AS-ADHDカップル⑤ --- 孤立型ASの場合
孤立型ASは聴覚過敏や自閉的なこだわりが強く、引きこもりがちになり、社会においても家庭においても(極少数の安心できる相手を除き)「自閉的に誰にも邪魔されない」空間を必要とすることが多い。
そういうわけでもともとカップルになる可能性は大きくないが、合理的、思い込み型のADHDと出会うとうまくいく。
(自己正当化型を除き)ADHDは基本的に束縛を嫌い、相手にも寛容である。だから「引きこもりたければ自由にどうぞ」と言える。また相手が引きこもることで多数派のように変に勘ぐったり、パートナーとして疎外感を感じることも無い。
そういう意味で寛容さのゆえにADHDは孤立型ASと共存できる。
ただADHDの側がACであるときは、孤立型ASの微妙で細かい世間への反応に過剰反応するので、孤立型ASを結果として振り回したりいじくり回したりしてしまうことになることもある。適切な説明でASと自分のADHDについて理解することでACをクリアーすることが可能である。
どのタイプのASであっても、ADHDの寛容さ、辛抱強さによって、共存可能。
ただ、ASに真の意味での共存を求めるのは難しいので、ADHD側は普通の
家庭の形式とは違った生活意識を持つ必要がある。
孤立型ASは自閉傾向が強いので、普通の生活形態を保持すること自体が困難。
うつなどの二次障害が表面化することも多い。
ADHDがどこまでそれらを許容できるかによって家庭継続か家庭崩壊かがきまる。
ASが独自の形式でいるように、同居するADHDも独自の世界観をもつ必要はある。
ただし、何事にも限度というものがあるのは事実。
ASが家庭の中心にならないほうが無難ではある。
今回は自分たち夫婦の話でなくて、義両親の話です。
私は最初、こちらのブログをザッと読みした後、一番最初に素人診断をしたのが義父で、絶対に孤立型ASだと思ってます。
超ニッチな分野の研究者で退職後も一流大学から講義依頼が来るほどの専門家ですが、その世界の価値観でこの世界の全てを語るところがASの典型かな、と。
ただし、中心志向というものは感じないんです。志向じゃないんです。最初から中心だから志向する必要がないんです。
あとは聴覚過敏。
長男の嫁(私)も、次男の嫁(初参加)も集う正月休みの緊張感漂うリビングで、藪から棒にTVを音消しで見始めるのです!
義母も長男も次男も、何も言わずに立ち上がって何処かに姿を消し、リビングには義父と私と次男嫁。そして映像だけの正月特番。
私は以前から義父が音消しでTVを見ることを知っていて特に気にもとめて無かったのですが、何だかその時は私が何か言わないと空気が凍りついている様な気がして「おとうさんはどうして音を消して見るんですか?」と聞いたら「ん?字幕があるから、、音はうるさい。」との事でした。
私は変な人だなぁとしか思わなかったのですが、その晩、次男嫁は「おとうさんは、私を嫌っている」と泣き濡れて夫婦喧嘩になったそうです。
義母を自己正当化型ADHDだと疑う理由は、口を開けば義父の悪口でいかに自分が酷い目にあっているか、毎度毎度、切々と訴え続けているから。
因みに私達が結婚して半年で空の巣症候群になり、なぜか私に「死にたい、死にたい」と訴えるのです。
で、そんなこと私に言われてもな〜と思って、「息子に直接言ってみてはどうですか?」と提案したら、言わなくなりました。
で、問題はその息子である私の夫がADHDだかASだか、サッパリ分からないのです。
「躓いたのは、石が悪いから」という認識をAS的な表現で神の様に私に教え諭すのです。私が同意するまでしつこく。
私を人と思っていないんじゃないかと思う節があるかと思えば、愛着と言うか、執着に近い支配を試みるし。
全然、分かりません。
実は、自分の両親も孤立型AS-ADHDカップルじゃないかと思ってます。
こっちは義両親と違って実母がのび太ってのは割と疑う余地がなく、実父の方が迷うんだけど孤立型かな〜と。
義父ほど「こだわり」が強烈でなく、内と外で人が変わる所は受動型っぽいけど、決して凡庸なタイプではなく、学童期は「天才少年」で、中高一貫の私立校に通うために親戚の家に半ば養子の様な形で預けられたそうです。
結局、家族の期待通りに一流企業に研究職で就職したのだけど、分析結果で上司と対立し、折れて上司の要求通りの報告書を提出、プロジェクトが失敗して大赤字、責任を負って左遷(単身赴任。私を妊娠中。)
単身者寮に引きこもり、会社から母に迎えに来る様言われ、迎えに行ったら真っ暗な部屋の万年床の下にはキノコが生えてたとか。で、退職。
母は幼子二人を抱えて迎えに行く際、離婚を覚悟していたそうですが、父のあまりに惨めな姿に「見捨てられない」と思ったそうです。
父はその後「二度と責任を負う必要のある、人を相手にする仕事にはつきたくない」と、経歴を捨てて工場労働者になりました。
私は工場労働者の父しか知りません。自宅と工場を往復する以外に趣味もなく、友達も多分いなかったと思います。家では自室に閉じこもっていつも本を読んでいました。その記憶しかありません。
父の読書の邪魔をすることは許されず、母から「家にいる時は泥棒になったつもりで居なさい。」とキツく言われていました。つまり物音を立てるなという事です。
不思議なことに私はこの父を母よりも尊敬していました。父が全ての事において母よりも絶対に正しいと思っていました。だって頭が良いんだもの、明らかに。
母はいかにも「のび太」で、楽天的を通り越して馬鹿なんじゃないかと思ってました。ジャイアンの私がのび太母をカモにする様になるのは必然でした。
私は父のやり方をソックリ真似して母を恫喝したり、馬鹿にしたり、コケにして貶め、自分の優位をアピールし、母を自分の都合のいい様に利用しました。
そのくせ、のび太母を憎んでもいました。のび太母の非情緒的で結局ジャイアンが望む全てを与えられない事、その欠乏感が私の問題の本質だと、、、
これは思い違いの様です。
孤立型の弟は公務員をしていますが、難しい立場にいるようです。
頭脳明晰という感じですが、人間と一緒に生きる、というのが苦手そうです。
学生時代に自分がしていたスポーツがあり、選手能力の分析や戦略を考えるのが好きな弟なので、スポーツをしたい子供たちとその保護者に継続して関わった機会があります。
まぁ人間社会に一応適応しているとは思われますが、論理と分析による、世界の理解の仕方が通用しなくなった時、意外にあっさりとボロボロになるかもしれませんね。
びっくりしました。
まるで私の父とそっくりです。
高校の数学の模試で全国トップをとったことがあるらしい父も、なにかあって工場労働者になりました。
部屋に籠って読書とPC、足音を立てることがゆるされなかった。母を馬鹿にしコケにし貶めた。
母はちょっとし一人娘のお嬢様だったのにすべてを捨てさせた、墓地も土地も。それでも母が受け取ったい遺産で家を買い、定年退職後は働かず、のうのうと暮らしている。
まるで成績が良ければ、人格がすぐれていて、特別扱いされて当然だという態度です。
母に罵声を浴びせるこの人は、母がいなければ生活できないくい、プライドが高くて役に立たない人間なのだと気づいたのは
わたしが家庭をもってからでしt
すみません・・コメント書いている途中で飛ばしてしまったかも・・?で、すぐに続きをかいていたら・・また消えるし・・(>_<)もう放置しかかったんですが、やっぱり追加します・・。 (前のは飛んでないかもしれないけど) とにかく、父みたいなたいな人は、自分の間違いに一生気づかないまま社会的底辺に転げ落ち、それでも自分は有能とう妄想にしがみついて亡くなっていくんだと思う。それれはそれでいいんだと思う。 けれど、「私」をささえた妄想は崩壊し、世界は嵐になりました。そんな時、先生とこのコメント欄は、嵐の中にあった私の救命ボートでしたから、いつも、いつまでもしがみついていたくなるのです。 でも、それでは絶対にいけない。 そんなことしたらここが自己正当化の妄想工場になってしまう。 先生は救命ボートであって大地ではない。 これで・・いいですよね。
少なくとも娘の目で見える範囲では、父は転職して正解だったようです。
周りの人がどう言おうと、父はそういう生き方しかできないし、それで満足しているように見えました。
少なくともアル中になったり、薬物やギャンブルなどの依存は一切なく、世の中に恨みを持っているような感じでもありませんでした。
ただし、母に対するモラハラは苛烈でしたね。今にして思うと。
のび太でなければ耐えられなかったでしょう。
そういう父を理想の男性ー孤高の天才ーと思って育った娘の人生が私の本質かと思うと、顔から火が出そうな程恥ずかしいですね。
「先生は救命ボートであって大地ではない」
「救命ボート」は、「自分を変えるきっかけ」「立ち直るきっかけ」であり、「大地」は「人生」。
ちょっと大雑把?だけど、こんな解釈で捉えています。
私もそう思いましたし、(比喩表現でも)その方の気持ちがストレートに伝わってきて「理解」に繋がったことが、率直に嬉しかったですね。(ただ、私の一方的な「理解」の仕方であるので、決め付けないでおこうと思います)
このコメントは非公開希望です。
今回のちひろさんのコメントは、だいぶ依存から抜けてきている印象があり、清々しく心に響きました。
あらためてここに実父と義父の特徴を書いてみて、しみじみ気が付いたのは、孤立型ASとしては義父の方が重症なんだな、という事です。
実父は不適応の結果、自分を見つめ直して、どんなに知性が傑出していても社会性が無ければ多数派の中では生きられない事を受け入れ、自分の脳にあった生き方を選んだのだと思います。
その反対に義父の方は大学教員の職についてから定年退職するまでずっと「こだわりの箱庭の王様」として生きてきた。
その箱庭の中でも、全く波風が無かったわけではないので、研究以外に「人としてどう生きるか」についても、正解を知っていると思っている。
こういう父親に育てられたから私の夫はASかADHDかさっぱり分からない人格になったんだなと、改めて思いました。
義父は長男にも次男にも自分の敷いたレールの上を確実に走るように強制しました。
本人たちの望む学部に進学することを許さず、何年も何年も何年も何年も何年も、浪人させました。
最後には子飼いの若い助手を家庭教師につけて信頼を寄せるよう仕向けた上で、期を見て自分たちの学部に来るように説得させ、夫はついに折れたそうです。
しかし、実は私が夫に並々ならぬ関心を抱いたのは、まさにこの、聞いた事がないほどの長期間の浪人生活を耐え抜いた夫の意志の強さだったりするのですが、、、(その事を夫に言うと「でも、結局負けた。」と不快そうです。)
私は目標に向かって頑なに意思を曲げなかったエピソードと思っていたのですが、本人が言うには「そうではない。そうする以外に選択肢がなかった。」との事なんです。
う~む。どっちなんだろ?
ちなみに、義父は定年退職後には起業して長男である私の夫に継がせようとしてます。
そろそろ創業10周年なのに未だに利益があがらない「俺の箱庭会社」のくせに「この会社は自分のために作ったんじゃない、あなた達のために作ったんだ。」と言われた時、私は思わず大爆笑して空気を凍りつかせてしまいました。
「救命ボート」はあくまで一時的に乗っていてピンチを助けてもらうものであり、できるだけ早めに降りる必要のあるもの。
大地は現実の世界を自分1人の足で踏みしめていくもの。
つまり、指導者からポイントを習得したら、できるだけ早く依存の関係を抜け出して離れるのが、指導者にとっても患者にとっても、ベストだと感じています。
YANBARU先生も以前はそういうスタンスで指導なさっていたように思います。確か、カウンセリングの終結は「訣別」が理想的だとおっしゃっていたので、私も心底同意しました。
このブログのコメント上でも同じことが言えるように思います。ここは友人関係を作る場ではないと思います。
古い人はどんどん救命ボートを降りて、新しい人が代わりにボートに乗るのがいいのではないでしょうか。
でも、あくまでこれは私の個人的な意見で、人に押し付けるものではありません。
ここにきてやっと、ここ数年来の著しい体調不良から始まり、ADHD診断に至った、理由が分かってしまいました。
義父が退職後起業した会社は行政の支援を受けていたので、行政に対する報告書等の提出物が多かった。
でも、義父はWordもExcelも使えない。そんなの今まで秘書がやってたから。だから私は好奇心一杯で秘書の代わりを買って出た。
研究に関係のない行政への提出資料、会計、労務、法務、、、、義父には出来ない事だらけで、次第に私は義父に指示さえ出すようになっていた。
「私にはやるべき事がある」と必死で抵抗する義父に「明日が提出期限ですからこちらを先にやってください。」等々。
私は得意の過集中モードで徹夜などもして作成した提出物を、義父に渡したまさにその直後、切迫早産で緊急入院。4時間後に出産に至った。
その状況で、義両親は見舞いにも来なければ、電話の1本もない。
そして、夫の態度も空々しく、とても長男誕生を心から喜んでいる風に見えない。
何か恐ろしく不穏な空気が流れていて、その事だけは感じ取れるのに、何故そうなるのかが私には全く分からなかった。
そして退院後数日たって義母から一本の電話。
「他にもやるべき事があったのに、あなたが急にそんな風になって、こちらは困っている。あなたから義父に『ご迷惑おかけして申し訳ありません。』と頭を下げに来てほしい。」と。
理解できませんでした。義母のこの言葉。この3年間ずっとずっと。。。
断じて納得できず、しかも第一、何でそれを自分の口で言わない!なんで!!なんで!!!と激しい怒りで心身ともに制御不能となりました。
それでも、この時の出来事は日々の育児に取り紛れて記憶の底に沈んでいました。
でも今、やっと理解できました。
抜け落ちていたパーツが全部はまった気がします。
最初に孤立型ASのこだわりにこだわり抜いた「俺の箱庭」を土足で踏み荒らしたのは私だった、と。
この大前提があれば、義父の要請に応えるためとは言え、切迫早産になってまで過集中で仕事をするのは、単なる「自己管理能力の無さ」として攻撃対象(反撃のきっかけ)にしかならない、と。
この結論に至って、私はとても満足しています。
連投すみません。
今にして思えば、なぜあの電話をかけて来たのが義母だったかと言うと、きっと、孤立型ASの義父は暴君型ジャイアンの私とは直接激突できない、そのストレスをモラハラと言う形で義母に向けたのだろう、と。
義母は「あなたが夫(義父)を怒らせたせいで何故自分が虐められるのか納得がいかない。全部あなたが悪いのだから、あなたが謝って。」という事かと。
そして、義母と一心同体の息子(私の夫)は義母の代わりに非言語的反撃を開始した、と。
その反撃は執拗でした。件の出来事など霞むほどに。
もともと暴君型ジャイアンに子育ての責任を負うのは難しい中、育児に翻弄される私を嘲笑したり、人格否定したり、1か月近く無視したり、、、。
殆ど毎日深夜帰りで夕食は家でとっていなかったのに、突然連絡もなく早く帰ってきて「俺の夕飯は!」と怒鳴り、「早く帰ると言ってくれれば良かったのに。」と反論する私に憎悪の目をむけて「はっ!言ってくれれば?笑わせるな!」と、何が言いたいのか趣旨がつかめない言い方をした上で、「ほらっ!分かってない!」と責め立てる。
この様な毎日に疲弊した私は、事の発端が何だったのかも理解できないまま、「私は夫からモラハラを受けている。」という被害的認知に至ったのだと思います。
私がリアル騒動で得た事ですが、自分の特徴として「注意転換がとてつもなく困難である」という事実でした。
多数派の人は、私のように執拗に思い返したり追跡したりしていないのです。
日が過ぎれば気持ちが移り変わっていくし、忘れていくんです。
私にもし、発達障害の診断が下りていなかったら、「私の方がおかしいんだ」と再々にわたって思い込むところでした…。
(しかし、多数派の人はこんなに早く結論が出るのでしょうか? 私はいまだに、自分が100%納得できるまで追求しつくしたいと思ってしまいます…。人間離れした衝動であり、その内容も、日が追うごとに事実のみの合理的なところから外れすぎてしまっているので、これでは一体どちらがモラハラなのかわからなくなってしまいそうなところがおそろしいですね…。)
(正直、「まともにはっきり」コメントして良いものか迷いましたが…説明致します)
「古いコメント者はコメントすべきではない」とのことですが、私は、それは「偏見」ではないかと思いました。(もちろん「私の勝手な判断」です)
私は「最近の当ブログのコメントについて」の記事のルールに乗っ取って「(主に、他者のコメントを読み)自分自身を振り返った」コメントをしています。
また、「自分自身の発達障害について考える場を用意しており、自分自身の事をコメントするのは大歓迎だ」という先生の言葉から、コメント者が古いか・新しいかでコメントを制限する必要は無いと考えます。
ただ、私自身他の方のコメントを引用してしまうことがあり、そこを見て「交流している」と思われることがあり、それは私が悪いですが、「友人関係を作る場」と見られていることは、私にとっては「過剰反応ではないか?」と感じました。
また、「ブログにコメントすること」と「実際に診療代を支払って、直接やんばる先生のカウンセリングを受けること」は別と捉えます。
ネットはあくまでも「自己責任」であり、先生に(コメント者の)依存のことまで考える義務はありませんので。
・・・(;一_一)
大事な大事な息子に嫁ができて、
夫の仕事にもかかわって手腕を発揮し、
息子だけでなく、夫までも若い女にデレデレしている姿を見つけた姑の嫌がらせ説を排除するのはどうかと・・・。
(続きです)
ちなみに、その方は「いつまでもしがみついていたくなる」と仰ってますので「依存」という意味も含まれているだろうと思います。
私自身は「先生は一時的に絶望(ピンチ)から救ってはくれても、その後の人生を保証してはくれない」と捉えていました。
あと「古い人は救命ボートを降りて〜」の部分は、私には「古い人がいつまでも蔓延っていて邪魔だから、新しい人がコメントできない」という風に取れました。
「救命ボートは乗れる人数に限りがある」ので分かりますが、別にこのブログのコメント欄にはコメント者の制限が無いので、「わざわざ古い人を追い出す必要は無いだろう」と思いました。
なのでこれは私の受け取り方に問題があるのではなく、「他の方の例え話に便乗して、遠回しに私をこのブログから追い出そうと促している」のだろうなと捉えています。
ちなみに私自身は、わざわざその様に(他のものに託つけて)遠回しな言い方をした挙げ句、相手に誤って受け取られた場合、自分の言い方が悪いと認めざるを得ません。
以上です。
本当はスルーしようか迷いましたが、読まれた方が過剰反応されるのを覚悟で正直に言わせていただきました。
私の場合、指導者からポイントを習得したら、「少しずつ、自分自身の頭脳で自分の人生について考えるようにしていく」「少しずつ自分自身で物事の折り合いがつける事ができるよう、継続的に工夫していく」「少しずつ自分の特徴を把握していく」という姿勢が大事かなと個人的に思っています。
「できるだけ早く依存の関係を抜け出して離れる」というのは、その方が「強迫的に思う事(ベスト)」であって、すべての人に当てはまる事ではないと、個人的に思います。
受動型の兄の言動を振り返って考えてみてもそうなのですが、すべての人に対しての「こうあるべき的な」批評的、誇大的な言葉に、個人的には聞こえるのですが、一体なぜなんでしょうね?
たとえかたをかえてみる・・。
骨折したときは、ギブスをするけれど、ギブスをつけていると、筋力が低下する。お年寄りの骨折が死に至る怪我なのは、一週間の寝たきりが筋力も認知能力も低下させ、回復できなくなるから。
それと同じように、ここは自己愛のゆりかご、心のギブスみたいなものだから、長期連用していると、こころの廃用現象が起こってくる気がする。
ここにコメント書く暇があったら、甥っ子に手作りのお菓子を作ってあげようとか、ここにコメン書く暇があったら、家のガレージの掃除をしようか・・とか。
まあ、なんでもいいんだけど、(文字通り)自分のことばっかり考えないで、他人のために自分の時間と体をつかうことが、リハビリとして治療のために必要だと思う。
ACが治るっていうのは、依存者の顔色をうかがって、その人の良い子ちゃんとして行動する状態から、年相応に社会から与えらる責任を、自信をもって果たすようになることであって、「良い子はやめた–(終了)–」じゃないし。
でも、無理してギブスとって、また骨折したら意味いから、無理してとる必要もないと思う。
Σ(゚д゚lll)…
「姑の嫌がらせ説」って…「排除」以前に、想像もしませんでしたよ!
でも…確かに、そう考えると辻褄が合う事が沢山ある様な…。
以前書いた「死にたい」アピールも、私は「何でそんなパーソナルな悩みを嫁とは言っても殆ど赤の他人の私に打ち明けるんだ?」と思ったけど、「嫌がらせ」と考え「私はあなたの所為で『死にたい』ほど辛い」と読めば、攻撃と受け取ることが可能なんですね!
義父の悪口ならまだしも、義母の義母の悪口を散々言うのもずっと不思議でした。私その人知らないし、悪口言われても「はぁ、それはそれは。」としか答えられず、あんまり繰り返されると「こんな、不平不満タラタラの嫁だったら義母の義母さんだって嫁イビリしたくもなるだろう。」とさえ考えてました。
けど、単なる昔の苦労話で同情を引こうとしていたのではなく、「私はこんなに苦労したのに、あなたはいい気なものね。」的な意味合いと取れば、単なる昔話でなく、今現在の私への攻撃と取れるのですね!
あれも、これも、全部、最初から一貫して「私」を攻撃していたと…
いや、もしかして、本当にそうかもしれませんよ。
うん。何だかとっても辻褄が合います。
単に私が感知していないだけで、義母はずっと私を非言語的に攻撃していた。
たまたま、あのタイミングで、義父のネガティブな感情を隠れ蓑にしたつもりなんだろうけど、私の怒りのツボを刺激する形で私が「悪意」を感知したという訳か…。
う〜む。なるほど。
やっぱりたまには他のコメント者様にツッコミ入れてもらった方が、勉強になります。
「嫁姑」の話について、何を言いたいかは分かるのですが、この場合「『若さ』に対する妬みや嫉妬心」とは違うかな…(苦笑)
「人は人と割り切り、相手の意志を尊重すること」がいかに難しいか、私自身「実感」としてよく理解できますが、例えばネット上では「ブログのコメント者を身近な人に当てはめたり、他の人のコメント内容を引用し、それを隠れ蓑にする等して遠回しに攻撃する」ことが可能であり、それ自体、表向きには「自分の事を書いている」ように見えるため、「(止めるよう)指摘したところで、いくらでも言い逃れできる」と考えています。
私もここのコメント欄が「自己正当化の妄想工場になるのは嫌」ですが、誰もがこの方のように「過去のトラウマを自分自身で受け止めなければならない」と考えている訳では無く、中には、攻撃や不満・愚痴の捌け口としてコメント欄を利用している人も居て、そういった人達は放っておくしかないと思っています。
「表向き」には自身を振り返っているように見えるため「実際に他のコメント者を攻撃しているかどうか」曖昧で判断しづらいですし、そこは管理人である先生の判断に任せた方が良いかもしれないと思いました。
私の病気はパソコンの前に座ったら何時間でも時間を忘れて過集中する(んで切迫早産になったりする)のに、キッチンに立つと(「生活」の場面では)次から次へと注意が飛んで結局何も仕上げられず、嫌になって先延ばし(丸投げ)する、という病気です。
だから、過集中が評価される職場で働き、生活面の丸投げを受け止めてくれるのび太母と同居してた時(要するに結婚前)は多数派にしか見えなかったでしょうね。世間的には。
弄られるのび太母だけが私の問題を知っていただけで。(って言うか、のび太母が「それ」を「私(娘)の問題」と認識していたか、甚だ怪しい。)
わかりやすい結論に飛びつくのも場当たり思考のなせる業。せっかちなんですよ。待てないんです。答えが欲しいんです。だからASさんに惹かれるんです。
そのくせ100%納得いく答えなんて最初からある訳ない、というのが大前提なんです。なんかピンときたら「これだ!」って思って、また別のヒントが出たら「やっぱりこっちだ!」って簡単にあっちこっちにフラフラ行っちゃうんです。そういうのを延々と繰り返す人生と言うか。
自分の障害を分かっていない頃だったら目の前で「100%納得できるまで・・・」なんて発言されたら、大爆笑してたと思います。それで人を散々傷つけてきたんだろうなぁと想像します。
ちなみに「100%なんて言葉はとても恥ずかしくて言えない。」という認知は夫にもあるんですよね。やっぱ夫はADHDなのかな。
ついでに義父は真顔で「100%私が正しい。」と言えます。私にはギャグにしか聞こえず、そういう発言がある度に「ここ笑う所だよね。」と思ってサービス精神タップリに笑い飛ばしてました。
そういえば一回くらい「なんで笑うの?」と言われた事あったかな?
他の方のコメントを読んで(過去のコメントも含めて)思ったのですが、持って生まれた脳の構造が自閉側か多動側かに関係なく、養育環境が似通っていれば(とくに性別と発達障害の構成まで同じなら)その後の人生も似通ったものになる、という仮説が成り立つ様に感じました。
が、この仮説が真なら、そもそも脳の違いについて考える必要があるのか、という疑問が生じるので、いくら私でもこの仮説を真とするほどうっかり者ではありません( ̄▽ ̄)
と、書いて気が付いたのですが、私は自分をすぐに安易な結論に飛びつくうっかり者と思っていたのですが、そもそも私にとっての「結論」とは「真とする確からしさが高い仮説」に過ぎないと気付きました。
私にとってはどんなに確からしさが高くても、全ての説は仮説に過ぎないという大前提が無意識領域に有る様です。
なので「真なる結論」は最初から存在し得ないと思っているわけです。
この思考スタイルが「刹那的」「場当たり的」「衝動的」な認知の根源である様です。
↑だからこの様に一見「結論風」に書いていても、いつでも修正する準備のある仮説に過ぎません。
「100%」という思考は中心志向から来るものだと思います。
少なくとも、受動型ASには自分が100%正しいなんていう認知は無いです。
ただし、100%の自信がなくても、自分が正しいと思えば断言します。
ADHDから見た場合、断言するからには100%の自信があるのだろう、と誤解されることもありますが、全然そんなものありませんから。
迷っても意味が無い、先に進むしかない状況では、そのほうが結果としてうまくいく、それだけです。
このスタンスは、日本人同士だと誤解を招くことの方が多いとは思います。
知っている人なら、この人はこういう人だから・・・ で済むのですけど。
自分では損なことはわかっていますけど、自分まで流されてしまうと、確実に全体がおかしな方向に向かってしまうので、結局スタンスは変えません。
私も、「100%」という言葉は、それだけの自信がある時以外はとてもいえません。
受け取る側で勝手に補正されるケースは多いと思いますけどね。
ひさしぶりにコメントします。こんなことをふと思いました。
ことばは物事を正確に伝えられるとは限らず、むしろ不正確な伝わり方をしがちである。まして、ことばを紡ぎ合わせた文章は正確に伝わらないもの。そう思っておいたほうが、実は正しい状況判断につながる可能性が高い。
だから、人の話を聞く際や文章を読む際には、全体や、その前後関係、話や文章が出てきた背景などを考え合わせて、その人が何を言わんとしているのかを読み取ることが大切。
しかし、発達障害者であるかどうかに関わらず、話や文章の一部分やひとつのことばに引きずられがちな人がいるのも確かで、それは仕方ない。
そういう人に伝えるには、短いことばを出してあげて、少しずつ伝えていくといい。それか、この人には伝わらなかったな、と思えばいい(拘りを手放すことができる)。
自分の発することばって、自分の鏡だな、と最近特に思っています。
私は「相手の過剰反応を恐れず、自分の意見をはっきり言うことで都合良くACが抜ける」とは考えていません。(そもそも私は、今現在ACでは無さそうなので…)
いつもなら「もう自己分析も終了したし、書き込む必要無いでしょう?」ぐらいに捉えて「それもそう」としか考えないようにしてましたが、今回は視点を変え、あえて深読みせずに、コメントの内容をストレートに受け取りました。
元々この方は、ブログが荒れそうな時に仲裁に入って止めることが多かったので、わざわざ私を怒らせるようなことを言うとは思えず、もちろん「悪意」も感じなかったのですが、自分の「考え方・ものの捉え方」を改める意味ではっきり言わせていただきました。(ちなみに「他のコメント者にツッコミを入れて貰いたい」等と言い、積極的に絡もうとしてる人に対しては関わらないことにします。)
筋肉の例えは分かりやすかったですが、私の場合は真逆で「普段他者と居るときは自分を振り返ることができず、『自分の頭で考えること』を怠りがちなので、むしろ自分の事だけ考える時間が必要かな」と感じます。
もちろん(人の為・自分の為に関わらず)体を動かして「楽をしない」ことは大事ですね。
いくつかヒントを頂いて、やっぱり夫は受動型ASだろうという事で今後の記事やコメントについては読んでいこうと思います。
もちろん、新しい発見があれば変わるかもしれませんが。
分かり辛かったのはやっぱり、夫が愛着の対象である母親(義母)の依存型ジャイアンの認知に同化していたせいかな?と今は思っていて、殆どジャイアンに見えるんだけどやっぱりASという風に、取り敢えず理解しようと思います。
ヒントをくださった皆様、ありがとうございました。
この間、電車から一緒の駅に降りてきた人が、駅のホームで杖を軽く叩きながら歩き出そうとしていたのを見たので、よくよく見ると、白杖に赤いテープを何本か巻いたものを使っていました。
あれは…全盲の人かな…??(または弱視か) と思ったけれど、その方の動作があまりに自然体だったので、認識が追いつかず、軽くパニックになりそうでした。
私の中では、自分が帰る時間、帰る道のりの予定が、ある程度決まっている「自動モード」でしたが、見ているうちに心と体が相反する状態になりました。
軽く混乱になりかけ、そうこうしている間に、電車の中からあわてて降りてきた見知らぬ人が、声をかけながら白杖の人を介助しようとしたのを見て、私の中の「自動モード」がほぼ解除になったのが自分でわかり、ハッと目が覚めた状態になりました。
時間帯的に駅員さんがいない状況の中で、「視覚障害」という、事の重大さを、私よりも知っている人から介助をバトンタッチされた形にはなりましたが、白杖の人が待ち合わせる人と無事に合流し、出発するその最後まで見届ける事ができて、「あ、やっぱりこれでよかったんだ」とホッとした気持ちになりました。
白杖の人、その本人からは、特に介助は求められていなかったのですが、
目が見えない、という事は、声が聞こえなければ私という存在も知られない訳で、
介助を求められていない、というよりは、介助を求めようがない、という事だったと思っています。
白杖の人が待ち合わせていた人からは、「あなたが介助してくださったんですね」と普通に言われ、
普段から、相手が「言葉」によって何を言わんとしているのかを読み取ることについて、自分の気持ちをすり減らしながら生活をしている私は、
私の「行動」について率直に言っていただけた事に、こころよい衝撃を受けました。
私の心の中ではいろいろ大変だったけれど、清々しい一日の終わりの出来事でした。
ごく一部のコメントを読ませていただいた のですが
感想を、ひと言書きたくなりました。
ASのパートナーの言葉は、ADHDの私には大抵
「自分が100%正しい!」と言っているように聞こえます。
そんなときの彼の心情をしつこく問いただしたところ、
「検討する実利がないから」ですって。
だったら最初から
「”ほかの方法が考えられないから”(これしかない)」
と、接頭語をつけて話してよ!!
と思ったのでした・・・
で、悪戦苦闘の末、最近では
わかり合えないのが 他者
自分と違うのが 他者
と思って一緒に暮らしています。
ある意味、未だに二人で支配権争いのようなことしてますが、
カップル間でするのは、お互い自己責任ということでいいのかな。おとなですし。
けれども! 子供を支配しちゃいけないですね。
(反省も込めて)
ジャイアンの支配はわかりやすいので、ある意味
子どもも反発しようがあると思うのですが。
ASさんの支配力は、一見「支配」に見えないだけに
無自覚に子どもの人生を乗っとるような面がある・・・
と思いました。
どうもASさんというのは、「この選択が正しい」と言うより「他に選択肢がない」と考えていると理解した方が良さそうな感じですよね。人生一本道と言うか、、、
私にとっては選択肢はいつも沢山あって、どれを選択するかは自分の意思が決めている訳です。まぁ要するに最も自分が得をする、最も楽できる、最も快適な選択を自らの意思によって行う訳です。
だから夫があり得ない位長い浪人生活を送ったことは、私からすれば「とんでもなく意思が強い人だ」と勘違いしたわけです。
数々の誘惑(別の選択肢)を乗り越えて、もっと楽な、安易な道は幾らでもあったろうに、それでも己の意思を貫いたのだ、と。
彼にしてみれば単に他に選択肢が無かっただけなのに。
ところで、何で「他に選択肢がない」と思うのかと聞いてみると、結局、突き詰めると、愛着の対象である母親がそれを望んでいたからだ、ということらしいです。
つまり「お父さんの言いなりになりなさい」という母親からの非言語メッセージです。
夫が義父と激突する、もしくはしようとすると、義母は哀しげに大きく溜息をつき、「お父さんはああいう人なんだから、あなたが大人になりなさい。」(←実際このセリフを直接聞きました)と隷従を強いるわけです。愛着を盾にとって。
だから私から見れば、一番の毒親は一本道を敷いた義父(孤立型AS)ではなく、愛着を盾にその世界に閉じ込めた義母(依存型ジャイアン)の方なんですけどね。
ちなみに私自身の方は、孤立型AS父-のび太ADHD母の間に生まれたジャイアン娘というわけで、問答無用で私自身の自己責任と思ってます。
私の人生に関心のない父親と、支配するどころか娘に支配される母親ですからね。
でもまぁ強いて言うなら、娘が好き放題母親を弄り倒す様子を見て父親も何か忠告の一つでも出来たかもしれない、とは思いますね。それでも私が従わなかったなんて事はなく、私の父は私と一緒に母を弄ってましたからねぇぇぇ。
さすがにASも選択肢が無いということはないですよ。
ASから見た場合、ADHDの選択肢は「単に迷っているだけ」か「ずいぶん前に捨てたもの」のどちらかであることが大半です。
選択する時期が違うんですよね。
ASは行動前に選択肢を十分吟味してから行動します。ADHDは動き出してから選択する、そういう違いがあるように思えます。
だから、選択肢が無いというのはちょっと違って、ずいぶん前に選択したのだから、その時に他の選択肢を捨てたんだ、という感覚で考えたほうがいいと思います。
ASにとって、過去の苦労を無駄にすることは非常に耐えがたいことなので、途中で道を変えるのはかなり大変なことです。
なので、ADHDから見た場合、辛そうにみえても、同じ道を歩き続けるのはASにとっては一番楽な道なのです。
私から見ると、そのような道こそ、安易な逃げになります。
ADHDは臨機応変な対応が利くと思うのですよ。だから行動途中でも選択肢を行使できる。
たとえ「想定外」でも一定の対応ができる能力を持っているように見えます。
AS、特に私のような極端なASが同じことをしたら、ほぼ100%失敗します。回答時間に間に合わないからです。
ASも臨機応変な対応を取っているように見えるかもしれません。
でも、事前にシミュレーションして、こういう事態が発生したら、こうしよう。と決めているだけです。
どれだけ、そういう事態を想定できるか? こそがASの実力であり、「想定外」ばかりのASは生きていくのが大変でしょう。
「想定外」があるからこそ、新しい発見がある。
もちろん私には、あやしい商法に連れて行かれてしまったりといったリスクはありますが。
長い年月の工夫や訓練の末、今は家族間のコミュニケーションがまぁまぁ良好と言えるので、重大なトラブルや犯罪などに引っかかりそうになっても、未然に防げる範囲がかなり広がりました。
ADHDさん的に言えば「楽をしない」という事が、私にとっては「少しの緊張を残して、積極的に気持ちを楽に持とう(自分の事を考えるために、想定外、という新たな発見をしに行こう)」という事になるのかもしれませんね。
「ADHDは動き出してから選択する」
確かにその通りです。少なくとも私は。「動きながら選択」と言った方がもっと正確かも。選択肢が随時更新される感じですね、状況に合わせて。
だから「前もって考えておく事に何の意味が?」という発想になるんですけど、現実にはそのせいで手痛い失敗もしますし、人に迷惑もかけるので、せめてもう少し事前準備しなきゃ、とも思ってはいるんですよ。なかなか出来ないだけで。
「同じ道を歩き続けるのはASにとっては一番楽な道 ……そのような道こそ、安易な逃げ」
この様な事を夫も言っていました。
私の脳ではどうしても意味がピンとこなかったのですが、やはりこれが「脳の違い」なんでしょうね。
ADHDの方は、事前準備するのは苦手だと思うんです。
なぜ、AS-ADHDカップルが成立するか? といったら、ADHDが事前準備をしなくて良くなるためだと思うんですよ。
ASから見たら、突発的な対応はしなくて良くなるためだと思うんです。
ASが事前に準備して、ADHDパートナーと共有して、想定外の事項が起きたらADHDが解決する。
そういう役割分担をすれば、大概の問題は解決するはずなんです。
だからこそ、お互いが惹かれあうのかと。
事前準備しないで大失敗するのも、ジャイアン娘の子育てに苦労するのも、自分ひとりでいくら悩んでも解決しないと思うんですよ。
大概、自分の解決できない問題についての回答はパートナーが持っている、そういう相手を選ぶのが本能ではないかと。
まあ、私も、このように言い切れる相手を見つけるのに7年かかりました。ここで勉強してきたことは、本当に役に立ちました。
父と母が買い物や旅行について喧嘩になる際は
父…行き先(買う物)を決めてから、お金をどうするか考える
母…お金が貯まったら何を買うか(どこに行くか)考える
これの衝突でした。
子供の頃は父が「●●に旅行行くぞ!連れてってやるぞ!!」と大騒ぎし、子供ですから大喜びし、母にお金がないから無理!と却下され、ガッカリする繰り返しでした。
母はそのたび、子供をぬか喜びさせて、私が悪者になって!と怒ってました。
数十回、これを繰り返し、とうとうキレた母は通帳を父に投げつけ「あなたの責任で勝手に使いなさい」と宣言しました。
自分は、やった、旅行に行ける!と思ったのですが、父は「いや、そんなのは無理だ、使えない」と母に通帳を返しました。
意味不明でしたが、父は母が家計の責任を負った上でないと、カネが使えなかった(丸投げ?)んだろうなと思いました。
コメントするか、迷ったのですが、、、
と言うか、まぁ本当は必要無いとは思うのですが、
どうも私は目の前で美しく心地良い論理を展開されると思考停止するんです。
という訳で、この記事に関する私の思考は現在停止中です。
色々とヒントをもらって感謝もしているのに無視ってる感じになってスミマセン。
何か考えが変わるかもと思いつつ、一ヶ月程間を置いてからコメントしようと考えたのですが…意外と変わりませんでした。
以下↓は「依存的な物の捉え方・考え方」についての私の考えですが、読まれた方は「他のコメント者と絡もうとしている」等と勝手に深読みして過剰反応し、非難なさらないで下さい。
上記の私のコメントで「他の方に託つけて、私をこのブログから追い出そうとしている」と書きましたが、これは「悪意の有無」を考えず、「事実としてそう見える」から書きました。(ちなみに、「悪意の有無」を考えた場合は「自己分析も済んだことだし、もうコメントする必要無いでしょう」という甘ったれた?発想になり、こちらの方が「依存的」なのだと、今更ながら気付きました…)
要は「私はやんばる先生の考え方をきちんと理解しているから、私の言うことは正しい。だから私の言うことに従いなさい」と言いたいのだろうと思いました。
もちろん「悪意の有無」には触れず、コメント内容のみの印象です。
私にはその様な発言はできません。
(続きです)
何故なら、やんばる先生は「自分の発達障害について考える場として、このブログを利用しなさい」と言っているのに、「ここにコメントすることが先生への依存になる」という自分の考えと矛盾しないだろうか?本当に自分の考えは正しいのだろうか?という考えが生じるからです。
更に、自分がそういった発言をすることで「他の人の考え方を自分の都合の良いようにねじ曲げ、当てはめた上で、自分の独断や偏見(こだわり)を他者に押し付ける」ことになり、「自分は卑怯だ」と突っ込むことになります。(ちなみに、これはAC的に自分を責めるのとは違い、心がスカッとする程「納得」できます♪)
私としては、このコメントを読まれた被害的な認知の人達にこういった考え方を押し付けるつもりはなく、「あなた方が正しいと思って発言していることが、相手にとっては『脅し』や『押し付け』にとられ、『私達はデリケートな存在だから』と、腫れ物に触る様に丁重に扱うことを当たり前に要求していると受け取られてしまう」ことだけ「理解」して貰えたらありがたいと思いました。
(更に続きます)
ちなみに、誤解されている気がするので書きますが、私自身「(ブログの管理人が提示した)ルールを守ってコメントすることが、依存に繋がる」とは考えていません。
別に良い娘ぶっているわけではなく、「合理的なこだわり」として当たり前だと思っています。(個人的に、KYの性格故暗黙のルール等は分かりにくいので、きちんとルールを提示して貰えるのはとてもありがたいです)
それと、これも考え方の違いで「面白いなぁ」と思ったのですが、私の場合「人の為に」と考えて行動することはむしろ不健康な考え方で、「自分のことも満足にできない奴が、人の役に立てると思うのか?」という疑問符(自己突っ込み)が浮かびます。
なのでガレージの掃除もお菓子作りも「現実的必要」から、自身の経験値を上げる為にするものだと捉えています。(ただ、結果的に周囲の人の役に立てた場合は、私も素直に嬉しいですね)
何事もやってみないとコツや要領が掴めない性格なので。
「ここにコメントする時間を、他の(現実的な)ことに活用する」という発想は、確かに大事だなと納得しているので、これからはコメントを減らしていこうと思います。
私の実父の行為はまぎれもなく母に対しての暴力であったのに、私も母を軽蔑し、父を尊敬していました。それだけでなく、母も父を尊敬し、父も自分は尊敬に値する人間であると確信していました。
悪名高いスタンフォード監獄実験の被験者のインタビュー映像を見た時に、加害者(監視役)の自信あふれた姿に愕然をした覚えがあります。残虐な行為にたいしての罪悪感など微塵も感じらず、まるで栄冠を手にしたアスリートのようでした。
主婦いじめにあったときみた「虚空」、4人目を中絶させて裏切って「(私の)愛が足りない」と言い放った夫のこころに見た「虚空」は・・・・と、ここで書いてきたけれど、
それは自他ともに正当化される暴力を前にしたわたしのこころだったんだ。
あのこころは相手のものではなく、切り離されて浮遊した私のこころだったのか・・。
最近、「もしかして私は、本当は合理型ADHDのACであり、情緒障害による思い込みから『自己評価は低下していない』と都合良く合理化して思い込ませているだけかも?」等と思い始めています。
ただ、「結局『現実的必要』に落ち着く」点は弄くられたのび太と同じなので、あまり強迫的に考えず、のんびり自身を振り返ることにします。
私の場合、父から性的な悪戯をされたことは紛れもない事実であり、しっかりと記憶に残っているのですが、同時に「私も(父に対し)抵抗しなかった」という事実も記憶に残っています。
「父をたぶらかそうとして無抵抗だった」のか、「怖くて抵抗できなかっただけ」なのか…いくら考えても思い出せず、(性的悪戯をされたことよりも)「自分が抵抗しなかった」ことの方がショックで情けなく、「自分はおかしい、このままではいけない」「自身の生き方・考え方を根本的に変える必要がある」と思い、自己分析を始めました。
正直、今でも当時の自分の気持ちを思い出せませんが、「それで良い」と思えるようになり、気持ちが楽になりました。
もしかしたらその内、何かの拍子に思い出せるかもしれないし、今は追求しなくても良いのかな…と。
(続きです)
それと、父は私への性的悪戯を頑なに否定しており、私を嘘つき扱いしていることも、紛れもない事実です。
父の本心はどうか分かりませんが、言語的に否定している以上、その事実を受け止めるしかありません。
そこで生じた気持ちが「ありのままの(本当の)自分」であり、「父に悪気は無かった」等と庇う必要も無ければ、「自分が悪い」と責める必要も無い…と考えれば良いのだと納得しています。
今現在、父に対して特に恨む気持ちは無いのですが、母に対しては「申し訳ない」という気持ちが少し残っている状態です。
「相手に悪意があるかどうか?」は、本来KYのADHDは考える必要が無く、「相手が何を言いたいのか分からない時は、分からないままで良いのだな」と納得した上で、自身の言動(言行不一致)だけに気を付けながら現実的な事だけに対応していくことで、ADHDの不屈の精神が身に付いていくのだなと実感しています。
…と同時に、「止まった時の先延ばし状態」が怖くて、じっとして居られなくなりました。
やっぱりのび太(合理型ADHDの)ACだったのかもしれませんね(苦笑)
自己評価の低下も「思い込み」が邪魔して、中々気付きにくかったです。
(以下↓は上記のコメントとは全く関係無い話です)
「何故私が被害的な認知の人達に対し『甘ったれている』と感じるのか」考えました。
それは自己突っ込みが無いからですね。
合理的な自己突っ込みがある人間は、例えば「あなたの発言が脅しに聞こえる」と他者を非難する前に、まず、自身に対し同じ突っ込みをします。
「自分も同じような発言をしていないか?」といった具合に。
被害的な認知の人達は自身に対し突っ込むことが無く、自身の言動を省みないまま他者を非難(攻撃)するので、された側からすれば「わざわざ相手の揚げ足を取ったり、相手の粗を探してそれをネタに攻撃している」「自分に甘く、他者に厳しい」という風に見えます。
「自分が過剰反応し、他者を攻撃していることは棚に上げ、他者には『過剰反応だ』と攻撃する」
自己突っ込みのある人間は、こういった発言をする前に自身に「お前は過剰反応してないのか?」と問います。
私なら、他者に「支配」だの「過集中」だの言う暇があるなら、「自分が間違った受け取り方をしていないだろうか?」「自分は本当に正しいのだろうか?」と、自身を省みます。(私自身はそれが現実に活かされてます)
(続きです)
それと、個人的に「やられたらやり返す」とか「相手が〜だから」という発想はしません。
例えば、勝手に私のコメントを他者への攻撃と受け取って反撃したのだとすれば、それはその人自身が「(勝手に)そう受け取って攻撃した」のであって、それを私のせいにし、その責任を私に擦り付け、被害者面しないで欲しいと思いました。(擦り付けられる前に私も逃げますが)
私が自身を振り返って自分を責めるようなことを言ったところで、「だから攻撃しても良い」という理由にはなりません。
「自分を責める」のと「他者を責める」のは別であり、相手を攻撃したからには攻撃した側の責任が付きまといます。
「いじめられる側に問題がある」と言って他者をいじめておきながら、一方では「自分はいじめの被害者です」と訴えているように思え、「甘くないですか?」と言いたくなるのです。
「では、どうすれば良いのか?」
それも自分で考えて、答えを導き出すしかありません。
そして導き出した答えに従って行動するしかないのです。
それぐらいADHDの自己突っ込みは厳しいものであり、「表面的に言動を真似したところで意味が無い」と私は考えます。
私は6歳くらいの頃、母親に水に沈められて死にかけた事があるのですが、私の母もこの件を頑なに否定していまし「た」。
一時期は私自身が「あの記憶は私の幻覚か妄想なのか?」と思うほど、しらを切ってました。
割と最近、真相が判明しました。
母曰く、「溺れて死ぬ前にちゃんと助けた。」
・・・
って、やっぱ死にかけてるやん!
「い〜や!そんな事ない。そうなる前に助けた!」
や、だからさ、確かに死んではいないよ、今、生きてるんだし。
つまり、貴女が「自ら」私を水の中に放り込み、私がもがき苦しんでも手を貸さず、そのうちブクブクと底の方に沈んでいった、という事実はあるんですね?
「い〜や、沈んでない。その前に助けた!」
うん。分かった。じゃあ、「沈みかけた」って事はあるのね?
「・・・でも、ちゃんと助けたもん・・・。」
とまぁ、この様な会話によって、お互いがその出来事をどの様に認識しているかは置いて、その出来事自体は事実である事が確認されました。
この水没事件から1年も経たない、小学校入学直後、私はクラスメイトと万引きをして捕まるのですが、この時、保護されている場所に迎えに来た母は私を叱ら無いどころか、目も合わせず、口も聞かず、徹底して拒絶する背中だけを私に見せたのですが、まぁ、言い訳くらい聞いて欲しかったですよ。子供心に。
私は「完全無視」を決め込んでいる母の背中に一言も発することができず、「自分は永久に許されないのだ」と思った出来事なのですが、この件も母は「知らない」と評してました。
こちらも、最近わかったのが、「あなたが、そんなに心を痛めていたとは『知らな』かった。」という事だそうです。
一切、叱らず、無言で背中を向けたことは事実で、それは「私の育て方が悪かったのかとショックで、自分の事で精一杯だった。」という事だそうです。
私は自分の中の強烈な記憶の殆ど全てを「そんな事は無い」「知らない」と強弁され、一時期は自分の記憶の方が間違っていて全て私の妄想で、それなのに「この世に生きている気がしない」と言って倒錯した性的関係に溺れる私は「妄想性人格障害では?」と思う程混乱したこともありました。
今は、母や私がそれぞれどう思っていたかは置いて、事実そのものは存在した事が認められて落ち着いています。
(すみません、もう少し書かせてください)
「父を庇う必要は無い」と書きましたが、具体的に言えば「父が私への性的悪戯を否定しているからといって、父の言うことを信じる必要は無い」と言いたかったです。
父が「全く違う、そんなつもりじゃなかった」と言ったところで、私への性的悪戯の事実は消えません。
「心を見せて貰った」ところで、結局は同じです。
仮に「スキンシップの延長で、いやらしい気持ち等全く無かった」と心の中で思っていたとしても、この時、父が私にしたことは「(私への)性的悪戯の事実を否定し、私を嘘つき呼ばわりした」ということに他なりません。
「私が違うと言っているのだから、それが真実だ(それが正しい)」と言われても、こちらからは傲慢としか思えず、「事実を認めようとしない」と思えてしまいます。
「あなたの受け取り方(もしくは、私を納得させられないあなた)が悪い」と言いながら他者を責め、自分の言動を振り返ることをせず、正当化し続ける。
先生は「井戸の中の正義」と仰いましたが、やっぱり私には「甘ったれている」ように見えますね。
さて、大分「ドライ」な考え方が掴めてきたので、この辺で失礼します。
私はジャイアンなので「悪意の有無」には大きな意味があります。
「自分が悪意なく他人を傷つける事が多々あり、その責任の全てを負う事が不可能だから、他人が悪意無くやった事は許す」という流儀です。
実際、母が「のび太」と分かって、過去の母との記憶は全て「どうでも良いこと」に変わりました。
「母が愚鈍なのび太の脳を持って生まれてきた事は母の責任ではない。」
この辺の反応は理屈や理性などではなく、殆ど生理的反応のようにわだかまりが氷解しました。
翻って私自身がジャイアン娘に許されたいかと言うと、そんな事はありません。
私が娘にしている仕打ちには悪意があるからです。嫌悪があります。
もしも将来娘から「私はお母さんに酷い目に遭わされた」と責められたら「その通り」と言うしか無いと思ってます。
ただまあ、「その通り」と答えたところで何の解決になるんだ?
とも思いますし、実際こう答える時の自分を想像してみると、多分、娘がより傷つくかもしれない、と分かった上で(悪意を持って)そう答えるんだろうな、と思います。
私にとって母はロッテンマイヤーさんでした。とても息苦しい人。私はお手伝いとか、言われたことはちゃんとやる方だったので、ひどく叱られることは少なかったけれど、妹は反抗的なところがあって、よく怒られていたような気がします。
夏休みのお手伝いなんか私におしつけて、遊び回ってたけどさ。
食卓には朝、夕はご飯、味噌汁、おかずときちんとセットされるけれど、冷凍物、インスタントものが多くて、けっこうまずい。それなのに完食しないと、立たされて1時間のお説教になる。わたしはなんとかクリアしていたけれど、妹は食事を残し、そそれでよく立たされていました。
妹はスポーツもできて、学年一桁レベルに勉強もできて、ピアノもうまかったけれど、それで母が有頂天になることはありませんでした。
十分に優秀なのに同じ年ころの親戚の子に偏差値70越え、全国大会めざしてレギュラーやってますな子にくらべて・・見劣りするからかもしれません・・。
私の父の場合、父が優秀であるというのが母の幻想でしかないとはっきりしています。父が卒業した高校の偏差値はデーター上では、私の出身高校以下であり、たとえそこでトップであってもその程度にすぎない。それを証明してくれる人たちが私の周りにたくさんいる。
夫の甥っ子(?)なんて超一流大の大学院に入ったし。親子で写った入学式の写メ見せられたけど、一流すぎて嫌味にならないよ・・(;一_一)チビッコノトキニ、サインモラットケバヨカッタカナ
・・・
父の性的いたずらはどういうわけか私だけが対象だった。
父は「ちひろはかわいい」とはっきりと言っていた。
・・それを見続けた妹は・・今、どんな気持ちなんだろう・・・。
悪意の有無について大変な衝撃を受けました。
自分は受動ですが、悪意の有無は大きな意味を持ちます。
何故、ジャイアン氏と居て楽であるのか。
理由が垣間見えた気がします。
ずっと[正・誤]にこだわるのがジャイアンではないのかと
思っていましたがそうではないのか…奥が深い。
そのジャイアン友人と先日「ソリタリー」について会話しました。
多数派と違うチョイスをしてしまう傾向について、自分は「他人と同じものを好きになることが出来ない」と感じるのに対し、友人は「自分が好きになるものを皆が好きになってくれない」と感じるようです。
自分の感じ方は他人が中心であるのに対し、友人の世界の中心はあくまで自分なのです。
普段はこの人は本当にジャイアンなんだろうか、と感じることが多いのですが、この時やっと中心志向の姿を見た、と感じました。
そんな所がものすごく魅力的に感じるのです。
私は「自分が好きになるものを皆が好きになってくれない」とは思いませんねぇ。
多数派女子が眉をひそめる男性を好きになった事は私にとって快感でした。
「あの人の良さが分かるのは私だけなのよ。」ってイタイ中心思考です。
あくまで中心思考から来ているものなので、残念ながらASさんの考える「愛」とは違うものだと思います。
それと上で書いた、「悪意がなければ許す」という件も、ASさんの「許し」と多分意味が違うんじゃないかな、と思います。
本質的に人を認知しないジャイアンにとって、本来、長期間にわたって「許せない人がいる」という状況にはなりにくいハズだと思うんです。そんな一貫性や固執はない、、、と。
私にとっては例の「水没事件」も「無視」も、「出来事」として消化できなかったから、苦しかったんだと思います。
あげくに出来事の存在さえ否定されて「私の妄想?」とまで考えていた訳で。
だから、母に事件を認めてもらったこと、母がのび太と分かったことで、事件をきちんと消化することができた。結果、その事件が「どうでも良い事(許せる事)」になったのです。
そして、この「許し」により、私にとって母自身も「どうでも良い人」になるのですが、、、
ASさんにとっては「許す」と言ったら相手との距離が縮まるように感じるんじゃないですか?
私は母を「許し」て、わだかまっていた時よりも母は遠い存在になりました。
自分でもおかしいと思うのですが、「ゴメンね」と言われてしまうと、「いいよ」と許す事に、妙な抵抗を感じてしまいます。(ちなみに母は事件は認めたが「ゴメンね」は言ってない。)
消化できていない(許していない)時の方が相手を近く感じられるって、、、人格破綻してますよね。
もしかして受動型さんは上記のジャイアンの性質を分かっていて「試し行動」するんでしょかね?
「もっと憎め!もっと俺を憎んでくれ~!」って。違うか(笑)
まず大前提が違うのだと感じます。
悪意がない、の続きは「許すor許さない」ではないのです。
悪意がないと判ったから許す、ではなく、悪意がなく行っているのなら、それはその人の個性でありキャラクターなのだと捉えます。
その個性に自分が対応可能であれば付き合いは続きます。
しかし耐えられない内容であれば(それこそ虐待や暴力など)どのような関係であろうと切ります。
相手に指摘をして、是正を促したり反省を要求したりはしません。ムリと思えば関わりを絶ちます。
うまく言えませんが、悪意がない言葉や行為は許すというジャンルではないのです。
悪意があると判断した場合には、許すかどうかは様々な状況を鑑みて決めます。大抵は許さないので、出来れば悪意は感じ取りたくないです。許さない、となった場合の対応は大抵は無視です。関わりません。どうしても関わらなければいけない場合、いわゆる「倍返し」心理になることが多いです。
つまり、行動として「関わらない」には2種類あって、「悪意がないだろうけど付き合いきれない」場合と「悪意がある(だろう)から付き合わない」となり、他人には判り難いかも知れません。
許した故に、距離が近くなる…のは正直判りません。
試し行為も、まったくピンと来ません。
平常の心理状態はこっちを見てくれ、ではなく、そっちを見たい、という事が多いです。(見た後に対応を決めるので)
っ!
そうか、「許す」って発想がそもそも中心志向なんですね。
言われてみたらそうですね。
私には受動型ASという人たちは自分の真逆にいるような気がして(多分こういう感じ方も中心志向からでしょうね。)
でも、ここのコメント欄で「こんな感じですか?」と書いてみた時の反応は大抵「逆」じゃなくて「ねじれの位置」って感じです。
「倍返し」で思い出したのですが、夫もその様な事を時々言いますが、私が聞いてると、その「倍」の方向が「ズレてる」って感じるんですよ。
ウチの旦那は教員なのですが、ゼミの学生でしきりに「先生、大好き」といって後ろから抱きついてくる様な女学生がいたそうな。
ウチの旦那はいい気になって鼻の下伸ばして「あいつは俺の言いなり。」なんて言っていたのですが、
実はその女学生はバイト先の店長と不倫していることが発覚します。
そんで、目の色変えて「倍返しだ。アイツが自殺してもかまわん。」っつってやった事が、ゼミから彼女を追いだして、ゼミの選抜試験で漏れた彼女の友人をゼミに採用する、という事です。
・・・。どの辺が「倍返し」ですか?
私にはかなり「意味不明」な行動です。
それのどこがどんな風に「倍返し」なのかさっぱり分からないです。
夫に言わせると「自分が優越感を持っていた友人が、自分の椅子を奪うことが、あの女にとっては屈辱のハズ。」という事らしいです。
結局、彼女は不倫相手のコンビニ店長の間に子供が出来て、退学したのだけど、旦那は「追い出してやった。ザマーミロ。正義は勝つ。」なんて鼻を膨らませて勝利宣言してます。
私からすると「勝ったの?それは勝ちなの?」って感じです。
ちなみに「アカハラで訴えられたら困るから、あまりその女学生さんを追いつめるような事しないでね。」と言ったら、
「お前は!不倫が許されると思っているのか!」と逆ギレされました。
そもそも、その女学生にコクられて鼻の下伸ばしとったのは誰じゃ!って感じですけどね。
>ASさんにとっては「許す」と言ったら相手との距離が縮まるように感じるんじゃないですか?
「許す」=こちらから相手側に近づく、でしょうね。
ジャイアンが「許す」と相手が遠い存在になる、のも何となくはわかります。
>受動型さんは上記のジャイアンの性質を分かっていて「試し行動」するんでしょかね?
私にも試し行動をするタイプの受動型ASの気持ちはわかりません。
ただ、自分の経験上、受動型ASの場合、「ヒモ型」のダメ男が一番もてるのもわかっています。
だから、自分が結婚をするには、そういうダメ男の行動を真似ないといけないのかも? と考えたことはあります。
だから、ヒモ型の受動型ASが、依存型ジャイアン女性をひきつけるにはそのような行動が有効という過去の経験から「試し行動」をすることは有りうる話かとは思います。
でも、ジャイアン女性が被害を訴えるようなヒモ型は受動型ASだとは思いますが、受動型ASの中の絶対数としてはそんなに多くはないはずです。
私の母は、ロッテンマイヤーさん程教育熱心?ではなかったけど、当時はかなり冷たくて、やはり私の成績が良かったところで有頂天になるような人ではありませんでした。
母は専業主婦で、食事は三食きちんと作ってましたが、節約に強迫的なところがあり、例えば唐揚げを作るときも(調味料をケチって)小麦粉だけで揚げていたので味気無く、冷凍食品やジャンクフードは私や弟達にとってご馳走でした。(その代わり「質より量」といった感じで、たらふく食べさせて貰えた気はします)
当時は情緒障害で感情が乏しかったので「息苦しい」という感覚は無く、「(受動弟が何かと手のかかる子だったというのもあり)親に迷惑をかけないよう良い子にしているのが当たり前」と考え、「それが自分の役割だから」と疑うこともなかったです。
そうそう、性的悪戯で一つ思い出したのは、子供の頃、私も父に「可愛い」と言われて「今日は○○ちゃん(私)と一緒に寝ようかな〜」とベッドに入ってきた時に私が拒絶したのですが、確かその時「お母さんに怒られる(何か言われる)から」と言った覚えがあります。
その話が母に伝わり、案の定「まぁ、私のせいにして!」と怒られましたが。
(続きです)
今振り返ってみると、きっと「(母の)非言語的な威圧」を感じて「母の前で父と仲良くしてはいけない」という思い込みがあったから、父を避けていたのだろうと思います。
今だからこそ「言語的に『お父さんと仲良くしないで』と言われた訳ではないのに、(非言語的に)そう判断するのはおかしい」と言えますが、当時は自分でも「何故そういった言動をとるのか」分からなかったでしょう。(ただ、父と話した後、よく母から嫌味を言われてました。本人は言ったことも忘れて?否定してましたが)
父の性的悪戯は「私と父の間での出来事」であり、他者にそれを証明するのは難しいです。
…というより、元々父を恨んでいたわけではなく、母の身代わりになり、母の機嫌を取るのが目的だったのだろうと、今となっては思います。
こんな考え方では近い将来子供ができた時、(男の子だった場合)どう接したら良いのか分からなくなり、「母親としての責任を果たせない」ことは目に見えていたので、「根本的に自分の考え方を変える必要はある」とは、以前から考えてました。
ちなみに、「自分の為」ではなく「責任感」と言った方がしっくり来るなぁと、今気付きました♪
コメントを読ませていただいた感想です。
出来事を自分なりに消化できた時、そこに関わる(許せない)人のことがどうでもよくなる。
これは、その通り!と思いました。
私は今まで、その辺のところを混同していました。
過去の事実を「自分なりに消化」あるいは
「論理的に一貫性のある仮説が立てられた」あるいは
「自分なりのストーリー(ファンタジー?)が出来上がり」
つまり自分が納得できれば、
関わる人たちも含めて、物語まるごとお蔵入り!ですね。
それに付随しておもったことですが、
パートナー・親子など、特に1:1の対人関係では、
出来事 = 相手の言動 という側面があります。
私としては、言動の真意を相手に確認する必要が生じ、相手の説明に納得がいかないと、その点に過大に注視することになります。
・・・結果として、相手を追求~追及したくなるのだと思えました。
「納得できればどうでもよくなる」のだから、
「〈納得〉の部分をほどほどにしておくのが器用な生き方なのだと納得する(=これ以上追及しない)」という視点も持つことにしました。
真逆と位置づけられているような気はしていました。
自分から見たADHDさんは、自分が順応すべき世間の一部にすぎないので、ADHDだから、という見方はあまりしません。
愉快な倍返しですね!やりたいことはなんとなく判るのですが、自分は絶対にしない内容です。受動型の発想ではないように思います。
自分が優越感を持っていた相手に屈辱を受けたから、同じようにしてやろうと思ったのでは。しかしそれには、そのゼミに参加する事が非常に名誉で素晴らしいこと、という前提が必要で、ご主人はその部分に自信を持っておられる。不倫するような、そして嘘で自分をもてあそぶような信用ならない女性なのに、彼女の評価(自分のゼミを選んだ事)を何故か信じておられる。根の部分で、相手を信用しているというか、無防備に思えます。
実際に自分は倍返しした経験はありません。あくまで心理です。本当に実行するとなると、数年~数十年かかる計画を立てそうです。少なくとも、「今すぐできる判りやすい仕返し」はしないです。
何となく世界征服目指して幼稚園バス乗っ取りするショッカーを連想しました。経済面で大変なようですが、とてもチャーミングな男性なのですね。