AS(アスペルガー)関連

ASの努力③言葉の理解

 私のブログを見て、「頭では理解できたが、自分がダメに思えてきた」という複数のASの人の感想があり、少し考えた。

 これも「関連付けのし過ぎ」の結果だと思うが、「ASの人は***だ」と書くと、「ASの人だけが***で、他の人は全て***ではない」という意味にASの人は受け取っているように思う。

 例えば「ASの認知のゆがみ」と書くと、もともとの意味は「ASの人は認知のゆがみがあることがある。(他の人についてはあるとも無いとも言ってない)」 という意味であるのに、「世の中でASだけがどうしようもなく認知がひん曲がっていてまともにものを見ることも出来ない」という風に非常に極端に(感情的に)受け取っているのではないかと私は想像する。当たり前だがこの二つは全く違うことだ。

 このあたりも、「可能性が即必然性に飛躍する」というAS独特の認知の特徴のせいかもしれない。

 その意味では、「認知のゆがみが無い人はいない」と注記しておくのが意味があるかも知れない。

 むしろ、「認知のゆがみなどは当たり前のことで、全くゆがんでいない認知が出来ると考えるほうがはるかに非現実的だ」と言うことになる。

 だからASの人に何かを言う時には、一応「これは誰にでも当たり前にあることだけれども、ASの人にはAS独特の***」といちいち面倒でも付け加えていたほうがいいかもしれない。

 逆にASの人は、「文字通りの言葉で言われていない意味を出来るだけ付け加えない」という努力をして欲しい。

 「社交辞令は分からない」とか、「言葉ではっきり言われたほうがいい」 という割りに、実はASの人は多数派よりもはるかに「意味を付け加えて過剰に受け取る」ということが多く、それに直面してADHDは戸惑う。

 少なくともADHDの言っている言葉については、「本当に文字通り」「言葉で言っていないことは一切のウラの意味や含みは無い」 という風に受け取ってもらったほうが誤解は少なくなるだろう。

 ちなみにADHDの場合は認知がゆがんでいるどころか、「ウラの状況が全く察知できない」という情報の入力障害がある。世界の半分以下の表面的な物的情報からその他のことを推測するしかない。

 また多数派の場合は、結局「多数派流にゆがめて理解しているのだが、多数派なのでそれが主流としてゆがみとは認識されない」ということになる。

 ということは「ゆがみ」という言葉自体不要で不適切であった。「多数派と違ったASという少数派の独特の受け止め方」 と表現するのが正しい。  


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コメント

    • mario
    • 2007年 2月 07日

    「頭では理解できたが、自分がダメに思えてきた」
    そう言うニュアンスの事を自分で書いたかどうか分からないですが、正にそういう気分です。自分は誰ともまともにコミュニケーション出来ない人間であるかのような気持ちになっています。
    頭では先生が書かれていることが分かっているし、そう考えるように努力しているけれども、気分の方は(認知のゆがみによって)上記のように自然にゆがみます。
    言葉の裏の含みを読み取ると言うよりは、言われた事をAS的に文字通りに読み取っている気がします。つまり“A”と言ったとたんに、“A”と“非A”が生じます。“B”とか“C”の存在が想定されないのです。認知の空間に、ASは線を引いて切り分けてゆく、ADHDは点を打ってゆく、そんな感じを受けました。これは正に“不確定な情報を不確定のままに”するか、しないか、の違いにも繋がりますよね。
    AS的には線を引かざるを得ない認知の仕組みを持ってそうです。すると線引きを曖昧にする、確定しない、書き換えを許す、背景のみえていない沢山の線を想像する、などの方法を取るしかない気がしますし、実際に私はそうやっていると思います。
    多数派は言葉を色々な視点(相手の妬み、嘘など)で写像する仕組みを持ってそうです。それは相手についての読みが当たれば、本来の正しい意味に翻訳できますが、外れれば極端にゆがみます。どちらにせよ、私にとっては怖い世界です。

    • HIKARI
    • 2007年 2月 07日

    ASの特徴に、「人の気持ちに鈍感であるが、相手が自分に示す反応に対しては過敏」ということはよく言われることですが、おそらく、「自分がダメに思えてきた」という言葉はこの『過敏さ』からきた反応なのではないかと思います。
    >ASの人は「文字通りの言葉でいわれていない意味をできるだけ付け加えない」という努力をして欲しい。
    これは、どういうことを意味してるのか正直、わからないです。すみません。
    「いわれていない意味を付け加える」ように見られてしまう事実を知ることは大切なことだと思います。
    「先読み」とか「深読み」をしないように、ということなのかなとも想像します。
    YANBARU先生がASであったら・・などとつまらないことを想像してもみますが、YANBARU先生がADHDだからこそASには意味のあることだと思います。

    • パパイヤ
    • 2007年 2月 07日

    >少なくともADHDの言っている言葉については、「本当に文字通り」「言葉で言っていないことは一切のウラの意味や含みは無い」 という風に受け取ってもらったほうが誤解は少なくなるだろう。
    私が自己診断ADHD, 元夫(別居中)が私の自己診断でASです。
    上記の話、まさに夫と私の会話です。
    私(ADHD)「Aだよ。」
    元夫(AS)「(暗くなって)・・・Bなんだね。」
    私(ADHD)「え?そんなこと言ってないよ。被害妄想だよ。」
    元夫(AS)「・・・(やっぱりBなんだ)」
    いや、実際は会話にならずに、私の最初の発言だけで元夫の勝手な思い込みでフリーズ、その後何を言っても受け付けず、とかの方が多かったです。
    私と多数派との会話例は、
    私(ADHD)「Aだよ。」
    多数派「(むっとして)それってBってこと?」
    私(ADHD)「ごめん違う違う、単純にAってことだよ。」
    多数派「(疑いながら)え~本当?」
    私(ADHD)「うん、本当、本当。私そんな当てこすりみたいなこと言わないでしょ?」
    多数派「そうだね。うん分かった。(完全に納得しているわけではないが、私を信用、尊重して、『仮に一旦Aと信じる』という選択をして会話終了)」
    (私がこう感じたってだけで、他の人はどうだか分かりません。
    個人的な例です。)

    • 捨松
    • 2007年 2月 08日

     いつも大変参考にさせてもらっています。私はAS当事者です。
     これまでコメントしようと思っていてしてこなかったことを一気に書いたため、長くなってしまいましたがご容赦ください。
     あくまでも自分の印象でしかないのですが、全般的に「YANBARU先生はADHDの人にはやさしいようだけどASの人にはちょっと厳しいなあ」という感じがしています。
     もちろん、これを責めようなどという意図はまったくありません。他の情報源よりはずっと信頼できると思って読ませていただいています。
     先生がADHD当事者であり、ADHDについては外から見ることも内省的に見直すこともできる一方で、ASについては外から見ることしかできないのですから、こちら側からすると「ASの人は○○の努力をしろ、と言われても、それができればそもそも苦労しないんだよね」などと思ってしまったりするのは仕方のないことです(また、客観的に見れば「ASの人には厳しい」なんてことも本当はないのかもしれません。そこら辺はよくわかりません…)。
     今回のシリーズ、「そんなに簡単に言われてもなあ…」というのが私の考えです。先生のお話よりももう少し根深いものを実際には感じています。
    ■「他者に完璧さを求めることが出来ない」ことはわかっているし、端から求めていないのだけれど、人と関わらずには生きていられない以上、人に何も求めないこともまた難しい。
    ⇒どんなに注意深く言葉を使っても、「そんなに完璧さを求めないでくれ」と言われてしまう、という苦悩がある。
    ■「ものごとを100%論理的に理解することが出来ない」こともわかっている。が、だからといって論理以外の方法では理解についてもコミュニケーションについても頼りなさすぎると感じている。
    ⇒また、論理的に解釈しようという営みは、自覚していなくとも勝手に行われてしまうし、意図的にそれを止めることも不可能だと思われる。
    ■「40から60へ向かう努力は当然するべき」ものであるとする。ある努力が、本当に40から60へ向かっているものなのか、それとも実際は60から40へ向かっているものなのか、それは何によって判断されるのか。
    ⇒根拠の根拠の根拠の…とたどっていくと、いつか必ず恣意的な前提が現れるが、それが私と他者とで共有可能な前提なのかどうか。
    (続きます)

    • 捨松
    • 2007年 2月 08日

    (続き)
     …というように、自分や他者への(頭での)理解が進めば進むほど泥沼に陥ります。
     また、「努力」などという一見美しい言葉には説得させられがちです。ところが、説得に応じて少しでも譲歩してみようものならば、際限なく譲歩し続けることが要求され、それに従えば従うほど心理と行動は引き裂かれていき、最後は身体に出てしまいます。
     そういう経験を積み重ねてきたからこそ余計に、簡単には譲歩できなくなってくる。したがって、ますます徹底的に、理屈で詰めていくしかない。自分のことや他者のことを知れば知るほど、どんどんそちらに向かわざるを得なくなっている。紛れもない、私の現実です。
     こういうことを言うと「もっと現実を見ろよ」などと言われてしまうことも少なくありませんが、見れば見るほど、私の現実はこのように見えてきます。
     先生は「発達障害は少数異民族」とおっしゃっていて、うなずけました。
     相手が同じ土俵(論理なら論理)に上がってきてくれるならば話し合いもできましょうが、そうでないならば服従か逃走か戦争かしかないのかもしれません。
     これも先生の言う、「世間に適応すれば病気になり、適応しなければ引きこもりや反社会的になる」という発達障害のどうしようもないジレンマ、ってやつを地で行ってますな、私は。
     とは言え、服従だけはする気になれないので、正確にはジレンマではありません。「俺をおとなしく引きこもりにさせとくのか、それとも反社会的存在にさせてしまうのか。それはあんたら次第だぜ」と社会側に投げ返してみたらどうだろう、というのが最近の私の考えです。
     以上、「そんなに簡単に言わないでくれよ」と言えば一言で済む話を長々と書いてしまいました。
     今後も楽しみにしています。

    • yurin
    • 2007年 2月 08日

    YANBARU先生の書くところの
    『少なくともADHDの言っている言葉については、「本当に文字通り」「言葉で言っていないことは一切のウラの意味や含みは無い」 という風に受け取ってもらったほうが誤解は少なくなるだろう』・・・は、当事者としてまさにその通り、といったところです。
    恐らくASも含めてADHD以外の人の言葉の認知は『言葉以外の、状況とか、前後にあった出来事などを関連付けて理解』していることが多く、ADHD流に『はっきり言う』といろんな意味で誤解を招いてしまうことが多いような気がします。とくに多数派の人は『言葉そのものよりも文章や会話の全体のイメージ』で受けとっているようで、こうしたところからADHD流にはっきりと率直に言うと『責められた』と思われるようです(私の場合)。これは私が、実際経験したことです。
    だから『なんだか責められているみたい』などと自分の言葉の印象を具体的にと指摘してくれる相手はとても助かります。あとで『かくかくしかじかで、責めているわけではない』と言えますから。(だからADHDとしては常に『下手に言葉を発することができない』という感覚なのです。)
    ASの人の努力というのは、もしかしたら『言葉を受けてすぐにAS流に反応しないで、相手の言葉の意図を言葉で確認する』・・・じゃないかなぁと思います。
    それから『認知のゆがみ』という表現を、私も以前してしまいました。改めてお詫びします。

    • 匿名
    • 2007年 2月 08日

    捨松様
     多数派の人であれば、あなたにこう言うと私は想像します。
    (多数派)「ASの人はそんなに辛いのだから、そのままで良いと思いますよ」「きっとそんなあなたを理解して助けてくれる人がいるでしょう」
     と表面上は言いながら、本音では「この人に近づくと痛い目に遭いそうだから表面的に付き合うだけにしておこう」と考えている。
     ADHD(である私)は違います。
    (ADHD)「結局自分の厳しい現実に直面して自分を変えて行くしかないという覚悟が出来ない言い訳を探しているだけではないですか?」「ASだからできないと言うのも大違いです。この場に参加しているASの人のコメントを読むだけでも、現実が厳しいことを承知の上で、改善の補償も無い中で自分を変えようと必死に努力している人がいることが何故分からないのですか?」
     捨松さんの求める「やさしさ」とはこのどちらに近いですか?
     もしも前者ならばこの場に参加するのは自分を変える決意が出来てからにしてください。やさしさは時には有害です。

    • Uqbar
    • 2007年 2月 09日

    はじめまして。医師にASの疑いありと診断された者です。いつも先生のエントリを楽しみにしております。
    確かに私は、<AはBである:(A⇒B)>という言明を、<Aならば、そしてその時に限り、B:(A⇔B)>として受け止めてしまう傾向にあることを自覚することがしばしばあります。とくに、「A=自分」の場合は顕著かもしれません。その場合、「ひとの言を字義通りに解釈」するというより、「余計に解釈」していると受けとめられるのが自然かも知れませんね。私にとって、非常に意表をつかれたご指摘です。
    >(多数派)「ASの人はそんなに辛いのだから、そのままで良いと思いますよ」「きっとそんなあなたを理解して助けてくれる人がいるでしょう」<
    という、「優しい」言葉・態度を、昔は字義通り受けとめることがありましたが、それなりに歳をとった現在では、単なる気休めでしかないことを経験的に知っています。むしろ、何が問題なのかを明確に知らせてくれることの方が本当の助けになります。といっても、相手の言葉遣いによっては傷つくこともありますし、十分認識していることを再度告げられて気がめいることもあります。今の私は、そうした際の効果的な処方を焦らず(!)、試行錯誤しながら探り当てていくしかないのだと考えており、そのマインドセットを放棄しないことが「努力」だととらえています。

    • ののの
    • 2007年 2月 09日

    「ASの人はそんなに辛いのだから、そのままで良いと思いますよ」っていうのは、ASが多数派になるような世界に変わらない限り無理ですよ。
    人は努力しながらちょっとずつ前に向かって生きていくものであり。
    いつかは親元を離れて自立しなきゃならない。親元を離れてないモラトリアム人間(社会の義務も果たしてない人)に世の中で働いている大人に文句いうのはどうかな(相手にされないのも当たり前だろ)って思います。
    そんなことは自立した「大人」になってから言ってくれって思いますね。
    いっぱい努力してればしてる人ほど強くて美しくて魅力的だとのののは思うんだけど。
    障害を持ってなくても輝いてる人は頑張ってるし、障害を持ってても頑張ってる人は魅力的だしね。
    ののの(ADHD)は強く魅力的でありたい。
    それを否定されちゃあ、お話にならんよ。って思うんですけどね。

    • yurin
    • 2007年 2月 09日

    HIKARIさんへ
    >>ASの人は「文字通りの言葉でいわれていない意味をできるだけ付け加えない」という努力をして欲しい。
    >「先読み」とか「深読み」をしないように、ということなのかなとも想像します。
    その解釈でいいのだと思います。相手が多数派の場合は私はコメントできませんが、少なくともADHDの言葉に裏の意味(言葉以外に追加された意味)は無いし、また相手の言葉の裏の意味を読み取ることもできないので。

    • HIKARI
    • 2007年 2月 10日

    yurinさんへ
    ありがとうございます。
    ADHDの方の言葉に「裏が無い」のは私も私生活で実感してきました。特に子供の言動に「裏表が無い」ことがわかったのも最近で、それまでは「何を言いたいのだろう・・?」と言葉の裏を探るという無駄な努力をしていましたが、ADHDの方の言葉に関しては「そのまんま」なのですね。
    ありがとうございました。

    • 匿名
    • 2007年 2月 12日

    コメントありがとうございます。
    mario様
     「ASは線で切り分ける、ADHDは点を打つ」というのは言い当てていると思います。線で切り分けるので、「あいまい」は最初からありえないと考えたほうが良いのかもしれません。
    HIKARI様
     「深読み」というのは当たるとは限らないので、避けたほうが良いと思います。まず相手の言っている意味が分かることのほうが少ないと考えましょう。
    パパイヤ様
     言葉の文字通りの意味以外の伝わり方を分かりやすく表現していただいてありがとうございます。
    yurin様
     状況や「文脈」の理解は、多数派とASでは違うことが多いので、言葉にそれぞれ別の意味を付け加えて理解すれば誤解になることのほうが多いと私は思います。両者ともADHDのように言葉だけで伝えるほうが安全であると言うことが言いたいことです。
    Uqbar様
     この認知の問題は非常に重要なので、もう少し突っ込んでみたいと思います。お互い試行錯誤を続けましょう。
    ののの様
     捨松さんの「やさしさ」に突っ込んだだけです。私もあなたと同感です。
    コメントありがとうございました。

    • HIKARI
    • 2007年 6月 06日

    はい。
    いつの間にか、すっかり「可能性が即必然性に飛躍」して、被害妄想的になっていました。
    「深読みは避けたほうが良い」と先生からコメントを戴いていたにもかかわらず、「ジャイアン記事」は、私を脅かすもので、「関連付けのし過ぎ」の結果であったと、苦笑してます。
    自分では「違う」と思っていても、「言葉にウラや含みがあるかもしれない」という余計な深読みで、自滅しかけていました。
    意味を付け加えて、過剰に受け取らないようにします。

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