ADHD関連

ADHDとASの違い(再論)

自己診断追記 ADHDとASの違いの本質

 ADHDとアスペルガー症候群の違いについて、最近の私のイメージが少し明確になったので書いておこう。

 ASの対人関係の本質は「絶えず他者の存在が前提となっており、またその他者との関係が非常に近い」ということである。「愛着」までなくても、その「他者との距離が非常に近い」ということだけでASとADHDを区別できる。

 例えばASの人はDVなどで痛めつけられても相手から逃げたり距離をとる発想自体ができないことが多い。「傷つけ合っても離れない」という認知と行動のパターンとなる。

 対してADHDは、「他者の存在が前提されていない」「意識しない限り他者は直感できない」ということで、「まず当たり前に自分のことは自分ひとりのこと」ということになる。

 例えば「あなたにも聞いてほしい」と言われなければ自分がその「場」を共有していると考えないなど。

 自己正当化型ADHDは人に受け入れられることを求めるが、それでも「その相手は見えていない」。自分の思いを押し付けたいだけで、人間としての相手を見ているわけではない。これは支配的ではあるがしっかり相手を認識しているASの積極奇異型と対照的である。

 ASの受動型は、「相手の決定は受身であるが、受身で決まった相手に対しては支配的となり、全てを分かることを要求し、積極奇異型と同じような執着の形式となる」ということになり、やはり「人が居ることが前提となっている」点で自己正当化型ADHDとは根本的に違う。

 だから私はASとADHDの合併という考え方は理解できない。


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コメント

    • yurin
    • 2006年 12月 03日

    こんにちは。
    >「まず当たり前に自分のことは自分ひとりのこと」ということになる
    いつの頃だったか『人間は誰でも一人で、生まれるときも死んでゆくのも一人。なのにどうして人は人を求めるのだろう?』ということを考えたことがあります。恐らく思春期頃かそれ以降だったと思います。
    この問題の私の答えは、いまだに出てません。
    いまのところわかっていることは、自分にとって自分以外の他者の存在が大事であるとしたら、それは『理解』という点だけではないかとイメージします。その場合、他者との距離感や意見の相違は全く関係ない。
    どんなに対立しても、最終的に『相手が自分を理解すれば、また納得できれば、その段階で全てを許すことができる』。
    逆に『どんなに表面上親和的であっても、自分の意見に同調してくれても、(考え方を含めた)自分を根本的に理解する相手でなければ、意味ある存在ではない』。極端に言えば『わかったふりをしたような、表面上の理解では許せない』。
    『理解』という意味合いも自分流には『相手が自分を』といういわゆる『自己を中心とした一方通行的なもの』になっており、また『納得』は『自分が相手を理解する』ということ。こうして考えていくと私が他者との関わりで大事にしているのは『理解と納得』という結論になるイメージです。たとえば意見が自分と違おうが、『納得できれば理解できる』。
    また私は『社会で理解されにくい人』を理解しようという傾向があるのですが、それは『多数派社会で自分はなかなか理解されにくいと思っていること』に関係しているような気がします。私の言う『理解』は多数派社会の言う『表面上の理解』では許せないから、どうしても『理解されない』というストレスを抱えてしまうので、その反動なのかもしれません。

    • yurin
    • 2006年 12月 03日

    >ASとADHDの合併という考え方は理解できない
    AS(自閉症)とADHDの合併という考え方は、私自身あちこちで目にしました。その根拠は『あくまで行動面において自閉症とADHD、二つの特徴が重なる』という点にあるようです。
    私も息子はADHDではないかと疑った時期もありました。これは多分に『多動や集中力のコントロール上の問題』という、あくまで『表面上に見える行動面の特徴』からそう見ていたことがわかりました。
    反面、こだわりはあくまで『自閉的』であることや、
    3歳頃までに見られたクレーン行動などの『自閉症にしか見られない行動』から、『息子は自閉症』という診断を自分自身で確定しました。また人を求める行動パターンは、ADHDである自分と本質的に違うことも診断のポイントでした。
    『多動や集中力の問題』は実はADHDにもASにも両方にあることなので、これだけを見ると両者の区別は難しいでしょうね。

    • るる
    • 2013年 6月 27日

    >ASの対人関係の本質は「絶えず他者の存在が前提となっており、またその他者との関係が非常に近い」ということである。
    この部分、頭に叩き込みます。ADHDの私にはわからないことだから、そして思春期のわが子は、やはりASなのだと思えたからです。
    昨日、子どもに直接ではないですが、子どもにも聞こえるところで、自分の価値観を「私はこう考えるから、私はこうする」とパートナーに対して話しました。
    それは「あなたもこう考えれば、楽になるのよ」と、”子どもに向けたメッセージ”の側面が確かにありました。
    その考えは、私にとっては合理性がありますが、他者との関係が近い子どもにとっては、役に立たないどころか母がそれを口にすること自体が「不快」だったことでしょう。
    余計なことだったということが、今わかりました。

    • zzz
    • 2013年 6月 29日

    るるさん、これはADHDとASの相違というよりは、大人と子供の相違だと思います。
    >「あなたもこう考えれば、楽になるのよ」と、”子どもに向けたメッセージ”の側面
    があったとのことですが、これをそのように受け止められるのは、自分と人とは違う(らしい)という認識があってはじめて生まれる感覚です。
    これを子供に求めるには、よほど深い経験を積ませていなければ、難しいというか、無理だと思います。特にASの子供に対しては。
    「こういう考え方もあるのよ」や「お母さんはこういう考え方をしちゃうなぁ」といった柔らかい言葉を直接に伝えたほうが、効果はあると思いますよ。

    • るる
    • 2013年 6月 29日

    zzzさん はじめまして
    >「こういう考え方もあるのよ」や「お母さんはこういう考え方をしちゃうなぁ」
    このような言い方・・・そういう発想自体が今までありませんでした。
    今は子どもと会話がほとんど無いので(向こうが言ってきたことに返事をするだけです)、心中に「何か伝えたい」という欲求があって、それでパートナーとの会話に、余計なニュアンスを込めてしまったのでは、と思います。
    パートナーに対しても、柔らかい表現は必要でしょうね。
    つくづく、いっつも、きつ~い言葉で話しているな~と思いました。
    仕事上の必要があれば、柔らかい表現をとるよう心がけていますが、自分としては苦手な表現方法なので、身近な人には、取りづらいです。というか、全然とってない!
    う~ん、むずかしい!
    でも考えるきっかけを与えていただきました。
    コメント、ほんとにありがとうございます。

    • アメジスト
    • 2013年 6月 29日

    るるさんが手さぐりで真剣に「親子関係改善の道」を探していらっしゃることがひしひしと伝わってきます。
    なかなか難しくても、まずはその真剣さが一番大事ですよね。
    突破口が見つかり、道が開けてくることを願っています。

    • るる
    • 2013年 6月 30日

    アメジストさん
    私が今必死なのは、たぶん「自分の納得のため」なのだと思います。
    自分が納得するためには自分に向き合うしかない状況、ともいえます。
    私は、自分のためにしか生きられません。そして、子どもの問題が表面化するまで、どうにかこうにか“るる様状態”で生きてこれてしまったのです。
    私はブログ記事もコメント欄も、ほんの一部しか読ませていただいていませんが、こちらにいらっしゃる皆さんが、いかに真剣にご自分と向き合っていらっしゃるかは、とてもよくわかります。
    親子関係改善のためには、私だけでなく子どもも、そしてパートナーも、自身に真剣に向き合う必要があると思います。
    今言えること、それは、こちらに書き込ませていただいた時から“関係はよい方向に向かっている”・・・これは確かだと思います。思いたいだけかもしれませんが、それでも、それは自分にとってうれしい変化です。
    パートナーにはわからないらしいですが、多分、子どもは(自覚していないとしても)以前より楽になっていると思います。

    • アメジスト
    • 2013年 6月 30日

    るるさん
    以前の記事「『事実』と『意志』」に、るるさんもコメントしていらっしゃいましたが、下記の先生の文章にはすごく勇気づけられますね。
    >私は「意志」の力を信じる。発達障害には特別に困難な問題もあるが、一途な意志の力もある。同じ思い込むのであれば、「出来るはず」「何か方法はあるはず」と前向きに思い込もう。

    • るる
    • 2013年 7月 02日

    zzzさんのコメントの中で気づいたことがあります。
    >”子どもに向けたメッセージ”の側面があったとのことですが、これをそのように受け止められるのは、自分と人とは違う(らしい)という認識があってはじめて生まれる感覚です。
    わが子には、自分と母とは違うという認識があります。一方で母との距離間が近すぎ、母にすべて察することを求めています。
    そのアンバランスで苦しんでいるのではないかと思います。
    子どもの苦しみは、当初私にとって文字通り「意味不明」でした。なぜそんな風に考えるのか、思春期の子らしくシンプルに反抗すればいいのに、と。
    今、意味不明の言動をとる子どもを、対等な大人として会話をしています。だから何も注意しないし、アドバイスもしないです。それが「子どもを一個人して尊重すること」だと考えるからです。
    子どもが感じる「母をめぐる苦悩」は、生涯子どもを縛るのかもしれません。それでも、それを抱えつつ、折り合いをつけて前に進むことが、「生きること」だと思います。
    昨夜はちょっとしたことがありましたが、一歩前進した子どもを見ることができました。パートナーが気づいていないところが、私的には悲しいですが、それは彼自身の問題でしょう。
    アメジストさん、自分にも子どもにも「一途な意志の力」があることを信じます。

    • アメジスト
    • 2013年 7月 02日

    >昨夜はちょっとしたことがありましたが、一歩前進した子どもを見ることができました。
    るるさんがこういうデリケートな部分に気づけることはとても大事なことですね。

    • yuyu
    • 2014年 8月 22日

    同意
    血縁(親兄弟 親戚)、身近な身内や友人を見渡しても
    合併していると思える人がおりません。

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