結局出口はここしかない。人の力を借りないで自分が納得するための一番現実的な方法は「合理的な納得」だ。
「利害損得」という方法もあるかも知れないが、結局多数派の「空気」に代わる納得の方法を自前で編み出すしかないのは大人でも同じであるのだ。
ジャイアンに戻る。怒りが表面化する。「その怒りをどうしよう?」。
その答えは、「合理的に考えて理由のあるものは仕方が無いと合理的に納得する」ということだ。
例えば自分にひどいことを言った相手が居た。その相手への怒りが抑えきれない。
ジャイアンの場合はそういう理由で解離になったり依存に走ったり摂食障害になったりAC的になったり躁うつ病などの病気になったりいろいろな反応が起こりうる。
結局解決はその言葉が発せられた状況を具体的に細かく直視して調べて、「当たっているものは仕方が無い」「しかしここまで言わなくてもというくらいの反論は成り立つ」といった作業をカウンセリングの場でもすれば良いということだ。
その結果その経験に「納得」できれば、「トラウマ」に近いものになっていたものが「解消する」という可能性まで見えてくる。
だからジャイアンACを治すと同時に、合理的思考のトレーニングを並行して進めるのが良いということだろう。
出てきた怒りやこれまで納得できなかった数々の経験を、一つ一つ合理的に解決していく作業が可能となる。
辛いが本人が逃げ出さないことと、ある程度の合理的な思考が出来ることが必要条件だ。
結局「ジャイアンは衝動統制の障害なので、大人になったあとでも、衝動統制の新たなシステムを新たに再構築するのが解決」という非常に単純な結論だった。
何でこんな単純なことにたどり着くのにこれほど時間がかかったのだろう。これがジャイアンの「救い」なのだ。
こんにちは。
いつも先生の言葉に助けられているジャイアンAC、41歳です。
先日、再度人付き合いでトラブルを起こしてしまい、ADHDから検索した病院に受診しました。
バウムテストをした所、根を大きく書きました。
ご両親とはうまくいっていますか?との先生の質問に、うまく言っていないと答えましたが、両親を悪く思われたくなくて、子どもっぽい所があるので気を使ってしまいますというと、貴方は両親が子どもだといいますが、貴方自身が子どもです。と言われました。
もう41歳でしょう。いい加減にしましょう。
人付き合いは誰もが悩んでいるのでうまくいっている人はいません。貴方は人付き合いが人より苦手なのだから、それを受け入れましょう。
との診断でした。
(以前、先生が診察した医師に対してジャイアンは逆ぎれをすると書かれていましたが、逆ぎれではなくて、本当にわからないのです。)
診て頂いた先生のおっしゃっている事がわかるような、でも、自分の聞きたい事とずれているような気がして言葉を尽くしてみるのですが、次の患者さんが待っている事や自分の診察にかかっている時間などを考えてしまって、本当はわかってはいないのに、わかりました。ありがとうございました。と言ってしまいました。
人とうまく付き合おうと自分を変えようとするのはジャイアンである事を受け入れていない事になりますか。
ACである過去は親もはじめて親になったんだと理解しているつもりですが、でも愛して欲しかったと心の底では思っていると本当に受け入れた事にはなっていないのでしょうか。
よろしくお願いいたします
母に首を絞められたことを思い出しました。
両手で首をつかみ、徐々に力を込めて、左右の親指をのど仏に当てて押しつぶすように締められて、息が止まりました。
私は心の中で「ああ、お母さんのいつもの癇癪がまた始まった」やがて「今回はまずいな」と思いました。
しかし、完全に息ができなくなったのに、抵抗しませんでした。
記憶はそこで途切れています。
この記憶で、自分のAC(というか、心的外傷というべきか)の根深さを思い知りました。
こんな目に合わされたら、力いっぱい抵抗し、怒るのが当たり前のはず。
不思議なことに、思い出した今でも、恐怖も怒りもまったく湧いてきません。
無意識にも、抵抗して見捨てられるくらいなら死ぬほどなぶられることを選んでいる。
まだACから回復しきってないのでしょうね。
一年前に、こうコメントさせていただきました。
「死んででも『必要』が欲しかった」
未だに、心の中にこれが住み着いているのでしょう。
もっと、自分を大切に思いたいです。
母(依存型ジャイアン(ボーダー型))の対人関係の捉え方は、「自分の思い通りになるかどうか」です。
>ジャイアン型ADHDに特有の現象として「ファンタジー」と私が呼んでいる現象がある。(「ジャイアンのファンタジーⅠ」より)
>.「宗教ジャイアン」と私が呼んでいる宗教に丸投げ依存(良く見ると都合の良い部分だけ利用)しているジャイアンの一群がある。(「発達障害と人格障害5.統合失調症型人格障害」より)
母はまさに、「全部が自分の希望どおりになる世界の王である」という宗教を己の中に持ち、意に沿わないことが起こればパニックに陥ったり、相手に罰を与える閻魔大王にもなり、「ファンタジー」をも創り出します。
さて、私は一年半前に母と誓約書を強引に取り交わしました。(主治医からの指示で)
誓約書で、私たち夫婦の生活に支障が出ないよう決まり事を決めました。
「構造化」です。治療契約に似ています。守れば同居を続け、3回以上破れば別居という罰則つきです。
・帰宅予定時間前にはケータイに電話しない。
・勝手に私達夫婦の部屋に入らない。
・共同空間である居間で寝ない。
・・・などなど、多数。
守れたら大げさなほど褒めてあげるよう主治医から言われたので、実践しました。「よく守ってくれてるから助かってるよ」と。
そこで母は、電話を全くかけてこなくなりました。居間には出てこずに自室に引きこもるようになりました。
(つづきます)
(つづき)
>自分の主張が否定されたりした場合に、ちょっとでもうまく行かないと、「これ以上痛い目に遭いたくない」「はじめから自己主張なんかするからいけなかった」「もう何にも言わなければ良いんでしょ」というような半分逃げの入っている一方的「全面撤収」で、「もうそのことは考えない」と思考自体を放棄して忘れようとする面がある。(「自己正当化型撤退」より)
誓約書では、電話をかけることや、居間にいることを禁止した訳ではありません。なのに、全部やめてしまったのは「自己正当化型撤退」だったんですね。
しかし、制約の内容によっては頻繁に破り、時には心のない土下座を連発し、時には逆ギレし「親を敬え」と叫びました。
つまり、誓約書への母なりの対応方法は「自己正当化型撤退」だが、我慢ならない制約事項については私が褒めるくらいでは満たされない不満がマグマのように溜まり爆発したのだと想像します。
合理的納得など、何一つしていなたったのです。
母の見捨てられ不安を利用して誓約書を守らせる作戦でしたが、母の中では 「見捨てられ不安 < 自分の希望どおりにならない不満」だったのでしょう。
結局は別居に至りました。私に一切連絡がないのは、入居先の自立型老人ホームが快適な「あかし」と考えることにします。
現在、母にとって私は「すっぱい葡萄」になっていることでしょう。
言い換えれば、今までは、母の中にある「全部が自分の希望どおりになる世界」の中で一番重要な役割を担う駒だった私が、今は、将棋の「歩」程度に格下げされているということです。
これで、良いのです。私は罪悪感を感じる必要などありません。
それにしても、ACにとって儒教思想は罪深いものです。子供をACにする親にとって、とても都合の良い武器です。
自分の「怒りの感情」に向き合ってみて、私の場合は「激しく怒ること」そのものにも意味を感じているように思えました。
そこで、怒りの発生する場合として
1.家族関係での怒り
最近になって、パートナーの発する束縛のニュアンスが苛立ちの一因であると確信しました。自分の言動が制限されることで、非常に怒りを感じます。
2.社会的かかわりにおける理不尽に対する怒り
何かが起こったときには通常、怒りより先に湧き上がる感情があるはずであることに気づきました(悲しい、困った、失礼だなど)。
そこで、最初の感情を直視する努力をしようと考えてみて気づいたのですが、いずれの場合も「心の自由」を侵害されていますね。そこに、怒りを感じることがわかりました。
私は「束縛されること」が大嫌いで、行動も心も自由気ままでいたい欲求が強いのだということに気づきました。
そして、異常なまでに怒りを爆発させるのは「自分の自由」を護りたくて、防御・反撃態勢に入るからなのではないかと感じました。
最初に湧き上がった感情を大切にすることで「心身の自由」を防御することができるのか、またそれによって怒りの感情を合理的にコントロールできるようになるのか、しばらく自分を見つめていきたいです。
先日の書き込み後、自分の怒りの“前感情”を遡ることを続けています。私の場合は「想定外・心外なこと」が怒りに直結することがわかりましたので
1.自分の気持ちは、いつも自由に解き放っていてよい。
2.「想定外・心外なこと」それ自体は、自分の外の世界で、事実として起こりうること = 外の世界の自由
3.「想定外・心外」が発生したら、心が動揺して当然。=自分の自由
4.動揺が即、怒りに直結してよい。(というか気づいた時には怒っているが、それはそれで“自分的に”よい)
↓
5.怒る自分を「怒って当然だよね~!」と肯定・認める。合理的思考で抑え込むことをしない。
この「5.肯定の時間」を相当に長くとることで、「1.心の解放」につながり、衝動的な怒りの発現を緩和することができるように思いました。
「合理性」についての自己突っ込みの対処として
◎自分の外で、想定外に発生することの合理性=自分外の自由を認める
(双方の自由を認めているのでイーブン)
という視点で担保します。
怒りのコントロールはジャイアンのみならず、人類にとって永遠の課題(おおげさ?)のような気がしました。
この場をお借りして、るる的コントロール(途中経過)をまとめさせていただきました。ありがとうございます。
今夏、先生のブログを私なりに読ませていただき、自分の認知に基づく「自責」「倹約」「首尾一貫・白黒はっきりさせることを求める姿勢」について偏りがあることがはっきり認識できました。
今までは無自覚に、自分の感覚が「正」で、世間の認識が甘い、正しくない、というように感じていたのだと思います。
自分の視点からですが、日本社会の多数派は「あいまい」であることを最適と感じて選択し、安定を保っている。・・・とほぼ確信しました。(その基準から自分の感覚は大きくずれているとしか言いようがありません。)
①自分の心中の自由を、最大限尊重
②社会や他者は、あいまいであり続ける自由がある
=他者も、自分と同様に尊重
↓
上記を踏まえ、他者・社会とかかわるときには
③予め自分のスタンスを決めておく
④自分の表現すべき態度は「あいまい」が最適
⑤やり取りの中で怒りが生じたら、心中で存分に自分の正当性を認める
↓
⑤の最中には、他者からは“ぼーーっとしている”ように見えると思われ、不愉快ではありますが、多分“気づかず上目線で礼を失していること”もあろうかと思うので、自分の不快感は相殺できるかな。。。と思います。
「ぼーーっとしている」という言葉でふと、幼少時に亡母から「ぼーっとしていないで」としばしば注意されたことを思い出しました。
「私には、ぼーっと過ごしたいときにそうする自由がある」
・・・と宣言してみたら、けっこう爽快でした。
<ジャイアント積極奇異型AS>のエントリで思いついた「パートナーと厳格な平行線を保つこと」。
・・・これは子どもにもあてはまる。適切な距離感を保持することで、心が乱されず、怒りの増幅も抑えられる。並行曲線をイメージすることは、家族に対する正当なスタンスの取りかたである。
などと考えていました。
少しして、それは自身の「独自の断定」であることに気づきました(正当なスタンスって、いったい何を根拠に?!)。
そこで、再び“怒りのコントロールまとめ(途中経過)”です。(at 家庭内)
1.自分の怒りの感情は、自分自身で存分に肯定する(この状況、怒って当然だよネっ!!)
2.収まるまで、外見上ボーっとしていることを自分に許す。(もはや家族に聡明と見られる必要はない)
2’.気持ちが収まらなければ、その場を立ち去る。
3.言葉を発する時は事実を淡々と述べる。(あら、あなたは○○だったんだ、私は△△だったのよ。)
自分の感情と他者を同時に尊重する事を目指したら、今のところ、こんなイメージになりました。
3.の「淡々と述べる」が、ハードル高いです。
ここまで書いて再考しましたら、、、
適切な距離云々はともかく、イメージとして脳内に並行曲線を描くのは、悪くないかも♪ と思いました。
最新エントリから、少し感じたことを書かせてください。
◎自分独自の「倹約・効率(効率重視はパートナーからもらった価値観だが、私の中にある倹約とつながった)」の価値観。
子どもに時間の有効利用を教えようとして、結果、子どもの「自分で考えて行動に移す“時間”」を取り上げていたのかもしれない。
私は自覚のない「時間どろぼう」だった。
↓
今、私は、子どもに「時間」を返している。
◎自分が、憮然とすることがある=他者にも、憮然とする権利がある
◎投稿・クリック後に、気づきがあること。
これは外部に発信することで、自分の言動を、自分から切り離すことになり、結果、客観視できたということ。
先生
コメントをご許可いただき、本当に感謝しております。
「時間をかえすこと」についての具体的考察をしてみました。
子どもは、私の価値観に沿った整理・片付けをしない子です。現在、子どもの自室については指摘せず、リビングはどれだけ散らかしていようとも、私から指摘するのは1日につき1事項にとどめています。(来客などの時は別ですが)
るる:(数日間リビングに置きっぱなしの)○○どうする?
子 :△△だから!
↑
この言葉を受けての私の脳内反応は
「何その言い方はっ!言行不一致も甚だしい!!」
・・・これは私の心情としては正当だが、子どもにダイレクトに伝えることが相応しくない。よって、まずは
↓
「あ、そうか、そうなんだ」・・・努めて淡々と述べる
そして、脳内では△△する時間的猶予をさらに数日想定する。これは、思春期前に子どもから奪った時間を返しているので正当である。
◎私のイメージする家族3本の並行曲線は、時間経過もそれぞれ異なる。
・・・こう考えると、とてもしっくりきました。(*^_^*)
誰かがニアミスしてきたら、内心の「私の領域に踏み込んでくるなーっ(怒)」を尊重しつつ「私は○○なんだよねー」と、努めて淡々と述べるようにします。
先生
数ヶ月前の、子どもと全くコミュニケーションが取れなかった状態や家族3人でいることの異様な息苦しさは、劇的に改善しています。
◇怒りを感じた時に最初に湧き上がる感情を大切にすること◇
怒りを爆発させてまで他者へ理解を求める気持ちが、自分で自分に共感することで和らぐようになりました。結果、他者に対する厳しい要求感情も(多少)和らぎます。人を求めないADHDらしい考えなのでしょうか。
(私的に)怒りのコントロール以外にも、以下の効用がありました。
◇人間関係上の改善点(変化)
1.こちらのブログでの“学び”が私の言動に反映し、それが家族にもそれなりに伝わった。
2.現状では、家族がそれぞれの場で社会生活を送ることができている。
3.今後子どもに不適応が生じても、私が自他共に尊重する姿勢を取り続けることで、問題を子どもに返すことができる。「子どもが自身の生活を立て直すのは子ども自身の責任である」と、心から思える。
4.パートナーから「今までもこれからも、僕の望みは平穏に暮らすこと。るるが機嫌よく過ごせるなら、多少の“上から支配“を(今後も)甘受する」との言葉があった。こちらは当面、現状維持。
5.他者の不機嫌を無駄に引きずる傾向。
・・・過去には、家族の不機嫌により私が終日不快でいることもあったが、当の本人は私より先に吹っ切れているようであることに気づく。⇒なんという不合理!
6.多数派はあいまいを「選択している(過去の自己コメント)」というより、単に深く考えていないだけのようである。⇒ずれている自分が深読みしたり苛立ちを覚えることは、無意味に思えた。
◇趣味について
ひとに「○○が趣味です」と言えるようなわかりやすい趣味を持たねば、という思いにとらわれていたことに気づきました。この思いは「ぼーっと過ごしてはいけない」という、親や周囲の大人の強い価値観によって生じた面もあると思います。
今なら「特定の趣味にこだわらず、気の向いたときにやりたいことをして楽しんでいます」と、堂々と言えると思います。
◇家族関係再考◇
家族には、それぞれの予定があります。
私には「主婦(妻・母)」の役割と「外での職」があるので、それらの調整に“非常な疲労感と苛立ち”を覚えました。
昨日は「心の平安」を求めて、当ブログをランダムに読んでいましたら、「ジャイアンにとって反省とは?」という記事が目に留まりました。
>「どうしたらいいか」という対策はどんな方向のものであっても、ともするとジャイアンのお得意の「自己正当化」の一つでしかないことが多い。
私がイメージしている脳内3本の並行曲線は、独立・自立した曲線であるべきです。
にもかかわらず、気づけば3本とも自分で制御・遠隔操作しようとしていました・・・
これは家庭内での私の役割上、自分が陥りやすい間違いです。
◎あくまでも他の2本の独立性・自立性に干渉しない。
◎自分の新たな課題として「自分の曲線」の確固とした自律性が求められる。
↓
家族の予定によって自分が被る事柄を、「被害・迷惑」としてではなく、「シンプルな事柄」と受け止めること。
>醜い自分の心理の理解を自分自身のその後の人生に生かせるか否かを考え続ける。そういう孤独な作業が「反省」だと私は思う。
私が行っている(つもりの)自分の言動を見つめ、修正し、自律性を求めることも、孤独で困難な作業だろうと思います。
今日も記事を読み返し、作業そのものにも人生の意味を見出したい・・・そんなことを思いました。
◇親との関係◇
暴君ジャイアンの父からは、その性質を受け継ぎ、支配と同時に溺愛されました。
多数派に近いAS(?)の母からは「きちんとしていなきゃだめ」という、主に非言語メッセージを受けました。
「きちんとする」ということが具体的にどういうことか、私は実はわかっていませんでした。
父の暴君ぶりは迷惑でしたが“自分の心情に正直”という点では、むしろ清々しく感じることもありました。
母の非言語圧力にはたびたび反発を感じていました。
思春期には何度も「はっきり自分の意見を言ってよ!」と詰め寄りました。母はいつも口では「自分の意見なんてない」と言い続けていました。
今では、母なりの「多数派の世界で何とかやっていくように」という親心だったのかなと思います。
もし私が、母の非言語圧力を受けずに育ったとしたら、救いようのない暴君ジャイアンになった可能性もあると思います。
その点では(少しだけですが)とても素直に、親への感謝の念がわいてきました。
一方、成長に伴って社会と関わる中で、周囲の人たちやより大きな集合体から、何らかの「しばり」を感じるようになったことも事実です。
◎人として生きて行くのなら、リアルな社会と関わり続けること。それ自体がとても大切なこと。
・・・そんなふうに思いました。
◇依存◇
・家族が思い通りに動いてくれれば私の心は乱されないのにと感じる
=家族が私の自由を侵害するイメージ ⇒怒りの発生
↓
・では仮に、家族が私に“妻”または“母”の役割を期待せず生活していたとしたら、私は心の自由を得て、何をしたいのだろう?
そう考えた時、そこには「束縛されると不満を感じるが、自由が保障された時どう行動していいかわからない自分」がいました。
思春期ごろから「私は自ら積極的に行動するとうまくいかないが、人から勧められたり推薦されたりしたことを行うと、うまくいく」と強く思い、今でもその思いは続いている。
=つまり、失敗しても人のせいにしてきたということ!!
↑
これは誤りであったと確信しました。
◎心の自由を確保しつつ、「自分はどうしたいかという視点」を持つ。
◎然るべきのちに、自分がどうするかは自分自身で判断する。
↓
その後の課題として、表現方法の工夫が必要だと思いました。
過去記事「事実と行為」を読ませていただき、家族と私との脳の違いを、新たに具体的に理解(私なりに)することができました。家族の言動の翻訳スキルが向上したように思っています。
各自が各々のペースで自分の人生を歩むイメージが、ようやく見えてきた気がします。
◎私は私の脳で、自分の道を行く
・・・自分の人生曲線は、虹色をイメージ
(美化しすぎとも思うが、自分の人生は大切にしたいので)
先生
ブログで学ばせていただくばかりか、コメントをお認めいただき、どうもありがとうございます。
おかげさまで、反射的怒りを感じる頻度が減少したと思います。今までが怒り過ぎだっただけ・・・なのかもしれませんが(苦笑)。
◇自分の欲求◇
自分の好ましいものに囲まれた「心地よい空間」を常に「確保」しておくこと。
◇自分にとって「さびしい」ということ◇
私は基本的に一人でいたいタイプだが、自分の気持ちを他者と分かち合いたいと思うこともあり、ほぼ100%自己都合で人に接近してみたりする。
当然ながら他者が思い通りに反応してくれることは稀であり、そんな時「ああ、人ってひとりぼっちの存在なんだな」と、切なく思い、感傷に浸ること。
◎寂しさを感じた時にも、怒りの感情が芽生えることに気づきました。
・・・さびしさを表現したいときは「さびしいわ」「かなしいわ」と言おう。
私が担う妻・母の役割(への責任感)が、家族への干渉・支配を誘発すると考えました。
そこで、家族を各々自立した同居人と捉え、パートナーを「同居人p」、子どもを「同居人q」としてみました。
最近は、私とpまたは私とq、のように二人で過ごすことが多く、私は自分の虹色曲線を行くイメージで、二者関係はそれなりにうまくいっているように思えていました。
今朝、久しぶりに三名が顔を合わせた時にpがqに対し(私の視点から)KYな発言をしました。qは怒り(私にも八つ当たりして)出かけて行きました。
qが出かけた後に、私はpの発言がKYだと指摘しましたが、pが取り合わなかったことから、私の怒りに火がつきました。
以下、私の怒りをふり返ります。
①pの口からは、私の想定するフォロー発言がないどころか、KY発言が連発された。
⇒pはKYだと思わずに発言しているのだから、追及したところで、私の期待するフォローが得られるわけがない。
②自分ではここしばらく怒りのコントロールができていると思っていたが、実は我慢している側面があった。
・・・pに心情を話しても無駄と考えて口をつぐんでいた事に気づく。
⇒過去のピンポイントで、たとえしつこく思われても「私はこうなのだ」と主張しておいた方がむしろ、後々の問題が抑えられる。
③執拗な怒りの後半は、なかば自己正当化発言であった。
・・・激昂が長引くと自己突っ込みと自己正当化が発生して、無意味な口論となる。(最終的にはpは黙りこみ、私が怒っているだけ)
⇒自分の思いは②の通り、こまめに主張しておく。
④「qからへの八つ当たり」に対する「私からqへの怒り」までpにぶつけた。
・・・これはpへの依存である(と思いました)。
⇒qに対する怒りは、私がqとの関係で考えること。
⑤自分として唯一、有益だったと思えることは「私はあなたが理解しないことが悲しくて口惜しくて怒っているのだ」と言えたことでしょうか・・・
pは「ぽかん」としていましたが。
pとの関係では、過去にも同じような状況で怒りが発生しているので、今日の経験をしっかり心に留め、今後に生かしたいと思います。
◎自分の“怒り”に端を発したこれまでの書き込みで
・自分の認知の偏り
・他者との関わり方・距離感
・自他共に尊重するということ
・AC的、依存的な自分
・役割から生じる支配欲求
について考えを深めることができたと思います。そこで
「自分の第一感情に共感すること」
「自分の感情を言語化すること」
を意識しつつ、以下にマニュアルを作成してみました。
◇怒り発現の影響を最小限にとどめるマニュアル◇
・「私は○○で△△と思う」と表現
・怒りの範囲を広げない
・相手に「自分は△△と思っている」が伝わることで妥協する
(相手に理解を求めない)
・・・最後の部分ですが、実際妥協できるかどうか、はやくも疑問がわいてきてしまった。。。
とりあえずはこのマニュアルを胸に、今後の自分を見つめていきます。
◆自分の周囲の人間(リアルな世界の人たちです)の大部分に対し「許せない!!」と思い、怒りを感じていることに気づいてしまった。。。
最近あまり怒りを感じなかったのは合理的ADHDに近づいていたわけではなく 単に我慢していることに気付けなかっただけのよう。
それにしても、何がそんなに許せないのだろう???
・・・突き詰めれば「ひとが自分の思い通りに動かないこと」が許せないのだ。
↑
我ながらヤな奴だなあ、自分。
客観視・“みえない”自分と向き合うのは思った以上に難しかったです。
せめて、気づけてよかったと思うようにします。
5年ほど前のエントリー(ジャイアンの攻撃モード周辺)を(断片的に)読ませていただいています。
◎父への怒り、母への怒り、きょうだいへの怒りを、紙に書いて声にも出して、表現してみました。
しばらくしたら「あの時の、母のあの言葉が、あの時の顔つきが私を縛っていたのだ」という記憶が思い出されました。
私(子ども時代の)は、悪くなかった。
きっと、誰も悪くはなかったのだと思いました。
ただ、皆、知らなかった、気づけなかっただけなのだと思います。
↓
だとしたら、同居人qも、悪くなかったのです。
(表現の仕方がね、ちょっと困ったチャンだった・・・)
◎同居人pへの依存が、結局は自分の首をしめていることがわかってきました。
孤高の合理的ADHDに戻る必要がありますね。
◇怒りの制御はできたか◇
自分自身をできる限り客観視しての、結局のところ主観による感想です。
①怒りを感じた時、怒りの原因となった感情を直視することで、脳内で“元感情”を味わい、正当なことと肯定する。
②肯定の時間をとることで、“感情的爆発”の表現がとりあえず抑えられます。
脳内では怒りを言語化しているので、その後に発せられる表現が(激怒という形でなく)多少なりとも説明的になります。
③怒りの表現の段階では、私としては相当に感情を抑え、理性的に形容し、発言しているつもりです。結果、他者に与える印象も以前に比べ「冷静さを備えたふるまい」に見えるようです。
◎結論として、瞬間的に激しい怒りを感じることは今後も抑えられませんが、表現の仕方は変化し、激怒による周囲への迷惑度は軽減したと思います。
先生
実生活上で日々振り返ることは、孤独な戦いでもありました。
その作業のおかげで、自分の「脳のつくり」について、より理解が深まり、ブログの内容が一段深いレベルで実感できたように思います。
(方向性が間違っていないといいのですが^^;)
ともあれ、自分で実際に行動して、自分で実感できたところに意味があると思っています。
私にとっては、真剣な取り組みでした。
コメント欄を使わせていただき、ありがとうございます。
これからのことです。
・・・自分の「怒り」に向き合うことで、いろいろな気づきがありました。
コメントをご許可いただければ、ひきつづき自分に向き合っていきたいと思います。
怒りは、感じないのですが・・・。
あまり自分の考えは分からない方でしたが
数年前に、自分が考えて出した答えも、
親の都合と見栄から、自分の考えだけで生きるなと言われ、
余計に自分の考えが信じられなくなっていました。
もともと、
他人の言葉を受け入れやすい性格ではあったと思うのですが、
私の出した決断の中で、とても大切な想いに対し
母の都合で、
「自分の考えだけで生きるな」と言われてから、余計に周りの言葉ばかりが頭に入ってきて、動けずにいていました。
すべての人にとって、いい結果になるような選択をすることは不可能なのに、どうすればいいのか分からず、考えているように感じていたのですが、
ただただ、周りの沢山の言葉に対し、悩んでいただけなのだと気が付きました。
自分で考えることを、やめて逃げてしまっていたみたいです。
自分の考えで生きていいと周りから促されても、周りのことを考えたら・・・と思い留まっていたところがあるのですが
ある方から、悩んでいるだけで、考えてないと言われた時にようやく気付き
自分で考えて生きていこうと思い出しています。
ようやく、「自分の考えだけで生きるな」の前に感じていた心のようなものを、思い出せた気がします。
>何でこんな単純なことにたどり着くのにこれほど時間がかかったのだろう
自分で考えることをやめてしまったのは、私の責任ですが、
数年掛かってようやく、そこまで戻ってこれたような気がします。
まず、オリジナルにジャイアンな私がいて、受動型ASDとの結婚、出産、子育ての引き込もり生活でAC的な依存型ジャイアンになり、肉体的にも精神的にも金銭的にも破綻し、こちらのブログで励まされて精神科を受診し、ADHDの診断を頂いてから自己理解が進む中で「超強迫的合理的」方向に回復途上であります。
子供も3人いる以上、無責任に「離婚」で終了なんて単純な考えは「合理的」ではない。
家族を続けることを自らの意思により「選択」すると決意している以上、家族の生活についてどこに「合理的な納得」という出口を見出すか。
ちなみに「合理的な離婚」は、明らかに夫の側に不法行為があって、こちらが有利な条件で3人の親権をとられることなく離婚できるなら、私がそれを選択し、行動に移すのは電光石火であることは断言できる。
相手が合理的思考が難しいのであれば、やはり「情に訴える」という手段を選択することが合理的である。
また、二度とACに堕ちない為には「怒り」の自覚は大切。この「怒り」の封印こそがACへの入り口だったのだから。
経済的な破綻を再建する為の手続きに入る前に、夫をどの様に説得すべきかを考えた時、おそらく、「合理的に考えたらこの選択しかない」という説明では、情緒的な反撃により説得は困難を極める(ことは長い結婚生活で証明済み)。
しかも、情緒的な反撃により私自身がAC的な感覚に陥入り、またしても「考えることを止める」方向に逃げ出したくなるハズ。
だから、私自身を奮い立たせる為に、ここに覚書。
「合理的な説得が通用しない相手に合理的な説明だけを使用するのは不合理である」と。
ASDにもASDなりの合理性を持っていて、その合理性に合致すれば納得する(説得される)ものです。ただ、ASDの合理性はADHDの合理性とは大きく異なり、場合によってはほとんど(ないし、まったく)重なりません。
情緒はASDなりの合理性のひとつを構成しますが、あくまでもひとつに過ぎません。こだわりなども要素のひとつです。また、ASDの場合、論理的に説得されると感情的に反発しつつ、その実どこか納得しており、後で効果が見られることもあると思います。
このあたりが、ASDを納得させ動かす鍵になるのではと思います。ASDの私の経験則です。あれ、なんで自分の首を絞めるかもしれないことを披露してるんだろう。まあいいかー。
説得されるにしても説得するにしても、私はひそかに、異文化コミニュケーションの手法を使っています。あれ、匿名とはいえここで公言したら、ひそかにではなくなってしまうか。まあいいかー。
出口は合理的に納得…で何を言わんとしているか私的に納得してしまいました。
やんばる先生に先程相談メールを書かせて頂いたのですが、多分、私のメアドはパスワード混乱のため、返信頂いても見れないとゆうことに成ると思います。。
なので、こちらのWのアカウントを作り、コメントをしてみました。
相談内容は、父の相談でした。
これからも楽しく拝見させて頂きます。