AS(アスペルガー)関連

許可制カミングアウト

 ASは「理解」を例外なく当たり前に求めることが多い。
 隠すことはむしろ少なく、自分から診断名や自分の大事なことをオープンにして、関わる全ての相手に理解を求める。

 あるASの当事者が障害者施設の中でカミングアウトを希望し、私が相談に乗った。本人の中にもカミングアウトへの不安と理解を求める思いが交錯し、迷っていた。

 理解を求める思いは非常に強く、実際より小さい施設で実験的にカミングアウトを試みたときには本人に精神的な成長が見られた。

 しかし今度は規模も大きく、いろいろな人が出入りする環境で、より世間に近い。実際にカミングアウトしたとして、それが原因で周囲の職員や当事者が疎遠な態度を取るようなことがあれば、理解を求める分だけダメージは大きくなる。

 ASの世界理解には、「相手の都合を考慮しない」という特徴があるように思う。自分のほうから見た世界だけで方針は決定され、「相手がどう受け止めるか」についての選択の余地が無い思考になっている。

 このことは近い立場の助言者がきちんと本人に説明する必要がある。
 そこで私が考えた方法は、「許可制カミングアウト」という方法だった。

 まず障害者施設なので職員は無条件に理解をお願いする。
 次に周囲の当事者については、職員から個別に本人の障害の理解に協力する用意があるかどうかをあらかじめ確認してもらい、「理解への協力の余裕や用意がある」とOKを取れた相手にだけカミングアウトするという方法だ。

 他の障害の当事者も、それぞれの事情があり、他の障害者のケアに協力する余裕が無い人も当然居るだろう。そういう相手にも一律にカミングアウトして、「理解を強要する」ことは出来ないということは、本人も納得することに成功した。

 「理解」についても、当然相手の事情や都合を考慮するべきであるという、発達障害当事者のほうから理解、譲歩するべき問題である。


関連記事

  1. 発達障害と引きこもり
  2. ジャイアンの学習障害
  3. ジャイアンの依存の意味
  4. マザコンのジャイアン
  5. 発達障害の根本問題2012
  6. 自己正当化型撤退
  7. 親子の相性⑤親がADHDのACの場合
  8. 家族の都合②

コメント

    • あまがえる
    • 2009年 12月 17日

    その通り!だと思いました。
    確かに相手の都合は考慮に入っていない!!

    • YK
    • 2009年 12月 17日

    遅すぎました・・・。
    言いまくりました。
    その結果、先生からは「障害をディフェンスにしている。」と言われ、ショックでした。
    新学期、新しい先生に言うと、「それは過去のトラウマに起因するパターンだから、アイコンタクトも練習しましょう。」と言われました。
    言えば分かってもらえると思っていました。
    もう言うの、止めようと思います。

    • 池田パンパース大作
    • 2009年 12月 29日

    定型人は例外なくASに理解を強要し、どんな理由であれ結果が出なきゃ数の暴力を用いて社会的に抹殺でもって実質的に命も保証しないのにね。

    • ぴよよ
    • 2010年 2月 12日

    当事者にとっては非常にうっとおしい当事者だと自分で推測していますが、私が意識的に目を向けているのは幻の愛着対象ではなく多数派です。(無意識の範疇は手が回らなくて構ってやれません。)
    その多数派は現に私が自分の正体(AS)を明かさないことをじれったく、迷惑に思う気配を感じることがあります。
    時代がわずかに進んできて、「出来ない」ことを「出来ません。すみません。」と言うだけでは足りなくなってきているのかもしれない。
    今はまだですが、いずれまともな多数派が聞く耳を持ってくれる時代になった時、ASには準備が出来ているのだろうかと私はよく憂います。
    今の時代は、国民一人一人に何かが期待されている時代ではありません。居場所が保証されている時代ではありません。ニュースを見ていてもそうです。政治も、自治体も、産業も、医療も、そして教育も。より短時間に、より速く、より効果的な成果をより確実に、より美しく体裁を保ちながら、より的確に時代を先取りし、より完結した説得力を常に発揮できる優等生の働きしか求められていなくて、それが出来ない人間は(拡大解釈すると)憎き共依存でしか食べていけない。
    知能指数の分布グラフを見て想像しても、求めに応じられるであろう人間はグラフの山を越えた向こうの、ほんの少しの、それこそ少数派ですよ。
    出来ない人間は醜いですよね。
    当事者の一部から見てもきっと醜いでしょう。
    私達薄幸の凡人の発達障碍は、優等生ではありません。
    存在が漠然とし過ぎています。障害者の烙印を押していいのか? いけないのか? どちらなのか?
    当事者の自分達でもそれを決められない。わざと決められなくする言動も自分を含めて、あります。
    だらしない。私は当事者の一人として自分をそう思います。
    生きていては、いけない?  そうであらねばならない?
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2010年 2月 12日

    続きます。
    リタリンを禁止したまま、発達障碍診断を受けた者が後の保証も無く首を切られることをいずれ国が検討し始めるかもしれません。国は、どうしても譲りたくない都合を守るためなら、あらゆる無理難題をイエスマンのように聞き続ける義務があるだろうからです。リタリン騒動は忘れられません。
    多数派の都合のままに首を切り。
    福祉の現場でも許容量がオーバーで。
    予算は付けたくなくて。
    就労できる体面をそのままにしておけば、就労できないことも自己責任に出来る。
    無い場所を探せと命じられる。
    鬱が慢性化しない者、精神障害者手帳を取る意志の無い者は生活保護も切る理由になり。
    SSTが不十分な者は家族等の共依存被害へ帰っていく、しかもおとなしく帰っていく理由になり。
    就労できる者と出来ない者、自立する者と出来ない者、所詮当事者同士、仮に対立しても高みの見物。
    当事者と家族が仮に対立しても高みの見物。
    当事者と医療関係者が仮に対立しても高みの見物。
    医療関係者同士が仮に対立しても高みの見物。
    予算は無く。予算不足は忍耐を超えて錦の御旗になりつつ。
    対立も共依存もしない意志のある者も、責任を負う意志のある者にも、誰にも迷惑をかけない意志のある者にも無い者にも、生きる理由は無くなっていく。
    どんな人生の終わり方をしても自己責任にする準備を、国も報道機関もとっくに終えていて。
    後は待つだけ。面倒の頭数が減っていくのを待つだけ。
    すみません。続けます。

    • ぴよよ
    • 2010年 2月 12日

    続きます。すみません。
    国民皆が選んだ流れだと思っています。
    厄介者の一人として、国に名指しされるなら私は逃げられない。自分で決めて、もらった診断だから。
    ただ、誤解されたまま、というのが気に入らないのです。
    自覚無しの特徴そのまま、認識世界に何者をも受け入れられない尊大さそのまま、境界線症状の先入観のまま、感情と能力の混同で欠陥が説明されたままになる可能性があるのに、どう思われているのかを調べもできず、釈明も出来ないのが非常に納得いかない。
    しかし私の当事者としてのレベルを説明するための情報は、まだまだ世間に行き渡っていません。
    仮にこのブログを印刷して繋げて何十メートルもある紙を引きずって私が口を開いたとして、利害関係で感情的な多数派は話を聞けるでしょうか。ぴよよのコメントは所詮自問自答の塊です。
    私の言語指数がもっと高かったとして、隙無く要約出来たとしても、私の言い分として説明できるのが、まだたったここまでです。
    「ASの一人として、説明責任を果たす準備が足りなかったことをだらしないと思い反省しています。」
    これで何の誠意が足りるのでしょう。
    一口お握り一個分の賃金にもなるのでしょうか。誠意はお握りに化けるのでしょうか。
    だから私はまだ口を閉じます。ドアから外へ一歩出たら口も心も開らけません。
    確かに私の頭は今日もビリビリ反応します。アンテナに引っかかった物には何でも、多数派に分からない現象であるかもしれませんが自動的に反応します。感情を交えない反応もあります。そして平静な顔を装うことを訓練で身につけています。
    いつもすみません。続けます。

    • ぴよよ
    • 2010年 2月 12日

    いつも続いてすみません。続けます。
    訓練なんていくらしても、ある現象はある。
    ただ、その現象の罪の重さを、誰も定められていない。
    生産力が低くなることの罪、それがAS症状で低くなることの罪の基準値がまだ定められていない。
    ASに迷惑を被っている多数派の声がこれだけ上がっているのに、多数派の観点からの調査もしていない。
    私達にも人権があると主張することを止めてはいけませんが、多数派にも被害と苦痛があります。
    しかし多数派の言い分、当事者の言い分、医療、教育者の言い分もどこかに平等に集められて検討されていることはない。
    発達障碍の言葉が世に出てから多くの当事者が直接多数派と話し合ってきました。
    そして決裂してきました。話し合った行動を他でもない当事者仲間に軽蔑される事例も数多くありました。
    直接話し合ってらちが明かないことなら、第三者が間に入るしかないはず。こうして社会は成り立ってきたはず。
    話を大きくしてしまいますが、らちが明かないことに対して決裂しかしなかったら、人類は戦争を止められなかったはずです。
    戦争の代わりに現在は300万人の引き籠りがいるのかもしれません。これもまるで発達障碍の扱いのように放置して扱っていくならそうしたいのでしょうが、理由は誰かが作らねばなりませんし、生かしたいのかそうしたくないのか処遇も、第三者である国が本来決めなければなりません。
    一般庶民にもう、決定力は無いのかもしれない。そう思うまで私は失望しています。
    こんな漠然とした内情を知らない人間は誰もが言います。「個人で頑張れ。」家族を含めて、これを言う権利のある人間には本当は私は一切もう関わりたくない位なのです。しかし私は会う。言われたくないことを言う人間に会って、私は社会に喰いつく。
    多数派からも当事者から見ても無様で、醜くみっともない私。
    正当な裁きでなら罰される意味もありましょう。
    だから、私は待っています。自他共にした理屈の進歩、そして言葉に尽くせない色々なことを待っています。
    そして、ASの単語を使わないで私はどこまで自分を説明できるのかも、勝手に実験しています。
    くどくて、すみません。

    • のら
    • 2010年 10月 30日

    ぴよよさんのコメント、どうか引用させて下さい。。
    認識世界に何者をも受け入れられない尊大さ‥って、ぴよよさんおっしゃっていて、そうだったのかぁ!ってやっと納得しました。
    物心ついた時からずっとずっと寂しくて、人はそんなに寂しくなさそうで人と私と何がそんなに違うのかなって不思議だったけど答えはそういうことだったのですね。。
    人とわかりあえた!‥って思うのはいつも一瞬で、その人がいなくなれば私の中からその人との繋がりは消えてしまって後はロボットのような自分が残るだけで。一瞬の繋がりあえた!って記憶を大事に、後はまたわからないだらけの迷路のような世界に戻るなんて、どうしてそんな残酷な世界にしか自分はいれないんでしょうか(T_T)なぜ自分だけしかいないんだろう。。
    繋がりあえた!と思った相手も私はわかってないことが多く、迷路にまよっている自分に追い討ちをかけるように、大事な相手をつなぎ止めておく技術が私にはありません。コミュニケーションとるには私は弱すぎるんです。空気も(多数派とは違う読み方かもしれないけど)読めすぎるんです。
    みんなのことが好きなのに毎日コミュニケーションとらなければならない世界で私は毎日捨てられる気分を味わってます。自分の中からみんなみたいに人間らしさが湧いてくる人間だったらなぁ‥。でも私は違ってロボットだからなぁ‥。
    でも私は優しい人間になりたい。
    だから強くなります。何度も泣いてもいいけど、何度でも立ち上がります。
    そして受け身だったら人を守れるような人間にはなれないから、積極的に生きていきたいです。
    人から幸せにしてもらうんじゃなく人を幸せにする人間になりたいから。
    ぴよよさんの文章をずっと読んでいて内容は難しく、私は読解力がないからわからないこと多かったけど、ぴよよさんの無念な寂しい気持ち私はきっとすごくすごくわかります。
    一人じゃないよ!少なくても私は同じところにいるよ。
    自分を信じて自分のできること周りの反応は関係なしでやっていこうと思います。
    ヤンバル先生、勝手なコメントごめんなさい。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP