ADHD関連

AS被影響症候群

 私自身最近気づいたことだが、ASの人と近く接し続けると、(多くはADHDの場合に)「認知と思考がASのようになって意欲が低下する」という現象があり、仮にAS被影響症候群と名づけた。

 ASの人の認知と思考の重大な特徴として、「あらゆることに可能性が一つしかない(もしくは無い)ように考える」という面があり、よく「想像力の欠如」と表現されるのもこの特徴だろう。お金に困った場合などには特に激しくなるようだ。

 ADHDから見ると、「どこへ行っても袋小路で、あらゆる可能性が閉ざされて出口がない」という話ばかり聞くことになり、著しくADHDの活力を削がれる状況になる。実はそれだけでなく、「本人を救いたいという気持ちを逆手に取られて脅されている」に近い状況も出現する。

 私自身もこの状況に陥っていて、最近回復したのだが、必要なことは、「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」、「現実の可能性は依然として無限に広がっており、努力は必要だが意志の自由は何も無くなっていない」ことを確認することだ。

 だから私は、少々厳しいことを承知の上で、ASの人に「変わろうという意志が無いということか?」と聞くことにした。他の可能性を見なかったことは本人の自己責任で、誰のせいにするべきでもない。

 ASの人の袋小路の言葉を本気で聴くのを止めよう。これはASの思考法でしかなく、そこから脱出する責任は(少なくとも診断とコーチングを受けている場合には)AS自身にある。

 ASの人から袋小路の言葉が出てきたら、「あなたがそう思っている限り誰もサポートは出来ないよ」と言うしかない。

 ASの人はそう言われる理由をきちんと理解して、自分の言葉が周囲でサポートする相手に及ぼす影響について自覚する努力をするべきだと私は思う。 


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  6. ASの二面性
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コメント

    • mario
    • 2006年 12月 27日

    自分自身は常に無限の可能性を考えているつもりですが、物事を深く考えた結果として、何らかの答えに到達します。反論されて納得すれば、別の答えも採用できます。ただ熟慮して得た答えなので、納得させるのは簡単ではありません。いずれにせよ、自分の自由意志で選んだものです。
    ですので「意思の自由は無くなっていない」と言われても、元から無くなっていないので意味が分かりません。
    ただ、妻が正に、AS被影響症候群 かも知れません。私と居ると「元気がなくなる」と何度も申しておりました。
    ここに書かれた問題は、きっと私にとってとても大事な問題なのです。なのに、依然として本文に書いてあることの意味が理解できていません。

    • yurin
    • 2006年 12月 27日

    ああ私もそうだったのかなと、最近の自分を振り返って苦笑いしてしまいました。
    娘の『こだわり』に付き合ってあちこち走り回り、なのに娘の望む結果にならず。娘には『今の状況ならこの線で妥協するしかない』と説明しましたが、納得いかない不満そうな表情に、こちらもそのマイナス感情の影響を受けたかもしれません。それに『なんとかしようと必死なのをわかっていて、わざとわがままを言ってる』ふうにも思えてきてたかも。
    AS的思考が『悪い』のではないですが、ただ思考に広がりが無さ過ぎて、(ADHD側からすると)窮屈な印象を受けるのは事実ありますね・・・。

    • Lis
    • 2006年 12月 28日

    ほんとうに出口がない方向にばかり進んでいきますね...
    どう考えたらそうなるのかという、言葉の裏側を読み、突き詰めた論理展開をして、暗い未来ばかり描く人...
    彼を救おうと奔走し続けて間もなく1年.
    彼の「分析」を聞いていると、私は脳天気で先が読めなくても突っ走っているだけのバカなんだなぁと思います(かといって、それで落ち込んだりすることはないのですが).
    彼の思考回路を覗き見ると奈落のようで、話をするたびに目が眩みそうです.そして、悲しみに包まれてしまい、泣けてきます.そしてなにもできない無力感に苛まれます.最近は毎朝のように夢も見ます.
    先生がおっしゃったように、自覚を持っても自己評価が下がるだけなのですよね.だから、彼が生きて生きやすい環境を作るしかないのですよね.それが私達の使命ですよね... そもそも、自覚など持てそうにもない彼ですし.
    愛着というものの実態がよく分からないので、この部分がそう? などと考えてきましたが、最近の寒々した状況では、それさえも見えなくなってきました.
    大抵のことを許してしまうのはADHDの私が人を突き放しているからで、彼の方がはるかに相手を人間として見ているので、腹を立て、厳しく断罪するのでしょうか...?
    もしかしたら自己正当化型ADHDなのかな? と考えたりしますが、どっちであっても周りにできることは変わりませんよね...
    離れて考えていると、間違っているのは彼だと思うこともあります.実際、聞く耳をもってくれるのなら蕩々と説諭したいようなことがいっぱいあります.
    でも、本人と話していると、それ以外の道が彼には存在しないことがひしひしと伝わってきて、何も言えなくなります.その圧倒的な辛さに、ただただ背中をさすってあげたいような気持ちになるだけです.
    なんだかターミナルケアをしているような感じですね.
    何をしても圧倒的に不十分で、信頼されたり、感謝されたりされないどころか、意に添わないと、これ以上ないような辛辣な言葉が返ってくるのですが.
    他者から見たら、もの凄くACな思考にですよね?

    • mario
    • 2006年 12月 28日

    自分の自己評価は下がらない。納得している。でも相手の自己評価を下げてしまう… そんな事があるのかと驚きです。
    でも人が熟慮せずに行動を起こして失敗しているのをみると、とても残念な気持ちになるのは確かです。その気持ちが態度に出てしまうかも知れません。では、それをどうフォローすれば良いのか?
    買い物や旅行計画に付いては、自分でも判ります。冷静に判断しすぎるために、気持ちの盛り上がりの腰を折りがちです。それは自分で判るので改善可能です。
    それ以外に付いて、どんな事があるのでしょう?もし良かったら幾つか実例を挙げて頂けると助かります。

    • ALIVE
    • 2006年 12月 30日

    >「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」
    AS当事者からしてみると、本人の認知がゆがんでいるかどうかは、他者から
    指摘されない限り、本人はまったくわからないという点は、心に留めておいてください。
    本人からは、自身の認知が外から見て、いかに独特の方式であるかは、本当に知らないのです。
    それゆえ、AS者の間違えた認知を改善するには、手間と時間がかかるのです。
    本人が気がついていない以上、先に進まないのです。
    それゆえ、袋小路の表現がでてくるのです。
    そしてその時点においてAS本人は自分で作り出した袋小路とはいえ、袋小路にいるのです。
    どのように先に進めばよいかまったくわからなく混乱しているのです。
    AS者の相手を真剣にすればするほど、うんざりし疲労していく感覚はよく分かります。
    AS者に対しては、それこそお目付け役のような人が身近にいて、一つ一つの行為、思考に
    対して具体的な指摘を、何度も何度も繰り返し説明し、納得させない限り、どの部分が
    どのようにゆがんでいるかを、AS本人が理解することは困難です。
    AS者に対しての対応は、複数人で対応するほうがよいと思います。
    対AS者に対する疲労感も分散されるでしょうし、AS者から見ても、複数の人々の
    多様な意見を聞ける機会を得ることによって、多様性や、可能性のありようを
    学べる機会が増えますから。

    • ALIVE
    • 2006年 12月 30日

    これは私個人の私見ですが、自分自身もコーチングを実際に現実に受け
    はじめて自分の認知が、とてつもなくいびつであることを知りました。
    正直に言うと、いびつであることを知る=混乱の始まりでもありました。
    なぜなら、全体としていびつであるとすれば、個々の部分を部分的に修正していく作業を
    重ねていくしか思い浮かばないからです。さらにこの考え自体も
    「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」と自分で思ってしまい、なにが正しい
    認知なのか分からなくなります。まったくもって基礎となる部分が無いことにきづき
    困惑してしまいます。
    それでも、自身で出来る事をやるしかないので、サポータの力をかりながら、周りを
    疲労困惑させながらも、やれることをこつこつやるだけです。
    私に関わる人々を疲労困惑させているのは、自覚しています。悲しいことですが
    どうにもなりません。そしてまたこのような事を考えていると、
    「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」がうかんできて、一体私は何なの
    だろうか?と思います。
    この場合は、「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」と思うのが、「AS的な
    ゆがんだ認知の結果でしかない」ということは感じとれます。
    しかし自信はありません。
    このような状態になってしまうので、「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」
    という表現は、具体例とともに表記されない限り、私は理解し得ないと感じます。
    私にとっては、他者の具体的な意見、指摘がとても重要な指針になります。
    私の場合は認知の部分において、なにか人としての基礎が無い感じです。

    • 月の草
    • 2007年 1月 26日

    marioさん
    marioさんは、なんて夫と似ているのでしょうか(marioさんよりも夫は激しい人だと感じられますが)。私も夫と一緒にいると「元気がなくなります」。
    YANBARU先生
    >実はそれだけでなく、「本人を救いたいという気持ちを逆手に取ら
    >れて脅されている」に近い状況も出現する。
    と、先生は仰っていますが、似たような事件が、のだめカンタービレの中で描かれていたので紹介してみます。
    ある日、千秋くん(ASキャラ)は、ピアノが天才的に上手なため、ピアニストに向いていると思われるが、幼稚園の先生しか目指していないのだめちゃんという子に向かって「幼稚園の先生はお前には向いていない」「俺が親ならお前には絶対に預けない」というのです。
    勿論、千秋くんはのだめちゃんの将来を思って、二つの可能性のうち、より向かないと思われる方を消す作業をしただけなのですが、これは最善の方法でしょうか。のだめちゃんはこれによって著しく傷ついた様子は見せていませんが、素直に従う様子も見せず「のだめは、幼稚園の先生になりたいんですっ!」と、自由意思を表明します。
    夫との関係の中でも、同じようなことが沢山起きました。私が、本来エネルギーを注ぐべきところ(最も本人が才能を持っていると思われる部分)に注がずに、近視眼的に、あるいは先延ばしするかのように脇道ばかり行こうとするためです。
    その度、○○はお前には向いていない、無駄なことをするな、お前には○○は無理だ、などの言葉を投げてくるので、そのネガティブな言葉だけが記憶に留まり、だんだんと自分は無能で、ダメなヤツなのだと思うようになって元気がなくなってしまうのです。
    上記のような時、私なら千秋くんになんと言って欲しいかというと「君は楽しい人だから、子供たちに大変な人気になるだろうね。幼稚園の先生もいいけれど、ピアニストはどうだ?君のピアノは人を感動させる、素晴らしい響きを持っている。ピアニストに本気でなるための努力をしてはどうか?幼稚園の先生になるのは、その後からでも遅くはない。」あたりです。夫には、ソーシャルスキルとして、状況を肯定的に捉え、良いところに目を向け(悪い所ではなく、良いところをピックアップし)、言葉にするすべを身に付けて欲しいです。

    • 月の草
    • 2007年 1月 26日

    追伸:実際のところ、どうしてそういうソーシャルスキルを夫が持たないのか不思議です。とても頭はいいのに。
    ASの人というのは、一度身に付いたルールは、いつでも保持するはずではないのでしょうか。ですから「対話とはそういうものだ」と、定型文というか、定型ロジック?!とでもいうのか、そういう論法として覚えてしまえばいいように思うのですが………
    たとえば、外国人の場合、どの人も比較的そういうロジックで話しているように感じます。どの国の人も、相手のことを肯定的に捉え、思いやるような文体で返事をしてくるように感じます。
    先日来訪した外国人男性は、食後に食べ終わったお皿をキッチンへ持ってきました。私は、台所が散らかっているのを見られるのがいやだったので、散らかっていると言い訳をしたのですね。すると「いやいや、今料理をしていたのだから散らかっていて当然だ」とフォローしてくれるわけです。私はそういわれて、後で大変情けなくなり、涙が出ました(ある種の外国人男性は、そのように躾けられているだけだとわかっていても)。夫には、故意に散らかったものを放置しているわけではないのに、散らかっていると指摘されることはあっても、大目にみてもらえたことはありませんから。
    一方、彼らの奥さんの話(悩み)を聞いてみると、どうやらASっぽい人が多いのです。実際に行動パターンを見ていても、ASのように映ります。ですから、彼らは単にソーシャルスキルとして、シーンごとにこういう時はこう、こういう時はこんなふうに、と論法を覚えているのではないか、と感じることがあります(英語だからやりやすい?)。日本では、どうしてそうならないんでしょう。夫を見ている限り、根底には男尊女卑を肯定するようなものを持っていると感じるので、それが邪魔になっているような気もするんですが。どうでしょうか。

    • mario
    • 2007年 1月 27日

    月の草さん。
    私にとって耳の痛い話です。
    ただ、私や千秋や夫さんへの不満をここで言っても不毛なだけです。もう少し前向きに考えませんか?
    夫さんは本当にあなたの為を思って言っています。表現の方法が良くないだけで、あなたを貶める意図は持っていません。あなたが感じている事は、夫さんの本意ではありません。あなたにできる事は2つあります。のだめのように自分の気持ちを曲げないようにしましょう。するなと言われても、向いてないと言われても、自分のやりたい気持ちを主張しましょう。失敗するかもと言われたら「可能性が無いわけではない」と言いましょう。「私にはそれをやって失敗する自由がある」と言いましょう。
    もう一つ、「あなたの言っている事で私は自分の自由が奪われる、それで元気もなくなる」と正直に言いましょう。簡単に受け入れてもらえないかも知れませんが、「あなたの言っている事は、私にとってはこう言う意味を持っている」と繰り返し主張しましょう。
    ASは合理的な判断で、これらの主張や意見を受け入れる能力があると私は思います。
    あなたばかりが変わるのではありません。夫さんにも変わってもらいます。双方が接点を見つける努力が必要です。ASは自分の考えに確固たる信念を持っていますが、変えられない訳ではありません。主張が強いだけですので、それに負けない反論を、理屈ではなく気持ちの点での反論をしてみて下さい。先ずは気が付いたあなたが行動を起こす必要がありますが、粘り強く主張すれば、きっと受け入れてもらえると思います。
    日本人が、あるいは夫さんが、外国人男性の持っているスキルを持っていないなら、それを身に付けてもらいましょう。確かに今持っていないかも知れません。それでも指摘する事でそれを身に付け、コミュニケーションの問題を減らせる可能性は充分にあります。
    私は妻の浮気と離婚要求でAS的なコミュニケーションの問題点に気が付きました。まだ上手く対処できるか分かりませんが、その努力を続けています。もっと早く気が付けば良かったと後悔する毎日です。あなたの夫さんは今それを知るチャンスを持っています。先生が何度もASの特徴や対処方法を書いています。それを読んで、ASを知って、適切な方法で夫さんに伝えてあげて下さい。

    • 月の草
    • 2007年 1月 29日

    marioさん>
    ごめんなさい(^^; 昨日私は、行き過ぎてしまいました。marioさんとお話したかったんですよ。なんとなく。でも、marioさんとお話するにしても、のだめや私の例は行き過ぎたものでしたね。ASのせいで、誰かがとても傷ついているのだ、というようなことばかりアピールする文章になってしまったようです。
    ほんとは、先生に「私はこんなことで困ってます!まさに其れです!」とアピールしたかっただけかも。
    PS: marioさんのおっしゃること、完璧すぎてめげます(^^; やはりここでも、自分のダメさ加減を思い知ってしまいます(^^;
    落ち着いてから、また書きますね。

    • mario
    • 2007年 1月 29日

    月の草さん
    > 完璧すぎてめげます(^^;
    済みません。理想に走りすぎました。そこが私の(もしかすると一部のAS者の)良いところでもあり、悪いところでもあるような気がします。こんな姿勢が相手を追い詰める事になりがちなのも自分で分かっています。
    > 「私はこんなことで困ってます!まさに其れです!」と
    ここにそれを書く事は有益です。私も困った事を沢山書いてます。こんなやり取りの中から、何かが(答えが?)見つかったりもします。
    余りめげずに、また書き込みして下さい。

    • mario
    • 2007年 1月 29日

    理想ではなく、自分の現実での話…
    昨日の妻との話し合いで、妻はハッキリと「AS被影響症候群」だったと分かりました。
    行動や買い物、一つ一つに(事前に、あるいは事後に)私のチェックが入り、それに上手く反論できなかった。いつの間にか、行動への意欲がなくなり、自分で何かを購入したいとも思わなくなってた。(別居を始めた)今は自分の思うように活き活きと生活できている、と。
    この言葉を引き出せたのも、私がここでADHDへの理解を進めたからですが、まだやっと問題を明らかにしただけの状態です。
    あなたは自分の自由意志をもっと主張して良いし、これからは私はそれを尊重できる。これまではあなたの気持ちに気付かずに縛っていた(あなたの意思を尊重できていなかった)が、今後はそれにも注意する事が出来る筈だ。そんな話もできました。
    ただ、まだハッキリとした表明の無い相手の希望(意思)を、うまく汲み取れるかどうかは、全く自信がありません。相互理解の入り口に立った所ですが、一方からのアプローチには限界も感じています。

    • ののの
    • 2007年 2月 05日

    はじめまして。ののの(ADHD女性)と申します。
    のののも、ASの人と一緒にいると、のののはこういうひとでなくてはいけないというような錯覚に陥り、自分の行動すべてをその型に当てはめる癖がついてしまって。すごくつらい時期を経験しました。のののはこういうひとで。こういうのが好きだから。だから「こう」でなくてはいけない。そのこうでなければいけないのが「ADHD道をつっぱしるのののは魅力的だよ」だから「ASの俺を認めろ」でした。
    私もかなり好奇心が強くて新しい刺激にのりやすいタイプなので、すぐ挑発にのってしまいました。そのため、かなり自分を自由にする努力をさせられていました。本来自由とは好きにやっていいことなのに、なぜこんなに苦しいのだろうとつらかったです。それは刷り込まれてしまっているのです。本当に怖いことだと思いました。
    特に、ASの人が男性(異性)であるほどその効果は強いです。自分をのっとられそうになってしまいます。よくよく考えてみると、その人のことを本来は恋するほど好きでない(友達としては大好き)のに、なぜか恋させられてしまっている状態に陥っていました。彼は頭がいいので、会話をすればするほど、深みにはまってしまいます。なぜ、そうなってしまうかといえば、その人の言っていることがすべて論理的であり、正しいかのように聞こえてきて私の行く手をすべて底なし沼状態にさせてしまうのです。
    ほんとにそっちに行っていいのかブレーキをかけて止めていきます。のののは来年から養護学校の先生(自閉症の教育が専門)になるのですが、「お前のような人間が教育者になることは、障害者にとって迫害者をまた更に増やすことになる」、「お前の支持している教育方法は本当に正しいのか?お前の支持している教育方法で、最高の生徒が誕生した。それは俺(AS)だ!」と脅しをかけられている始末です。
    とりあえず。
    AS被害にあった時の応急処置の解決法は、とりあえず動くこと。でも、やっぱり、ちょっと考えるとすぐにAS妄想が襲ってきます。今のところは、就職前で時間があるのですこしAS妄想の考えでそこをつくところにくるまで妄想し続けるのも面白いことかなと思いました

    • tukatantikatan
    • 2015年 4月 10日

    >だから私は、少々厳しいことを承知の上で、ASの人に「変わろうという意志が無いということか?」と聞くことにした。他の可能性を見なかったことは本人の自己責任で、誰のせいにするべきでもない。
    これは自然のせいでいいと思います。
    ところでこの冬流行した曲を、何度も耳にしているうちにある言葉を思い出しました。それは「どうせ、死んじゃうんだからぁ」というもので、以前会社に居た人が、気合を入れてくる上司に対して陰で発したものです。私は、それを言っちゃあおしまいよ、と返したように思う。その時モヤモヤ感が残ったがなんだかわからなかった。それからたぶん10年くらいたった今思うのは、どうせ死ぬとは、人間を一般化した最終形はそうなる、ということだと思うが、私は未だ死んだことがないので、その感覚を先取りすることができないのでわからないので、モヤったのではないか。。だから、わからないと言えればモヤらなかったかも。でも帰納的に妥当だとわかるので反論はできない。のでモヤったのでは。もうひとつ、私にとってどうせ死ぬがNGなのは、私は短絡的で遅延嫌悪があるので、では今すぐ死のうとすぐ思うから。何もかも無駄、思い出など無意味。でまた体験してわかろうとするし。いやさ体験できないじゃないか。一般化の最終形は刹那へとつながる気さえする。私は永劫回帰を思い出してひと安心した。替え歌を作って楽しかった。

    • tukatantikatan
    • 2015年 4月 10日

    一般化するということは未体験を補うとか代わりになるんだろうか。

      • tukatantikatan
      • 2015年 4月 14日

      ええ、当時、前提がわからなかったということですね。以前会社に居た人の「どうせ~」発言は、自分はそれをやりたくないっという前提があったが、省略されていた。(ジャイアン能力の有る人が時たま言う「本心」とは前提のことだろうか)私はあったとしても省略されているものはこの世には無いぐらいの考えなさ・思いつかなさなのでわからなかったと。きっかけが無いと思い出さないし・・・まず私自身に前提が無かった。
      ところが前提は今になって出てきた。私は少なくとも自分が必要でしたことに関しては短期的な結果が良かれ悪しかれほしい。全く忘れているように見えても必ずや生きている間に結果がほしいということです。まあ遅延嫌悪は遅延評価で相殺されてます。前提が出てきたのは時間認知の感覚が関係してると思います。
      「「「「「考えなかったことは実現しないのは確かだと思います。」」」」」(←立体感)なので、いつまでーもくどくどと考えています・・・

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