このところカップルや親子の相性など、実はよく見られる発達障害の現象について説明して来た。
ADHDは思い込みが激しく、ASは想像力が乏しいので、このあたりでこういう「事実」をどう捉えるかについて再び注意しておこう。
「こういう風な経過をたどる人が多くいる」ことは、「こういう経過しかない」ということとは全く違うことであり、また現実の一人ひとりの人生は、「意志」に基づく部分もあり、説明のとおりに行くはずが無い。
ここでの説明は、「何が起こっているかについての理解に役に立つ」参考資料でしかなく、逆にここで私がこう書いたことを根拠に前向きに努力することを放棄している人がいれば、全く持って迷惑な話だ。私は逃げ口上の根拠を提示したくてこのブログを書いているわけではない。
「何が起こっているか」について、理解するところはあくまでも出発点であって、どんなに困難でもその先にはさまざまな経過の可能性があるというのが「事実」だ。
ASは(殊に将来の豊かな可能性に関する)想像力に乏しいので、もともといろいろなことを必然であるかの様な表現をするが、これは「こじつけのゆがんだ認知の結果」であり、「事実」でもなんでもない。
またADHDのACは思い込みが激しく、「こうなる」と書いてあると「そうなのか」と思い込んでいまう傾向があり、それも「もっと自分の頭で考えなさい」というべきところだ。
当たり前のことだが、「生きたいように生きれば良い」。その代わりその責任を人に擦り付けることはやめよう。
私は「意志」の力を信じる。発達障害には特別に困難な問題もあるが、一途な意志の力もある。同じ思い込むのであれば、「出来るはず」「何か方法はあるはず」と前向きに思い込もう。
勉強不足のため、自分はASなのかADHDなのか、未だ判別出来るところまでは到っていません。しかし、自分はマイノリティーな人間(?)と自覚する機会はとても多いです。このサイトを読ませて頂きながら、少しでも自分を客観視できるようになれればと思います。
それにしても今日の「事実」と「意志」ですが、本当にそのとおりと思いました。ズバリのご指摘ありがとうございます。
初めてコメントさせていただきます。
ずいぶん以前より、こちらを見させていただいていました。
私は臨床心理士です。
臨床経験はかなり長いですが、最近になって自分自身がASであるということに気がつきました。
自身が、長年治療分析を受けてきたのですが、ASという可能性は考えられず、転移関係で起こる言動が定型と違うことと、二次障害の乖離があったため、変な人格障害と思われて苦労してきました。
ASと気がついてから、いろいろなサイトの当事者と話し、何人かの当事者の方が、あまりに自分に似ていることに驚き自己診断に、確信を深めています。
ASと分かったことで、むしろ今はほっと肩の荷を降ろした気持ちで、本当に楽になりましたが、これからの課題は、この仕事をどう続けてゆくかになります。
YANBARUさんは精神科医という立場と当事者という立場を両立させていらっしゃるので、たいへん励みになります。
ASはカウンセラーとして機能できるのか、できるとすれば、どのような心掛けが必要か、そしてASが定型の方のカウンセリングをすることができるのだろうか。これが今私が試行錯誤している問題です。
事実と意志についてのお話にはたいへん共感します。
ASは私にとって事実ですが、この仕事を続け、よい治療者になりたいというのは、私の意志ですので、その意志があるかぎり、方法を模索してゆきたいと思っています。
これからも、HPの中で、いろいろと教えていただけるとありがたいと思います。
「事実と意志」反省しながら読みました。
発達障害の理解はしたものの、何も行動に移せない自分を情けなく感じています。
ただ、離婚後の生活に希望が持てずに空回りしていました。
このままだと何も変わりませんよね。
可能性を信じて「努力」していかなくては・・・。
ただ闇雲に批判し続けるのはもう止めて、まずは私の「歪んだ認知」と「事実」を分けたうえで「歪んだ認知」を修正してこれから先の事を考えていこうと思います。
ご指摘、ありがとうございました。
YANBARU先生へ
「事実」と「意志」は苦悩している発達障害者へのエールとして読みました。
感謝です。
来年が発達障害にかかわる全ての人にとって、よい年でありますように。
カップル・親子の相性のところから順に、今、この項を読ませていただきました。
後半部分には元気づけられ、励まされ、ひと言お礼が言いたくなりました。
ありがとうございます。
上の投稿時、2か月前には親子関係ばかりに目が向いていました。それが突如、カップル関係で「ASの認知のゆがみ」に影響を受けてきた自分に気づきました。
>またADHDのACは思い込みが激しく、
はい、その通りです。
>「こうなる」と書いてあると「そうなのか」と思い込んでいまう傾向があり、
はい。パートナーは何より効率を求める非常に合理的・論理的
な人であり、かつ口数が少ないです。ですから、彼の言葉は私には「反論の余地がない正論」に聞こえ、十数年間「そうなのか」と思い続けてきました。
>それも「もっと自分の頭で考えなさい」というべきところだ。
彼の言葉を「そうなのか」と思い、特に社会性において、自分は彼より未熟な人間なのだと思うようになっていました。
一方で、彼に対して言いようのない怒りを感じていましたので、彼の口調・目つき・足音・声の大きさ・姿勢などに対し「ムカつく」と言い返していました。
↑
こうして書き出してみると、いかに自分の頭で考えず、感情的に反応していたか、がわかります・・・
自分の頭で冷静に考えるべきでした。
>「何が起こっているか」について、理解するところはあくまでも出発点であって、どんなに困難でもその先にはさまざまな経過の可能性があるというのが「事実」だ。
はい、その通りですね。
親子関係は、すでに問題が生じており自覚がありましたので、「ブログを読んでの気づきはある意味想定内」といえたと思います。
それに対し、カップル関係については昨日、本当に突如として気づいたので、ちょっとショックが大きいです。
>当たり前のことだが、「生きたいように生きれば良い」。その代わりその責任を人に擦り付けることはやめよう。
あらためて、その通りだと思いました。
>私は「意志」の力を信じる。発達障害には特別に困難な問題もあるが、一途な意志の力もある。同じ思い込むのであれば、「出来るはず」「何か方法はあるはず」と前向きに思い込もう。
正直なところ、今はその元気がないです。でも、自分には遠からずそう思える日が来るだろうと思います。
朝の投稿の後、しばらく沈んだ気持ちでいましたので、ここは無理にでも気持ちを切り替えようと思い、気分転換の外出をしました。
少し落ち着いて考えてみると、
・そもそもパートナーがASかどうかわからない
・自分の認知と思考がASのようになって意欲が低下しているとは言えない(反論はしないが思い切り不快感をぶつけている)
↓
以上より、私がAS被影響症候群とは言えないということに気づき、自分はつくづく思いこみが激しいなと思いました。
ただし、彼の「先回り思考」が刷り込まれたことは事実だと思います。私はもともと場当たり的に生きてきて、何とかなっていました。それが彼と共に生きていくうちに、いつの間にか合理的・効率最優先の毎日になっていました。それが、私が無性に怒りを感じる一因になっていたのだと思いました。
1.私は束縛されることが何よりのストレスになる
2.効率を追求されると、合理性と共に息苦しさを感じる
3.雑談をしないあなたが口にする言葉は、ほとんどが「批判」であることを自覚してほしい
以上を、彼に対してはっきり言おうと思います。
昨日の投稿後、パートナーに上記をはっきり伝えました。
彼は、意外にもあっさりと「わかった」と答えました。
そう答えたそばから、私の怒りセンサーに触れる発言が飛び出しました。
私は「その言葉は、あなたにそのつもりがなくても批判であり、私の自由を縛る言葉で、私はとても苦しくなる」と、感情的にならずに言いました。
・・・感情的にならずに、言えました!
2つ上のコメントでは、先生の7年前のエントリーで勝手に対話をさせていただき、今は恥ずかしい気持ちです。けれども、
対話をさせていただいたことで、自分の問題は確実に前進したと思います。
また、少し前に「日々のチェック事項」と「偏屈宣言」を文章化しさせていただいたことで、自分の方針が多少なりとも定まったように思います。
子どもとの関係は、日々よい方向に向かっています(あくまで私の視点からですが)。まだ渦中ではあります。今後もゆっくりと、母子の距離の取り方を考えていきます。
このところの書き込みをご許可いただき、ありがとうございます。