ADHDにとって自己突っ込みは非常に重要なことであるので、私は最近この自己突っ込みについていろいろな人に実際に聞いてみた。その中で明らかに自閉の強い典型的な積極奇異型ASの複数の人から「自分にも自己突っ込みはある」という証言を頂いた。その人たちのこれまでの成長の経過を聞いてみると、「かなり厳しい環境で苦労して成長してきた」ということがどうやらポイントらしいと思えてきた。
積極奇異型ASの人の一部分に見られる「独善的」としか言いようのない行動の特徴は、ジャイアンの場合と同じく、「甘やかされて、多数派と自分が違うことで悩み苦しんだ経過が乏しかった」からではないだろうか?
多数派との認知の違いによってトラブルとなっても、親から「あなたは間違ってない」と甘い認識を説明され、本人の知らないところで親が尻拭いをして、本人が自分の責任でトラブルの解決をする必要がない環境で育ったとすれば、大人になっても独善的でありうるだろう。
私には少なくとも「苦労したASの人には自己突込みはある」という証拠がある。ちなみにそのASの人は「同じASのい仲間に対して、あまりに独善的で自分と同じASと考えたくない。甘ったれている」という印象を持っているというのが印象的だった。
ここに至って私は「周囲の人の理解」も、思春期以前までで、思春期以降はもしかするとある程度のたくましさを備えたジャイアンや積極奇異型ASは「多数派と同じ扱いをされて苦労する」ことのほうが最終的には本人の成長につながるように思えてきた。
いったんACになるくらい自己評価が下がって苦労したほうが最終的には本人の発達障害本人の幸せにつながると言えるのではないだろうか?
ASも自己突っ込みしているのですね。
私(おそらくAS)は、
自己評価が低く、自己突っ込みは激しいように自分で思っているので、これを読んで安心?しました。
わたしも普通に?ASなんだと再認識できて、よかった。
僕はASのACでしたが、ASよりACの方が人生にとってきついので幸せではないです。なんというか、ACのときは明らかな上司の裏切りも自分のミスだと思っていましたし。潮風吹く外気にさらされた外に設置されている機械が壊れるのも自分が原因だと思っていましたし。もしACでなければ、うつにもならなかったのではと思うこともあります。ACは悲しい過去です。いやまだACは残ってるかもな…。でなければデマに負けて職場を去ることも無かったかも。そういことでACは発達障害より怖いと思ってます。
なるほど。ASの方も自己突っ込みを持ち。
それが成長につながっていくと言うことですか・・・
「甘やかさないこと」
息子の自閉の程度との兼ね合いもあると思いますが、
子育てを行っていく上で忘れないようにしたいです。
こちらに見えているASの方々は親御さんにどのように
接してもらったのでしょう?
もしよろしければ教えてください。
ジャイアンの身としては思い当たることばかりです。一人っ子で母子家庭で母親は病弱で入院することが多く、同居していた祖父母やおじおばや近所のおじさんおばさんおじいさんおばあさんに大変可愛がられて育ちました。要するにめちゃめちゃ甘やかされていました。ただし母親が元気で家にいるときは「やいと(おきゅう)」をすえられたり家から締め出されたりものすごく厳しい(ふだん甘やかされていたし父親の役もやらざるをえなかったため)対応、しつけを受けました。
今回の話、余り理解できません。
親には肯定的に育ててもらいました。何があっても生きて行けると思えるこの自信は親から頂いたものだと、強く感謝しています。ここ最近、自分の幼少時の事を尋ねましたが、「手のかからない良い子だった」と言われます。確かに尻拭いをしてもらった覚えもありません。
幼少時の人間関係は主に不良と呼ばれる相手に苦労しました。へつらうのは大嫌いなので言う事を聞かない、目を付けられてましたが、例え殴られても言う事を聞かないので、向こうが諦める感じで収束します。いずれにせよ、親の手は借りてません。ちなみに高校は自ら志願して専門系の全寮制の高校に行きました。結果として人間関係にはかなり苦労しましたけど。
当然ですが私にも自己突っ込みはありますよ。突っ込んで、自問自答して、問題が生じたら考え抜いて、正しいと思う姿に修正して、その上で自分自身を肯定します。
上記は時間がかかるので、瞬間的には自己防衛が強い(言い訳じみている)のは認めます。
m2さんが書かれて事に凄く納得したのですが、自分に自信を持ってないと世間に出れない。自信を失えば、引きこもるしかなくなりそうに思います。
その意味で、私と同じようなAS傾向を持っていると感じる息子に、早くから多数派とのコミュニケーション方法を教えるか悩んでいるところです。今のところは完全に肯定してやった方が強く生きて行けるのではないかと考えています。もちろん、尻拭いは一切しないつもりですけど。
積極奇異のAS です。
今回の内容でやっとスッキリする事ができました。
ジャイアンを対岸からしか見ることが出来ないので、私も四六時中までは行かないが、かなり頻繁に自己突っ込みをしていると言い出せずにいました。
以前のコメントで、こだわりの部分だけに突っ込んでいるのかがハッキリしないと申しましたのは、日常でもあるからだったのです。
しかし、ジャイアンの意味するところの自己突っ込みと私が思っている自己突っ込みが同じであるのかがわからずにいました。
今回の内容で、毎日頻繁に私の中で起こる葛藤は自己突込みで当たっているのだと、認識できました。
つまり、「ジャイアンの根本的矛盾」でエイトさんが書かれた、6通りの気持ちが働くことは、私にとっても日常で当たり前に行われています。
そんな積極奇異ASふぇありーが育った環境をご紹介します。
父(受動型AS)、母(合理的ADHD)です。
父は大きな愛で包んでくれ、決して表には出しませんでしたが、いざという時は母からも守ってくれました。(本当に危機的な時だけなので片手で収まる位です)
母は、愛情という感情は多分抜きで、親としての責任という立ち位置でした。
つまり、私が一人立ちするまでは親の責任下なので、それまでは親に全て従いなさい。
一人立ちした時は、もう貴女の人生で自分で責任を取れるので、一切口出しはしません。
これが、母の口癖で、自由になる時は来るので、それまではこの苦境で鍛錬しなさいという事でした。
何故、私はこんなに厳しく、辛い思いをしながら生きなければならないのかと、激しく思っていました。
しかし、いざ自立して自分で全ての責任を取るようになった時に、厳しく育ててくれた母に大変感謝をしました。
ASがAS丸出しで突っ走らないためには、YANBARU先生のおっしゃるように、「周囲の人の理解」も交えながら、多数派の中で泳がせる事が必要だと感じます。
就学前から人間関係では辛い思いをしていましたが、思春期以降は自然と転換期やきっかけをつかめ、自分自身で成長した実感を持つことが出来ましたので。
心が壊れない程度の苦労は必要だと思います。
ひんぱんなフラッシュバックが来ない程度の、苦労がいいかな。。と個人的に思います。
尻拭いについて、どんな内容の尻拭いだったのか・・なんだと思います。
自分さえ、または自分達さえ良ければ良いという自己愛的な親に育った場合、あまりにも自己正当化的で独善的な考え等・・、偏った考え方からくる尻拭いをされてきたなら、自己正当化的で独善的な考えに更に磨きがかかるのでしょうね。
知ってる人では、親が医者、本人も素晴らしい経歴、お嬢様育ち、お嬢様学校。世間の荒波に出た事ありません。空気の読めるASのせいか、学生時代もうまく過ごせたのでしょうか。苦労したこと無いようです。
とても自己愛な方ですよ、そして独善的です。またその方のお気に入りのへの尻拭いの仕方を見るとわかります。あぁ、こうやって偏った考えで本人も尻拭いされてきたんだろうなぁ・・って。
古い言葉で言うと、山の手育ち?のような方で、表面的なものが大好きな方たちが取り巻きです。
ASの自己突っ込みについては、私も書きたいと思っていました。
私が見る限り、自己評価の高い人(というより自己評価がしっかりしている人の方が正確か?)は自己突っ込みがありそうだと感じています。
ASの人がわけわからない行動を取る時は、「自分の立ち位置がわからない」という不安からきますから、そういう人は自己評価が無いのです。
苦労していないから、自己評価が無いと考えることはできると思いますので、だいたい一致はします。
ただ、ASの自己突っ込みとADHDの自己突っ込みは動機は違うと思ってます。
ASの自己突っ込みは、自分の意見を押し通すための責任感からきます。
自分の発言に責任を持つ。だから、その発言は完璧なものでないといけない。
結果がうまく行こうと、完璧で無い部分が見つかったら、自己突っ込みが入ります。
受動型ASの場合は、自分の意見を押し通すことが少ないので、時々しか自己突っ込みが入らない、ということのようですね。
積極奇異型ASで自己突っ込みが入る場合は、ジャイアンの人と同じように四六時中入るのでしょうね。
自分の発言に責任を持たないASの人は見てわかると思いますが、当然自己突っ込みは無いでしょうし、理解もできないでしょう。
ジャイアンの場合は、「自分の行動に責任を持つ」だと思うんです。合理的ADHDはジャイアンほど頻繁に行動しないので、自己突っ込みの回数が少なく、弱い、ということのような気がします。
>いったんACになるくらい自己評価が下がって苦労したほうが最終的には本人の発達障害本人の幸せにつながると言えるのではないだろうか?
私が疑問であったのは、大きくなって、客観視もある程度できて、多数派と同じ扱いをされる苦労をしても安易に逃げ出さない青年期になったその後、二次障碍としてACを治療することは前提のプログラム?考察?であったのかということでした。
AC傾向については、私の今の課題であるから、話を逸らしてでもそこが気になったのです。
こういう書きかたをすれば良かったのでしょうか・・・?
ASの青年期には、子供の頃の納得いっていなかった記憶がフラッシュバックして病的症状を見せたり、誰も刺激していないのに反発がひどくなるという話を読んだことがあるからです。
あれが「ASの矯正」という意味になってしまったでしょうか・・・?
いわば「ACの治療」のテーマで勢いで書いたようなコメントだったのですが・・・。
ASは矯正で治せません。先天性障害は飾っても腐っても先天性です。治りません。基本中の基本です。
私のミス、すみませんでした。
ACを治さないと、しかも老いた親を頼らないで治さないと、このままだとまだ私の病はまだ増えそうなのです。
表面的には問題は起こさず、適応成功と思っている人もあり、まだ適応未満であり課題克服途中と思っている人もありで、あらゆる人に見張られて生きて、最後は心を開けないという現実が残っています。
心を開けないという本音を誰にも隠して生きると、それは自己卑下に繋がり、ねじれた自己意識の原因になり、いつかまた子供の時期の気持ちの再燃を誘い、問題行動の引き金に繋がります。
それを今から心配しています。
旦那が受動型AS,私はジャイアンです。すごーくひざをたたいてしまいました。旦那を「そういう機能を持たない人なんだから、あきらめるしかない」と思っていた矢先、定型と同じように扱うぐらいにして揉まれないと成長はないということ、「やっぱりそれでよかったんだ」と安堵しました。
旦那もかなり甘やかされて、とにかく怒らせないよう、逆らわないようと育てられた様子。なので、まず自分や他人に疑問を持つ、ということが出来ない。当然突っ込みにまでも至らないのです。でも興味や疑問がない、というのは恐ろしいものですね。ジャイアンから見ると、それ自体が謎です。
「俺は質問が出来ないんだ。」と彼は言います。疑問がわかないからでしょう。相手の行っている真意、本質がまったく読み取れないと言うことだと思います。突っ込む以前にそれこそ井戸の中ですね。
父親がアルコール依存でタバコ、ギャンブルで働かずひきこもり母親はパートしているが
不満を私にぶつけていた。弟は要領よく親のいない場所で遊び虐待は私に向かった。
子育てを一度経験し母親にとって弟は育てやすい対象であり私を冷たくあしらってきた
ACODの私は一度は子供を連れて実家に戻ろうとしたのに父方の伯母により
父親の元へ戻った母親を今でも許せない
母親のパートと祖父母の財産だけでは生計が成り立たず、ひきこもりたくてもひきこもれなかった
ひきこもりすれば何れ、自分の生活そのものが破綻することを知っていたからだ
積極奇異型ASとして生き残るには頼りになる親族も親もなかった。
悩み躊躇う暇など無い。ひきこもりすれば食事すら出来ない
生きていくには選択した決断が正しいと考える時間もない
定型か否か別として私には、ひきこもって依存して生活できる立場にいる者は
親の年金に頼れず遺産に頼ることも出来なくなって家事すら依存しているので嫌いである
しかし羨望の気持ちも心のどこかにある。ひきこもりは甘えても生きていけるという立場にいて
初めてやれる行為と思う。
ACODとして苦労した立場から見れば、バックパッカーで自分探ししているゆとりはない
税金と公的保険料を支払いながら家賃を入れて生活しないとサポートしてくれる人のいない独身で
一人暮らし。怪我や入院で職を失う危険すらある。
他人に自分の考えを押し付けることはしない。しかし自分は自分の生き方をする
しかし「他人に迷惑をかけて秩序を乱す者を許せない」ことだけは押し付けしたい
自由とは他人の自由を侵犯しない範囲という制限下の義務の上での受け取れる権利である
義務を果たしていないのに権利だけ主張するのは許せない。
これを「独善的」と言われれば暗黙の了解の上で保たれている秩序が崩壊する
多数の人が交通ルールを守っている行動をしていると信じてルールに従っているから
私は信号待ちで停車中で追突される事故以外は無事故である
それは偶然奇跡的に事故に遭っていないに過ぎない