうとする。
ADHD者 「分かれ道は右に進む」のルールは違うとは感じる。とりあえずどっちも少し進んで様子をみるけどわからずに、最後は根拠のない勘で行くほうを決める。もしくはいきなり勘。中には木に登って遠くまで道を確認する事に成功して進みだす人もいる。へたすると道無きところを進むかもしれない。
『ADHD』の私。
結局自分のことでない、他人のこと。だからその人が決めるべき問題。私は、伝えたいことだけ伝えれば、あとはその人が好きなように、私のメッセージを受け止めるなり、あるいは、無用ならば捨てられても構わない。
・・・もう、おそらく本物のADHDにやっと辿りついたかな。だから、私からすれば自分以外の他人のことなら、誰が何であろうが『どうでもいい』事。・・・ただ、自分のことなら、できるかぎり正確に認識するべきだ、というのは変わりませんが。
ADHDのAC当時を振り返ってみました。詳しくはブログに書いたのでここでは省きます・・・まあ、みんなが同じ経過を辿るとは限りませんが、興味のある人は参考までに。
http://plaza.rakuten.co.jp/tubuyakiadhd071/diary/200703030001/
なんとなく・・・ですが、○さんとodaさんは発達障害でないような感じです。あくまで私の印象です。
なぜかというと、私から見ると発達障害の人は、ADHDでもASでも、どこかいびつでバランスが悪いという印象というか、そういう感覚が、文章からも伺えるんです。でもお二人の文章からそのような印象があんまり無い。すくなくともこのスレッドで見る限りは。
ASの人は常に、自分の立場からだけでコメントしている、という感じ。
ADHDは・・・うーん、人によって違うし、二次障害があるとまた違うんですが、『一見多数派っぽいけれど、場の捉え方や受け止め方が自分流』。これは、状況把握が常に自分流、直感で捉えているせいかな。
多数派の人はバランスがいいという印象。適度に自分流で適度に、自分の立場と相手の立場の距離を取りながら状況把握ができる。・・・そんな感じ。
人のことはどうでもいい、なんて書いておきながら、『この人はどんな人?』を探るのは個人的に好きなので。
人を見るのは、面白いし楽しいです。私は人間関係は不器用なので、付き合いそのものは苦手なんですが、遠くから見ているのは好きです。気まぐれなので、人とは適度な距離感(私の場合はかなり遠い)があるほうが気楽でいいです・・・今のところは。
再び投稿失礼します。
ADHDは基本的に衝動的なので、場の状況もあまり考えず、自分の思いついたことをパッと言葉にする傾向が大なので、コメントの書き方にもそれが出ていると思います。
まあ、ADHDだからASだから・・・という表現は、あまり好ましく感じられないこともありますが、やはり同じグループは根本的に、似たような行動パターン、表現になっていると私は思います。
自分をどう認識するかは、自分が決めればいいのかもしれません。ただ、『診断』となると話は別です。
私は医師でも心理士でもありません。印象として意見を書くことはありますが、あくまで私個人の『印象』なので、無視ということであれば無視でも全くかまいません。
このような自分を、第三者がどのように捉えられるかは、今となっては『どうでもいい話』になりました。
何故なら、第三者が捉えた私は、第三者の視点での私でしかない。その自分像と、自分が知り、認識する自分ではないからです。
今回、知らず知らずのうちに過集中入っていました。余裕がなかったというか。もっとゆとりを持ったペースで行けば良かったかもです。・・・気付かせてくださってありがとうございます>odaさん。
yurinさんに「発達障害でないような感じです」と言われて一瞬だけ嬉しかったです。普通の人に言われたら自分を否定されたように感じるんですけどね。
発達障害の人は文章ではまともそうに見えても、あってみたらってのもあると思いますよ。
重度のADHD的でもなければ、ADD系が入るので典型的なASでも、私は無いんでしょう。
私にとってはメアドを書き込む必要のあるココは衝動のままにコメントを出来ない場所です。何かをしようとする時にまずそれに使う道具を探すというめんどくささを感じて先延ばしするのと同じ効果が私にはあって(メアドを記憶していないから)、ADDの部分の衝動性が発揮されにくくくなっています。
>人のことはどうでもいい(中略)・・今のところは。
この感覚90%わかります。
医者にアスペの傾向を指摘された後も、自己認識が私は基本ADDと確信的に思ったのも、ここの多数のコメントを見ていって、やはりADD系の思考パターンが馴染むからで、勝手に同種意識をもっています。
思いついたままに書くと1000文字制限越える(苦笑)
ASに似たADHD②ADHDのACがこのコメント群の最初だったので、自分のAC部分を
>「世間から置いてきぼりにされる不安」
世間がよくわからない私は、わりと早めに世間にあわせるのを放棄(追いつきそうもなかったし何すればいいかもわからない)しましたから、異常に回りに気を使う事もできませんでした。なので、先生の言うADHDのACは自分にイマイチ当てはまらないと思ってました。
共働きの親(父としての存在感のない子供のような父としっかり者の頑張り屋の夜明け前から働きに出る母)の元で、自分的に満足に愛をもらえなかった事による意識できない不満とともに、人に迷惑をかけるなぐらいは言われて育てられ、一応できるだけいい子でいたかった部分があり(でも生活習慣が身につかない片付けられない物忘れしやすいだった、余りまわりに意識を向けないまま育ち)、小学校では大人しめで、嫌われたり苛められたりする感じで、ACの生育歴にあるような派手な出来事もないのに、AC的になってる自分に、最初にACの本を読んだ頃は何故こうも当てはまるのか?と過度に自分が落ち込みやすい人で問題だと感じていました。
発達障害の傾向とかを詳しく知るようになってから、AC系の本を読見直すと、ここはAS的な考え方だからADD的なのだからAC関係なしに元々の素養だろうと、それなりに原因を振り分けて、身の丈にあったAC部分を見つけられそうです。
(荷物を小分けにして、一部を置いて後回しにして、抱えてる荷物が楽になった感じ)
これが先生の言う「気付くだけで劇的に回復する」と言う傾向なのかな。
読み返してみると、先日は特に断定的な文章になっていてお恥ずかしいですね。例としてあげたお話は、どれも夫の確認が取れてる心情なので、それが出たのかもしれません。普段、自分は固定化されたイメージで捉えられるのが嫌なので、注意しているつもりなのにできていないときもあっていけません。こうやって書いていくと、不注意が顕著に出るようです。また、正確に像を掴みたいと願っても結局ブレ続け、いつまでも掴まえられない場合も多いです。私はAS夫との関係を今すぐにでも整理したかったので、ASのモデル(鏡?)のようなmario さんの像をできるだけ正確に捉まえたくて、この頃は必死でした。
marioさん:
なんとなく寂しそうですね。それは言いかえると“一緒に同じ道を歩みたい”という気持ちもあるんでしょうか?
15年程前、夫と私は「互いに歩いている道はクロスすることはあっても、ずっと平行線だね」と、私たちは互いに見ているものが全然違うということを確認し合ったことがあったのを思い出しました。結婚後の関係の変質と混乱の理由がわからなかった(はじめはマイノリティ問題のようだと思ってました)のですが、子供ができてさらに目茶苦茶になってきて。先生の提言を読みながら、marioさんや皆さんとこの場でお話できて、自分が悩んでいることが何かを洗い出せた感じで幾分ほっとしています。一段落した所で考えれば、yurinさんはじめ皆さんの私への指摘も、自分を相対的に捉える上で参考になってきています(いつでも一点集中型なので、他の事は削ぎたかったんだと思います。ご迷惑おかけしてしまいました。)
本来は、自分のADHDについて考えてから、AS夫とのことを考えるようにと先生にご指導いただいていたのに、順序が逆になってしまいました。
〇さんへ
>荷物を小分けにして、一部を置いて後回しにして、抱える荷物が楽になった感じ
これ、分かります。
今、これです。
ACを読んで、私も少し軽くなりました。
ASとACの思考傾向が似ていることに惑わされていますが、たくさんの問題点からACの部分を引くと残る問題点はなんだろう?と自分の根本の問題点を見つめ直しています。
「劇的に回復する」という言葉に弱い私です・・。
自分の根底にあるものは・・先生に記事は勿論のこと、皆さんのコメントを読みながら非常に参考になります。
また迷い始めています。
>発達障害の人は文章ではまともそうに見えても、あってみたらってのもあると思いますよ。
私もちょっと想像してました。このメンバーで顔合わせしたら、どんなことになるんだろう~って。(^^;)
>○さんへ
確かに文章の印象から言うのは軽率なのかもしれません。
私が『発達障害でないようだ』と書いたのは、文章がまともとか、そうでないかということではなくて、そのまま『感触、感覚』が発達障害らしさを感じない、ということで、イコール発達障害ではない、と言ったわけではありません。
もしも、はっきりさせたい、とお考えであれば、先生のホームページから自己診断ガイド等お読みになって、メール相談をされてはいかがでしょうか。
・・・・
ただ、私が最近思い出したことがありましたので、書きますね。
『自閉症スペクトラム』という言葉があるんですが、スペクトラム=虹、という意味です。
私がはじめて知った発達障害は自閉症です。この自閉症という障害は『スペクトラム(虹』)のように例えた考えです。
たとえばアスペルガー症候群は、一見してあまり自閉症とわかりにくい自閉症であると言われます。言葉の遅れは伴わない、知的な発達も正常。一見『ちょっと理屈っぽい、気難しいだけの人』という印象を与える人達のグループ。そうではなく、知的な遅れがあり、大人になっても言葉が話せない自閉症の人もいる。これら全く違うように見える人達は実は『自閉症スペクトラム』という、同じ三つ組みの障害をもつ同じ障害のグループと捉える、という考え方です。
こうして考えていくと、たとえば、『自閉症スペクトラム』の、スペクトラムの中にいても、限りなく多数派の人に近いグループにいる人はいるのかもしれません。もちろん、これは私の勝手な想像でしかないのですが、脳の働きの少数派のグループでも、かぎりなく多数派に近い存在っていうのが、あるような気もしています。
つまり『ここからが多数派』『ここからが発達障害』の境目は、はっきりした線ではなく、ぼんやりしたグラデーションなのではないかなと考えたりもしています。
・・・・もしも私が専門家なら、診断のアドバイスをして差し上げるのですが、それだけはできませんので、詳しく知りたいのであれば、専門家のアドバイスを受けられることをおすすめします。
月の草さんへ
ADHDのACという状態は『ある意味境界例にも似ている』と先生が書かれている通り、まさにそんな印象を受けますね。
かつて自分もそうでしたが、自分の認識としてはADHDでしたが、周囲から見たら決してそうは見えなかったのかもしれません。
まだ近い存在、でもかつてADHDのACであった自分の姿はこうだったのだと、今改めて痛感しています。
私は、marioさんに悪意をもってこのブログにコメントしたと受け取られました。私は悪意はありません。人との交流に問題がある同類として理解と哀れみがあります。ひと月に8万件もアクセスがあるこのブログで、妻と同居するにはどうすればいいか、助けを求めたのはご自分ですよ。
そもそも、私がしたのは簡単な質問でした。
(以前と違って)>>今は喧嘩できる夫婦関係が羨ましいとお考えですか?
この質問に答えず、無視したうえで、矛盾を突くな、と。自分にも感情がある、揺れがあるといいながら、感情を許容し、認めるのは嫌なことが良くわかります。怒ったという感情の吐露も嫌だとはいえ、>茶化してもらって救われた、とか、‘悪意を感じた’の次に困惑の顔文字、とか、真摯でない答えは、願い下げです。
そして、責めるな、とは、本当にmarioさんは助けを求めているのか、疑わしくなりました。
>もっと深い理解が欲しいのであれば、ご自分の事を書いて、ご自分がやり取りをして頂けると良いかと思います。
前にも答えましたように、私はいまのところ私の事をここで書くつもりはありません。
まして、やんばる先生のブログに「自分がメールで相談した、やんばる先生の妻への診断が信じられなかったから、」当事者のみなさんの意見が聞きたかった、と書きこめる、俺様なままの人から薦められたくありません。
そして、もっと深い理解ができるとどうして言いきれるのでしょう。他人に相談した方がいいときも、自分自身で直視するのがいいときも、ひとのふりみてわがふりなおせ、が、いいときも、あると思います。
>前にも書いたけど、(ADHDの感覚を体験するため)深く考えずに(失礼)とりあえず行動してみるってのを実践してみてたりします。
もし、逆に、奥さんがASのふりをしたら、ASの癖が理解してもらえると思うのでしょうか。
(続き)
パソコン通信の時代から、手紙と違い、”瞬時に”できる文字だけのやりとりは、誤解や怒りを生みやすい事はご存知でしょう。言葉のもつ意味は、ひとりひとり違います。例えば、山、と言われた時に思い浮かべる山は人によって異なります。悠長におしゃべりをしていていいなら、摺り合わせしなくてもそのうち理解が進むでしょう。しかし、お互い人との交流能力に問題がある者どうしでは、言葉の摺り合せをしないで、どうやって相互理解が進むのでしょう。
質問の答えは、無視したことから察するに、たぶん、こんな感じでしょうか。「あの時は羨ましいと思いました。しかし、今はやはり喧嘩は無駄と思います。でも、喧嘩できるようにすればよかったかもしれないと思うときもあります」
ふたつの感情が同時にあるのはそんなに恥ずべきことですか。
>自分の持たないキャラクターを試すのも楽じゃありません。
もし、奥さんが戻ったら、こう言われそうですね。「俺はこんなに苦労してお前のことを理解した。許した。お前も、俺がASだからとってしまう行動を理解しろ。俺が悪いんじゃない。ASのパターンを考えろ。」
odaさん
私には自分の意思でコミュニケーションを取る相手も方法も選ぶ自由があります。あなたが今言っている質問や方法は私には馴染まないので、それに関しては今後無視させてもらいたいと思います。
また出来ましたら、あなたの想像だけで私の答えや今後の行動を勝手に書かないで下さい。それは迷惑です。また、それらに反応しないからと言って、それに同意したとも思わないで下さい。
よろしくお願い致します。
odaさんのコメントを読みながら、自分も同じような気持ちが多少なりともあったよな、と思いました。
詳しくは省略しますが、私は、その気持ちを若干『痛いな』と感じましたが『まぁ、その人の人生なんだから、最終的にその人が決めることだから』ということで丸めてしまいました。実際私は呼ばれればいつでも応えることはできるし、呼ばれなかったら呼ばれなかったでそれでいいや、と。
だけど、もしもmarioさんに
「俺はこんなに苦労してお前のことを理解した。許した。お前も、俺がASだからとってしまう行動を理解しろ。俺が悪いんじゃない。ASのパターンを考えろ。」
・・・というような気持ちが僅かでもあるなら、思いきって離婚を受け入れ、お子さんのこともはっきりさせたほうが良いと私は思います。
もしも私が同じ状況で、このような気持ちで夫から『戻ってこい』と言われても、やはり戻れませんから。
odaさんの言葉を借りてしまいましたが、私もこの件に関わった者として、やはり奥様もmarioさんも、幸せになってほしいと願っています。
marioさ~ん。
どうか、感情的にならないでください。odaさんが何を伝えようとしているのか?・・・それをきちんと受け止めようとしていますか?
身を引くような宣言をしておきながら、済みません、余計な口を挟んでいます。
うー、marioさんらしいコメント。私書くの遅いなぁ。。marioさんがそう解決されているのに、私などが何かいうこともないのですが…….
odaさん:私は一ヶ月程まえ、marioさんにとても興味を持って対話をしはじめました。
AS被影響症候群:
written by mario / 2007.01.27 02:35:
marioさんはこのスレッドで「ここで夫への不満を述べても不毛なだけ、前向きに考えませんか?」と、私の態度は不毛と批判・否定し、前向きに考えていないと断じています。その後、私が今後するべきことについて、細かな指示を出されています。
なんというか、するりと逃げられたというか、壁を感じて棒立ちでした(苦笑)。私はYANBARU先生のブログは開設された直後から読んでますし、HPの方もくまなく読んでます。前向きでないならここへは来ない。でもそんなこと、marioさんは知る由もない。私の関わり方は、今思えばちょっと不注意で自己満足的でした(^^; とにかく私も日常に疲れてたし、不器用な関わりをしてしまったのだと思います。
で、marioさんは私からの圧力を感じたかなにかして、私との関わりを拒否したい?___何かのメッセージを受け取りはしましたが、何かわかりませんでした。後で別スレッドで聞くと、この時に言いたかったことは「自分はあなたの夫とは違う」だったそうです(どーこにもそんなこと書いてない(笑)。本物のメッセージは深く沈んで覆い隠されているみたいな感じ?)
私はその時、カウンターパンチを食らって脳震とうを起こし、言葉がうまく継げず、理屈に合わないことを言ってます(苦笑)。その後「どうして私が前向きでないと考えたの?」「それはあなたにとっての完璧な方法であって、私にとってそれは最善かどうかわからないのでは?」などと話しを続け、なぜいきなり批判・否定して、自分の考えた解決方法が相手にとっても最も良い事のように教育的な指導をしてしまうのか。理不尽な対話やいびつな関係が、無自覚なまま起きてしまう理由をゆっくり考えて、お互いの理解の糸口を見つける機会をいつか作れたらいいな、と思ってきました。でも、冷静に話すうまい方法がみつからなくて、とても言い出すことはできませんでした(こんな形で表すことになろうとは)。
(続きです)marioさんと夫は別人なので、これは良い考え方とはいえませんが_____うちのAS夫は顔馴染みの相手とは落ち着いて会話をしますが、慣れるまではほとんどまともに会話ができないようです(本人が言うには、相手の行動に関するデータが不足していて・発言の真意を汲むこと、次の発言、行動パターンが読めずにとても不安になるんだそうです)。その上、妻によって窮地に立たされると、内容は全く耳に入らなくなり、威圧的で攻撃的になったり、理論武装したり、つじつまの合わないことをいいはじめて混乱を極めます。はじめは、なんて愚かな___と思いましたが、最近は単に動揺してるように見えることもしばしばです(目が泳ぎまくってるし)。
marioさんも、もしASの夫と同じパターンをいくらかでも持つ人なら、ゆっくり信頼関係を築く努力をしながら話しをしていけば、いろいろ貴重な対話ができるかもしれないと思って、私は場当たり行動をいくぶん改めました。夫は会話が苦手で、心にある気持ちを言葉に置き換えるのにはものすごく時間がかかるので(3時間私が質問して、1語くらいの返事)、marioさんからも聞いてみたかったというか(^^;
他の皆さんとは既に馴染んでおられましたし、私にもだんだんに打ち解けて(馴染んで?)くださったのか、ニュートラルな感覚で対話を進めることができたような気がします。
で、はじめて対話した時のことを考えると、marioさんが威圧的で強く振る舞ってる時は、実はけっこう受け止め切れなくて参っているということは、考えられないでしょうか…….責められるだけの理由があったとしても、実際にそれをされると、とても辛い時がありますし<私
私はodaさんの疑問については、そういう可能性もあると思うし、違う可能性もあると思う。でも、今すぐに答えが出なくてもいいのではありませんか?時間が経つと、飲み込めることと飲み込めないことがはっきりすることもありますし。どれが真実か、自分でも冷静に見られない時がありますよね。答えを急ぐと、正確な像をつかみ損ねるというようなことを、先生も仰ってたように思いますし。そしてそれは、生意気なようですけど、、marioさんが誰かに宣言するようなことではないし、ご自身の中で答えを出せばいいことだと私は思います。
odaさんへ
横から失礼します。悪気はないのかもしれませんが、熱くなって言葉が多くなりすぎている気がします。
言葉のすり合わせをしたいなら、その言葉だけを付加をつけずにした方が伝わり易いんじゃないでしょうか。
引っ掛かるところが多すぎてASの人は答えづらいと思います。
あれ?
yurinさん、月の草さん、私は何か読み違えてますか?odaさんのコメントを深く読んで、ちゃんと反応した方が良いですか?私には、odaさんの書き込みは不毛な揚げ足取りに見えているのですが…
もう一度読み返してみて、どうしたら良いか考えてみますが、明日から出張など仕事が忙しくなりますので、どちらにせよしばらく読み返したり、反応したりできないかと思います。済みません。
yurinさん
誤解して理解してないから大丈夫ですよ。「文字通り」受け取りしてます。
それで私は発達障害と認識してるので、その見え方はこういうせいじゃないかなと書いたんです。
私に対してはyurinさんから見て何々に見えると書いてもらって大丈夫ですので、それを拒否しているわけではありません。
文章と実際の元ネタはアスペ(自閉)系の本にあったエピソードです。
それで、私、「専門家のアドバイスを受けられることをおすすめします」とか「相談をされてはいかがでしょうか。」とかの、先回りの心配されるようなほどの雰囲気を出していたでしょうか?教えて下さい。
そんなつもりもなかったので、マクドナルドでポテトもついでにいかがですかと言われた時のような、引っ掛かりを感じました。
marioさん、yurinさん、月の草さん、○さん、コメントありがとうございました。いろいろ聞けて嬉しいです。自己紹介で書きましたが、私は自己診断ADHD、でもASの部分もある、です。悲鳴をあげている人がいたら当然助けたいと思います。
私はALIVEさんの身を削るような下記のコメントが好きです。直接関りあっている方ならばもう自明のことなのでしょうが、引用します。そして、私はしばらく投稿はつつしみます。
>AS当事者からしてみると、本人の認知がゆがんでいるかどうかは、他者から指摘されない限り、本人はまったくわからないという点は、心に留めておいてください。(中略)一つ一つの行為、思考に対して具体的な指摘を、何度も何度も繰り返し説明し、納得させない限り、どの部分がどのようにゆがんでいるかを、AS本人が理解することは困難です。
odaさんへ
私はALIVEさんとは直接関わっていませんが、私もALIVEさんのコメントが好きでした。
引用されたコメントも、私も印象に残っているものです。
私は正直に言うと、marioさんと月の草さんのやりとりをあまり快く感じていませんでした。悪い、と言ってるわけではないんです。なんというか、月の草さんは自分はADHDだと主張するわりに、ASの人を良く理解してるように私には見えた。それをASのmarioさんからすれば『ADHDでもここまで話せる(=理解に積極的な)人がいることに希望を持ってしまうんだろうなぁ』、とため息交じりな気持ちでした。
私がここのところのやりとりでわかったことは『ASとADHDが共存するためには、双方どちらかが、大切にしているものを捨てるくらいの覚悟が必要』ということです。ASを理解するだけなら簡単なんです。ただ、1歩でも同調すれば、ADHDはADHDらしくいられなくなってしまうくらいの、覚悟が要るという現実。また逆も然りだと思います。まぁ実際は双方のキャラクターもあって、かなり譲れるADHDもいるだろうと思いますが、最初から相手にそれを期待しないほうが無難ということです。
>>続く
・・・・
>>続きです
>○さんへ
私は専門家じゃないから、診断のアドバイスはできない、という意味合いで『専門家のアドバイスを云々』という発言になった、というだけです。引っ掛かるほどの深い意味はないです。
>odaさんへ
あなたが思いきって・・・おそらくかなり思いきってここに書きこみされたのではないかと想像しています。そのあなたの心意気に、私は好感を持ちました。
そして私の本当の気持ちに気付かせてくれました。とてもありがたく思っています。
・・・・
私自身、AS夫と今冷戦中です。会話もなくすっかり冷めきった夫婦やっています。
思えば、夫と一緒になってからかなりの部分、夫に同調してきた反動なのか、はたまたまるまるADHDに戻ったせいか、すっかりずぼらになってしまいました(^_^;)
ずぼらになっただけならまだしも、夫に従おうという気持ちまで無くなりました。今、心だけはとても自由になりました。
YANBARU先生からアドバイスいただいた『夫との手紙のやりとり』の件ですが、すっかり先延ばししてます。ただ、この冷戦状態において、やはり、どちらの方向へ進むにしろ、やっぱりきちんと意思を伝えることは、するべきだと考えています。
・・・これから先、書いたらかなり長くなりましたし、また、メール相談の内容ですので、やはりメールで送ることにします。
odaさん:
なるほどねー、そういう視点に立っておられてのことだったんですね。ALIVEさはんはそういうことを仰っておられましたねぇ。もうずいぶん前ですが、私は夫に「(何が不愉快だったかを)“言わなきゃわかんないようなバカには、言ってもわからん”(怒)」と突っぱねた時「…..言ってもらわないと、ほんとうにわからない」と、泣きそうになってるのでびっくりしたことがありました(苦笑)(こういうところがASっぽいのかもしれませんね<私)
——-
marioさん、私がodaさんの話しを聞いた方がいいといったら聞くの?(笑)___私は、問題の内容について一緒に考えることは好きだけど、こういう大事なことでは、私はこれこれこうした方がいいなんてmarioさんにも誰にも言いたくないし、聞かれてもできれば答えたくない(思い余ってわたしなら○○する、ということは時々言うんだけど、あくまでも一つの例)。それはmarioさんがどうするか考えることで、私の考えることじゃないから。
ところで、こodaさんは実際に会ってみたら、真面目で義理堅く、情に厚くて一本気。他人の子を本気で叱責できる今どき貴重な人な、とってもいい人なんじゃないかという印象を持ちました。コミュニケーション障害というけれど、個人的にはodaさんのお人柄を垣間見られたようで嬉しいです。
odaさん:
話が少し戻ってしまうけれど、私もパソ通時代から書いてます。でも、当時は子供だったから見てるだけだったかな。パソ通時代に既におっさんだった(謎)ということは、きっとodaさんは私よりずっと年上(?)ですね。
WEB時代に入ってからは、特にセンシティブな問題を扱うサイト等は実名での投稿を求めたり、文責についてうるさく言ったりしていたこともありましたね。お互い一つ一つの言葉を大切にし、真意を汲む努力をし、一つのテーマについて真剣に向き合うことをしていこうという流れがあったと思います。みんなが過集中だった(笑)。それが普通で、そういうモチベーションが要求されていたと思う。
一つのテーマを皆で一緒に追及し、相互理解を進めながら何か結論を出していく。私もこれをすると自分の世界が確実に広がるから好き。でも、WEBの中で流れている時間は現実の世界のものよりずっと早くて、特殊脳じゃなくてもエキサイトしていくというか(エキサイトしてたのはみんな特殊脳?(苦笑)。それで、私は大筋での理解や合意が得られればいいと思ってきました。一つが反転すれば、芋づる式にパタパタと考えを改めなければならなくなる、ということに期待してます(ただ、ASの場合、古い思考パターンに支配され続けることもあるかもしれないけれど)。
marioさんが、なんらかの支配を奥さんに行っていたことに気付かれたこと。これはとても大きいことだと私は感じていて、私のわずかな労には十分に酬いて下さっていると思っています。これからは、きっとmarioさんの中で色々なことが修正されていくに違いないと、私は信じてます(^^)
読み返してみましたが、何が問題になっているのか分かりませんでした。odaさんが何を伝えようとしているのかも分かりません。私には分からないのに、他の皆さんが共通認識を持っているようで正直焦ってます。
odaさん、真摯で無い答え方をした事を謝ります。私にはあなたの行動が何らかの脅迫行動として映りましたので、相手をしないことを目的にしてました。
未だ何をどうしたら良いのか分かりませんが、最初の質問「今は喧嘩できる夫婦関係が羨ましいとお考えですか?」についてお答えしてみます。
妻の仕掛ける喧嘩は感情的なものだと感じてたので、真剣に対応できてなかったと今は思っています。翌日にはカラッと機嫌良く、引き摺る感情も感じませんでしたので。喧嘩の内容は主に「評価されていない」といった事だった気がしますが、そして自分としては「評価している」と思っていましたが、今ではAS的な評価ではダメなんだろう(足りないんだろう)なと思います。
それとは別に、最近妻から聞きだした不満は「何も自分の自由にならない」って事で、これはASの支配による結果ですね。私は自由にさせていると思ってましたが、今ではASの支配の意味が分かります。これは希望を言って欲しかったし喧嘩もしたかった。喧嘩でなくても、ちゃんと希望を強く言ってもらえれば… いや、私の意見が強かったのが理由ですから、それでも難しいのかな?
喧嘩は今でも苦手です。それでも別居するよりは、喧嘩をしてでもちゃんと意見の交換をしたかった。今なら、喧嘩であっても有益なやり取りが出来るんじゃないかと思ったりもしていますが、どうでしょう。現実問題として上手く意見の交換が出来るかどうかは自信がありませんが。
odaさん:
marioさんから、odaさんが伝えようとしていることがわからないから教えて欲しいと連絡がありました。色々考え合わせると、odaさんの仰るご心配の方が的を射ていると思い当たりました。marioさん(AS)は、今皆さんがいろんな形で言葉を尽くしている時に軌道を修正できなければ、ずっと元のままかもしれませんね。
marioさん:
○さんとodaさんとくろ猫さんが、丁寧にmarioさんの奥さんに対する関わりの歪みを指摘されていると思います(どうして私たちは、marioさんにこんなに一生懸命になってしまうんでしょう)。
ところで marioさんは、先述の職場のパワフルで機知に富んだ女性が相手なら、その方のパーソナリティを表現する時には、その方の尊厳を考えながら言葉を選びますよね?
たとえば「浮気でラリっている未熟な人間」という表現からは奥様への軽蔑を感じるし、彼女の存在を軽視しているとしか思えない(今そう言いたくなるのはわかりますが、ぽろりとそういう表現が出るということは元々大切な相手と思ってないように見えますよ?)。
話が飛びますが、私は先生が「ASは悪人ではない」と去年の夏に書かれた時、それを読んで全く受け入れられませんでした。悪意は無くても、そこに悪があることは確かなんじゃないか等々。今 marioさんを見ていれば、ただ何が悪かわからないだけのように見えるわけですが……
AS夫から評価されない時がどんな時か考えると=人権が尊重されていないという状態だと思います。どんな風に人権が尊重されていないかを端的に説明する力は私には無いのですが。
marioさんの奥さんは文句を言った翌日にはケロっとしていたのですね(うちと反対?)。私は夫に、いつも問題を矮小化されて、翌日には何事も無かったかのような扱いをされます。これは、ほとんど白日夢です。こういうことが続くと、うまく言えませんが自己が崩壊するような気がしてきます。それはとても危険なことなんじゃないかと思います。間違ってるかもしれませんが、皆さんはそのあたりもmarioさんに問い掛けて警鐘を鳴らしておられるのではないでしょうか。スレッドが長くなっているのにすみません。私の日記の方にも評価に関連する記事を書きます。よければ皆さんのご意見を聞かせてください。
marioさんへ
分からないなら、分からないままでもよいのではないですか?
今わからなくても、いつかわかるかもしれないし、永遠に分からないかもしれない。
わかったつもりでいても、本当の意味で、分かっていないかもしれない。
世の中は、本当は『分からない事だらけ』なのですよ。
分かったつもりになっていることは、多いと思いますが。
ACから回復することの意味は、『本来の自分(ADHD)』に立ち戻って、ADHDを抱えた人間として新たな自己を確立し、そのうえで今の関係に向き合う、というところにあるのではないでしょうか。
lisさん
>ADHDのACは「自分がもともとADHDである」ことに気付くだけで劇的に回復する
ACが劇的に回復するのですよね? 私はしてないように思うのですが、ADHDであるという気付き方が足りないのでしょうか?
ACから回復することは、『壁を壊す』ことに似ていると思います。これには勇気が必要です。
ACの世界観というのは、根拠はないけれど、何か私を『安心』させてくれるものでした。いわゆる『普通へのこだわり』だったと思います。普通になろうと努力することで安心する。これはASの世界観に近いものでしょうか。
依存だったのか、こだわりだったのか?どっちともつかないこの世界にいることで、私は本来のADHDを隠していた・・・もしくは、逃げていた、のかもしれません。当時、それをさらけ出したらもう終わり、くらいに感じていたようにも思い出せます。自分が今まで必死に守っていた世界が崩壊する・・・みたいな。
私はこのACの壁を壊すために、尾崎豊さんの『卒業』を何回か聞きました。自分でも本当はAC状態は辛くなっているのに、どうしても壁を壊す勇気が持てなくて、半ばヤケになって聞いたこの曲に、そのときの自分は支えられました。
『どんなに頑張っても、普通にはなれなかったんだよ』・・・まあ、そんな歌詞は無いですが、そんなふうにも当時は聞けました。