AC、人格障害関連

ジャイアンの空想

 ジャイアンは否定されることに耐えられない。だから現実の中で相手の否定的な反応を打ち消せないときには時に空想の世界で相手を消し去ろうとする。

 「白昼夢」に近いようなリアルな空想で、時には自分の否定的な態度を示したりジャイアン自身から見て理不尽なことを言ったりしたりした相手を空想の中で残忍な仕方で殺してしまったりする。

 空想の中身に罪はないが、時々こんなことを考えている自分がいやになる。結局「復讐」しないでは居られない心理があるとしか考えようがない。

 「一番」であり続けたり、「まったく否定されない」など現実の世界ではそもそも不可能であることは分かっているのだが、そういう形で自分の存在を確認し続けないと、「自分自身」を足元に広がる「虚無」の中に見失ってしまうのだ。

 「はじめから世界とつながっている」、「自分がほかの人と同じ世界に存在する」ことはジャイアンにとっては当たり前ではない。それ自体を証明し続けないといけないようなあいまいなところに生きていて、実際に時々自分が何であったか忘れてしまうこともあるのだ。

 そういう意味では「状況が分からない」ADHDの最重症の状態とも言えるだろう。状況が分からないとは、本人から見れば、自分が何であるかも分からないということになるのだ。

 空想で穴埋めしてでも、とりあえず自分の世界に空いてしまった穴をふさがないとその穴から「虚無」が吹き込んできて、たちまちのうちについさっきまで「自分」だと思っていたいろいろなパーツが元のバラバラの状態に戻ってしまう。

 ネバーエンディングストーリーに同じような話があったが、その意味ではジャイアンはファンタジーの年齢から先に成長することができないようにも思う。  


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コメント

    • あひる
    • 2007年 6月 17日

    自分が何であるのか...わからないです
    (ジャイアンであることは分かっているのですが)
    自分探しは「ああでもない、こうでもない」と思いながら決着がつかないうちに一生が終わってしまいそうです。
    (自分自身のコントロール術とでもいうのか...)
    それでも自分について考えることを続けていくことは冷静な目を持つことにも繋がりそうな気がします。
    >「状況が分からない」
    そうですね。
    分かってないことに気が付いています。
    それに気が付いたことでずいぶん変わったなと思います。
    良いほうに変化しているのだと思いたいです。

    • 月の草
    • 2007年 6月 18日

    色即是空の人が、なぜ復讐を考え、なぜ誰かを夢の中で殺すんです?
    空虚(虚無)が心を占めている人は、周囲で何が起こっても、それらの重要性に気付かないうちに皆流れ去ってしまうはずでは?
    夢で誰かを殺す=煩悩の人
    私は煩悩の塊。誰よりも、どこよりも良い物を作ってやろうという気持ち。これは我欲なのか、精進なのか。よくわからない。時折、人を嫉み、恨み、復讐したいと思う。その上、殺人の妄想も時折は(苦笑)。このような激しい気持ちを動悸や眩暈を持って感じられるようになって、よかったとさえ思う。解離をしていては、感じられない身をえぐるような生身の感覚。それが感じられるからこそ「悪いことはやめとこかー」と思える。これがなければきっと行為障害に苦しみ続ける。
    否定されることを嫌うということは、愛されたいということで。憎しみを感じ、殺してしまいたいと思うのは、コントロール不能な激情といえるほどの豊かな感情があるわけで。その癖、人を愛さないということがあるのだろうか。
    愛されたいと思うばかりで、愛さない?愛しても、どの道愛は返ってこないから愛さない?などという、単純な話しではないんでしょうね。
    > 結局「復讐」しないでは居られない心理があるとしか
    では、復讐を考えない人というのはどのような人なのでしょうか。天使、ブッダ、菩薩、キリスト?
    悪があるからこそ、善を目指せる。善があるからこそ、悪を認識できる。例えば、五人の中の一人が悪人で、その一人を取り除くと四人の善人が残る。残った四人は、善人として生き続けられるのだろうか。四人の中から、必ずまた悪人が出ると私は思う。善しか知らぬ者は、悪が何かを知らない。悪が見えていなけえれば、知らぬ間に悪になると思う。
    きっと善と悪は表裏一体で、どちらが欠けても不完全。
    そうそう。私は多神教が好きです。完全な神、ただ一人の神ではなくて、様々な間違いを犯す多様な神々と共に、和気あいあいと気楽に暮らしていたい(あ、宗教の話ではありませんでしたね)。

    • 月の草
    • 2007年 6月 18日

    十代の頃「周囲で何が起こっても、それらの重要性に気付かないうちに皆流れ去ってしまう」のが嫌でたまりませんでした。決断する際物事の重みがわからない。チャンスを逃す。今やるべきことが実感を持って見通せない。時の流れにおいてけぼりになる。ADHDは老けないというのは、この“時を生きていない”“時を重ねない”“時の重みを知らない”ということと関連するのでしょうか。
    以前確かに私は虚構の世界のようなところに生きて、足下に薄氷が敷かれた空中を歩いていて、一つ踏み誤ると一気に崩れ落ちるだろうという、茫然としているわりには緊張感を強いられる、矛盾する危うい感覚の中で生息していました。
    ある時(多分、10年くらい前)を境にそれが無くなりました(なぜかはわかりませんが)。虚構と現実が入れ替わり、一人で眠っても怖くない。以前怖かったものは夢で、人殺しをする夢を現実に行ってしまうのではないかという恐怖。今怖いのは現実。怖いものが入れ替わりました。
    > その意味ではジャイアンはファンタジーの年齢から先に成長することができない
    七歳の時。今日からあなたはお姉さんたちの仲間入りです。子ども時代を忘れて早く成長しなさいと、何か自分の道筋のようなものが、ブツリと断線したような気がしたことを思い出しました。ファンタジーへの決別は、何を意味するのでしょうか。
    (ファンタジーへの憧憬が歪んだ形で強く求められると、だんだんと倒錯に変わるような気がします)
    ところで、ファンタジー=シュルレアリスムとも置き換えられそうです。夢の中から引きずり出したブツは、いつでも「現実を超越した非現実」。ネバーエンディング….はエンデの『はてしない物語』でしたか。モモと同じく、エンデの作品には真理のようなものがあって好みです。

    • あひる
    • 2007年 6月 19日

    月の草さん
    >否定されることを嫌うということは、愛されたいということで
    これは私の感覚とは違いすぎるかな
    別に愛されたいと思ってない相手にでも「否定」されるのはイヤなものですよ。
    この場合、愛はまったく関係ないような気がします。
    >復讐を考えない人~
    そうですよね。
    私も復讐を考えたことがない人なんているのか?と思います。
    実行にうつさない人が多いだけのような気がします
    (もちろん私もしません...1週間くらいでどうでもよくなるし)
    実はみんな心の中にジャイアンを持っているのでは?と思っています。
    多数派の人たちもADHDのノビタ型の人も
    アニメの「ドラえもん」でもドラえもんから力をもらった(ポケットからなにか出してもらって)
    ノビタがジャイアン達に復讐したりします。
    ノビタもジャイアンな時が~と思ったりしています。

    • 田舎猫
    • 2007年 6月 24日

    >私も復讐を考えたことがない人なんているのか?と思います。
    >実行にうつさない人が多いだけのような気がします。
    自己正当化型ADHDの方の行動について感じるのは、「こんなのでは普通怒らないだろう」というところで激昂するケースが多いような気がします。
    このブログ内でyanbaru先生が色々と書かれていることですが、「自己否定を極端に嫌う」←「自分という存在についての漠然とした不安」という図式なのかもしれませんね。
    復讐を考える頻度の問題ではないでしょうか。

    • あひる
    • 2007年 6月 24日

    >「こんなのでは普通怒らないだろう」というところで激昂するケースが多いような気がします。
    なるほどなぁ...
    と思いました。
    確かにそうですね。
    考えかた、感じ方、受け取り方にかなりズレがあります。
    逆のパターンもあります。
    多数派に
    「なんでこんなことで怒っているのだろう」
    という具合に。
    復讐の頻度は~????
    カッと激昂しても復讐に繋がらないんですよね...私の場合は。
    他のジャイアンはそんなに問題になるくらい復讐を頻繁に考えるのだろうか?
    これはちょっとわからないですね。

    • wish
    • 2007年 6月 25日

    過去の記憶が蘇って来る中で、忘れていた自分が次々と思い出される。
    小学生の頃 読書や画集·写真集の中の死者を自分に置き換えるという空想にふけっていた。(リアルに書くとモザイクものなので省略)
    中学生の頃には自分がジワリジワリと殺されて行く夢を連続的に見ていた。
    随分前に医療機MRIの完成までを紹介したテレビ番組で、割と若い外国の重犯罪死刑囚の体をmm単位でスライスして人体断面をインプットしていた。その死刑囚の悲痛か無念か定かではない叫びを感じながら、スライスされる体は私の体に置き換えられた。
    他者では無く、自分に置き換えると言う事に何か意味があるのだろうか?
    臓器提供や献体を強く望んでいるが、これも やはり『空想』してしまう。
    生きたまま脳の提供が出来ないか?と考える事もあるが、現実的には無理な話しだろう。
    書き込んでいて思い出したが『羊達の沈黙』『ハンニバル』『レッド・ドラゴン』『ハンニバル・ライジング』でお馴染みのレクター教授。私と共通する何かがある様な気がして とても興味深い存在だ。
    前者2作は観たが、後者2作は観ていない。DVDを借りて観てみようと思う。原作本も是非 読んでみたい。

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