AC、人格障害関連

合理的な思考④

 合理的な思考④は、「観察」だ。発達障害の行動は、驚くほどワンパターンで、親子関係やパートナーとの関係等の「相互作用」まで含めて、「単純な図式で説明できる」ことが多い。

 例えば「親が積極奇異型ASでジャイアン娘に愛着を持ち、可愛がられる代わりに自己主張を抑えるように接した場合」は、ジャイアン娘が「依存型」の道を歩む。ジャイアン娘の動作性IQなどの素因で、「境界例型」と「強引丸投げ型」に分かれるが、結局さまざまなaddiction、摂食障害や解離などの病的な経過を経てそのAS父に反抗して自立しようとすることでジャイアン娘は回復する。ということが極めて簡単に図式的に説明できてしまうのだ。

 「観察」することは、情緒とある程度切り離された「他人事」として冷静に考えられることを意味する。ジャイアンも積極奇異型ASも中心志向が邪魔して、「他人のことは合理的に考えられるが自分のことは出来ない」という一大特徴があり、ひとまず他人の現象として図式をマスターし、それを繰り返して頭に入った後にやっと自分にも適用できるようになる。

 私は発達障害のケースは思春期(小学校5年生くらい)になると、「多数派を観察する」ことを勧める。多数派の行動の特徴について冷静に観察し、理論的な理解をすることがその後の「多数派にどこまで妥協するか」という大きな問題を考えるのに不可欠であるからだ。

 多数派の行動も発達障害の行動も冷静に観察し、「なぜこう行動するか?」を考え、理論的分析を一つずつ積み重ねていくことが、中心志向で捻じ曲げられがちなジャイアンや積極奇異型ASの認知をいくぶんか合理的な方向に引き戻し、独断を回避することに役に立つ必要な「努力」である。


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コメント

    • ネコ
    • 2008年 12月 22日

     とても、しっくりきます。
     共依存関係や妬み・恨みで過集中になった時、誰が正しい・間違っているではなく、何が起きているかを只観察する事で、見えてくる事がたくさんあります。私にとっては、一度、正・誤の判断をやめる事で、自己正当化によるごまかしを捨てられる気がします。それ程までに、自分は悪くないという自己中さが強いです。植物や動物を一個体として観察するように、または、化学反応の実験レポートを書くように、自分を観てこそ、初めて、自分の気持ちの移り変わりがわかるように感じます。

    • 2008年 12月 22日

    本当の事に目をつぶらない 自分が正しいとは限らない
    細かく物事を調べる 観察
    今までの先生の「合理的な思考」でのエントリーですが、
    本当の事に目をつぶってきたし、いつも自分は正しいと思ってるし・・・
    記憶力が悪く、細かく物事を調べるのが、とても苦手だし、
    又、そのせいで、観察も苦手です。
    私自身、表面的にしか他人に接してないせいか、母親からも友達からも、「自虐的だ」とよく言われますが、
    私の本当の心の奥底には
    自分に甘く他人には厳しいと思いでいっぱいです。
    きっと、多数派の方達は、自分の心にそのへんをうまく折り合いをつけていけるのだと思います。
    だから、「丁寧に物事を観察していく事が重要」なのだなぁと思います。
    そのために色々な人と接する機会を与えられているのは、
    きっと私の人生の課題のような気もします。
    その課題を今まで、存分に生かせてなかったです。

    • kei_
    • 2008年 12月 22日

    >「他人のことは合理的に考えられるが自分のことは出来ない」
    ・・・確かにそうなんですよね(笑)。~自己分析~
    なので、
    >一度、正・誤の判断をやめる事で、
    ・・というネコさんのようなスタンスで私もいるのですが、
    どうもACっぽいせいか、すぐ「自分」に疑いの目を向けたり、「誤」の評価は「自分」が先だったり・・・。
    だいたい自分の「誤」のほうに目がいくので、怒りのツボにはまり難いのかと思いますが・・。
    でも、根元には中心志向があるはずなので「ねじれ」が起きていると思うんですよね。すごくエネルギーの消費が激しいと感じるので。。(記事にあるねじれとは別バージョンかも、ですが。)
    正・誤の判断を下しそうになったら、ひとまず「あなたも私も正しい!」とか「身の回りで起きていることは(自分の身に振りかかることは)全て正しい。」とか、とりあえず全肯定しておいて、後から細かく考えよう!!・・・みたいな。
    で、後からって言いながらそのままだったり、細かく考えていくと超ユ~ウツモードになってくる事柄もあったりすると、結局は「全部正しい!」のままで、放り投げかい!って感じなんですけど(笑)。
    バランス的には自分の中心志向にもっとストレートに気が付いて(誤という認識ではなく)、それから合理的なパターンへ・・のほうが、スッキリするでしょうね。
    余計なエネルギーの消耗も最小限で済む様に思います。
    >色々な人と接する機会を与えられている
    ・・「自己対他者」でも「自己対自己」でも、「交流」することが大切なのかな・・・と私も思ったりしていますね。

    • ぴよよ
    • 2008年 12月 22日

    >「観察」することは、情緒とある程度切り離された「他人事」として冷静に考えられることを意味する。
    これを獲得できるかどうかが大きな分かれ道ですね。
    私は発達障害こそ知らなかったですが、思春期から二十代までの頃は、無鉄砲な若さの力でなんとなくそれらしいことができるようになり、頭の中が徐々に楽になったと思います。
    >図式をマスターし、それを繰り返して頭に入った後にやっと自分にも適用できるようになる。
    この作業は、動作性の低い私には、低くない人よりも多くの時間とチャンスと失敗経験が必要であったと思います。それらを積みつつ内観(毎日の飽くなきしつこい再燃と共についでにやる。)をダラダラすることになりました。
    しかしウイルス体質の受動ASは、内観だけで根気よく状況分析を(嫌いな)自給自足できるわけもなく、状況分析の練習のために大量の仮説を立てては人に聞いてもらいたがり、私が語って練習することが歓迎されない状況や空気を読み取っては世を恨み、他人を恨み、グサグサと傷ついていました。
    若かったから、積極奇異のようなテンションに染まることにも身体が耐えられたようです。
    人に聞いてもらえないと、世の中の人全てが私に『自分が悪いと思え。』と命じているような錯覚になりました。
    本来、ACの無いジャイアンなら自問自答でできる内観を、私は鏡代わりの人の手伝いを欲していたのでしょうね。
    そして、昔の私は自分から望みたがらないええかっこしいだったので、私が自問自答して賢くなることを、強く勧めて望んでくれる人を、望んで、天から振ってこなくて、憎んでいたのでしょう。
    私が欲しているものは、私が美しく賢くあらゆる人の役に立ち価値ある人間だったら、「欲しい」と言わなくてもいつか与わると望んでいましたから。
    だから、私が強く欲して得られないものは、人が私を軽蔑して差別して、悪意で与えないのだと当時はすぐ思っていました。危ない思想です。
    今でも、強く人を欲しすぎたり、憎みすぎるとこんな発想で攻防しそうで危ないので自制していますが、昔のような境界線すら蹴っ飛ばすようなファイトは、もう疲れて無いですね。
    青少年受動ASが「観察」能力を獲得するのは、今振り返っても、大変そうです。

    • kcotan
    • 2008年 12月 22日

    自分が大嫌いだと、自分に的確なダメ出しができると思います。親から嫌われたくないのに嫌われた経験が、自分をそういうふうにしてくれたなとも思います。
    一見理不尽に思えることにも必ず理由があって、つらくあたられるからには「相手に不快感を与えていた時点があった」ということであり、その理由を考えることは何においても前提です。誰と交わるときでもそうだと思っています。(母に育児で大変な苦労をさせていたのだろうと想像がつくようになったのは、ごく最近ですが)

    • kei_
    • 2008年 12月 23日

    昨日の自己コメントを読んで、
    今まで全肯定や「あなたも私も正しい!」
    ・・・でなんとかやってこれたのは(と本人だけそう思っているだけ?!笑)、たぶん怒りのツボにはまらずにきていたからなんじゃ、、と思います。
    もし、ツボにはまって表にしっかり表現する人なら
    例えば、いきなり罵詈雑言を浴びせる人がいてその人からその後に、「あなたも私も正しい!!」とか言われたら、「ん~~、そうくるか~。」と、かなり困惑・・・「どうしたもんか、、」と思うと思う。。
    今日の午前中、相手の中心志向??に反応して(笑)、「やや不快な気分」がそれとなく口調に出てました!!
    自然食のお店へ予約注文していたクリスマスケーキの手違いやら別件の注文やらで昨日からすでにその兆候はあったんですが・・・。
    どうも、自身の中心志向が見えてくると、他者のそれにも敏感になるのでしょうかね?!
    相手が考えている思い込みや観念によって、なんだか決め付けてない??って。
    以前は、「まぁ、そういうこともあるよねぇ~」なんて鷹揚だったんですけど。
    対応のオバサンに感じた「不快感」と「手違い云々」は別物だった気がします。
    なんだか、エントリと関係ないコメントになってしまってスイマセン!
    メリー・クリスマス、イブ・イブ!!の出来事で恐縮です。
    (日常の中に「気付き」がいっぱいですね。)

    • 山本文緒
    • 2008年 12月 25日

    >多数派の行動も発達障害の行動も冷静に観察し、
    私の脳では思い込まず正しく分析理解する事は難しそうです。
    私は人から褒められると傷つきます。
    褒められる価値など無い人間だと落ち込みます。
    私は人を必要としません。
    見捨てられ不安は全くありません。誰かに求められる事は恐怖です。
    私は自立に失敗し、一時期ホームレスをしていました。
    強姦されたり、すれ違いざまに唾を掛けられたり、そういう扱いを受けるのは当然だとさえ思っていました。
    内臓疾患で倒れていた所救急搬送され入院し、実家に帰ることになりました。
    実家に戻ってから不安定になり精神科の閉鎖病棟に入院していました。
    入院した当時の記憶は全くありません。
    解離(行動化)していたのかもしれません。
    親から物理的に離れていた時、小学生の頃からあった慢性的な下痢、不眠、過呼吸強迫症状が和らいでいました。
    聴覚嗅覚過敏での嘔吐はどうしようもないです。
    発達障害者支援センターでは支援や対応はできないと言われました。
    結局は自分で何とかする以外ないんだと改めて思い知りました。
    「自分で自分の人生を決められる」状況になった今、やりたい事も、出来そうな事もわからないでいます。
    「楽しむ事は悪い事」と親から教えられた事が頭をよぎり、「いつも苦しんでいなければ生きていてはいけない」という強迫がいまだ抜けません。
    私はADHDでジャイアンなのかも知れないです。
    引きこもりも言い訳で、自己正当化なんだと解りました。

    • 匿名
    • 2008年 12月 29日

    小生仕事納めです。
    本当にたくさんのことをお教えいただき、光明を与えていただき、感謝してもしきれません。
    来年もよろしくお願いいたします。
    YANBARU先生のご健康とご発展を心より祈念いたします。
    どうぞよいお年を。

    • kei_
    • 2008年 12月 30日

    今年も残り少なになりましたね。
    年末でバタバタしていますが(と言っても、気持ちだけで私が出来ることはたいしてないんですが 笑)、合間に書き込みをしてます・・・。
    今年はパソコンはもとより、YANBARU先生の記事や、こうして書き込みをすることで、また皆さんのコメントを読ませて頂いて、本当に気付きの多い1年になりました。
    ここでの気付きをリアルの現場で試してみたり、自分の日常に変化をつけるきっかけにもなりました。
    特にこのように思ったことを文章にすることは、頭の中で考えるだけ、とは全く違うんだな、、、とつくづく感じました。
    先生はじめ、皆様。。
    良いお年をお迎えくださいね!

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 1月 04日

    YANBARU先生、みなさん。明けましておめでとうございます。
    沖縄県の財政再建で、病院関係も大変と聞いております。その中で、このプログを維持されている先生に深く感謝しております。
    2009年1月 ヒゲ達磨
    さて先生の記事とは、大きくずれると思いますが、投稿いたします。
    共感性には、情緒的共感性と認知的共感性があるそうだ。
    情緒的共感性は、他人が情動状態を経験しているまたは経験しようとしていることを知覚したために観察者にも生じた情動的な反応。自動的、先天的で、動きを正確に模倣する能力との間に正の相関がある。もらい泣きのような情動伝染がある。
    一方、認知的共感性は、他者の立場に置かれた自分を想像することにより他者の情動を推論する能力であり、視点取得の能力と関係が深い。「心の理論」と関連が深い。自閉症、AS者は「心の理論」が正常に獲得されていないという「心の理論障害説」が有力であるが、サリーとアンの課題のような誤信念課題の正答率で見ると、言語性精神年齢が6~9歳以上では、半数以上が正答し青年期、成人期の高機能自閉においては心の理論課題をほとんど成功させている。
    この二つを代表に共感性は多次元的に構成される考えられる。長岡 千賀(京都大学) さんは、情動的、自動的、先天的なもの・情緒的共感性を基盤として、発達によって、認知的、後天的なもの・認知的共感性が加わっていくとしている。この枠組みからすればAS者は、定型発達者が5歳前後で獲得する「心の理論」を遅れて獲得して視点取得が可能になり、認知的共感性を発展させうる、育んで社会と折り合いをつけていると考えられる。自分自身を省みれば、小学校5~6年生頃に視点取得が可能になり他者の立場に置かれた自分を想像することにより他者の情動を推論するようになったと思われる。それが、学校生活での他者との関わりに積極的になった原因と考えている。
    それにもかかわらず、認知的共感性をある程度獲得しているにもかかわらず、非常に人工的で単純化された「心を読む」テストの場合ではうまくいっても、現実生活では「対人関係の障害がある」ということ、脆弱な情緒的共感性を基盤にしたAS的認知的共感性の問題点を考えてみよう。
    つづく

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 1月 04日

    続きます。
    他者の立場に置かれた自分を想像することにより他者の情動を推論する認知的共感性。これで情動を推し測るには、視点取得の能力が必要なのは無論だが、自分にどんな情動が湧くのか知覚されなければならない。
    私はAS者は、自分の感情、情動を把握する力、自分の感情・情動をモニタリングする能力が弱いのではないかと思う。YANBARU先生は「ADHD、ジャイアン(自己正当化ADHD)もASも、いろいろな気持ちや考えを一緒くたにしているという特徴」と指摘。
    谷田林士(北海道大学大学院文学研究科)さんの研究によれば、「共感能力を測定する共感尺度の下位尺度の『自己指向的情動反応尺度』と自分が他者になったかのように想像する能力を測定する『想像性尺度』とは正の相関関係にあった。」
    つまり、自分の感情、情動を把握する力が弱いということは、正の相関関係にある自分が他者になったかのように想像する能力も低いということだ。そして想像しても湧き上がる情動が意識でない把握できない、つまり認知的共感性が貧弱ということになる。
    何故、自分の感情・情動をモニタリングする能力が弱いのだろうか。育ちと生まれから考えてみよう。
    一つは育ち。
    ジェンダー論的に言えば、男性の私は感情をあらわさないように躾けられ、泣けなかった。他のAS者のプログなどを見るとパニックをおさえるためとか、様々な理由で感情を抑圧するように育ってきている。
    例えば、悲しいという感情を抑えこむとそれをあまり感じないようになれるが、同じ感情である、嬉しいや、楽しい、などの他の感情も感じにくくなってくる。
    この感情の抑圧の解除は、様々な感情を感じる練習や方法がある。例えば、日記をつけるとか。こういったものを実践してみる。ようやく涙が出るようになった。
    つづく

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 1月 04日

    続きます。
    何故、AS者は自分の感情・情動をモニタリングする能力が弱いのだろうか。
    一つ、生まれ。
    表情などの身体の動きと内面的な感情の関係は、一般的には内面的な動き・感情が原因となって、外面の動き・表情があると考えがちである。だが、人間以外の動物は様々な表情を作るが複雑な感情がないから、進化的には外面の動きが先行して存在し、内面的な感情は後からできたものである。神経科学や心理学の実験でも、身体の反応(反射)が、意識される感情よりも時間的に早く出てくることがわかっている。
    表情表出に関連する顔面部位と特定の感情の間には直接的な結びつきがあり、表情表出に伴う顔面筋の電位活動や腺の活動の生得的な反応パターンのフィードバックが大脳皮質に入力され、特定の感情を経験することになるという顔面フィードバック仮説また、感情血流理論、表情表出に関連する顔面筋の活動が顔面及び脳内の血管系の温度に作用し、特定の感情を喚起するというものである。
    ASや自閉者は、感覚-知覚の歪み(過敏・鈍感)があって、身体的な自己意識を持ちにくい状態にあると言われている。
    脳にある身体の感覚マップのパターンが、心的イメージである感情を喚起するのだから、脳の身体感覚マップが薄弱なASや自閉者は感情が喚起され難いとは言えまいか。
    ASや自閉者は、表情感覚のフィードバック情報を定型者と別の脳の部位で処理しているのではないか?
    定型者は他者の内面の感情理解を他者の表情の模倣して行っている。他者の表情と同じ表情を作るための顔面筋の電位活動などフィードバック情報を定型者が処理する脳の部位で(その結果他者の感情を把握する)、ASや自閉者は物を見分けている。逆にAS者が「人の顔を見分けるとき」に使う脳の部分は、定型発達の人が物を見分けるときに使う部分。この違いが、自己の感情のモニタリングにも影響してないだろうか。
    つづく

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 1月 04日

    続きます。
    生まれ要因の脳の身体感覚マップの強化は可能だとおもう。
    私は高校生のときに演劇部。そこでスタニスラフスキー・システムという演技論に出会う。それの第一歩は、 日常の様々な動作の中、どの筋肉がどのように使われているか知ること。つまり自分の筋肉を使い、動作や表情を作り、その感覚で身体マップを自覚的に構築していく。人間には実に多くの筋肉がある。
    次は、観察。街や電車などで他の人の表情や動作を観察し、何を考えているか、どんな感情なのか推理(妄想)する。男女が手を握って歩いていたならば、手の握り方で二人の関係を妄想してみる。男の手が女の手を包み込むようにして握っている場合と逆では二人の関係性は違うだろうから、その辺を妄想してみる。これは、複数でやると一人一人目の付け所が違うし、妄想内容も違うから面白い。演技の表現のネタにもなるが、自分の感情を推し量るにも役立つ。
    このようにして自分の感情・情動をモニタリングする能力を強化することで、認知的共感性を豊かにできないだろうか?
    他者の立場に置かれた自分を想像することにより他者の情動を推論する認知的共感性。それで推しはかられた他者の情動、喜びや悲しみが、妥当なものであるのか、その検証は何によって可能なのか?
    認知的共感性で推しはかられた他者の喜びや悲しみといった情動を織り込んで、AS者が喜び⇒一緒に喜ぶ、悲み⇒慰めるといった応接をする、他者にそのような関わり方をしたとする。その推論した情動が当たっていれば当たらずとも遠からずなら問題はない・少ないであろうが、違っていた場合AS者がそれを感知して推論を修正し適切な再応接が可能であるか?
    それが、修正と適切な再応接をしなければ、間違って推論された情動を前提にした話が続くのならば、受け手である他者にとってAS者の感情・価値観などを一方的に押し付けられているように感じるであろう。
    つづく

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 1月 04日

    続きます。
    認知的共感性。それで推しはかられた他者の情動、喜びや悲しみが、妥当なものであるのか、その検証は何によって可能なのか?
    間違っていた場合の他者・受け手の対応・返答には、どのようなものがあるのか。私は言語性IQ優位のASなので、それを前提に類型化して考えてみたい。
    まず、受け手との親しさ(やこれまでの関係性、受け手の気質、依存性や心理的位置関係が大きく関わると思う。自己開示の程度、言語を介して自分に関する情報を伝達する程度は、親しさに比例すると思う。
    ①親しい関係なら違っていた場合には率直に自己の感情を言語を介して開示してくれると期待でき、その場合は誤推論が言語で明示されるのだから、修正と適切な再応接が可能になる。
    ②単なる知り合い程度なら、そのバランスを崩すことを恐れて、また「相手には関係のないことだから」という気持ちで、違っていても受け流して、自己開示はしないであろう。
    また、③AS者とそれまでの関係で「どうも理解してもらえない」とか「話しても自分の気持ちを分かってもらえそうにない」といった感じを受け手がAS者に抱いていると自己開示はされないだろう。
    ④受け手が自尊感情が低い自己に対し否定的な人だと、「恥を曝すような気がする」「馬鹿にされたり、噂されるのが嫌」という気持ちで違っていても自己開示をしないだろう。
    ⑤受け手が発話者のAS者に心的依存性をもっていたりAS者にたいして心理的に劣位である感じている場合は「依存対象や優位者であるAS者には、自分の感情・気持ちは価値が低く、興味を引くものではないので、話してもつまらないから」といった気持ちで自己開示はしないであろう。
    (自己開示を抑制する心理に関する榎本博明・名城大学教授の研究を参考にした)
    受け手である他者の情動が、社会的に非難されたり是認されない感情であった時には、真の情動・感情は隠されるだろうが(後で自己呈示として考えてみる。)、そうでない場合は②~⑤の言語による感情の自己開示がない場合でも、表情や音声の韻律的特徴のプロソディ、特に発話者の感情によって変化する韻律的特徴の情動的(感情的)プロソディなど非言語的な表現は自動的に生成されるので、感情が正直に表現・開示されてると思われる。つまり言葉と表情などが不一致・不適当することになる。
    つづく

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 1月 04日

    続きます。
    言葉と表情などが不一致・不適当な時、私は頭の中で???????になっていしまうが、これは私だけではないらしい。
    「Egan(1989)は感情認知に関連する刺激情報のタイプを細分化したPerception of Emotion Test(以下,POET)を開発した.POETでは,被験者は5つのモダリティからなる刺激を見たり聞いたりして,4つの感情のどれに該当するかを回答する.5つのモダリティとは①静止画表情,②動画表情,③プロソディ,④言語内容,⑤混合情報(動画表情,プロソディ,言語内容を組み合わせたもの)である.また,4つの感情とは幸福(happy),怒り(angry),悲哀(sadness),無感情(neutral)である.Jenniferら(2006)はPOETを用い,アスペルガー障害のある児童・青年は健常な児童・青年に比べ,①静止画表情,②[より現実のコミュニケーション場面に近い]動画表情,③プロソディから感情を読み取る能力が低いことを示した.」
    「Grossman, Klin, Carter & Volkmar(2000)はアスペルガー障害のある児童と健常児を対象に以下のような実験を行った.彼らは5つの基本感情「幸福」,「悲しみ」,「怒り」,「恐怖」,「驚き」を用い,単純な表情認知課題と,言葉と表情が一致・不一致・不適当といったものと対になっている表情認知課題を実施した.結果,単純な表情認知課題に関しては臨床群と健常群には差は見られなかったが,言葉と表情が不一致なものに関しては臨床群が健常群より有意に劣っていた.この結果より,Grossmanらは,アスペルガー障害のある児童は感情認知の際に,言語の媒介による補償手段を用いていると述べている.」
    (引用の出典は、文部科学省現代GPプロジェクトの信州大学教育学部の http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e06f1/class0.html の6.表情と音声による感情認知)
    ”感情認知の際に,言語の媒介による補償手段を用いている”—これは、AS者は、文字通りに理解するとか、騙され易いということに繋がっているのでしょうね。
    つづく

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 1月 05日

    続きます。
    言葉と表情などが不一致・不適当な時、頭の中で??になっていしまうということは、認知的共感性が誤っていて受け手の応答での言葉に情報と表情などの非言語的表現が不一致な場合でも、その認知が困難ということ。
    だから、言語を介して自分に関する情報を伝達する自己開示、この場合は感情、情動の開示がなされない②~⑤の場合は、言語性優位の私のようなAS者は、その非自己開示の言語表現のみで認知するため、自分の認知的共感性の誤り・欠陥の是正が困難ということになる。
    推論された情動が間違っているということは、相手が自分が置かれていると感じている主観的状況やそれを受け留めて様々な情緒的反応を生み出す心的構造(価値観や世界観など)が、推論したAS者が想定したバーチャルな相手の主観的状況、心的構造などと違っているといことだ。それが是正されないまま間違ったままのバーチャルな相手像で関係が続けば、やがて相手は自分の感情や情動をAS者が無視している⇒蔑ろにしている⇒人間扱いされていないと思うようになる、というか私の配偶者・相方がそのようになった。相方の表現を借りれば「何度も突き落とされて、這い上がって、また突き落とされて、・・疲れてしまった」「(貴方は)無意識に私の事を人間扱いしていない」
    定型発達者間では「2者の会話において、自己開示の程度、すなわち言語を介して自分に関する情報を伝達する程度が、2者の間で均衡する現象がある(小川、 2003)」そうだが、AS者の私と相方の会話では、「聞く耳を持っていないのだから話さない」ということで、相方にとって自己開示度は極小となった。それでは、一体感のある関係、夫婦関係ではないということで「(あなたを)夫とは思わない」となったのはある意味当然と思う。
    ②、④、⑤で自己開示度が低いのは、受け手の心によるものだから、AS者からは変更できない。AS者が変えられるのは、他者の情動などの表明にたいして「聞く耳」を持つことによって③の「どうも理解してもらえない」とか「話しても自分の気持ちを分かってもらえそうにない」といった感じを受け手の他者がAS者に持たないようにすることではないだろうか。
    動作性IQ優位のAS者やADHDでは、認知的共感性はどういう位置付けになるのか?言葉と表情などが不一致・不適当なときには?

    • アメジスト
    • 2013年 7月 02日

    >多数派の行動も発達障害の行動も冷静に観察し、「なぜこう行動するか?」を考え、理論的分析を一つずつ積み重ねていくことが、・・・・・認知をいくぶんか合理的な方向に引き戻し、独断を回避することに役に立つ必要な「努力」である。
    多数派の行動を冷静に観察して、分析することは今まではほとんど行なっていませんでした。
    私は1人で喫茶店やファミレスに入ることが好きですが、入った時に、その店にテーブルをいくつもくっつけて、10人くらいの女性が集まって、にぎやかにおしゃべりをしているのを見ると、一瞬は「うっ」と圧迫感を感じます。
    そして、「ああ、あの中に私がいなくてはならない状況ではなくて、良かった!1人って何て自由なんだろう」と思ってしまいます。
    でも、多数派も少数派も「適材適所」なんだろうなとも強く思っています。
    例えば、大地震の後の復興などは、どうしても被災者がたくさん集まって力を合わせて復興しないと無理なことをこの間、学びました。多数派がすごい力を発揮する場面です。
    一方、今まで、精神的な病気や心の問題で、一対一でじっくり相談をしてくれた先生方は、皆さん少数派の方々だったと思います。少数派だからこそ、心の深い所まで、行かれるという面があります。
    少数派のタイプ別でも適材適所があると先生が他の記事で書いていらっしゃいました。確かにそうですね。
    「適材適所」っていい言葉です。

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