私は発達障害に、「**傾向」や「**気味」という様な中間的な状態があるとは考えない。ASでもADHDでも、かなりはっきりとした思考や行動(脳の働き)の質的な違いが多数派との間に見られるからだ。
一覧チェックリストを作ると、「誰でもいくつかは当てはまる」という議論をよく聞くが、見る人が見れば、過集中の行動や対人関係の無頓着さとか極端な愛着は多数派とは根本的に違うと分かる。
ASで合理的に考えられる人、いわゆる「受動型」の人、ADHDでこだわりが強く、自己正当化型の場合など、ADHDかASかでなかなか診断をつけられないケースはあるが、「いずれにしても発達障害」という診断はある程度のケースをこなしてくればそれほど困難ではないと思う。
こういう中間が存在しないという考え方が、「発達障害は少数異民族」というコンセプトの根拠のひとつとなっている。ADHDまたはASというひとつの「文化的まとまり」に似た、脳の働きのそれなりの首尾一貫性があり、ケアも理解もそれを抜きにしては考えられない。
その意味では、私は多数派からの理解も多数派との共存も、実はかなり悲観的である。それが「偏屈者宣言」のメッセージのひとつだ。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/henkutu.htm
>私は発達障害に、「**傾向」や「**気味」という様な中間的な状態があるとは考えない。
これはなかなか難しいですね。
最近はかなり特徴のある人は、「あ、少数派の仲間だな」と直観的にわかるようになりました。
例えば、私がマニアックな話をしたり、「私って変わり者なんですよ」などと言ってみた時に、目を輝かせて寄ってくる人は
だいたい少数派で、ちょっと「引く」感じの人は多数派なことが多いです。
わかりにくいのは多数派の中に紛れ込んで、自分のことを多数派だと思っているが、実は少数派だという人たちですね。こういう人も、かなりの数いるように思います。
私の主人は結婚した時は、すごく凡人風で一般的で、すべて平均的なイメージがありました。多数派的でした。
それが、女房、息子、娘すべてASの環境で、30年間一緒に生活したら、潜在的に持っていた少数派の部分が表面に出てきたようで、今はASとADHDが混ざった人のように思えますが、とにかく以前より、ずっとマイペースで特徴ある人になりました。
後でわかったのは主人の父がジャイアンで、母がASだったということでした。
だから、一時点のその人を見ただけでは多数派か少数派かわからないことも多いでしょうが、長い歴史を見るとわかってくることもあるようですね。