平成27年年頭 平成26年は半ばに久しぶりに勤務先を移った。
精神保健福祉法の改正ともう一つの理由で前の病院は非常に危ないと判断したからだった。
今度の勤務先は「管理者と相談が出来る」という意味で発達障害外来に一定の理解を得て移ってちょうど半年になる。
思春期以降の発達障害支援の最大のテーマは、「不合理不条理に満ちた世間でどう生きていくか?」という問題だ。
結局これまでの人生で私自身も何度もこの壁にぶつかって不適応を繰り返してきた。
と言うわけで半年して今の勤務先で大きな不条理を発見してしまったのだが、ここが思案のしどころだ。
ある程度は訴えてみたが、その不条理そのものを突きつけるまでには至っていない。
実際には、「反省して軌道修正」という行動にちょうど切り替えつつあるところだ。
私に期待されていることは私が考えていたほど大きなことではない。
私が勝手に背負い込もうとしていただけだった。
例によっていつものパターンだ。
世間にあるのは「不合理不条理と不合理不条理が存在しない環境」ではなく、「不合理不条理が少ない環境と多い環境」があるだけだ。
これが合理的に見て一番当たり前の結論だ。
そう考えれば、今の勤務先の不条理など、少なくとも私自身には大きな問題ではない。
私は私に期待されている部分について、ベストを尽くせば良いだけであって、そういう立場に立てばこの不条理は「私の問題ではない」。
これが合理的な結論だ。
私の今の原点は、第一義には「発達障害支援の場を失わない」ということで、そこに最低限の理解を示してもらっているだけでそれ以上何も望むべくもない。
その原点を忘れていたことがもっとも反省するべき点だった。
年頭に考えることは、大それたことではない。
「私は続ける」。
それだけで良い。
.>半年して今の勤務先で大きな不条理を発見してしまった
なかなか大変ですね。
>私の今の原点は、第一義には「発達障害支援の場を失わない」ということで、そこに最低限の理解を示してもらっているだけでそれ以上何も望むべくもない。その原点を忘れていたことがもっとも反省するべき点だった。
というところに落ち着かれたのですね。
職場と折り合いをつけるというのは難しいことだと思いますが、いい妥協点が見つかることをお祈りしております。
さあ私は今年から合理的ADHDになりました。医療での診断はADDですが。家族も友人も其の他関係者もADHDは合理型として対応します。先生は再帰の最適化をなさったようですね。ある程度は訴えるがその不条理そのものを突きつけるまでには至らないというとこがポイントみたいに思いました。パートナーの合理型は「泳がせる」と表現していました。
先生。あけましておめでとうございます。
高校生の頃背伸びしてカミュの異邦人を読んで以来、「不条理」の意味が分からず、不合理との区別もつきません。
簡単にいうと不条理=筋道が通っていない、不合理=理屈に合っていないってことなんでしょうけれど、
それっだらどっちもいっしょやねん!と、いいたくなります。でも言葉の印象として少しだけ違う・・・。
不合理はわかるけれど・・・不条理ってなんなんだろう?
記憶は定かでないのですが、主人公の「人を殺した罪ではなく母の通夜の時にコーヒーにミルクを入れたことで裁かれる(独白)」っていうシーンが(あるハズ・・)印象に残っていますが、「人殺しの罪」ではなく、「人柄の罪」それも「第三者が語る人柄の罪によっ死刑になる(・・予定?)そんな話だったような・・・・(ちゃんと読んだ方すみません)・・・
今風にいうのならママカーストの最下位にいた時に、いつもこの小説のそのシーンをを思い出していました。
「私は何によって裁かれるのか?」という問い。
そして今だに・・何によって裁かれていのか・何がいけなかったのか・・さっぱりわからない。
それかな?
先生に、PTAとか、ママ友グループでひどい目に遭いましたと相談したら、そりゃそ~だろ~鉄板だしっ!ノコノコ出かけるお前が悪いっ!返ってくるかな・・(>_<)
・・・あの人たちって「誹謗中バトル」という娯楽のためのチームだったんじゃないかしらん・・・・
つい最近も、「あの人カラスに餌付けしてるの酷いよね」っていう話を聞いて信じてしまった。
まさかと思って調べたら、やはり事実じゃなかった。
・・・・私のすぐそばにいた・・・同じアパートで20年のママ友付き合いのスピーカー・・・・。
・・世間は戦場みたいだ。
なんかわかりました。
条理=法 合理=論理だっ!
そもそもPTA活動って組織の強制参加、会費の強制徴収、強制ただ働きだし、会費の一部が連合に吸い上げられ、連合が武道館で大会とかひらいたりする。初年度の役員選びは脱走者がでないように入学式の会場でそのままおこなわれ、ドアが閉鎖されるという噂まであった。ドアは閉鎖されなかったけれど見張り(?)はいるし、トイレにも行けない雰囲気。で、役員がきまったところから、クラスに帰れます(*^_^*)な~んていう特典付。自分の仕事も、家族の病気も、介護が必要な年寄がいようが、生まれたばかりの赤ん坊がいようがいまいが一切考慮なし。(これってど~かんがえても憲法に違反すると思う)
で、そんな中で役員を引き受けて仕事をしたら・・・・・
運動会の受付の前で、不特定多数の公衆の面前で集団でかこまれて「勝手なことをするんじゃない!」と怒鳴られるはめになってしまった。(完璧な名誉棄損だな・・これ)
「緊急非難の家」がどこにあるのかが示されたのはぼ完成状態の地図の印刷、配布を、最初の旧役員とのひきつぎの時に頼まれて、教頭先生に許可ももらって印刷、配布したのにPTA本部の許可が出てなかったことが問題になったらしい。(私はそのことは当然知らない)
旅行の企画したり、PTAスポーツクラブのユニフォーム買ったりしてるくせに、教頭先生が配布希望したことも達のための避難地図配布はダメらしい。まるで意味がわかんない。
まったく不条理きわまりない話だと今でも思う。
あ・・・。武道館での大会は高校PTA全国大会の話です(*^_^*)
スポーツと旅行の話は小、中PTAです・・・すみません(;一_一)
連合が企画しているスポーツ大会のユニフォームをPTA会費から支払ったのです。ちなみにこのスポーツ大会の応援団も「さくさ」が投入されます。「一人一役」っていう赤紙で呼び出され、イベントはいつも「さくら」で満員。アニメ声優の講演会に仕事を抜けてきたのかスーツで来ていた父親いました・・・マジ勘弁して欲しいと思う。ちなみにこのイベント本来は個PTAでおこなう企画の予算が消化できず、連合が企画した予算消化イベントです。
この「一人一役」が恐ろしいのは出欠チェックをするところです。赤紙で一般兵が徴兵されてきたかどうかチェックするために役員が会場に派遣されチェックし本部に報告、さぼったらペナルティとして別の平日昼間のイベント参加の赤紙がきます・・・・・色は緑だけどさ。
ちなみに私は本部が作成した名簿をもとに、赤紙の印刷配布、出欠チェック部隊の部長でした・・・・(T_T)
先生
今年もよろしくお願いいたします。
年頭のブログを読ませていただき、先生が「反省」という言葉をお使いになっていることを
深く受けとめました。
不条理は常に起こり得、それに反射的に激しい怒りを覚えるのがジャイアンだと(私は)思っています。
しかし、俯瞰的視点に立ったとき、それは本当に妥当な、合理的な怒りと言えるのか?
そもそも、自分自身の「納得」の合理性すら怪しい。
それと同時に感じたことは、先送りもOKなのではないか、ということです。
社会生活を送る上では、どうしてもしなければならないことは「何とかしなければならない問題」として、
いずれ必ず目前に現れてくるからです。
その点で、この世は不条理でも、理にはかなっていると思えます。
「自分=脳」ではない。(と今は思っています)
先生が、ご自身の原点を大切に「私は続ける」とお書きになっていること、私は
先生のご自身への非常な厳しさと覚悟、責任感と受けとめました。
自身の原点を掘り下げ、自立的生き方を目指している私は、たいへん励まされました。
なんべんもパートナーの話で恐縮ですが、パートナーは知っていること(自分が気がついていること)は、全て教えないとフェアではないと思っていて、仕事の上でそれを実践し、先ごろ終わったそうなんですが、これで対等に話せるし、黙って見てもいられるのだとほっとした感じで喜んでいました。これで俺はもう大丈夫と、言ってました。私はすごいなあと思った。
いろいろとわかってしまう人は大変なのだなあと思った。
今日はこれから義理の母の三回忌でお寺に行きます。
親戚にADHDの人もASの人もいます。
ADHDの人の最高だなと思う長所は「根に持たない」ところですね。何か私とトラブルがあっても後日会った時に、私がフレンドリーに接すれば、すごくあっけらかんとして相手もフレンドリーにしてくれるところが、最大の「気楽な点」です。
ASの人の長所は何と言っても真面目で誠実、何かあると親身になってくれるところです。
何かと対照的でおもしろいですが、その両方が親戚内にいるというのがまた不思議です。
発達障害の型というのは、どの人も典型的で、わかりやすいわけではなく、微妙に混ざったような、わかりにくい場合も多くあると思います。
1人の人が自分のことを〇〇型だと自覚していた場合、他の人はそれに関しては基本的にノータッチの方がいいと思われます。
他の人はそれぞれ自分のことだけ考えて、自分は〇〇型だと自覚して、今後の生き方を考えればいいし。
ある人が自分のことを明らかに違う型だと信じ込んで、それがその人の成長を妨げているというケースがあるとすれば、プロの先生が指摘して、指導すればいいわけですが、先生も本人と対面して、徹底的なカウンセリングをしないと判別が難しい場合もあるでしょうしね。
ネットの世界では自分が発達障害の仲間らしいことはかなりわかりますが、何型かは本人も他人もわからない部分もありそうです。
要するに基本は「人のことは置いといて、とことん自分のことを深く掘り下げる」のが無難だし、自分の成長にも即つながりやすいのだろうなと感じます。
後、私の場合、自分が何型かというのはあまり考えなくなりました。型を意識し過ぎるとかえって変なこだわりができる場合があるからです。
自分ができるだけ自由にのびのびとできて、なおかつ、周囲との摩擦を最小限にする道を模索することのみを心がけています。
なんだかエラそうなことを言っちゃってごめんなさい。
明けましておめでとうございます。
卒業しようかと思ってたのですが、自分の問題を自分の問題と自覚する事が本当に本当にやっとチョットだけ出来る様になってきて、それでやっぱりもう少し「書いて(出力して)頭の中を整理する」をやってみたいな、と。
昨年夏に20年来の友人のご主人の葬儀に参加したときの事。
金曜日だったので子供3人を幼稚園から早退させて実家にまっすぐ連れて行って、通夜から参加しました。
この時、幼稚園の手違いで二男が靴下を間違えたと言うのです。と言ってもまだ1歳半の幼児ですから本人が間違えたわけではない。
で、週明けに先生から「間違えて履かせた靴下を返却して下さい。」と言われたのだけど、私はそんな靴下見た覚えが無い。
実家の母に聞いても「そんな靴下履いて無かったよ。」と。私もそう思う。でも断言できない。記憶に自信が無いから。
んで「探してみます。」と返答。←でも今にして思うとこの返答が既に大失敗。
私にしてみたら「探す」とは言ったが「確かにある。返却する。」と言った覚えは無いつもり。
この後の展開を全て書くのは長すぎるので割愛して、、、今日また「靴下ありましたか?」と聞かれた。
実に葬儀から半年たった今日になって!
私からすると「は?何を今頃言っているの?」なんですけど。こう思う私が異常なんですよね。ええ、分かってますとも。
ここからは私の推測。
既に園の先生と靴下を失くされた被害者にとって犯人は「私」であると決定事項になっている。
私自身は「濡れ衣」と思っているのに、この半年間一度も「濡れ衣だ」とは主張せずに「探してみる」と言ってきたのだから、もう、当然、犯人は「私」で決定事項なんですね。
だから、当然、謝罪して弁償するのが多数派の「当たり前」なんじゃなかろうか、、、と。
(いや、この場合「多数派の」と言うべきかはよく分からない。ジャイアン以外(私以外?)と言うべきか。)
で、それならば最初から園の先生が何か言ってくれたら良かったのに!と思う私。
でも、受動型AS夫ならこう言うハズ「言われてやるのでは意味が無いだろ!言われなきゃ分からないのか、この人格障害者め!」ってハッキリ聞こえてくる(のが分かってるから実際は聞いてない)。
しかしね~、そんな事言うなら「ウチの息子の靴下」はどうなったのよ?その後、ウチの子の靴下が「こちらが間違えられたお宅の靴下です」と返却されたかって、そんな事は無い。←ってか別にコレは私にとってはどうでも良いことなんだケド。
でも私が自分の子供の靴下がどうでも良いように、他人も同じように思うワケではないって事。(コレ重要)
この半年間ずっとずっと私の事を非常識な人格障害者と怒り続けてたんだろうね。ご苦労様です。
さて、ウダウダ言ってないで前向きに軌道修正点をまとめ。
・私の最大の弱点は「記憶(自覚)が無い(弱い)」事
・自分の記憶に自信が無いので断言されると「そうだったかな?」と受け入れてしまう事。
・受け入れた時点で、責任が発生してる事に気付かない。
・執着や愛着が無いために「自分のもの」「他人のもの」の区別が難しい。
誤解を恐れずに正直に書くなら、【半年たってもしつこく「返せ」と言う人の気持ちがまったく理解できない。】が本音で、同時にこれは私の方が「異常である(普通ではない)」と理解できるので、本年度そうそうの「私の課題」は「他人のモノには愛着という名の化け物が着いている事があるので、厳重注意!」と肝に銘じる事かな。(その前に「自分の」「他人の」と意識する事自体が難しいって事もあるけど。)
突然、閃いた!(やっぱり書くって大事だぁ。)
私は結局「モノ」にまつわるトラブルが多いんだ。思い起こせば社会人1年生でいきなり浴びた「社会の洗礼」も「モノ」にまつわるトラブルであった。
傘、借りたんですよ、先輩に。
私は「自分はとても不注意な人間なので無事に返却できる自信が無いから」(←ハッキリこの通りに言いました。)とお断りしたのです。最初。
でも先輩は「いいから、いいから」って、私としては半ば押し付けられる形で借りました。本当の本音で言うと迷惑だった。無理やり貸し付けられる事が。
当時でも不注意であることは自覚していたから「失くさない」責任を負うくらいなら、ずぶ濡れになった方がはるかに楽だった。
で、失くさなかった。無事に。だけど強風に煽られて壊してしまった。
だから直ぐにデパート行って同じブランドの似たようなデザインの傘買って、「ごめんなさい。壊しちゃいました。」って謝って傘を返したら、こっぴどく怒られた。
「あの傘はなぁ!別れた女房がプレゼントしてくれた大事な傘なんだ。他の傘には代えられないんだよ!同じものを返せよ!」って。
私「同じデザインのものは探したんですが見つかりませんでした。」
先輩「当たり前だ!ボケッ!」
私「えっ???」
これ以降、この先輩から執拗ないじめを受けたことは言うまでもなく10ヶ月で退職しました。
しかし、振り返ってみるとこのパターンのトラブルって本当に多いんだって、馬鹿みたいに今更やっと気が付きました。
夫ともめる時もほぼこのパターン。
夫から情緒的な要求をされ、「えっ???」となる。夫はこの「えっ???」が辛抱ならない。「どうしてそんな簡単な、当たり前の事がわからないんだ!人としておかしいよ!」って。
ちなみに、傘の話をもし夫にして、私が「やっぱり最初から借りなきゃ良かった。もっともっとハッキリ言うべきだった。」と反省の弁を述べると、多分頭を掻きむしりながら「違う〜!!!」と半狂乱になると思われます。
なんで、夫の反応を推測して上記の様に書くかって言うと、実際最近、離婚覚悟で私が発達障害者であることをカミングアウトしたのです。
すぐ横で3人の子供達が心配そうに見つめる中、もう全て何もかも終わっても良いという覚悟で全て自分の気持ちを話した時に、およそ上記のような反応でありました。
それでも私は、「本当のことが言えない。本当のことを言ったら人間失格の烙印を押される。」という恐怖から、たとえ「人間失格と蔑まれても本当のことを言う。」「結果としてどん底に落ちても、そこが本来の私の住処。」と思うことで少し良い方向に変われたと思います。
上記の方のコメントを読み、私の直前のコメントのことかもしれないと思いましたが、私自身は「このブログのルールに従って、他者のコメントを読み、自身を振り返ったコメント」をしただけです(勘違いだったら申し訳ありません)。
あと、個人的に「人のことはおいておけ」と言いながら、その発言自体他者に介入しているだろうと思いました。
私のコメント内容を他の方にどう受け取られたかは分かりませんが、自己理解を深めるために他の人のコメントを参考にしているだけであり、私自身は「人のことをどうこう言うつもりはない」ですし、もし私のことを仰っているなら、「言いがかりである」ということだけ書いておきます。
あと、先生へ。
上記のような方も居られるので、「他者のコメントを読み、自身を振り返ったコメント」も禁止にした方が良いかもしれませんね。
それと、「型にこだわらない」という姿勢はその人なりの考えなので別に構わないと思いますが、このブログは「発達障害について理解を深める場」であり、それは(型や診断済かどうか等を含む)どの立場のコメント者にも公平・平等に与えられたものなので、いかなる理由があろうと「ルールを破って他者のコメントに介入し、自身の考えを押し付け、場を仕切る」ことは良くないと思います(もちろん私も)。
私のように「長文で自身を振り返った反省文を書け」とは言いません。これは私が好きでやっていることであり、他の人に押し付けるつもりはありません。
ただ、他者のコメントに対し「こうするべきだ」と、ご自身の考えを押し付けることは止めていただきたいです。
これ、笑わせてもらいました。
返信がすぐ下につかなかったです。これってこれです。
>あと、先生へ。
上記のような方も居られるので、「他者のコメントを読み、自身を振り返ったコメント」も禁止にした方が良いかもしれませんね。
う~ん、このブログのコメントはやはり書き方が大変難しいですね。
何をどこまで書いていいのか。誤解して読み取られることも多く・・・。
え~と、前回の私のコメントは「あなた宛て」ではなく「他の方宛て」のコメントです。(この文章がもうルール違反ですからね、すみません。)トラブル防止の意味で書いたコメントです。「あなた」はこの新ブログになってから、ルールを守ってかなり慎重にコメントを書いていらしたと思っていますよ。
トラブル防止をしないと延々と対立のコメントが続く可能性があり、トラブル防止をしようとすると、どうしても介入コメントになってしまうし、難しいので、このへんが私のコメントのお休み時かなと思いました。
新ブログのログイン者も増えてきたことだし、私は当分コメントをお休みすることにいたします。
「他の方宛て」だったのですね。
私の誤解だったようで、大変失礼致しました!
私もルールを破らないよう気を付けよ〜っと(´-ω-`)
いらんおせっかいをうけたときは「おきづかいほんとうにありがとうございます。でも大丈夫です。ごめんなさい」って言って断らなけれがならない。苦情の連絡は「電話ありがとうございます」と、第一声をあげてから話を十分に聞き、謝罪し、その後、誤解があるのなら説明をし、具体的な対策を話し合う。
私の人付き合いマニュアルに書いてはいるけれど・・いざ実行するとなるとなかなかうまくいかないものだけど・・(>_<)
でも「ありがとう」ぐらいは言える。
これは簡単。感謝したら「ありがとう」とりあえず「ありがとう」返答に困ったら「ありがとう」ムカついても「ありがとう」?にも「ありがとう」嫌味にも「ありがとう」
むかしの学のないじ~ちゃんば~ちゃんが言う、感謝して生きなさいていいうカビの生えたような説教は、偉大なる智慧だったようでこれが自分が想像した以上に攻守にわたって実行効果があるのです。騙されたと思ってやってみたらどうでしょうか。
たとえば園と話しをする機会があれば、一回は「ありがとう」と言おうと決心してて臨む。まあ忘れる可能性が高いので最初に言うと決める。そうして言葉を探せば「今日はお忙しい中ありがとうございます」とかなんか聞き慣れて飽き飽きするような定型句があることに気づく。それは多数派のコミュニケーションは我々が「わからない」「気づかない」だけで、けっして複雑怪奇なものじゃないという証拠だとおもうのです。
わたしの「ありがとう」リハビリの最大の収穫は単純なコミュニケーション利益だけじゃなくその「カオスではないという気づき」でした。
あ!
途中で思考が散って、自他の区別がおかしい文章になってしまった。
ありがとう大安売りは私の話、私の経験、私の情緒です。
園のはなしも私の経験をもとにしたたとえ話で、某幼稚園ママの情緒のおしつけのつもりはありません(が、そうとれるっ!!!)
イメージの刺激を受けてそのまま書き進めてしまった・・・すみませんですm(__)m
「おすすめ」ですが、やったからといって私と同じ気持ちになるはずがないのに・・・・・・。
個人的に「多数派に適応しながら生きる」のも「自分を変える必要性を感じず、先延ばしを続けながら生きる」のも「情緒を押し付けながら生きる」のも、その人自身が納得して決めたことならそれで良いと考えます(その人自身の人生ですから、私が代わりに責任を負う訳には参りませんので)。
「ありがとうの大安売り」は私には難しい。極端な話「死ね」と言われた時も「ありがとう」と返さなければならないのか?と考え、「そこまで私は寛容にはなれない」と結論付けてしまう(←屁理屈ですが、やっぱり「嘘」に代わり無いので)。
その代わり「(どんな些細なことでも)相手に対し感謝の気持ちがある時は、積極的に『ありがとう』と口にする」ようにしています。私の場合、それで充分かなと。私が素直に自分の気持ちを表現することで、相手も私に対し(よそよそしく)気を遣うことも無くなりましたし、私自身も気持ちが楽になって「結果的に状況・内面、両方共改善された」と感じます。
ただ「ありがとうの大安売り」に関しては、私の場合「考え方次第で嘘にさえならなければ使える」ので、状況・自分や相手の立場等を踏まえた上で考えてやってみようとは思いました。
「ありがとうの大安売り」と言えば・・・
ずっと昔、10年以上前かな?日本で有数の高級住宅地で、住み込みの家政婦がいる大企業の会長宅に招かれた時、その会長(見た目はどこの極道の親分か、って感じの和装でめっちゃ怖い感じ)が家政婦がコーヒー持ってきただけでも、テーブルを拭いただけでも、満面の笑みで一々丁寧に優しく「ありがとう。」という姿を見て、単純に「すごーい。格好いーい!本物のセレブだぁ。」と思ってとても感動しました。
そこで私は、しばらくこの「ありがとうの大安売り」をマイブームにしてました。
でも割と最近、やめました。
ジャイアンが、あえて「木から降りる」という意味で「ありがとう」を連発しても相手も覚るんじゃないかな?
少なくとも空気を読める人間なら「大安売り」されたって気がつく。多数派は不快に思っても表に出さないだけ。中心志向組は「馬鹿にされた」と思って反撃する。依存組は100%の見返りを要求する。
・・・「大安売り」って気付かないのび太だけは、良いのかもね。
と、思うけど、本当のところは知りません。
むしろ身を守るためには「即断即決しない」という事が私の最近のテーマです。
(「ありがとうの大安売り」は私からすると即断即決。問題の本質を良く考えずに【とりあえず言う】という意味で。)
実際、幼稚園に対しては「園での出来事ですから、園の采配にお任せします。何か金品をもって弁償したほうが良いのであれば、そのように仰ってください。」と告げたら、恐縮されて「園での出来事は全て園の責任です。182さんが弁償される必要はありません。申し訳ございませんでした。」と私の方が謝罪されました。
おまけに、「お昼寝のあるクラスでは靴下の紛失はよくあって、靴下には名前を書かれていない事が多いので、どのお母さんも「仕方がない」で済まされるんですよね、まさかずっと気にされていたとは・・・。」と園側の本音(しかも私の側に寄り添った)を聞く事ができことは収穫でした。
おかげで園での出来事で私の脳の中で意味づけされずに断片的に記憶されていたいくつかの出来事に関して「意味が理解できた」感じがあるからです。
そして、意味が理解できたてから、行動。それで良い。
意味が理解できずに行動できなかった事(もしくは即断即決して失敗した事)を責めるのは「反省」ではなく「逃げ」。というか「思考停止」。
「考える」事を止めない努力を。今年の課題に追加。
・・・セレブにあこがれているんだ・・・・・・。
セレブにあごがれていたのになんで目標とは真逆に進むのさ。
「ありがとう」を侮辱して、私に勝ってもいいことはないさ。
念のため書いておきますが、私は「ありがとう」の気持ちを侮辱するつもりはありません。
KY人間からすると、「ありがとう」と口にして貰えて初めて相手の感謝の気持ちを知ることができますから。ただ、逆に言えば社交辞令で「ありがとう」と言われた場合、気付かないで真に受けてしまうかもしれませんね。なのでそう言った誤解を避けるためにも、基本的に「正直者」でいようとは思います。
ちなみに、「今日はお忙しい中(お運び頂き)ありがとうございます」とは言えます。実際に相手に来て貰った(ご足労をおかけした)訳だし、それに対して感謝の気持ちを述べることは嘘になりませんので。過去、実際に職場でも使ってました。その時は「店員が客に対して」だったので、親戚や知人に使うのとは立場が違い、「仕事だから」と割り切ってましたけど。
人に感謝できるってすばらしいと思いますよ。
そう思うからこそ私も10年近くは頑張ってみたんですから。
でも、私の感謝には中身が無くて、結局それを見透かされてしまって、自分の立場が悪くなるだけだったから、中身の無い感謝は止めましたって話です。
「じゃあ、中身を入れたら良いじゃないか。」と思うでしょうね。そうあるべき、と。
でもね、持ってないんですよ、中身を。「人」に対する「情」というものを。だから入れられないんです。
その事を私が正当化してると思いますか?
うーん。見えるんでしょうね。正当化してるように。そう見えると言う人にはそれが真実なんですよね。
基本、私に怒る人は大抵、私が「人でなし」であることに怒ってるんだろうと思います。
「お前それでも人間か!?」って。これ漫画のセリフみたいですがリアルで夫に言われた言葉です。
私の心に「人間らしい情」が無い事を夫は「親の責任」にしたい様です。だから私が「人間らしい情」を理解していない行動をとると必ず「あんな母親に育てられたんだから仕方ないよね!」と捨て台詞を吐きます。(あれ、このコメントどこかに書いた気がする・・・。)
私自身の理解では、この辺のところはこのブログの重要なテーマだと思っているわけです。私はね。
しかし、実際には両親にほぼネグレクト寸前レベルで放任されて育った環境が、私を「結果だけ見ればそれなにり社会に適応できている」状況に押し留めているのだろうと考えているわけです。
現実に社会の側から見れば、アカハラで学生を退学に追い込む夫のほうが有害だろって思うのですが、人間性をみると確かに夫の方が「人間味あふれる情の厚い人」なんですよ。優しい時は優しいし。(ただし、贔屓の学生、愛着の対象限定ね。)
不条理だなぁと思いつつ。「世界とはそういうものだ。」と言うのが私の最近の考えです。
逆に、中心志向を持って生まれてきながらAS親の箱庭で溺愛されて育ち、中心志向の唯一の長所である「死に物狂いの努力してでも結果を掴み取る能力」を完全に封印されたて無能なまま大人になっていたら、さぞかし(私は)不幸であったろうな、と思います。
もちろん、そう気付けたのはこのブログのおかげです。
あぁ、だからその意味においては母に感謝してますよ。
感謝の気持ちを込めて「私を放任して育てたのは正解だったね。お母さん。」って言ったら
「放任なんかしてない!あんた子供の頃はお母さんにベッタリだったくせに!放任なんて酷い事言わないで。」だって。
私のテーマは「社交辞令」の重要性で中身ではなかったのだけど・・・・。
なにせ介護職ですから利用者さんから「ありがとう」って言葉をたくさん聞かされる。
認知があって、拘縮があって、介護度マックスで、ふだんはわ~わ~言うばっかりで何言ってるのかわからないじいちゃんが、ベットに寝かせたとき「サンキュー」と言ったのを聞いて本当に感激したから・・
。うがいしてたら私の顔に向かって水吐きかけるようなじいちゃんでさえ「ありがとう」が言えるのに、「ありがとう」が言えないことの言い訳なんて聞きたくない。自閉症や知的障害の療育でもとかでも「挨拶」とか「ありがとう」「ごめんなさい」を適切につかえるように訓練してるのに。
・・ってか、それ以前に、言葉を話し始めたばっかりの子供にまっさきに親がしつけることだよ、これは。
すべて外国語なのに「ありがとう」だけ日本語で話す外国人のインタビュー。金メダルを掲げて「ありがとう」ていうアスリート。「ありがとうございます」といって走り去る選挙カー。先輩に殴られて「ありがとうございますっ!」っていう体育会系。サッカーで点を取った時に十字を切って神に感謝する外国人選手。
そして・・
どんなに優れた結果をだしても賞賛に感謝の言葉を述べなければ傲慢だと攻撃をして引きずりおろす大衆・・・・。
「ありがとう」ってなんだろう。
「社交辞令の重要性」について、自身を振り返ったコメントです。
適切に「挨拶の仕方をしつける」のは大切だと思います。ただ、「相手が何を言っても(どんな反応を示しても)『ありがとう』と返す」のは、合理性や善悪の判断等が身に付かないのでやはり難しいですね(←ちなみにこれは、「ありがとう」を言えない言い訳ではありませんので。念のため)。
私の場合、社交辞令は過去に言われていても、気付かずに真に受けるか、スルーしていたと思います。よく「こういう場合はこうすれば良いのよ」と、後から先輩方にフォローして貰った覚えがあります。「コミュニケーションスキルを高める・人間関係を円滑にする」目的で社交辞令や本音と建前を使い分けるのは、多数派の間では普通に行われていることでしょうから別に良いと思いますが、私はその場で気付くことができないので、合理的に考えて動く方が性に合ってますね。
(今までは「申し訳無い」という気持ちの方が強かったのですが)これからは、フォローして下さった人達への「ありがとう」の気持ちも、忘れずに伝えようと思います。
意味が理解できないと、行動できない。理解できないままに行動すると大失敗するって結構なADHDの特徴だと思うんですが・・・。
そう言えば「傘の先輩」が(関係が悪化する前)私に「上司に怒られた時は『すみません』じゃなくて『ありがとうございます。』だ。」とアドバイスしてくれました。
そこで烈火のごとく怒る上司に対し「ご指導ありがとうございます。」と言ったら、本当に嘘みたいにサクっと機嫌が良くなるので感激しました。
その時にチラッと「傘の先輩」を見たら、目をカッと見開いて机の下でサムズアップしてくれていました。
この時は嬉しかったなぁ。。。もちろん「傘の先輩」にも「ありがとうございました。」は言いましたよ。当然です。
時が経ってこの話をたまたま義母にしたのですが、義母が上司に「ご指導ありがとうございます。」と言ったら、「上司に対して『ありがとう』だなんて、お前、何様のつもりだ!生意気な小娘め!」と、こっぴどく叱られたとの事でした。しかも義母の場合もこの上司にこの後もしつこく「生意気」「生意気」と責められて仕事に行くのが辛かったからすぐに結婚して専業主婦になったと言ってました。
結局やっぱり、その時の状況次第だと思うのですよ。
そしてこの「状況」を読み間違えるのが、発達障害者、と。
多数派さんはもうね、何にも考えなくても自然と読めるんでしょうね。当たり前に間違えないんでしょう。「ありがとうございます。」か「ごめんなさい。」か。
だから療育の現場でもわざわざ訓練するんですよね。適切に使えるように。訓練しないとできないから。
あ、ちなみにウチの子は上二人が発達障害で、3番目だけ定型なんだけど、2歳になったばかりの定型二男が一番適切に「あっとぉ(ありがとう)」が言えます。
てか、2歳で「あっとぉ」が言えるとは私も思ってなくて、かなり驚愕したのですが(笑)
つまり、私は2歳の子が「ありがとう」を言うハズないと思っていたので二男に「ありがとう」と言いなさいと指導したことは無いのです。
ただし、上の子達にはそれこそ「訓練」のつもりで「ありがとうは?」と催促します。催促しないと言いません。言っても憎々しげに「あ・り・が・と・う!」って感じです(ジャイアン長女の話。AS長男は催促されれば素直に言いますし、催促しなくても言える時も増えてます。)
って事で、つまり二男は私が長女長男に「ありがとう」を催促する様子を見て学習してるって事ですっ!!!
すごいっ!状況を読んで学習するなんて!感動!感激!!多数派万歳!!!
あ、なんか話がズレてきましたね。
私はジャイアンなのでのび太よりは状況が読めます。
だから上手に読めているところでは、社交辞令も上手に使って適応はできてます。
でも「愛着・執着」とか「依存」とか、感情絡みの現場で失敗しているんだろう、というのが現時点での自己分析です。
ごめんなさい・・・・・・
実家の近くで家庭をもつということは介護を抱えることになるのは必至で、ジャイアン女史はこのさき「借金」「育児」「介護」をフルセットで抱えることになる。本当に大丈夫なんだろうかと勝手に心配してしまう。一人っ子で覚悟ができているのかな?だとしたら何て強いんだろう。
私は介護職なのだけれど、親の介護はで妹に押し付ける算段でいるのに。
私は40代半ばで末っ子もう高校生なのだけれど、ここに未就学児を抱えている妹から介護要請がきても、仕事を理由に緊急に応えるつもりがない。20代は親と同居して、ろくに家事を手伝わなで給料全部自分のものとして生活し、30代後半で子供産んだと思ったら、頻繁に親に子供の面倒を見させている。おまけに独身時代に不倫やってるし・・・・身勝手もいいかげんにしろや介護ぐらいやれっ!と思っている。
結構本気でそう思っているけれど・、ケアマネとか、そんな方々に、妹が困窮しているので、そっちでなんとかならないかと来られたら・・・引き受けることになるだろうな・・・・だからそれまで待ってるか・・・ってういう計画です。
わたしの勝手な心配は私の罪悪感の裏返しだな。
他のコメント者様に誘導されて「ジャイアンに慰めは要らない」と「ASのオモテとウラ」をセット読みしたおかげで、「待ってる」とか「罪悪感」とかの言葉がいきなり飛び出してくる意味は理解できないけど、「へぇ、なるほど。こういうことか。」という風に了解する(受け止める)事はできるかな、と思いました。
最初「ジャイアンには利用はあっても必要はない(依存がらみでない限り)から、心配しなくて良いのに、、、。」と思ったのだけど、どうやら私には見えない「ウラ」があるって事ね、と納得している所です。
他のコメント者様のナイスな誘導に感謝です。
あれっ?ちょっと待てよ!
「了解する(受け止める)」と言ったら最後、共感とか同情とか情緒的なフォローに一気通貫なんでしたかね?ASさんって?
もしそうなんだったら、大きな誤解です。
「了解する」とは「『あなた』はそうなのね。」と了解するってだけで、だからイコール共感とは決まっておらず、共感の場合もあれば「私とは違いますね。」って意味の時もあります。
一応、念のため補足します。(必要ないかなとも思ったけど、一応ね。)
私の日常生活には、たわいもない笑い話レベルの「空気読めてないね」出来事がたくさん散りばめられています。
昨日、幼稚園にお迎えに行ったらジャイアン長女が「担任の先生が明日から別の幼稚園に行くんだって。」と言うのです。
私「え?そうなの?。(しかし、年長さんの担任が2月に突然別の幼稚園に行くなんてあるのかな?)」
この時点で、すでに手厳しいツッコミが入りそうですが、先に進みます。
私→担任の先生「先生。娘情報によると明日から別の幼稚園に行くそうですね?」
先生「ち、ちがうんです!子供達があんまり私の言う事を聞いてくれないから、『もう、先生やめる!』って言ったら一部の子たちの間で何故か『別の幼稚園に行く』って話になってしまって・・・。」
私「あぁ、なるほど。そういう話だったんですね。はははっ。」
終了。
さてさて、言わずもがなですが、この話を夫にしたら「違う!そうじゃないだろ〜!」と。
私と同様に何が違うか理解できない方のために夫の言い分を書きますと以下の通りです。
(1)先生は子供達が「ごめんなさい。」と言う事を期待していた。(゜д゜)エッ!
(2)私は娘に「どうして先生はそんな事を言ったのかしら?」と聞くべきだった。
(3)誤解が解けたら以上終了とせず「いつもすみませんね〜。」みたいな社交辞令を言えないお前は、やっぱすんげーダメ母。
とまぁ、大体こんな感じです。
やっぱり、一番「なるほど〜。」と感心したのは言うまでもなく(1)ですね。
要求を通すために情に訴える(しかも嘘をつく)という方法論がジャイアン的には「あり得ない」んだけど、多数派やASは当たり前にやっていて、それを分からずに事実確認だけして「はははっ。」で済ませてしまうと残念な人になってしまう。
ってか、「情に訴える」状況への理解力が幼稚園児並みって事ですね。
ASっていうのは、現実がそうあれば、それがあたかも自分の意思でいコントロールしたっていう気分になる傾向ってあるのかな?どうかな?
「算段になっている」なんて書いたけど・・そうじゃなくて、両親と1000キロはなれて都心の狭い公営住宅にに家庭をもって20年。奨学金と学資ローンでまかなった3人の子供の学費のために、収入を失うことはできないという、現実があるだけなのにさ。つまり算段じゃなくて現実です。まったくえらそうに・・・空が青いのはわたしのおかげじゃあるまいし。
私の心がすべて安定した外モードでできていたらいいのに。
・・・・センセー。皆様、すみません。そしてありがとうございまいたm(__)m
遅ればせですが、新しいブログの開設おめでとうございます。
先生の新しい言葉をこれからも拝見できて嬉しいです。ありがとうございます。
先日、高齢の母に自分のふがいなさを愚痴っていた時のことです。
母は時に上昇志向の強い人で、相談ごとに対しては現実的でない励ましや叱咤を返してくることが多いのですが、その時に言われたのは「誰もあんたのことをデキる人間だとは思っていないから大丈夫だよ」という言葉でした。
こんな言われ方をしたのは初めてで、とても救われました。母にしてみれば皮肉なのかもしれないですが。
>私に期待されていることは私が考えていたほど大きなことではない。私が勝手に背負い込もうとしていただけだった。
この文が頭に浮かびました。
私の場合は、外から入ってくる情報を鵜呑みにしてそうでなければならないと思い込む特性と中心志向とが相まって、分不相応なものを背負い込んでいたのだと感じています。
「自分に期待されている部分」に気づかず自爆して周りに迷惑をかけまくっていた過去は消せないし、何をやっても償うこともできないけれど、せめてこれからは今やるべきことを見失わないように暮らしていきたいと考えています。
ひさしぶりに拝見しました。デザインがすっかり様変わりしていて、おおーっとこの夜中に声をあげかけました。前のデザインも落ち着いて読むことができていましたが、従来以上に落ち着いて読むことができるように感じています。
最近は、あまりできないこと、できていないことにあえてチャレンジすることを心がけています。そういう状況に放り込まれた結果、自分の幅が広がった経験がいくつか続きまして、その影響でチャレンジングな気持ちになってきたのだろうなあ、と自己分析しています。ものごとに対応する能力の幅も広がったし、こころの許容量の幅も広がったし、ついでに腹回りの幅も広がって、この年になってなお自分の幅が広がることを実感できるのもまた楽しいものです。
私はというと、軽いASなのは間違いなく、そこは自分自身しゃーねーなあと思いつつ、型に当てはめて考えないようにしています。型に当てはめると、どうにもそれに囚われてしまう癖があるので、だいたいこんなもん、まあ例外もいろいろあるしよく分からん部分もいろいろあるよね、くらいで納められるようにようやくなってきました。これも幅が広がった効果なのでしょうか。
もちろん、型に当てはめて考えるほうが、ひとやものごとをちゃんととらえることの出来る人もいらっしゃる。そうやってきっちりきっかりとらえてものごとを片づけていく様子を見るにつけ、ちょっとした尊敬と、ちくしょう俺にはできんなあという思いと、ひとっていろいろで面白いなあという感情とがないまぜになって出てきます。
どうやら私は、直感でものごとをとらえるタイプだと、ようやく分かってきた今日このごろです。論理的にものごとをとらえるタイプだと勘違いしていた今までの時間を返してくれー!(冗談ですよん。)
取り留めのない文章で失礼しました。
連続投稿失礼いたします。
ひさしぶりにこの記事とコメント欄を見てみたら、いつの間にか新しくログイン
された方お二人のコメントに気づきました。
毎日「最近のコメント」欄をチェックしていましたが、気づきませんでした。
おそらく「最近のコメント」欄が5人分しか入らないからかもしれませんね。
それと現在は新しくログインして、初投稿した時のみ先生が承認なさってから
掲載されているようなので、ワンテンポ遅れるみたいですが、一度掲載されて
2度目の投稿からは、ストレートにすぐに掲載されるようになっているようです。
一度だけ投稿して他の人より掲載が遅れた方もまた投稿なさると今度は
即掲載されると思いますので、また投稿なさってくださいね。
とお節介コメントでした。
今、ブログを開いたら、「最近のコメント」欄が5コメント分から15コメント分に
大幅に増えていて、ビックリしました。こんなに変えられるんですね。
先生、ブログ担当者様、どうもありがとうございました!
いろいろな方の「自分を振り返ったコメント」はいつも読むのを楽しみに
しているので、嬉しいです!
今朝の朝刊の一面に昨日の「東日本大震災4年追悼式」の様子が
載っていました。
代表で19歳の女性が遺族代表の言葉を述べたとのことです。
その内容を読んで、非常に心を打たれました。
津波にあって気がついたら、母親ががれきの下にいて、一生懸命
助けようとしても、どうしても助けられない。そのままだと自分も流されて
死んでしまう。母親が「行かないで」と言ったが、「ありがとう、大好きだよ」
と別れの言葉を言って、自分だけ近くにあった小学校まで泳いで助かった。
その悲しみは想像を絶するものですが、東北の方々は何と言ってもたくましい。
「皆でがんばっぺな」と声を掛けあって復興に向かって頑張っているとのこと。
それに比べると自分は何てひ弱なんだろうとつくづく思いますが、このひ弱さ
のままで、毎日を精一杯生きるしかないんだなと改めて覚悟しました。
ADHDもASDも
絶対的な真実、真理を問い、交渉の中間点や「まあまあ」という曖昧さはない。
このサイトのコメントでも、たまに
禁止されている、主張の相違やぶつかり合いがあるけれども
多数派は、
「所詮仕事でもないし、黒か白か適当でいいじゃない」って考える。
何か、問題があっても、なあなあで先延ばしをして、両者の折り合いを付ける。
真実をみつけることこそ、非効率である。
twitterでも、2chでも炎上が良くあるけれども
情報発信者の背景や思考を完全に知らないと、言語的に論破しようとするだけで
本当の意見の対立ではないと考えます。
だから、面白いなって考える一方
私も当事者なのに、面倒だな。これがACなのか?って考えます。
ふむふむ、「AC」・・・アダルトチルドレンのことですね。このブログでの永遠のテーマですよね。
私を含んだ、ここに参加している皆さんだけでなく、日本人がみなACの問題を抱えていますよね。
多数派だってACを本当に解決している人は少ないんじゃないかと思いますよ。それぐらいごく一部
の問題ではなく、人間全体の問題な気がします。一生のうちで自分のACを解決できて死ねることが
できたら、その人は幸せですね。
ADHDもASDも「絶対的な真実」なんて求めているんでしょうかね。そんなもん、もともとこの世にはないと、みんなわかっていると思いますが。
ただ、一つのキーワードは「納得」かなと思います。ADHDとASDは感覚がかなり違いますけど、たぶん
「納得しないと行動しない」っていう点ではすごく一致するのではないかな。
そして「納得」すると妙に素直になれるところがある。これが私たち「意味不明人」の長所のように思います。
訂正します。
>ADHDもASDも「絶対的な真実」なんて求めているんでしょうかね。そんなもん、もともとこの世にはないと、みんなわかっていると思いますが。
上記の言い方、決めつけた言い方をしてしまってごめんなさい。
私自身は「絶対的な真実」などこの世にないと思っていますが、他の方はあると信じて
求めている方もいらっしゃるかもしれませんものね。
軽はずみな言葉、失礼いたしました。
連続投稿すみません。
最近のコメント欄が大幅に増えたこと、コメントがストレートに掲載されること、
などで、安心し過ぎて「過集中モード」になっていたようです。
しばらくコメント欄から離れます。目標 3ヶ月!
過集中の私の言動で気を悪くされた方がいらしたことでしょう。
申し訳ございませんでした。
3ヶ月~6ヶ月くらい間が空けられるといいなと思っております。
その間、ROMだけさせて頂きますね。
また、出てきてすみません。
実は1年前くらいにYANBARU先生に「この辺でこのブログを永久卒業したいと思います。
読者やコメント者の皆さんにご挨拶がしたい」という旨のコメントを何度も書きましたが
先生は掲載してくださいませんでした。
ま、こんな私を引き留めてくださる意味で承認なさらなかったようで、恐縮なお話です。
その後、しばらくしたらm3ブログが閉鎖になるとのことで、新ブログへの移行の話が出た
ので、スムーズに移行できるようにお手伝いしたいと思いました。
ボランティアの方々のご努力で、立派な新ブログができあがり、皆さんもまた集まって
くださったので本当に良かったなあと思っております。
新ブログが軌道に乗ってきたところで、私は再度、「永久卒業」をする時期だと自分自身で
感じていることと、今まで先生や読者の皆様に大変お世話になってきたお礼を申し上げたい
と思いました。
長いこと本当にありがとうございました。残りの人生は自分1人で歩いてみたいと思います。
今なら承認なしでストレートにコメントが掲載されるので、思い切って書かせて頂きました。
先生、前に引き留めてくださったのに勝手なことをしてごめんなさい!
皆様、これからも「意味不明人」としてご自分らしく、生き生きとお暮しくださいね。
私も自分らしく年を取れるように努力いたします。
どうぞお元気で、さようなら。
たぶん私の息子は
依存型ジャイアン(情緒障害型)だと感じます。
表面的な気配りは、生き抜く知恵として体得しているため、表面の愛想は良いことも多いが、継続的に近くで接すると、極端に場当たり的でその場の対応だけに終始する行動に家族などは疲弊する。
↑ まさにこれ。
嘘が異常にうまいのです。
ハローワーク行ったり、学サポにいったり・・ニート親としてはなんだか一安心な行動をとる。でも今までを振り返って、これはその場かぎりの対応の可能性が高いと感じます。
「もう一回チャンスをあげるけれど、今度、一日サボったら報告してね。それで退学手続きをする。それはアルコールのスリップと一緒で一滴飲んだらもうダメだってことだから。その後は就職し家にお金を入れてね。家にお金をいれてくれたらそれはそれでこっちは助かる。あと就職がうまくいかなくても支援センターもあるから安心して」と息子には言った。
そして
「それでもうまくいかなかったら、環境を変えるために田舎のじいばあのところにいってもらう。そこに行けば、ニートでもいるだけで役に立つし、じいばあも喜ぶ。じいばあが亡くなったら、その家もらってそこで好きに暮らせばいい」・・と、追加。
センセー・・・どうかなあ。
・・・なるほどなあ・・私は、支配と引き換えに溺愛をしない母だったんだ。
私はいまから甘やかす必要はないけれど、
子供を手放して、言語的な説明を加える必要があるんだ。
あっ!!!
うまく話せないことは、こんなことが起こる前からの私の重要な課題じゃないかっ!!!!!
・・いろんなことがいっぺんに見えた。
さてと、息子から学サポから帰ってきたから、話を聞きに行く。
「卒業まで、単位はまだまにあうよ」
「学校に来れない・・?部活でもしたら?」
と学サポから回答があったらしい。
家に帰ってきた息子は超どんよりしている。
私があれこれ聞き出そうとすると「やる気無くさせる気かよっ!」と怒った。
あ、はいはいと引っ込んでしまったけれど・・・これは大失敗。
『いや、別に学校やめて働いて家にお金いれてくれたら全然かまわないんだけど』
と言えば良かったよ(ーー゛)
(つづく・・)
数ヵ月に一度、このブログにコメントして、自分勝手に自己突っ込みしてADHD的思考グセをリセットしようとしているADHDです。最近、自己突っ込みも、する度に解放しなければ罪悪感の積み上げになりよろしくないなーと気づきました。攻撃性や逃避、先延ばしへの言い訳の背後にある罪悪感。突っ込んですぐ手放す。刺激が強くて手放すのは結構大変なときもあるけど、ただでさえ容量オーバー気味のあたしの心とワーキングメモリを少しずつでも軽くしていかなきゃ。自己突っ込みしないASは罪悪感も少ないのかもしれないかわりに、共感の感覚が違うことによる恐怖心が感じられる。一長一短だなあ。見習うべき部分は見習いたいと思います。反省は必要な行為だけど罪悪感は、結局、悪感情でしかないから。
ブログ移転以降初めて投稿します。
現在私は自身が統合失調なのか、またはアクセス法違反の被害を受けているのか分からず悩んでいます。
ただのメモ帳に書いた日記に対し、あまりにもタイムリーな反応が返ってきたり
移転前のこちらのブログのコメント欄に、投稿せずに消した書き込み内容に反応するようなコメントが寄せられました。
気が滅入り薬を一気飲みし自傷したところ、親の承諾の元処置入院となりました。
そこで医師に「私の思い過ごしか、統合失調でしょうか?」と尋ねた所
「違う」と一蹴されてしまいました。
被害を確信している訳でも無く、確証がある訳でもありませんが
あまりにもタイムリーであからさまな反応が返って来る事も多く
その度不気味過ぎて自傷行為を繰り返すようになってしまいました。
今現在、ネットが無いと通信制の大学の単位を取る事も難しい為
ネットを使用しない訳にもいきません。
また、リセット後ネットに接続せずに使っていたタブレットでも同様の
情報が漏洩しているとしか思えない反応がありました。
自分が悪い訳ではないのに犯罪者に屈するのは嫌だと言う反抗的な考えと
タイピングの楽さも相まって、未だに電子機器に日記をしたためていますが
不快なのに変わりはなく、自傷行為を繰り返しています。
書き散らしたまとまっていない文で申し訳ございません。
しかし、もういっぱいいっぱいで自分でもどうしたら良いのかすら分からないです。
また機会を改めて投稿させて頂きます。
乱分失礼致しました。
私は不合理不条理が少ない環境に身をおいておりますが。それは、特性としてただそうなってしまうからだったのですが。でも、ついにパートナーが言う「みんな嫌い」というのが私もわかるようになってきてしまいました。ちっと、まずいな、思考力を得た、弊害ではありますが。パートナーが言う「(自分に)人間のチリがつもる」という訴えがわかるようになってきてしまいました。一時は人との距離感を縮めて喜びましたが。今や離そうとしています。しかしこれで良いのです何の問題もありません。ほんとーはわからないことに変わりありません。私は方向性を持ちました。方向性とは、つまり時間の流れのことです。限られていることも。(こういうことを一人で考えていると楽しいんです。これを会話にするのは難しいですが)ドナルド・ディヴィドソンさんの書いてることもわかるようになったよ。言質はただ手がかりとしては重要だということは変りないと思うけど。そしてわからないことは相変わらず輝いて見える。