ADHDが先延ばしをする最大の理由は、自分で自分に「何で今まで手をつけられなかったか?」とか、「何で昨日は休んだのか?」などの非常に手厳しい「自己突っ込み」をするからである。
例えば長期の休みの後に、昼夜逆転が直せず、一週間くらい朝起きられず休んだとする。次の週は朝起きても、「何で先週来なかったと聞かれたらどうしよう」という抵抗があって休んでしまう。これで先延ばしが長期化して問題が拡大する。
ADHDは自分にも人にも一番きつい突っ込みを入れるのだ。世間も厳しいが、それ以上にADHDの自己突っ込みは厳しい。
ジャイアンは人にだけ厳しくて、自分のことには話をそらしてり誤魔化したり、時には病気になったりして目を向けようとしない。表面上は自己突っ込みをしているとはとても見えないだろうが、実は(少なくとも私の場合は)自分の突っ込みが一番きついと思う。
ASの人もジャイアンの外見と似て自己突っ込みはしないように見える。実際のところ心の中はどうなのかは聞いて見なければ分からない。
ADHD(特にジャイアン)のACの極端な自己評価の低下や、ADHDがずばずば言ったときの歯に衣着せぬ発言、時には強迫症状などがこの自己突っ込みに関係していると思う。
ADHDを理解するうえで大事なポイントである。
前にも書き込みましたがおっしゃる通りです。周囲の人はなんちゅうおそろしい自己中心的なやっちゃ。としか思わないでしょう。でも彼ら以上に落ち込んでいる、自己の醜さおろかさを認識しながら失敗を続け苦悩する内面の現状はこのブログをよほどきちんと読んでない限り(家族や親しい人にいて悩んでいる人など)絶対に理解されないでしょう。
私はASですが、確かにADHDの人はきつい自己突っ込みを入れるような印象があります。
ASも自己突っ込みは入れますが、ADHDが何でもかんでも入れるのに対して、ASはこだわりの範囲だけ入れていると認識してます。
こだわりの範囲内でしかやらないから、先延ばしにはならないのでしょう。
そして、自己評価が低くなりずらい原因でもあるのでしょう。
こだわりの範囲外のことは、自分が苦手でもしょうがないのだと割り切ってしまいますから。
自己突っ込み、確かに厳しいかも。というか、このくらい普通だと思ってたんですが、ADHD 特有なんですね。う〜む。
たまに(というか、よく、かも)突っ込みが厳しすぎて周囲にあきれられてると感じる時がありますが、そういうことだったのか。
自分の基準が厳しすぎて、周りの目を気にして仕事をつい抱え込んでしまい、ずるずる先延ばしにすることが多いのですが、実際に周囲に見せるとむしろそこまで考える必要なかったりすることが多いことに、最近気付いたりとか。
そんなんじゃいけないと思ってたけど、むしろそれでいいんですね。ちょっと楽になりました。ありがとうございます。
続きです。
わがままで内弁慶で我が強く、内面では自分のことを嫌って責めて、おまけに周囲の人にはお世話になり放題、迷惑かけ放題。それなのに人間関係は煩わしいとか一人で気楽に生きたいなんて本気で思うときもあります。
今回のテーマとはズレますが私の場合は自分の中でのび太とジャイアンは紙一重のような気がします。寛容で容認され愛情の多い環境では受身的で周囲に害の少ないのび太になり(祖父母に育てられていたころ)、強烈な自己中心的なジャイアン親に支配される環境ではACを経てジャイアンになりました。甘やかされなかったので自分の行動に責任をとれるレベルのジャイアンで済んだことは幸いですが・・。
のび太だったころはあまり自己評価は下がらなかったのですがジャイアンのほうが自分を責めます。ジャイアンのほうが内面が複雑で周囲に適応しにくいような気がします。
子供の頃から生き辛さを感じていました。
青年期になっていろいろな本を読み、自分はACかと思っていましたが、中年期となり、先生のHPやブログを拝見して、どうやらADHDらしいと思うに至りました。
そして、このエントリーとコメント欄の方々のお話から、それは確信に変わりました。
これまで理解できなかった自分の傾向が説明がついたように思います。
現在欝症状で通院していますが、すっきりとは改善しません。
私はいまだに自分をもてあましています。
子供の頃から周りにうまくとけ込むことができませんでした。
少し前から自分は発達障害か人格障害ではないかと思い始めていました。
こちらのブログのジャイアン型ADHDの症状がよく当てはまるような気がします。
自分がこのままババ抜きのジョーカーのように、どこへ行ってもいるだけで迷惑をかける存在として生きていくのだと思うと恐ろしくなります。
表面的な適応はどうしたらできるのか、ADHDの方はどうやって周囲と折り合いをつけていらっしゃるのか知りたいです。
すみません1回目が送信できていなかったようです。
私の場合、先延ばしは単純に面倒くさいからです。確信犯です。
自己突っ込みは自分でも不思議になるくらいいつもいつも自
分を責めていました。周囲にあわせられないので主に人間関
係で悩んでいました。悩んだところで自分の性格が変わった
り、事態が好転することはないとわかっていたのに同じような事を考えて落ち込みました。
結婚して主人から、人間関係や世間を気にしすぎると指摘されたことと仕事のおかげで人との摩擦に慣れたので今は前ほど気になりません。逆にジャイアン部分が強くなってしまったため「病気になる寸前すれすれの低い自己評価」を目標にするくらいが助かります。ある意味自分を殺して自分に与えられた役割を日々淡々とこなしていく、まるで自分が存在しないかのような錯覚も時々感じますが、自我を優先して折り合いがつかない苦しさより今のほうが自分も周囲もラクなような気がします。
どちらにしても周囲の人の手助けなしではだめですね。
私は毒舌であったり、厳しいところがあったり、何でもハッキリ言ってしまう事があります。
最近感じてるのはこの多数派から見たら毒な部分が出てる時の方が自分の精神は安定してる気がします。
ハッキリ言えないでいたり、解決しないでいると、さらに激しい自己ツッコミが襲ってきます。先延ばしからのウツ状態とでも言うのでしょうか。
理想が超高く俯瞰的に自己を見れてないかなと思ったりもしますが、この自己ツッコミという言葉にピンと来ました。もう少し観察してみようと思います。
視覚的なイメージの自己突っ込みについて。
以前は、はっとした時に、ぱっとイメージが浮かんでいたんです。あほな私が白球になっていて、バッターボックスに立ってバッターになっている突っ込み方の自分が打つんです。突っ込み方の自分のイメージは、往年の金本選手とすぐ入れ替わってしまいます。金本選手はTVで見てるとインパクトの瞬間、くわっと目を見開くんです。そしてバチーン!!と、ひっぱたく様に打つ。くわっと見開いた突っ込み方の目と目が合った、インパクトの瞬間の衝撃、痛みは感じない。(これはお約束ですよね事故の)私は場外に向かって飛んでいく。げらげら笑いながら。バッターはいつも待っていて、もらった!と言う感じで打ちます。
最近はバドミントンのイメージになりました。後姿で、選手は誰かわかりません(いやたぶん私だけど。)。すかっと打って、シャトル(あほな私)は相手チームのネット内側にへなへなと落ちます。シャトルになったとこが、扱いの複雑さがでてきたような。技術が変わってきた。自分ではバドミントンのほうが難しいんだと思います。選手は速い動きで走り回りますし。
これら、自明に基づくイメージでした。
突っ込み方は、正面から背面になった。なんだろうなと思って、打たれると打つの比重が変わったんでしょうか。私は打たれるものから打つものになったのか。これは自分をコントロールするようにしてるんじゃないかと。いわゆる大人になったんじゃないかと。
もひとつですね、以前バッターだった時、私は自分を正面からチラッと見れていたな、と。見えませんけど、待っていた。いつも待っていてくれるものがいたんです。
インパクトの瞬間の衝撃はインパクトの瞬間まででいいのでした。