AC、人格障害関連

「適応型」について

 成人発達障害ケアを考える上で重要なのは、ADHDやASの子供に見られるような分かりやすい注意欠陥、多動などの「一次障害」だけを考えては診断もケアもうまく行かないということだ。

 子供のときに多動であったとして、表面上その「多動」のままで大人になることはまず無いだろう。
体も大きくなり、学校から会社などへ環境も変わる中で、「実際に席を立つ」行動から「もじもじするような体動」などに変わる(ハロウェルとレィティ 1994)ということの他にも、当たり前のことだが、多動のせいで叱られたりいじめに遭ったりといった体験の中で、本人なりに自分で工夫した「対処行動」が必ずあるはずで、一般的に言われる「二次障害」のほかに、もう一つ別の「適応型」という要素を考えるべきであると私は最近考えている。

 例えば「支配的な親などの顔色をひたすら窺い続け、その結果超刹那的な認知と行動のスタイルを身につける」というパターンは実際にかなり多くのケースに見られるのだが、実際支配的な親のもとで学童期(中学1年くらいまで)は、この認知と行動のパターンだけで乗り切れるだろう。

 社会的には、責任を負う立場にならない限り、この行動パターンはむしろ「日本的な協調性を持つ優秀なサラリーマン」と評価されるかもしれない。

 自分では一切合理的に考えることをせず、依存相手に全て従い、いちいち指示を仰ぐ。「依存相手が怒り出さない」ことが最優先で、機嫌をとるためならどんなことでもする。

 しかし14歳を超えて大人としての学習や一貫性を求められる段階、または結婚して親になる段階、あるいは管理職などになり部下から行動の一貫性を求められる場合などになって、このスタイルの無責任性が表面化して問題となる。
 
 依存する親や上司が目をかけてくれて全責任を代行してくれればまだ適応は可能であるが、自分が親(やパートナー)の立場になった親(やパートナー)の責任からは絶対に逃げ切れないので、パートナーや子供からはまさに「自己愛性人格障害」「精神病質」のように見えるという結果になる。
 
 離婚の危機などになり心療内科を受診する段階では、表面上ADHDには見えない。カウンセリングで合理的思考のトレーニングなどを続けるうちに、本来のADHDの認知と行動パターンが表面化するケースを私はいくつも経験してきた。

 考えてみれば当たり前のことであるが、「一次障害、子供の診断基準そのままで歩いている」成人ケースがあるはずが無い。成人発達障害のケースは一次障害の上に、「適応型」を身に着け、さらに「二次障害」を合併した形で診察場面に現れる。だから発達障害の子供の診断基準で成人も判断したら、当然のこと「過少診断」という結果になるだろう。

 またケアも、「ベースに発達障害があって適応型として躁うつ病や摂食障害などを身に着けている」という見立てをすれば解決可能なケースも多いと私は考える。

 実際のケースのカウンセリングの経過で見せた変化などから一臨床家として私が感じることだ。


関連記事

  1. 「普通の範囲内」
  2. 自己正当化型ADHD
  3. ジャイアンの躁うつ病
  4. ジャイアンと逆境
  5. マタタビ
  6. 「過集中頼み」症候群
  7. 我流
  8. ジャイアン同士のカップル

コメント

    • 2011年 9月 15日

    「ことさらに(男受けする)女性らしさをアピールする」のは私の適応型だと思います。
    年頃のころは、飲み会の席に座っているだけで、目の前のテーブルには食べ物も飲み物も並び、私は上品に微笑んで「ありがとう」っ言うだけで男たちは嬉しそうでした。
    ・・・私の「今」は誰が連れてきたのだろう・・・
    あの時、望めは3600万の資金がが手に入ったのに、私はそれを放り投げました。
    その資金はは夫の独立資金、事務所&愛人用ワンルームマンション、そして義母の一人暮らし用のセカンドハウスになりました。
    また、もし離婚して、実家に帰ったとしたら、そこはド田舎ですが、土地は80坪を超え、家には防音室もあり、そこにグランドピアノが置いてあります。
    妹の夫は親のコネもあって30代で大学の準教授になり、教授も約束されているようなもの、彼のお父上様なんてモンスターです。
    中絶→浮気→レスの夫に捨てられたように、別居して低所得専用住居に住んでいる私にとって、
    田舎にもどった方が「出戻り」を消して余りあるヒエラルキーを手に入れることができる。(依存だけど世間ってそんなものだし・・)
    なのに私はここにいる。
    ・・・家づくりって・・・主婦の責任ですか?
    そんなこと言ったって、私って子供のころからおままごとなんて大嫌いで、
    私の遊びとといったら、悪ガキ男子と一緒になって、
    線路に置き石実験して遊んでたら学校に通報されたり(バレなかったけど・・フェンスができた)
    田んぼの干してある藁を放り投げて戦争ごっこして遊んで、学校に通報されたり(バレてない)
    ため池で遊んで・・やっぱり通報されたり・・・(その後死亡事故が起きてフェンスができた)
    ダム放水路(?)の下に降りる侵入禁止の梯子をおりて・・いくやつを見守っていたり、
    とにかく「おままごと」なんてつまらなさすぎてできませんでした。(←こういう問題ではないような・・)
    なのに、年頃の私はなぜか「超おとなしいお嬢様風」に化けていて、それを好む支配溺愛型の夫とやっつけ仕事のように結婚、出産し、その後、「破綻」しました。
    ・・・あの子はどこにいるんだろ。
    私はこれからどう生きたらいいんだろ。

    • 匿名
    • 2011年 9月 16日

    自分がもしも女性に生まれていたらどうなっただろうか、と思うことがあります。
    大好きななでしこジャパンのビデオをしょっちゅう見ながら思います(なでしこの選手たちがどうの、というわけでは決してありません。念のため)。
    自分は凪さんと逆で男の子でも女の子とおままごと遊びをするのがけっこう好きだったように思います。母子家庭の上に病弱な母親が何度も入院してそばにいないことが多かったせいもあるかもしれませんが。
    友達と山川海に行っても(小生も田舎でしたからすぐそばにありました)、友達と遊ぶよりひとりでぶらぶらして自己満足にひたっているのが好きだったように思います。
    そんな変な自分勝手な奴なのでいじめられることも多かったです。友達の立場になれば当然なのでしょうが。
    中学にあがってガラスを割り教師を殴りトイレで恐喝するようなヤバイ連中といっしょになったときは開き直ったのかどうか自分でもよくわかりませんが、そんな彼らに因縁つけられながらも最終的には仲良くしてくれたりして、あれはいったいなんだったのだろう、と不思議に思うことがあります。お互い同じ臭いを感じたのだろうか?よくわかりませんが。
    男色の趣味はありませんが、もし自分が女に生まれていたらどんな人間になって、どんな人生を送ったのだろうか、とたまに思うことがあります。たしか10代の頃からだったと。
    (ちなみに10代のころ大好きだったカレン・カーペンターが拒食症で亡くなったときは自分の中の大きな部分が消失した気がしました。)
    女性に生まれたほうが楽だったろうか、いやいやかえってしんどかったに違いないとか、女として生きるほうがいろいろやりたいことができたんじゃないか、とか。
    自殺を考えたことも何度かありますが、あのときも女性だったらどうなっただろう、自殺さえ考えなかったのか、あるいは実行したのか、などなど。
    とりとめもない駄文で申し訳ありませんが、「あの子はどこにいったんだろう。あれでよかったのか悪かったのか。いまもどうなんだろうか」は小生も毎日のように思うことではあります。
    決して解決はしない、答えのない問いかけですが。

    • はすのはな
    • 2011年 9月 17日

    私は二卵性双生児の長女として産まれました。二卵性は男と女の組み合
    わせも多いのですが、私たちは女の姉妹でした。小学四年生(10歳)の
    時にはっきりと(自分は変わろう)と感じた事を覚えています。生理が
    来た時、自分が女であることが嫌で嫌で、髪の毛をバッサリ切ってほと
    んど坊主のような髪型にして母親に叱られました。
    中学と高校は私学の女子校に通っていましたが、入学当初から合わない
    のを感じて、よく問題を起こしては親に頭を下げてもらってました。大
    学はほとんど男子しかいないところを選び、身体的には自分が女である
    ことを嫌が応でも自覚しなければならなかったのですが、そこで出会っ
    た人と結婚し、二人の子供を授かりました。
    初めて親になった時、夫はとても喜んでくれたのですが私自身は違和感
    がぬぐいきれず、仕事を続けることを選びました。そして結婚生活10年
    目で夫は過労で逝ってしまいました。
    今はシングルマザーとして母親と父親の両方の役をしています。もちろ
    ん正直言って時々誰かに甘えたくなります。けれど自分で選んだ道なの
    で自分の生き方に迷いはないと自信を持って言えます。

    • 2011年 9月 18日

     私は、しっかりと自分の足で立っている人が好きです。いかに現代社会で適応しにくい特徴(一次障害)を生まれ持ったとしても、七転び八起きしながら自分の人生を歩もうとしている人が好きです。
     一次障害を抱えていることは、多くの人より転びやすいものです。七転びどころではないでしょう。
     子どもの頃、転んで起き上がるにはどうしたらよいかを子どもなりに一所懸命に考えます。自分の意思を持つことを捨て、親の価値観をそっくり受け入れれば切り抜けられると学習した場合、自分の意思が間違っていると思い込み、押し殺して従うことを学習した場合、親が転んでいることも気づかず、自分で解決しなければならなかった場合、などさまざまに、子どもは適応をしようとしてその子なりの学習をします。
     高度経済成長後の日本は、都市化とともに核家族化が進行し、親‐子の関係の密着によって過干渉になったり、逆に育児ストレスで放任になったりと、子どもが育っていく環境が変化しています。子どもが転んだとき、たとえ一次障害があっても、「見守る」ということが発達に重要な要素なのですが、これができにくくなっています。また、「怒る」のではなくて「叱る」という発達に重要な要素も、できにくくなっています。「できにくくなっている」と表現したのは、(日本語が変ですね)日本社会の変化が著しく、一方的な親の責任だけではないことを言い表したかったからです。
     しかし、成人期を迎えてからは、自分の人生を自分のものとして生きていかなければなりません。親の庇護下で身に着けた生き方が、社会の最小単位である家族やある一定の保護をしてくれる学校では通用しても、一般社会では通用しないことが多く、変化させることを余儀なくされます。多くの人は「空気を読むこと」で自然に適応するようになりますが、「空気を読むこと」が困難な発達障害者は、親の庇護下で身に着けた生き方を変化させることを迫られていることに気づかず、継続させてしまうのでしょう。社会は待っていてはくれませんから、いずれ不適応を起こすようになるのでしょう。
     なぜ、不適応の状態に陥っているか、その問題を自分自身がしっかりと受け止めてあげることで、自分の中に「あのときのあの子」を取戻し、今度は自分で見守ってあげ、叱ってあげることで成長させていくことができると信じています。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP