ADHDの先延ばしが重症化するのは、不器用で「現実的な抜け道的な解決が見えない」からである。
(先に説明しておくと、以下の記載は依存型ジャイアンを除くノビ太型と合理的強迫的ジャイアンについての説明である)。
私は小学校の時に、学校の図書室の貸し出し用に使う(借りた本の場所に代わりに入れておく)本型をした名前入りのボール紙の箱を紛失し、何年もずっと悩んでいたことを記憶している。「先生に説明して箱は新しく作れば良い」ということを考え切れなかった。借りた本自体を失くしたかも知れないと悩んでいたが後から考えるとそうでは無かったようだ。その他、プールやラジオ体操などのカードなど、いつもいつも後で提出しなければならないものを何か失くして「どうしよう」と悩んでいたように思う。
自己突っ込みがあり、ずっと継続して悩んでいるのに、誰にも相談できない。表面上の結果のだらしなさからは想像が困難であろうが、ADHDの先延ばしは「自分に厳しすぎる」ことが原因なのだ。
ADHDの「場の状況が読めない」障害のために、「謝って再発行してもらう」という現実的な解決は想像できず、その結果ADHD本人にとっては「この世の終わり」的な一大事となって、最後は「考えることさえ出来ない」という形になってしまう。「居留守」はADHDの先延ばしに典型的な帰結である。
さて学童期から思春期にかけてのADHDのケアには、「現実的な抜け道を教える」ということが必要になってくる。
違反したことを認めて謝り、失くしたものは再発行してもらう。一定の手続きを踏めば原状回復、「現実的に解決する」ことが可能であることを教われば、強迫的に悩み続けることはずっと少なくなるだろう。
実はそういう時に私自身のジャイアン的な「屁理屈の能力」が物を言うことがある。誰も教えなくてもジャイアンは子供のときから屁理屈で自己正当化をする能力を持っていて、私自身のそういう思考を使えば「抜け道の屁理屈」はけっこう思いつくものだ。
我がジャイアン末娘は、5歳にして、運動会のかけっこで一番になれないと見るや、「頑張れば良いと先生が言っていた」と既に事前から自己正当化の屁理屈を展開する。
これは「自己正当化をしないと居られない不安」「自分自身の中での中心志向からの自己突っ込みへの言い訳」であり、対世間には、「生きていく逞しさ」でもある。
誤って再発行してもらえばすむことでも、誤るおりに嫌みを言われたり精神的にストレスがかかる状況が生じるならばそれを避けて、現実の問題を放棄する事が多いです。
例えば図書館の本を紛失したことになっていますが、実際には図書館の本棚に並んでいます。借りている期間を大幅に無断延長してしまった結果、素直に返却できないわけです。
この問題は、図書館のデータベースには僕が借りて紛失したという状態が記録され続けている事です。
数年前図書館で検索サービスを利用したおり、図書カードでこの問題を司書が見つけたのですが、実際に本を図書館へ戻しているのはさらに数年前。図書館の書籍の管理が行き届いてないことにビックリしました。
運動会の徒競走はただ走らせるだけだから問題だと思います。速く走るためのコツを授業で訓練して、徒競走でタイムを測るようにすれば、個々の生徒が徒競走を楽しめるのでは。
自覚するまでは先延ばしていることにさえ気がつかずにいました。
>ADHDの先延ばしが重症化するのは、不器用で「現実的な抜け道的な解決が見えない」からである
悩みはこれです!
自覚出来るようになってから、先延ばしを自分なりに振り返って
解らないときに先延ばすんだなと・・自分でも感じていました。
重苦しい気もちになり、どうにも手がつかなくなり、忘れます。解決策を考え続ける意思を持たないと簡単に投げ出さないよう気をつけてます
高校生のころ、父が結核で倒れ、その後完治したにもかかわらず
酒におぼれるようになり、生活保護を受けました。
私は生活保護が何なのかも解らない子供でした。
虫歯になり、歯医者に行くことになったのですが、
そこではひどい治療を受けることになりました。
生活保護は全額負担免除で治療を受けられます。
でも、受けられる病院が限定されているので
父と同じ歯医者で治療することになりました。
当時の父は誰彼かまわず攻撃するようになっていました。
その歯医者へも怒鳴ったり、それはひどい事をしたらしいのです。
私が治療に行くと、お爺さん歯医者に・・
「あんたがあの父親の子か!」といきなり怒られ、嫌な顔をされました。
タダで治療するなどずうずうしい、とハッキリ言われ、
次々歯を抜かれてしまいました。
あのとき、私は父親の娘であることが恥ずかしく
この病院で暴れたらしいことが申し訳ない気持ちで
訳も解らず、我慢してしまいました。
高校生にもなって何もわからなかった自分が恥ずかしいですが、
とにかく歯医者は怖いと思い込んでしまい、
歯を抜かないで治療してほしいとか、嫌だと言うことが思いつかなかったんです。
そして、先延ばし、それっきり治療途中で行かなくなってしまいました。
治療(もちろん別の病院ですが)を再開したのは6年も後で、既に歯もボロボロになってしまいました。
周りの大人に助けを求めて
別の病院に変えてもらうなどするべきでした
でも、当時の私には助けを求めたり、誰かに説明する能力は無かったと思います
私のような子供にもしも誰かが気がついて
どうすべきかを教えてくれたら、どんなに生き易くなるかと想像します。
つい最近気づいたこと。
友人に送るはがきと、別の友人に送るユウパックがありました。
郵便局の開いてる時間に行けない日々が続きました。
ある日ふと気づきました。
「はがきだけポストに投函したらいいじゃないか・・・。」
頭の中では、はがきとユウパックがセットになっていて、オートマティクに切り離しができなかったのです。
一事が万事これなんだよなぁと、少し悲しくなりました。
ご無沙汰です。
>ADHDの「場の状況が読めない」障害のために、「謝って再発行してもらう」という現実的な解決は想像できず、その結果ADHD本人にとっては「この世の終わり」的な一大事となって、最後は「考えることさえ出来ない」という形になってしまう。「居留守」はADHDの先延ばしに典型的な帰結である。
またしてもあまりにも的確なご指摘!! 一言一句が過去の自分を見ているようです。
「この世の終わり」妄想が先鋭化して、「死んだら許してくれるかも」と思ったことも一度ではありません。
ADHDは「今(だけ)を生きる」がゆえ、「注意一秒、ケガ一生」の逆というか、「今怒られるストレスを耐え抜けばこの先ずっと心が軽くなる」という心境になれないんですよね。
先日、元夫と子供の面会のため会いました。
意味不明なモラハラは健在でした。
「抜け道の屁理屈」の思考がモラハラ言動になってるのではないかと思いました。
「相手を潰してでも」という究極の自己正当化はまさにモラハラそのものです。
本当に「自分に厳しい」のなら、過ちを認め謝っても良さそうなのですが。
対人関係の中で「逃げ」である抜け道の屁理屈を使うのは「人に厳しいくせに自分に甘い」という風に映ります。
元夫は、屁理屈で過ちを正当化した後、自己突っ込みしてるのでしょうか?
自己突込みがあるなら、モラハラがいつか緩和されるという希望が持てそうです。
ジャイアンである自分がなぜ小さいころにすぐばれる嘘やこざかしい屁理屈を練り上げたのかわかりました。いつの頃か、それが無意味だということがわかりやめられたのは良かったです。
ところで依存型も結局同じような気がします。自己愛か反社会性の兄は典型的依存型だと思いますが(自己突っ込みが全く見られない)、未だに子供が言うような取り繕いや隠し事を行います。30過ぎてるんですが。。。。これは恐らく潜在的には「自分の犯した間違いや失敗」がこの世の終わりだと感じてしまうという、ADHDの根本性質から由来するような気がします。
『「自分の犯した間違いや失敗」がこの世の終わりだと感じてしまうという、ADHDの根本性質』
なるほど、良く分かりました。
結局、抜け道の屁理屈を合理的に使う方法を身に着ける必要がありそうですが、さて親の立場からは(子育てに於いては)どうしたら良いんだろう。
「言い訳」と「現実的な対処」の区別がかなり難しいです。
例えば、非を素直に認めた場合はそれ以上追求しないってのは一般的な子育てに通じますが、ジャイアン系の子は「謝ればそれで良い」と言うスタイルを身に着けそうで…
いや、次の失敗を回避するようにって教育自体がADHDには厳しいものだったりしますか?失敗→とにかく謝罪→現状回復ってのがマシだったりしますか?
初めてコメントします。suzumeと申します。
未診断ですがADHDだと思われます。
図書館の事例、まさに私の子供時代と一緒です。
自分では重要な、でも他の人には瑣末な出来事を解決できず、助けを求めることも出来ず、袋小路に陥る。
教師や親に怒られる内容も、どう行動を訂正すれば良いのか分からないため首をかしげるしかありませんでした。
そして、屁理屈!今でもゴネゴネすることがあります(汗)
小5の上の息子が似たような感じで、そのたび我が身を振り返る私です。
yanbaru先生の文章は、自分の頭の中でもやもや思っていることをきっちり文字に表現して頂けているので、大変感謝しています。
初めてコメントします。
>yanbaru先生の文章は、自分の頭の中でもやもや思っていることをきっちり文字に表現して頂けているので、大変感謝しています。
suzumeさんのコメントに同感です。
いつも「自分一人だけ」でもやもやして、いつも「自分一人だけ」考えすぎなのかと思ってました。
「あー分かるなぁ」という文章が多いです。それだけで、ほっとする時もあります。
yanbaru先生、いつも感謝しております。お体に気をつけて下さいね。
micanさんしばらくぶりです。
凄いサバイバルを生きてこられたのですね。
読ませて頂くにmicanさんが反省することとは少々違う気がします。
ここで問題にしている先延ばしは、当人自身の課題であったり粗相のお詫びや後始末の仕方が分からず、解決に向けた動作的な想像力も限界でいわゆるちんぷんかんぷんになる場合の先延ばしであろうと思いました。
中学生ならまだ義務教育中であり、大人の責任を自分で取ろうとする必要も意味もありません。たぶん多くの一般人が客観的に見ても、責任は大人にあることです。
大人の養育不行き届きの責任を代わりに果たそうと思わねばならない義務はありません。
私の余計な感想なのですが、micanさんが何か振り返りたいとしたら、成人してエネルギーが十分にある内に責任のある大人達を訴訟でもすれば良かったと、これならいかがでしょうか。
>もしも誰かが気がついて
という形で気付けるようになったら、守られる子どもは増える訳です。でも現実にはまだ児童福祉が養育不十分家庭の発達障害の子にまで行き届いているかは、何とも・・・です。
私が想像力濃過ぎなのですが、児童福祉問題に強い弁護士さんを付けて、当時の歯科医と自宅を担当していたケースワーカー(生活保護世帯なら担当のケースワーカーが付くと記憶しているのですが、違いましたらすみません。)を裁判で訴えたかったと、そういうことなら思い描くのもありではないかと思ってしまいました。
余計な横槍をすみませんでした。
ぴよよさん
ありがとうございます
そうなんです。投稿した後に皆さんのコメントを読んでいて
”あれ?また本題からズレたことを言ってしまったかも”・・と思ってました
それと指摘いただいて、もう一つ気がつきました。
私の解決方法は”逃げる”だけに偏っているようです。
反撃することに強い抵抗を感じています
恐怖の壁があるようです。
父は虐待と溺愛を交互に私に与えたので、
当時の私は服従することが唯一”逃げ=助かる”生き方でした
理由も無く、どんなに殴られても、翌日には私から父に謝りました
“助かるなら何でも良い”だったのでしょう。
また、姉の激しさや母の乱暴を毛嫌った(ジャイアン部分を決定的に否定)ことで、
逃げ一本やりの生き方を自分の中で肯定してしまいました。
腕力でも父・母・姉には適わず、現実問題、私は逃げる、自分を無くして生きる以外に方法が無かった。
自分のジャイアンに蓋をして抑圧した(消滅しないから、余計に屈折してしまった)
私が能動的にのび太として生きる原因だったということ。なのだと思います
生きる作戦だった筈なのに、どこかの時点で心底、主張することが恐怖となってしまったようです
ケースワーカーの方、いました。
私は何のための人かという認識もあやふやでした。
家のことを聞きたいというので、こんな状態の家を知りたいだなんて珍しい人もいたもんだと思いました。
2度ほど話しましたが私の言っていることが理解できないらしく
困った顔をして、相手にされなくなった記憶があります
あの時、私はこんなに一生懸命伝えてるのになぜ理解してもらえないのかが不思議でした
そして、赤の他人が助けてくれる筈がないと一人で納得したと思います
自分を攻撃していて、間違っている相手に間違っているというのは私にはまだ怖いです。
私はここを見つめなければいけませんね
MARIOさん
とりあえず謝っておけばいいんでしょ
となったADHDが私です
謝らないよりは謝った方がいいんでしょうが
とにかく相手がおこってたら
ひたすら
すいません
です
先日はついに
謝ればいいと思っているのか?
全く返事と謝罪だけなんだから
といわれてしまいました
バレたか!?
という感じです。でも激怒している相手にはとりあえず頭を下げる方法は有益です
ま、日々是進歩を目指してはいるので
間違えを繰り返すつもりも全くないです
それなりの反省や次どうミスを防ぐかも考えます
謝って許してもらえなかったらどうしよう?
とか些細なことでもこの世の終わりに感じますので
覚悟を決めて謝ったことは必ず覚えています
ただし。依存型になると本当に反省もなければミスを覚えていないように見受けられます
もちろん謝罪もありません
ADHDの皆さんに失礼な質問だったかも知れませんね。単に(AS的に)疑問を書いただけで、他意(ADHDを貶める意図など)はありません。
くららさん
ありがとうございます。なるほど表面的な謝罪に見えても、本人の内には反省や次の手立てもある訳ですね。そうであれば、謝罪すればその場を切り抜けられると言うフィードバックは、子の成長に有益です。
ただ、表面的な謝罪は特にASに対しては有効ではないかも知れません。元妻さんの謝罪が表面的で反省を感じられない事にいつもイライラしてましたから。納得していない部分に関して理詰めで反論してもらった方が良かったように思います(謝罪に関する理論が全く異なりますよね)。
marioさん、KYな横槍をすみません。
そのまえに元奥さま以外のタイプはmarioさんに理詰めで反論することから恐がるような気がします。
理屈の完結と納得を図るために相互の言い分を出し合いたいのでしょうが、愛着関係でなかったとしても、ただの○○友達等でもmarioさんには100%賛成して尊敬しておかないと、反論と取られることを書いてしまうことでこちらが全否定される覚悟をしなければならないような拒絶感を、marioさんの意図とは関係なくmarioさんは様々なタイプの人間に抱かせる気がするのです。
いや、失礼なこと書いていますが、そこがベクトルによってはmarioさんの“熱さ”になり長所なのですけどね。
・・・自分は悪者になりにこのブログに来ているのかと錯覚を起こされ、自尊心を進んで抑圧しないと罰されるような・・・いや、ここまで表現するほど病的に自己否定感を起こす予期不安を想像するのは、他でもない私も境界線面で病んでるせいでしょうが、熱いASが信じることを迷わず書いてしまうと、時に白黒がつきすぎてしまうように感じることがあります。
脳に焼き付けられるように鮮烈過ぎる表現を、ここに限らず読まされる(それで職人技を見たかのように感心する私も私ですが・・・。)ことがあります。
会話は理詰めで刃を交えたいけれど、意見の相違とは別に気に入った人とは親睦を楽しく図りたい、という思いを持ったとしても、無理なのが現実のようですよ。
それでもmarioさんに警戒感を持たずに、関係が崩壊するような反論もせずに、距離を置かずに、お若い頃に何らかの形で結果的にコンタクトを取り合えてしまったのが、元奥さまであったという側面はありませんでしょうか? 世間を知らない者がこんなことを推測してごめんなさいね。
不愉快でしたら・・・コメントは結構ですよ。
いずれにしろ私は、ASが、愛着相手を作っても深入りを止めろ、とことんの追求をやめろと言われることは、自分の健康を削るかなりハードルが高い苦難になると認識しています。作らないこと以外に解決策は見出せないのが現状の、弱虫ASなのです。
ぴよよさん
私に関する事はもうきっと充分に理解してますよ。理詰めでやり取りして、どのような形であれ自分の理論体系に相手を組み込んでしまう。だからこそ、何年も連れ添ったパートナーが何度も逃げ出すのでしょう。
元の話題に戻って、ASの理詰めの反論が含まれれば多数派的には謝罪にはなり難いでしょう。ADHDの表面的な謝罪も有効ではない場面も多そうです。でも、どちらもそれぞれ有効な場合もあります。ポイントはやっぱり空気を読む事じゃないかな?先ずは表面的に、いや相手の感情に対して素直に謝罪する。相手の物足りない空気を感じたら、反省点とか改善策とかを織り交ぜる。まぁASやADHDには難しい作業でしょう。
ASの私からすると、相手の感情的なものに触れると停止してしまいたくなる空気を読む作業を(まさに歯を食いしばって)継続する。そして相手の欲する言葉で謝罪する(自分自身にとっては嘘となりとても苦しいです)。
いや、すごいですね
>ASの私からすると、・・空気を読む作業を(まさに歯を食いしばって)継続する。そして相手の欲する言葉で謝罪する
ことができるというのは!!(決して茶化しているわけではないですよ)
私自身、ようやく自分の行動が相手側からどう見えるか(評価されるか)という自分を起点としたパターンだけではなく、相手が私をどう見ている(評価している、望んでいるetc)を受けて自分の行動を決めていくという相手を起点としたパターンが、自分・ヒゲ達磨には欠けていることに気づいた、ようやく自覚したところなんですよ。
まず、相手が私をどう見ているかがまったくわからない、自分がこういう言動したら相手はどう受け取るかは、ある程度予測できる、そうした自分を起点としたパターンはあるが、相手の表情などから相手が私をどう見ているか、何をして欲しいといったことが全くわからない、>相手の欲する言葉<といったものが全く見当がつかない。
仮にそれが分かった、察しられても、多分、そうしない。そうした場面を想像すると、相手に自分が振り回される、相手に依存しているようで嫌だという気持ちが湧いてくる。
多分、おそらく定型発達者は、共感能力でそれを感じとって、あたかも自分の感情と受け取って、半ば自動的に相手の意向に沿った行動を採れるのだろうし、それが「素直さ」「協調性」と言われるものなのだろうと・・・、私は、小さい頃から「素直でない」「協調性に乏しい」と折り紙つきですからな。
「相手が私をどう見ている(評価している、望んでいるetc)を受けて自分の行動を決めていくという相手を起点としたパターン」を身に着けなけりゃと、子供らに接している時に、その必要性を感じるのです。子供が親父に○○して欲しいと(甘える)を受けて、自分の行動を決めるという、子供の甘えを受け入れるパターンが必要だと感じるのです。
つづく
続きます。
>どのような形であれ自分の理論体系に相手を組み込んでしまう。<これ子供相手にも私はしてしまった。つまり、子供にとっては、その親父の理論体系中の「○子」「△男」からはみ出ると、理詰めで追求されるわけだ、子供にすれば窮屈極まりない。子供は変化・成長するわけだから、理論体系中の「○子」「△男」が現実の「○子」「△男」に合わなくなるのは当然だから、理論体系に相手を組み込んでしまうこと自体が、子育てでは不適切に感じたのですよ。
(屁)理屈能力では親の方がはるかに上ですからネ、>理詰めでやり取りして<、というのも大人気ないというか、子供を圧迫するというか、育てるという態度じゃないとも感じました。
それで、まずは、子供のことをそのまま受け止めることから始めたのですけど、受動的で物足りない。かといって、こちら、親父の方から話しかけるというのも、ASの癖で、どうにもこちらから一方的に話す、子供からするとまくし立てられるようで旨くないな~。それで、子供から親父に○○して欲しいと甘えるという子供の自己開示を促すパターンはどうかなと思っているのですけどね。
いずれ、子供らは思春期・反抗期を迎える。その時に、自分なりの我流の「人生の意味」を作り出す=アイデンティティ・自己同一性を確立するためには、親の設定した枠からはみ出る、親の理論体系に組み込まれた「○子」「△男」からはみ出ることが不可欠だと思うのですがね。
つづく
続きます。
そのはみ出る「理由」を>理詰めでやり取りして<というのも、有害無益な気がする。思春期・反抗期の自立の欲求で、はみ出るのであって理由や理屈があって、それを根拠にはみ出るわけではないと自省するからですが。
>理詰めでやり取りして<いくと、以前YANNBARU先生がひきこもりの方で、壮大で緻密な正当化理論を組み立てている例を取り上げられていましたけど、それと同じで、はみ出しを正当化する理屈・屁理屈を理詰めのやり取りの中で編み上げて、子供が自縄自縛になることになるのではないか?!と懸念するのです。
それで、ASの「どのような形であれ自分の理論体系に相手を組み込んでしまう」とは別の、他者、子供との位置とりのやり方、もっと相手の変化や不明確さを許容できる世界の構築のやり方、曖昧さを組み込んだ世界のAS流の構築のやり方はないかと思うのです。
「相手が私をどう見ている(評価している、望んでいるetc)を受けて自分の行動を決めていくという相手を起点としたパターン」がないと、相手、子供が自己開示をしないというか自ずから制限すると思うのです。
ヒゲ達磨さん
空気を読むと言う高度な作業が私に出来ていると言う訳ではありませんよ。
それをするんだとの意思表示で、その努力をしていると言う意味です。
言葉を変えると自分にそれがどの位出来るか今実験している…
(結果として振り回されてしまうと言う意味で)最近それに疲れ果てて来てて、やっぱり素のASとして生きようかと思っている所です。
:
子育てに関しても同じような事を考えています。
息子のことをそのまま受け止めると言うスタンスで、口出しが最小限になるように、何かあっても希望として伝えるように努力しています。
AS親子二人暮らし…ガチガチにならないように気を付けないとね…
横から参加してごめんなさいね。
>相手を起点としたパターン
子どもの認識世界から見た私を起点として、私がどう振る舞うか。私も日々悩んでいます(涙)! そして悩んでいても見当外れをします。
この作業で親御さまの立場のかたがとても大変そうだと想像するのは、親子のように近すぎる関係であった時に、(あの言い方で合っていたかな? どう思っているのかな?)と確かめたい時にも、日常の雑事に追われそうであること。
そして多数派寄りの子なら、拘らないでそのまま流しても自己処理できる能力があると想定できそうでも、またそういう子育て情報も多いでしょうに・・・発達障害寄りの性格の子ならアフターフォローはどこまで必要なのかが、たぶん一ケース毎に多少は考えなくてはならないであろうこと。
組織の中の支援なら考える時間もあり(食事も時間になれば出てくるし)、行き詰まったら相談相手も見つかる可能性がありますが・・・。
人のお子さんであれ、恐らく我が子であれ、育てる作業って辛いです。子どもの境界線をより良く?育てるために、自分の境界線意識をぐっちゃぐちゃに掻き回して悩まなければならないのですから。
でも、私の勝手な思いですが、ヒゲ達磨さんがお持ちになったそういう姿勢が何より事を好転させる要素になると思います。少なくとも関係は悪くはなりませんよ。たぶんmario さんのように、それなりにご自分のペースやルールを見つけて、試行錯誤しながらでも落ち込み過ぎずにやっていける時期がいずれ来ますよ。
子育てに限らない日常会話ですが、ジャイアンタイプが
>誰も教えなくても・・・子供のときから屁理屈で自己正当化をする能力を持って
これは羨ましい特性です。ASで脳波も遅い私には、こんな多彩な言い方を瞬時に考えることは苦難の技です。
続けます。
すみません、続けます。
むしろASは、言い訳を作りづらいから感情的な関係で心身の守りに入ろうとする防衛機能も働くのかと思うこともあります。
話をなるべく横道に逸らさないようにして“話の主題に沿った返答をする。”トレーニングとして、私にはこういうインターネットはある程度役に立ちました。
恐らく一部のADHDは瞬時に組み立てられることかもしれませんが、十分に詫びなければならない時というのは、複数視点から分析して迷惑や心情を推し量らなければならないこともあり、更にそれを短い言葉に起こさなければなりません。
意識的にトレーニングを積む前の私もそうでしたが、想定外事態に遭ったASの頭にはまず自分の気持ち、自分の都合、自分が捉えていた解釈、自分が判断した内容等が沸いて出ることが多いと思います。
愛着相手には、これらを全部聞け、そして反論しないで理解して欲しい衝動を強く持つのでしょう。
知力、社会的地位、人徳、説得力、全てに置いて敵わない相手には、いわゆる服従。嫌な表現ですが受動的に服従。
そうではない相手。
感情的にも苛立たせてしまった相手。迷惑も掛けた相手。灰色の相手。
現在は実際の被害は逃れていますが、人間的成熟度の低い人材が集まった集団では、思惑を持った第三者が便乗して糾弾してくる被害もついでにあり得ます。
これがASが歯を食いしばるハードルだと思うのです。
全く、苦しいハードルです。
対処法は今の所、無い知恵を絞って、相手の立場を想像し、相手や関係者の顔を極力立てる言い回しや前置きや補足を編み出すしかありません。
他の記事ですがヤンバル先生の
>診断と説明があれば少なくとも理屈の範囲では修正が可能だ。
等は、私は素晴らしいと思いました。
この一文で幾つもの言いがかりを予防することができます。
「ご迷惑とは思いましたが、お聞きしないと私が分かりませんので・・・」とか、聞かないと解らない人間としての言い回しを一人で考えてきましたが、実際足りませんね。
ヴァリエーションも、スピードも、内容も。
ビジネスマナー本でもズレがあります。足りません。
ADHDのかたにも足りないかたはいらっしゃるのかもしれませんが、言い方の悩みに関しては私より前向きに感じました。多数派の心情としては、どうすれば印象が“増し”なのでしょうね?
>人のお子さんであれ、恐らく我が子であれ、育てる作業って辛いです。子どもの境界線をより良く?育てるために、自分の境界線意識をぐっちゃぐちゃに掻き回して悩まなければならないのですから
ぴよよさん、辛いですか、ウムー、人のお子さんの場合はわかりませんが、私は面白いですよ。なにせ相手・子供は日々変化・成長しているでしょう?それと付き合っていくのは面白い。その変化・成長をより多く目にしたい、感じたい=より面白さを感じたいと言う欲求がある。それには、ASの>どのような形であれ自分の理論体系に相手を組み込んでしまう。<という行動パターンは、適さないよね、もっと面白さを感じれるやり方はないのかな??と言う話です。
育てる、この感覚も私には薄いですね。どうもね、育てると言うと盆栽を連想するのです。自分の思う形に針金を巻きつけて整えていく、そんなイメージがあるのです。ASだと親の理論体系中の「○子」「△男」に合わせて、理詰めとかの”針金”で整形する性向があると思うのです。
まぁ、植物にかぎらず生物には自分で変化していく・成長していく力が内在している。それを信じる。信頼する。横風が強くて折れそうなら風除けになる、最も必要な肯定感を供給する。親と言う大人が、成長が一段落した者がやれるのはそれ位かな?それした、禁欲的態度を意識することで、先ほどのASの性向とバランスするのかなと思うのですが。
ぴよよさんが、実際になさっていることはまったく知らないから、以下はぴよよさんを批判したものではないのですけど
AS子の親御さんのプログとかをみますと、「定型」という形におさめようと四苦八苦しているように見えるのです。猪に豚の着ぐるみを着せても豚にはならないよ!健康な猪に成長する手助けをしたら?
餌(肯定感)をきちんと与え、毎日小まめに観察して変化を感じ取る。豚もおだてりゃ樹に登るではないですけど、変化をキャッチしておだてりゃ、豚とも上手くつきあえる猪には成長できるよ。こう思ってしまうのです。
ヒゲ達磨さん、こんばんは。自他の子に限らず子ども好きなのですね。
私も確かに子どもが好きで仕事にしましたが、自分の働いてきた年数を客観的に振り返って、楽しめなくなりそうな域にまで、ちょっぴり苦労し過ぎてるかもしれないと思うこともあります。
私の特性として、感情的な記憶が焼き付けられやすいのに、あえて仕事の課題に対して分からなくても拘ることを続けてきてしまったなと。
それで、発達障害が分かってから、そこから知り合った人間達(自覚してからの初期のコミュニティです。このブログではありません。)にいくら自然体を推奨されても・・・嫌な言い方ですが、演技でもしないと気楽に振る舞う態度を取れなくなったという副作用が起きています。
ただ、当事者にここではないどこかの、絵に描いた餅を夢見ろと、いくら天の声が振ってきても(ヤンバル先生はそんな無責任なこと言いません。)私は何もできませんでした。でも言われたくない訳では決してなく、例えば自己肯定感を取り戻しましょう等の狙いがあるなら、難しい言葉を使ってでも私は詳しく言われたい人なのです。面倒でしょ?
・・・ヒゲ達磨さんの、その父親たる思いを発揮できる場所って、どこがいいのでしょうね・・・?
おだて所って、子どもの精神年齢があがって来るにつれて、みるみる少なくなっていく傾向があります。
でも自己管理の実行力や悩みの対処能力も一緒に上がってくる訳ではないので、子ども自身は言われたくなくても、誰かが指摘する役割を担わされるものです(これを父母がセーノでやらない事例が増える昨今・・・略していいですか?)。
だから、私もそうですが、ベルトコンベア的な日常生活の流れの中で、その“おだててくれる役割”を平和に確立するって、一人ではしづらいものでしょうね。
非日常の中で引き受けるならば、役割分担をすることで可能そうですね。
悩みはメール相談とか、誕生日等イベント計画を担当とか。
父親参観日が全国的に無くなりつつあるのは残念です。
余計な思いつきでしたら、すみません、お忘れ下さい。
こんなやりくりはいかがでしょうか。