AC、人格障害関連

ジャイアンACの回復

 私もほんの5、6年前までは、「自分が世間に迷惑にしかならないのなら生きていけない」と考えていた。
 ところが今では、AC的に「迷惑になるなら仕事に行けない」と言っている人に「何を中学生のようなことを」と偉そうに言っている。何が違うのだろうと考えた。

 直接の変化はやはり「偏屈者宣言」だろう。「普通」を諦めた段階で、自分なりに生きて行くしかなくなった。平成18年の5月で、たしか何年か前の10月頃にこの話題で全国のニュースに出た。
 
 「世間に迷惑になるなら」という発想は、自分が生きている根拠を世間のほうに証明してくれと言う意味で、「甘ったれている」「依存的」な発想だ。世間のほうからすると、「何でお前のようなやつにそこまでしてやる必要があるか」「自分で生きて行く意志が無いやつはさっさと死ね」と言われても仕方が無いと今はジャイアン的に考える。

 結局「必要」で自分を正当化して、「必要」にぶら下がって生きて行きたい。AC(アダルトチルドレン)に非常に似ている。

 しかしながら、どのACにも言える事なのだが、ACとは一面「異常に自意識過剰」で、「世間から必要とされる存在でありうる」「そうでない可能性を想定しない」と言う意味で非常に誇大的であるとも私は思う。

 自分自身のジャイアン性についてとことん考え抜いてきたこともあるだろう。ジャイアンはどう考えても自己中で妬みや僻み、相手より優位に立ちたい心理、攻撃性など、どうあがいても正当化しようの無い醜さの塊である。これは事実でどうしようもない。

 ここからすると、「必要を証明できる」なんてもしかすると到底無理なとんでもない身の程知らずかもしれず、自分自身に「だったら死ね」と突きつけざるを得なくなる。実際そうしながら生きているのだが。

 私の場合は、「仕事」があるにはある。「必要を確認する」なんては言えない。それよりも、「生きている手ごたえ」にはなっている。相談者とともにある行動や心理について考え、一定の答えが出て「理解」が成立したときの楽しさのような充実感を積み重ねてきたことは上記の変化の一つの要因ではあるだろう。
 
 生きていて楽しい、充実感がある。大半の時間は自己突っ込みに苦しんでついつい大声を出して叫びたくなるのだが、他方で短いながらそういう瞬間もあることで、今の私は生き続けている。
 
 実際問題、過去3年間で3回戦力外通告を受け、実際辞めさせられてきたが、これは完全な確信犯で、医療機関には他の先生が貢献しているだけの外来収入をもたらさないで好き勝手なことだけしてきた。

 だから辞めさせられても仕方が無い。とっとと別の場所をまた探し、またもや「寄生」的な立場で自分の好きなことを続けようとしている。そういう意味では怪しい組織が弱体化している場所のほうが私には都合が良いということは言えるだろう。

 これが「偏屈者宣言」の実際の応用だ。私は世間に迷惑をかけても、好きなことをやり続ける。
一部は役に立つ可能性はあるだろうが、それはあくまでも結果としての世間からの評価でしかなく、私が生きている根拠ではない。

 ジャイアンACの回復の一つの姿である。ちなみに自己突っ込みで自分を責め続けることは継続したままだ。


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コメント

    • 匿名
    • 2010年 8月 03日

    前略失礼しました。文中「ASとは**」は誤字で、「ACとは**」の間違いでした。訂正いたします。ASの皆さん申し訳ない。

    • ぴよよ
    • 2010年 8月 04日

    回復とは、言葉そのままに読み取れば、本来はおめでたいものであると思います。しかしこれも見方は幾つかに分けらそうですね。
    医療からの見方、社会や支援からの見方、本人からの見方、関係者からの見方。
    ヤンバル先生が社会との関わり方の一つの手段として『寄生』と表現されている形では、残念ながら全国に一般化する訳にもてかず、多くのインターネットを使う当事者が期待している程自分に置き換えたり模倣したりする訳にもいかないかもしれません。
    全部の見方を全員が共有でき、お互いがお互いを尊重し合えて実行に移せる時代がきた時に、私達の苦労はゴールを迎えると思います。
    このブログは、四つの立場の人全員が見ている貴重な場所です。ヤンバル先生のお時間も健康も無限ではありませんが、今後も無理なく記事を発信し続けていただきたいです。
    私の目から見てですが、ヤンバル先生はご自分流の自己突っ込みとして、多数派の評価や都合を先回りしてらっしゃいます。
    それは、私も常々当たってきた壁の一つとして、多数派が私達の能力や体力の限界の問題と感情の問題を判別出来ないこと等々の現実を、全部総括して“必要を証明できない。自分が悪い。だったら死ね。”とご自分につい判決を出してしまうことです。ヤンバル先生が自主的に長年試行錯誤して、天狗に陥らないために編み出された自己コントロール法です。
    ASはご存じの通り自分で意識的に創意工夫することが難しく、私もこうして勉強させていただくまではきちんとした意味でコピーとオリジナルの違いを認識していなかったと思っています。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2010年 8月 04日

    続きます。
    しかし、オリジナルを創り辛い特性であったとしても、オリジナルと呼べるものを創れないことは全ての努力を怠っていることと同じでは無いはずです。それを世間に発信する可能性は、今、非常に低くなっています。
    なので、ヤンバル先生が現在行き着いた“好きなことをやる。役に立つかもしれないけどそれは結果であり、世間から評価されたというだけ。”という境地に行くにも、ASには行けない訳ではないですが遭難しても仕方が無い位遠くて過酷な道のりしかなくなっています。
    ASも、AS流の自己反省、自己改善、自己コントロール法がいつか開発されると願い、コピーと改良を出来る日を待ちながら、全国から私以外のASのかたもここ等見ていると思います。
    あらゆるもの・・・条件も認識も環境も・・・がまだ散らばっている今、私は解決されることの無い矛盾の中にい続けています。職場の疫病神であり、陽炎のような居候のようでありながら、人一人残らずに良く思われて承認されることを餓えて渇望し、そして同時に謙虚でへりくだる私でもありたくて、ありたくて、私はたまりません!
    ベクトルの方向が違う欲求に意識が激しく引っ張られ、常時交代しながら頭の中で欲求を努力して絶対叶えなさいと指令コールがしつこく鳴り続けるようです。時々、そういう焦燥する状態と我に返る状態を行き来します。
    肯定されないものは全部恥。突き詰めれば私は自宅から一歩外へ出ることも恥ずべき人間なのかもしれない。
    ひどい時は奥ゆかしく謙遜して振る舞う理想の私の、シチュエーションもシナリオも音声効果も背景デザインも色彩設定も、勝手に頭のどこかから目標が創りあげられ、ぼやけた絵コンテが常時浮かびそうになっては私の意識を、生活を根こそぎ喰い尽くされそうになります。これがもし更に激しく悪化し過ぎると、三年程?前に先生に送ったメールに書いたような症状に進むでしょう。
    続きます。

    • ぴよよ
    • 2010年 8月 04日

    続けます。
    分かっています。本来は現実の展開だけを見て、そこから判断して反応して行動を取るべきであることを。
    しかし後が無いASに取っては、現実に反応して暮らすことで生じる“ツケ”は日々計算して、溜まる前に清算する作業を強迫的にしていかなければなりません。また、そうやって体裁を、多数派と同じようにとはいかなくても与えられた環境の中で最善に美しく保てる私でありたいという我が侭なのです・・・。
    だから・・・どうしようもない思い出がよぎります。発達障害者が体裁を保つ時、“ここまで頑張れば上出来、優等生。”という全国共通の基準線が出来あがれば、当事者同士もコンタクトしやすくなるし、自己努力も格段にしやすくなるし、二次障害からの回復も克服も格段に計画が立てやすくなって、回復進行具合も明らかに見えやすくなり、より多くの役職の人間が情報を共有しやすくなるし、血縁者も関係者も自らの存在と協力方法の価値や正しい正しくないが分かって、当事者の回復と克服と人生に逃げないで参加しやすくなでしょうから、作ろうよ、作ってよって、このブログに出会う、遠い昔にどこかに訴えたのですがね・・・。
    今となっては不調の時に頭に再燃して勝手に点滅するだけの、苦痛の思い出でしかなくなりました。
    いつもすみません。続けます。

    • ぴよよ
    • 2010年 8月 04日

    まだすみません。続けます。
    リタリンは私達にはありません。
    多数派と摩擦も対立も起こしてはいけない。引き籠ってもいけない。失敗もやり直しもしてはいけない。
    暗黙の了解をしなくてはいけない。暗黙の指示も理解しなければならない。暗黙で空気も読まなくてはならない。
    よく躾をされた良識ある謙虚で無欲で意欲的で友好的で社交的で気遣いと協調性と清潔感もある態度を常に取らなくてはならない。組織的でありつつ自然体と良識の枠を出ないように打算的でいなければならない。
    最高の好感度を昼夜を問わず保たなければならない。自宅の自己財産管理も時代に合わせ、時流を読んで計画的にかつ文化的に常識的に機能的に賄えなければならない。
    家に人を招いても支障無く接待し体裁が保てる生活習慣が身に付いていなければならない。精神のバランスを自己責任で保つ時に達成可能なだけの人数の助言者や関係者を実力で確保しなければならない。
    現代の“誰からも良く思われる人”の条件に叶う人、どんな環境でも通用する、抜かりない自己管理ができていると思われる人の条件は、私が指折り数えられるだけでもこれだけ増えています。
    この枠からはみ出る人間は変な人であり、おかしい所がある人であり、多数派により陰で排除の計画が練られる可能性のある人間になります。
    ハンディがあっても長所を生かして社会に出ようと言う理想論はもう世迷いごとにしか聞こえません。
    今日もこの国の各所で一部の優秀な多数派が誉められていることでしょう。
    そしてそういう存在に多くの忙しい一般庶民達が慣れてゆき、完成された他人像の感覚がなんとなく当たり前に根付いていくのです。
    お暇なかた、お差支えなければご想像ください。
    そんな社会へズケズケと乗り込んでいく、私達。
    しかし私達は家電のようなアンドロイドではない現実も、変わらない。
    食事を食べなければならない。体裁と体調を天秤にかけなくてはならない。思考が偏らないように、精神を保つという自己都合を満たすために、実在する人間と関係を作らなくてはならない。そしてそれを勝手に切らない努力をしなければならない。
    どうもすみません。続けます。

    • ぴよよ
    • 2010年 8月 04日

    まだです・・・。すみません。
    先生がニートと呼ばれる人に対してお持ちの『自立』の目標に、沿っているか逸れているかは分かりません。
    そこに命があるから、そして、面倒なことに命と一緒に発達障害もあるから。だから残念ながら当事者から、ご飯と人間を求めていかざるを得ない。図々しくもそれが未だ続く現状ですから。
    私は今、口を開いていません。ここに書いているようなことは頭の中でも漠然と流しているだけにして、本当は書きもしなければ表面だけの平和が保てるのです。
    しかし、ある偉人が『もし私達が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう「その通りだ。」と。』という言葉を残していましたが、確かに私達は答え続けなければならないと思いました。
    今の社会に占めている多数派は、マスコミなどから問いかけはしても本当は私達に答えてなんか欲しくない。マスコミも国も、私達には手が回らないので、我々から申し訳ながって答えることを止めて欲しいのです。口も利けなくなればいい。口なんて無くなればいい。見えなくなっていないことになって欲しいのです。
    主語を略さないで、いつ誰がどこで何をどうして、それは自分の言動にどのように関係あることで、その事実により具体的には自分にはどんな価値が発生していてどう組織的に思われどう感情的に思われどう評価されているのか、くどくど、くどくどくどくどと分かりやすく話さねばならない人間なんて、本当は要らない!
    ごめんなさい・・・続きます。

    • ぴよよ
    • 2010年 8月 04日

    最後です・・・。すみません。
    しかし私達は多数派の都合を思んばかり、反省の証としてご飯と人間を放棄することも許されない、(過去コメント引用)正しくないことをするために生きなければならない人間です。
    求めることは止めさせられています。
    しかし、考え続けることは止められない。
    考えていることを家族等に醜いと言われることがあっても、止めて欲しいと言う者の正体が例え同じ当事者であった(ここのコメンターのかたたちにはいない人種ということで。)としても、答える場所も無くなっても、それでも考え飢え続けるしか生きる道が残ってないと思うのです。
    応用が出来ないということは不便です。
    コピーが許されなくなれば私のような大人は生きられなくなります。外国は自分の売り込みを良しとする文化ですが、ここは違います。だから頭の引き出しに溜めたコピーで創意工夫を編みだそうとするとしても、それは私にとっては陰に隠れてしなければならないことです。努力していないと言われればしますと答えなければならないですが、努力は日陰でするしかない矛盾。
    話が逸れますが、夏休み、各地の、応用にうとい特性を持った子ども達が、まだ陰に隠れる訳にもいかず、自分の苦手を致し方なくさらして大人に助けを求めながら宿題や作品作りをしているかもしれないと思うと、心から(ご苦労様。)の言葉を贈りたくなります。要らないでしょうけれど。
    大人になる頃に、勇気を出して苦手を苦手だと打ち明けても、人生を失わない世の中になっているといいですね・・・。
    いつもありがとうございます。

    • 黒すりごま(AS)
    • 2010年 8月 04日

    文章全体から「インパクト」・「パンチ」・「パワー」(全部一緒ですね)と「さばさばした感じ」を受けました。継続しているとおっしゃる「自己突っ込み」は苦しいには違いないでしょうが、プラスに機能しているイメージがあります。

    • Sakura
    • 2010年 8月 05日

    お久しぶりです。
    まだ依存体質は残っていると思いますが、
    職場で多数派を装って高い評価を浴びたくても、
    連続で自分の滑稽さに打ちのめされるうち、
    もうしっぽの見えた変身は意味がないと感じ、
    徐々に猫から虎へ戻りつつあります。
    そしておそらく、ぎりぎりと歯を食いしばりながらも、
    自分より「かわいそう」と思える立場の人に接することで、
    一瞬の優越感(これが生き続ける原動力?)を感じ、
    また、「私も同じ種類だから理解できるんだ」などと、
    変な同胞意識をもつことで、かろうじて自分を支えて生きている
    ような気がします。
    立ち止まったら、自分の過剰な思い上がりと、他人への迷惑の
    大きさが、ぽっかりとブラックホールのように足下に広がってい
    るのに飲み込まれてしまうかもしれません。
    おそろしいと思いつつ、その生き方にぶらさがっています。
    家庭では、旦那に依存しようと思っても、合理的に突っぱねられ
    てしまうので、自分でコントロールするしか方法がありません。
    でも、そのほうが楽に感じます。
    潤いのない生き方が、健康なジャイアンなのでしょうか。

    • うにゃ
    • 2010年 8月 05日

    やっと、繋がりました。
    「必要」にしがみつくのをやめる事と、自分の価値観を持つことが。
    うすうす、会社や夫へしがみついているのに気づいていましたが、その比ではないくらい強い「しがみつき」がありました。
    それは、自分が死ぬまでに果たさなければいけない義務だと思い込んでいました・・・。
    私にとって、両親を離婚させて母と自活することが最大の「義務」で「私の人生のゴール」だった。
    そうすれば、「自分さえ生まれてこなければ」という苦悩から開放されると期待していた。 
    しかし、離婚・自活しても苦悩から開放はされなかった。喪失感に襲われた。母に「あんたのせいで離婚した」と言われたときには気が狂いそうになった。
    にもかかわらず、「人生のゴール」に達してしまった。そこで私は「義務」を果たしたのだから生死は私の自由で、いつ死んでもいいと思った。
    しかし、私が母親を残して死んだとき、世間や夫に迷惑がかかる。だから一生懸命稼いで、高価な生命保険を自分にかけて、母親にお金を残せば「義務」を果たせると考えた。
    ・・・死んででも「必要」が欲しかったんです。馬鹿な話です。
    いつでも「しがみつき」に引き返してしまいそうな不安を感じていたのは、これに気づかなかったからでしょう。
    もう、不安は感じません。
    ありがとうございました。

    • YK
    • 2010年 8月 07日

    先日のワークショップで、生ジャイアンやりました。
    男性が力の限りで押し合いへし合いするんです。
    5人の男性が取っ組み合っているところに参戦して、「ありぁ!」「おりゃ!」「ゆけ~!!」「まだまだ!!」とあらん限りの力で押しまくりました。あまりの迫力(?)に泣き出す女性まででました。
    終わってもまだわくわくどきどきしてました。
    エネルギー、感情が激すると、本当に快感です。
    天下取ったような気分です。
    害のないところで、こんなふうに時々小出しにしていこうと思います。
    衝動性、攻撃性、破壊性、吐き出すと「生きてるぞ~!」という気がします。
    底の底から力がみなぎってきます。
    ウツは、これらを抑制しすぎていたんですね。
    今とても元気です!

    • 黒すりごま(AS)
    • 2010年 8月 07日

    私の場合の話ですが、ACから解放されると、話し方が「身も蓋もない」話し方になり、さしさわりのない無難な話し方がニガテになります。聞く人の気持を全く考えないというわけではないのですが、「事実に即したことを言いたい」という欲求が上回ってしまうようです。
    先日も多数派の母が、あることを願望を交えて「たぶんこうだわ」と言った言葉に対し、私は実際に起こるだろうことを予測して、「いや実際はこうだと思うよ」と言ったら「あんたはいつでも私を打ちのめすようなことを言うんだから。そしてそれで満足してるんだから」と言われてしまいました。
    私としては後で願望とは違う現実に直面した時によけいにショックだろうと思って言ったのですが母の受け取り方は違うことがわかりました。
    そして後で起こった現実は私が予想した通りでした。でもあの時点では母は「そうだね。たぶん大丈夫だね」とでも言ってもらって一時の安心を得たかったのかもしれません。
    私は確信犯的に社交に向いてない気がします。

    • 黒すりごま(AS)
    • 2010年 8月 09日

    〔追記〕
    子供が学校に行っている時代の途中で、ACから解放されましたが、その頃は生徒の一保護者として適応することに努力したので、「身も蓋もない話し方」は家の外では極力控えました。
    保護者会では、周りの空気を一生懸命読み、目立たないように大人しい保護者として、黙ってにこやかに笑っているようにしていたので、周りの「ウケ」は悪くありませんでした。ただし内心保護者会は大嫌いでした。
    そして何故かその時代は「症状の強い子宮筋腫」になったり「腎臓結石」になったりと大きな病気で入院することが多かったようです。
    現在は二者択一で「自分のスタイル」を取れたので、精神的には解放されています。
    社交的に生きたい方にとっては、あまり希望の持てない実例でごめんなさい。でも皆さんはたぶん私とはタイプが違うことでしょう。

    • nori
    • 2010年 8月 15日

    多数派の人のように愛情・友情を人間関係に見出して喜びを
    得られないジャイアンにとっては幸せな人生とは、どれだけ
    自分を楽しめるか・どれだけ自分のしたいこと楽しいことを
    して充実感を得ることなんだと思います。

    • うにゃ
    • 2010年 8月 20日

    ふと、父のことを思い出しました。
    父は、母よりもっとひどく私を虐待・ネグレクトしていたことを。私は父を殺したいほど憎んでいたこと。
    ずっと、父のことも含めて子供の頃のことをよく思い出せなくなっていました。いつからそうなったか分かりませんが、頑張って思い出そうとすると頭の中が真っ白になってパニックに陥ってしまい、もう何年も、思い出せないことすら忘れていました。
    かかりつけの先生から、こういうのを心理学用語で「防衛規制」と言うと教えられました。
    愛されたかったが、愛してくれなかった(母親から吹き込まれたことを差し引いても)。物心ついたときから兄姉と差別され、母の子だから二人より頭が悪いと決め付けられた。自分の子供として見ない。母と私をまとめて「てめえら親子」と呼んで毎日のように侮辱の言葉をあびせる。子供じみた嫌がらせを毎日して、部屋の明かりを消したり、コタツやエアコンに当たらせない。金を払わなければ風呂に入れない。喘息で苦しんでいても、そばでタバコを吸い続けた。父にとって私は死んでも構わない存在なのだと思った。だから、憎かった。殺したいほど憎かったが、衝動を抑え続けた。
     父は母に暴力を振るった。母もひどい性格だが、わたしにしがみついているだけまだマシだった。もし、母がいなくなったら、私は更に虐待され殺されると思った。父には、私を養う理由がないから。人知れず消されて、存在を忘れられてしまう恐怖に怯えていた。
    なぜ、いま?
    もうすぐ復職を控えているから、できる限り平穏に過ごしたいのに。
    記憶が溢れて、一晩泣き明かし、体調を崩して2日寝込みました。こんな状態は、母絡みのACの認知を修正する過程でもありましたが。
    不思議なのは、体調が良くなってきたら自分がとても平静だったことです。この平静が、不気味です。
    ACの回復の兆しと捉え、楽観していいのか?
    また記憶の奥底へ、沈めることはできるのか?
    時々浮上しては、心に嵐が吹き荒れるのか?
    また嵐が起きて、津波に襲われるかもしれない。
    でも私はサバイバーだ。
    津波に飲み込まれない、はず。
    いつか凪になる、はず。
    そう思おう。

    • エイト
    • 2010年 8月 21日

    >生きていて楽しい、充実感がある
    私の場合、趣味の物や好きな場所のことをひたすら考えたり調べたりしている時が一番幸せです。
    私もこれがあるから生きていけます。
    そして最近再確認したのが、やっぱり私には「人」はいらない。人とのやり取りは苦手。特定の人と親密になることを本能レベルで避けてしまう。
    でも、いくら楽しいことをしていても、ふと「楽しいことばっかりしていいのか?」「ジャイアンの本性はどうせ醜いんだよ」と自己突っ込みが入るし、先延ばしてる面倒くさいことや、子供の適応困難などが思い出されて憂鬱になるのですけど。
    それでも最近は、”どうしようもないイライラ感”がかなり緩和されたし、人を誹謗中傷することも減ったと思います。
    人に迷惑をかけることが少なくなりました。
    先生、ありがとうございます。

    • いなほ
    • 2010年 9月 26日

    私は今、ACから回復しようとしているのかな、と思います。
    実家の家族に「ふりまわされる」ためや、「言いなりになる」ために、わざわざ出かけていっていたことに気がつきました。
    それに気づけたのは、姉たちにあきれられたことがきっかけでした。
    それ以外の人間関係でも、要請されると条件反射のように応えてしまう傾向には、少し前から気づいていました。
    「これがACなんだ」と知り、意識的に「要請に応えない」を実行してみて、わかったことは、「要請されないと何もできない」という情けない現状でした。かなり落ち込んでいます。
    けれど、落ち込みながら思います。「やったことがない」だけなんだと。やったことがないことができないのは当たり前。だからやってみればいいんだと。みんな、それぞれの場所で、はじめてのことに挑んでいるのだから。

    • JET
    • 2012年 4月 09日

    先生、自分で自分を許すのが、一番合理的ではないですか?

    • 2012年 4月 21日

    はじめまして。
    すみません、難しすぎて内容にはついていけないんですが、先生の考えておられる治療で、変化がない、あるいは状態が悪化した患者さんの割合はどれくらいですか?
    また、その方々はその後どうされたのでしょうか?
    そのような患者さんやその時の治療についてはどのようにお考えですか?
    先生の治療にどうしても合わない患者さんもいると思うんですが・・・そういう場合、患者さんとしては落ち込み、なかなか別の医療機関へという意欲も無くしてしまう方もいると思いますが、やる気の無い者は死ねということでしょうか?
    私の全くの認識不足、間違いだとは思いますが、こちらのブログを少しだけ拝見して、あの戸塚ヨットスクールの戸塚校長さんのイメージが頭に浮かびました。
    落ち込みます。

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