AC、人格障害関連

思春期に表面化する

 依存型ジャイアンの行動パターンの一つの転機は思春期である。「依存型ジャイアンは思春期に表面化する」ということに最近気付いた。

 私は少年鑑別所で発達障害の診察もしているが、「IQは高いのに年齢相応の考えが足りない」という発達障害のケースがほとんど毎回と言っていいほど見られる。

 思春期になって「自分が試験監察期間中である」ことを「忘れていた」というケースがあり、テストではIQはむしろ高いので、これは「発達障害に伴う継続的思考、合理的思考の欠如」と説明するしか理解の方法が無い。

 ジャイアンで非言語的状況察知能力が高いケースの場合、「周囲の人の反応を非言語的に察知して合わせる」ことをして行けば発達障害的な不適応はむしろ少なく、ごく「普通」と見なされて成長する。継続的に目をかけてくれる依存対象に恵まれれば、大人になって会社の重役になる人も居る。

 社会的な問題が表面化するのは、多くは結婚後にパートナーや子どもから見てあまりにも一貫性が無く責任感の欠如がひどいという段階であるが、その前に思春期に破綻する一つの契機があるということだろう。

 大体10歳頃までは親が代わりに責任を負う「子ども」であり、本当の意味での本人の責任を問われることは少ない。

 それが、思春期になると、「自分で考えなさい」ということが多くなり、「継続的な思考」は当たり前に求められるため、それが無いことで事件を起こして警察の扱いになるなど、「考えの無さ」という形で問題が表面化するのだ。

 審判への診断所見には「合理的思考の欠如」と説明、認知療法的なカウンセリングで改善する可能性が高いと記した。もしも私がケアするチャンスを与えられれば、「時間的継続性」「責任」「意味」「他者」という以前にこちらに説明した依存型ジャイアンのケアを試みてみようと考えている。


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コメント

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2010年 5月 17日

    DSM-5の草案には「but may not become fully manifest until social demands exceed limited capacities(ただし、求められる社会性が限られた能力を超えるまでは、その症状ははっきり現れないこともある)」と但し書きが付いているそうです。
    ASDには、それまで障害として現れていなくても、思春期、就職、結婚、子育てなどにより実際にその社会性が求められるようになってきた段階で、初めてその身体的困難が障害としてたち顕れ顕在化することがあると、自身を省みても、様々なプログを見ても思います。
    治療者、医者のYANBARU先生には失礼な物言いになりますが、ASDが治る、治癒すると表現できるのでしょうか?
    治る、治癒、治療という言葉は、傷付いた皮膚がきれいになるといった、いったん損なわれた身体の状況が、以前の健全な状況へと戻る、回復すると言う意味合いを持っていると思います。語源的には「治」は“治水工事”を表して、何かに手を加えて正しい望ましい流れに調整する、修繕するという意味を持っています。「癒」は、やまいだれの中に「愈」があります。「愈」は手術の道具を使って、盤に悪いところを移すこと、外科的な処置をして病を運び去ることで心が愉快になるといった意味。「療」は、ばらばらにもみつぶす意をふくみ、病気をばらばらにして取り去ること。
    ASDは「たくさんの(遺伝子的)原因があるだろうといわれており、そうした病気の病気の集合体だろうと考えられています。」(久保田健夫氏、山梨大学)ですから、そのたくさんの(遺伝子的)原因による特徴的な脳神経系など身体的表現型に「手を加えて望ましい流れに調整、修繕」したり、「取り去」る手段はありませんから、ASDが治る、治癒することは無いと思います。
    治る=”健全”な身体的状況になっていると誤認すると、実際に社会性が求められるようになってきた段階で、身体的困難が障害としてたち顕れ顕在化することがある。そうした落とし穴が見えません。
    それで「ASDが治る、治癒する」という表現は、有害だなと思います。

    • pal
    • 2010年 5月 21日

    IQは高いのに継続的合理的思考が欠如している子どもは、
    ○なんとか過集中で優秀な環境に行く か、
    ○思考レベルが同等な環境にいく
    のどちらかを選択しなければいけませんが、なまじっか優秀なため、後者ではレベルがあわないと言って反抗的になって叩かれて鬱になり、前者では社会性欠如で鬱になり・・
    なんとか「求められる社会性」というものが低いけれど優秀な人が集まる所をみつけて放り込んでみたところ、非難されないのをいい事に何でも先延ばし丸投げ、それでも鬱にならないだけいいかと思っていたら、今度はもてるもてない、ルックスの範疇でお山のてっぺんに登ろうとして、鬱になって過食嘔吐。
    ちょっと優秀くらいでは一番になれないので、努力しない。
    そんな様子は確かに頭にきてバッシングしたくなる。
    敢えて一番になれない場所を見つけて一番になろうとしてるのか、それが一番刺激が大きいから?とさえ思ってしまう。
    ADHDは狩りをするためにできている脳だという記事が新聞にありましたが、確かにその通りで、その通りだからこそ、能力があるかないかが幸せに暮らせるかどうかのほとんどを占めてしまう気がします。

    • peti
    • 2010年 7月 06日

    わたしもおそらくADHDなのですが、
    学生のころは全く普通に過ごしてきていて全く分りませんでした。
    無遅刻無欠席に近く、勉強も出来たからです。
    が、病院に就職して、自分の自己管理の出来なささ、
    毎回のポカミス。
    仕事を辞めざるをえなくなりました。
    子供のころは目立って特徴がないADHDって成長するに従って、どんどん粗が出てくるものだと思っていました。
    好きな仕事でもなかったし、もっと興味があることだったらうまくいったかなと思います。でも飽きやすいので、飽きたら終わりなんですけどね。

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