ADHD関連

ASの二面性

 ASの人をサポートすることに力を入れる場合、(これは私のジャイアンの部分の帰結でもあるのだが)結局のところASの人の「二面性」に非常に戸惑うことになる。

 この二面性は、当人は認識していないことが多いようだ。「出来ない」に近いのだろうと想像するが、「愛着の場合とそれ以外の場合で行動が極端に異なる」というところだ。
 
 言語的に指摘すれば、「分かっています」と言う。説明すれば、例えば「共依存にしかならない」という意味は理解できても、冷静に観察すれば、結局行動は愛着優先で決まってしまうことが多い。

 依存的な相手をダラダラ甘やかしたり、自己中で理不尽な要求を全くきっぱり断れなかったりする。
  
 私のジャイアン性の部分は「結果のほうから考える」ということだ。治療者としては結果がうまく行かなければ失敗である。
 何度共依存につながる愛着の問題性を指摘しても、結局行動は何も変わらない。

 「あなたは分かったと言ったはずだろう」と言いたい場面が繰り返し現れる。結果の改善を求めるジャイアン的には、サポートを続ける上で非常に大きな無力感を感じるのだ。

 私の観察の結果ではASにとって愛着の問題は決定的な重要性を持ち、「昔のトラウマや現実的な環境のストレスを本人が表面上訴える場面でも、実際の本人の問題は愛着の相手とうまく行かないことだ」ということが多い。AS本人自身も自覚していないことが多いだろうが、冷静に観察すると分かる。

 「ASの愛着だからしょうがないね」と発達障害の障害の変えられない部分であると「理解」するとして、その結果は、ジャイアンから見ると「ASは根本的に二面的で、どんなに頭で理解しても、愛着の結果の行動は変えられないのだ」という風に理解するしかないのか? 正直なところ治療者としては悩む。

 行動を変えられないのであれば、治療として何をすればいいのだろうか? これは私のジャイアン性の問題でもあるが、結果の改善が全然無い状況でも、「辛いね」「大変だね」と言い続ける治療に意味を見出しにくい。

 この抵抗は、「逆に自分がこんな治療をされたらジャイアンとしては絶対に許せない」と言うところから来るだろうと考えてはいる。
 
 少なくとも、一刀流を掟とする発達障害の一当事者から言わせてもらえば、愛着の問題で行動パターンが大きく変わってしまう事実があるASの人は、「自分が非常に二面的な人間だ」ということを事実として厳しくわきまえてほしい。

 24時間言い聞かせて自分が二面的であるとわきまえ続けていれば、他者に「言っていることとやっていることが違う」と言うことがなくなるだろう。
 
 言っていることとやっていることが一番違うのは、(非常にKYのケースを除き)AS自身なのだから。


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コメント

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 19日

    ASにとって愛着はご飯ですからね・・・。
    ご飯に毒が盛ってあっても、他に無ければそれを食べないと飢えてしまうことを本能的に知っているからなのでしょうか。
    知恵のあるACは、毒を振りまいたり、相手に食べさせ返したり、弱者に食べさせたりして、自分の持ち分を減らそうとしますが、ASはどうしたらいいのか分からないのかもしれませんね・・・。
    >「あなたは分かったと言ったはずだろう」と言いたい場面
    分かる気がしますね。
    私が助言者の立場なら、言ってしまいそうです。
    言われる側の立場は・・・しばらく面と向かっては言われていません。保身が子どもの頃よりは上達したのかもしれないし、強く残る記憶も愛着行動よりは不注意の叱責のほうですね。ただ、保身が出来ても私のASはASだと自覚しているつもりですが。
    >「ASの愛着だからしょうがないね」と発達障害の障害の変えられない部分である
    ここは、先生優しいなあ・・・と思いました。
    どうしても変えられないと思われた時点で、相手は私を殺したいほど憎むのだという反射的な思い込みがありましたので。
    愛着相手は・・・例えるとASの自己肯定感を生む脳内物質の一部で『自分を肯定してくれる相手』の、極端に言うなら妄想?を満たすためのお人形にもなりうるのではないでしょうか。
    『こんなことを考えている私を肯定してくれる。』『こんなことを判断した私を認めてくれる。』というような。
    その『肯定』を確かめる度合いが、ポイントを押さえていれば非常に低くても満足するのがKYASで、否定される仮説が多量に浮かび、度合いが高くないとならない者が、私のような難癖ある者かもしれません。
    そしてたぶんこの度合いが非常識に高すぎると、感覚が受け付けなくなって外へでられなくなるか、万一の喪失を受け付けなくてストーカーに・・・?
    ASではないかたに上手く伝わるようには、なかなか書けませんね・・・。
    ASにはお人形、ジャイアンには家畜、発達障害の愛着相手に指定されたかたは、まともな扱いを受けませんね。

    • mario (AS)
    • 2009年 5月 19日

    AS当事者の視点から
    言語的な「分かっています」が行動に反映できないのは、愛着対象を「甘やかす事」と「大事にする事」が、AS的に上手く切り離せてないからでは無いでしょうか?
    相手のためには要求を切り捨てろ!と言うロジックは有効だったりしませんか?(既にそれを試みてもダメだったのかの知れませんが…)
    私は、現在の身近な人の要求を飲みそうな自分を一旦客観視して、要求を飲む/飲まない、気持ちを受け入れる/受け入れないを個別に判断しています。それは実は子育ての参考書から身に着けたのですが「要求を飲まない+気持ちを受け入れる」は、私的には凄い発見でした!

    • kcotan
    • 2009年 5月 22日

    ADHDの夫に対して、言ってることとやってることが違うと感じることがありますよ。
    反復学習でコレって自分の中で決まってる価値観と、ボンヤリとではありながら自分の中にある価値とが食い違ってるんだと思ってますが。
    なんだかたまーに、それってアナタの中の理想の話で、アナタは平常こうしてるじゃないの?っていうことがあります。むしろ多々あります。
    それが心根ではなく理想であるという根拠は、色々過去の行いからあがってるのに、事実関係を認めない(というか、すっとぼける)のは、単に忘れてるとか意識にやってるってことなんでしょうね。
    いずれにせよ悪気がないのが明らかなので、とりあえず我が家では問題化してませんが。

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 23日

    >「昔のトラウマや現実的な環境のストレスを本人が表面上訴える場面でも、実際の本人の問題は愛着の相手とうまく行かないことだ」
    仮説ですが・・・
    『これが自分自身にとって快適で理想的な愛着関係』という関係を私の頭の中で比較して、
    ジャイアンの場合は異なる時、A時点、B時点ともに逃げないで確実に褒めてくれて役に立ってくれるのが理想で、その間自分は何をしても何を考えても、何を忘れても裏切っても傷つけても、問題無く無かったことにできることが可能で、許される関係がいい、とすると。
    ASはA時点~B時点までの自分のしたこと全部を受け入れて、認めて欲しいのが理想の関係なのかもしれません。B時点の結果を出すまでに何をしても何を考えても、何を忘れても裏切っても傷つけても、他人よりもプロセスを頑張ったんだから偉いよ、感心するよ、尊敬するよ、と言われれば・・・たぶん私でも(この人の褒め方は凄い。ただ者じゃない。)と考えてしまいそうです。危ないです。
    他の人よりも凄いプロセスの優越感、これをだめんずな、問題を持つ人はくれるのでしょうか???
    問題を肩代わりし、ダラダラ甘やかすときにもらえるフィードバックに、結果なんてさて置けるような至上の優越感があるのでしょうか。それとも一時的にでも定形発達者になれたような、障害を忘れる安らぎを得られるのでしょうかね?
    小さいときから、いや小さいからこそ、喧嘩等の揉め事を客観視が上手に出来ないゆえに[この件こそは自分は正しい。間違ってない!]と信じていても、仲裁者の説明不足等で、よく因果関係を解らないうちに謝らされる経験をASも積むと思います。(ADHDもですよね。)
    謝るときはASは心から納得しようとします。
    だから、よく理解できない事態でも、自分にとって毒や、アレルゲンになるかもしれない可能性があっても、自分が望まれていると思ったら望みに応えないと大切な人全てから罰されるような気がしてしまうことはあり得ると思います。
    そうして、まずい関係も受け入れやすくなり、でもフィードバックが断ち切られる恐怖を誰かに分かって欲しくて、誰かのせいにしたいけど問題を整理されると誰のせいにもできなくて非常に不満、で悪循環になる例もあるのでしょうかね。

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 23日

    いつもながら続いてごめんなさい。
    言動不一致は、愛着関係に限らず私も一人の落ちこぼれた社会人として反省することです。
    発言、恐いですね・・・。それでもしてしまうものなのですが。
    上にも書いたとおり、つい謝ってしまう優柔不断な一面がありますが、謝った相手と距離を置いてばかりいたら、人と一切関われなくなって引きこもらなければならなくなります。
    該当するASクライアントさんは、言うことを聞きたくない相手に謝る、というプロセスとしては失敗の経験を作ってしまっても、ヤンバル先生以外に頼る人が居なかったら、傷つきながらも頼り続けたくて、通院していらっしゃるのでしょうかね。
    ヤンバル先生、を私の場合として歯医者、に置き換えると分かる気がしてきました。
    しかし先生は、慰め続けるだけみたいな共依存の片棒を担ぐ役割はまっぴらゴメン! であろうと思います。
    私も、いくら歯槽膿漏の手入れが悪くても、自分を棚に上げて“歯医者にさえ行けばいいや!”とだけは思っていないつもりです。口を開く以外にも心で必死にごめんなさい! と謝っています。でも結局まずい結果を自分で抱え込まねばならないのですよね(老人になるまでは。)。
    でも、人間関係では自身も傷つきますが、さらに途切れることなく心配させられたり迷惑を被る人間達も、嫌ですよね。医師、家族、教育者、友人隣人どの立場でも。
    被害者が発生しますよね・・・。
    クライアントを叱責できるような人間ではないのですが、そもそも発育過程のどこかで恋愛を始めるときや、ASという障害名を知った時、困った直面化をした時等に、どうして恋愛の開始は自己責任という概念を持てないのかな、と疑問です。
    物を食べるのも自己責任ですが、これは“キャパシティーを越えて責任取りきれないので止めます。”というわけにはいかないのですが。
    でも、私にはやはり何も言えませんね・・・。
    ポイントさえ押さえれば洗脳されやすい特性を持つと、一度思いこまされたことが良くないことでも、切り替えられなくて苦しむ気持はきっと同じでしょうからね・・・。

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