さて脳の働きの少数派であることを直視する構えが出来たら、あとは自分の脳の働きの具体的な特徴を冷静に理解するというプロセスに入る。
私は多くの成人発達障害の人から話を聞いてきて、主に3つのタイプのAS(アスペルガー症候群)と5つのタイプのADHDに分類できると(今のところ)考えている。
ASは「積極奇異型」「孤立型」「受動型」
ADHDは「思い込み型」「ADHDのAC」「合理型」「自己正当化型」「自己正当化型ADHDのAC」と私は考える。
最初にADHDとASを分けるが、私は「人への愛着の有無」で分けることにしている。
ASの最も不思議なところは、「愛着の対象である人と、そうでない人への態度の極端な変化」が見られることだ。しかもその愛着は、自閉症としてのほとんどのこだわりよりも優先する。対してADHDは家族にも他人にも平等で常に無差別な一対一の関係で接する。ADHDは人に執着しない。良く言えば「相手の人格や判断を尊重」、悪く言えば「他人はどうでも良い」。
例えば「学校などでは緘黙のように大人しいのに、母親に対しては命令するような自己中心的な態度を示す」、「予定の急な変更など他の人なら到底合わせられない事態にも、相手が愛着の対象なら文句一つ言わずに全面服従も出来る」、「自分の子供でも極端にかわいがる子供と疎遠にする子供で差別する」ということがASの人には当たり前に見られる。そういう「相手によって(極端に)変化する」ことがあるのがASグループ、そうでない無差別な(人に執着しない)のがADHDグループである。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/as.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/adhdNH.htm
はじめまして。
「意味不明な人々」という表題を見て、これはもしや自分も該当するのでは?と思い、ブログを読ませていただきました。
人から、「何を言っているかわからない」「わけわからん」としばしば言われたことがありましたので。
ずっと以前からですが、「生き難さ」を感じておりました。
自己診断の所を読んで、自分は「受動型AS」にあてはまる部分が多いと思いました。
「内弁慶と言われていた」
「場の空気を読めない」
「的外れな発言をして、周囲の人を困惑させる」
「会議などで、皆が簡単に了解していることが理解できない」
「何故、自分で考えないのか?」「人の言いなりじゃないか」と言われる。
「何を言っているかわからない」と言われる・
「また、自分の言いたいことが伝わらない」
「言葉がでない」
「非常に細かいことが気になり、こだわるあまり、ものの本筋から外れる」「役に立たないようなことを苦労して一生懸命行なう」
等で、何とか、働いて給料をもらっていますが、毎日、しんどいです。
「精神科、神経科」に相談するほどではないのだろうと思っていましたが、日々、つらい思いをしていますので、何とか楽に生きられたらと思っています。
他の多くの人が苦もなくできている(きちんと人の話を理解し、また、自分の考えをわかるように伝える)ことができないので、自分はもちろん、周囲にも迷惑をかけています。働かないで、食べていけたらと思いますが、でも、辞めると生活できなくなるし。。
昔から、人任せで、依存的でした。自分で物事を良く考えないから、皆がわかることがわからないのかな?すぐ人に聞くのではなく、自分で考えないと。。とも思ったりしていました。
けれど、「脳機能の少数派」「発達障害」というところは、まだ、本当に自分は、そうなのかな?と疑問符も自分自身についています。
まとまりがつかず、長い文章になってしまいましたが、これからも、ブログを読ませていただき、もっと生きやすい生活を送りたいです。
ASとADHDの分け方ですが、YANBARUドクター様の
「人への愛着の有無で分ける」という表現に、私は違和感を持ちました。
正しいとか間違っているとかいう事ではなく、私はこのように感じている
という一例を書き込みます。
以下、ASである私を自己分析しながら、今ある違和感を説明
してみます。これはあくまでも私見です。根拠は提示できません。
この文章は、コメントとしては不適切かも知れません。
その場合は、削除してください。
その1
>ASの最も不思議なところは、「愛着の対象である人と、そうでない人への
>態度の極端な変化」が見られることだ。
(私は愛着という表現の意味するところを理解できていないのですが)
愛着という言葉の意味が言葉どおり、
「かわいくて心がひかれ、はなれられないこと」(手元にある辞書から)
であるとすれば、私の場合は、
執着「深く思い込んで、心がはなれないこと」という表現のほうが近いです。
ですから私は、人に執着しているのではなく、自分自身の思考「こだわり・思い込み」
に執着しているのではないかと思います。
例えば、自分自身で創作した他者へのイメージに対する「執着、思い込み」。
同様に、自分で創りだした自分自身のイメージに対しての「執着、思い込み」。
現実ではなく、あくまでも自分の持つイメージ・こだわり優先。
そして、一度内部で決定されたそのイメージ「こだわり・思い込み」を、
なかなか切り替えることができず、「外から見ると、特定の人に執着
しているように見える」のではないかと、思います。
結果、本人から見て、係わり合いの深い人が、必然的に執着の対象者となり
係わり合いの浅い人は、執着の対象者から除外される、あるいは存在しない。
といった感じがします。
続く・・・
・・・続き
その2
それゆえ、自分自身の思考(こだわり・思い込み)に執着しているという観点でみると
>ASの最も不思議なところは、・・・・・「愛着の対象である人と、
>そうでない人への態度の極端な変化」が見られることだ。
といった、ASの最も不思議なところを理解するための接近法の
ひとつになるのではないかと思います。
また、結果として表面に現れる態度の極端な変化も、
(態度の極端な変化は原因ではなく結果)
自分の思考によって創りだしたイメージ「こだわり・思い込み」や
脳に刻み込まれたイメージが、特定の刺激により、衝動的に発動されてしまうのでは
ないかと思います。(そうする事により、自分の持つイメージの崩壊を防ぎ、自己を守る)
(特定の刺激は個人によって、また環境によってそれぞれ異なる)
要約すると、日々刻々と変化する現時点の現実に即座に対応することが
困難なため、自分自身がもっているイメージ(ルール、こだわり)を
最優先して、その場に対応せざるを得ない。
よって私の現時点での表現としては、
「人への愛着の有無で分ける」あるいは
「自分の持つこだわりへの執着の有無で分ける」
という表現になります。
(「人への愛着の有無で分ける」は外から見た結果としてありうる)
私の自己分析では、このあたりが限界でした。
再度記述しますが、これはあくまでも私見です。
根拠は提示できません。
>しかもその愛着は、自閉症としてのほとんどのこだわりよりも優先する。
「自閉症としてのほとんどのこだわり」とは、具体的にどのような事なのでしょうか?
ああ、今回も言葉の意味ひとつひとつに、やけにこだわる
文章を書いてしまいました。
コメントありがとうございます。
ミリ様
あなたのようなケースに役に立つことを目的として自己診断を考えています。その後には自己コーチングのプランもありますので、どしどしご意見をお寄せください。
ALIVE様
私が「愛着」と呼ぶ現象はAS以外の者にはかなり理解が難しいので、御本人からの説明があるのは非常にありがたいです。
私が不思議であると思うのは、例えば非常に激しい強迫症状(他人が触れたものは口に入れられない等)が、お母さんだけは全く例外となる(お母さんが洗えば大丈夫)となるなど、身体感覚の延長上にあるような症状も相手によって変わって来るということです。
これが単なる「イメージへの執着、思い込み」以上の、人間に対する何か根本的な近づきたい衝動をベースにしているように感じることで、敢えて愛着という言葉を使っています。
孤立型の人の場合はたぶん「イメージへの執着」で説明可能と思いますが、積極奇異型の人の「離れる、関わらないという選択肢が存在しない」といった、「対人関係でどうにも距離を取れない」という大きな特徴がどうして起こってくるのか、考え続けたいと思います。
また「こだわり」とは、好みを超えた「これでなくては他耐えられない」という現象のことで、偏食や、服装のこだわり、予定の変更が出来ないなどのAS独特の融通の効かない部分ほとんどを含む言葉です。
少しずつAS独特の世界の捉え方について教えてください。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/as.htm
YANBARU先生、自己コーチングのプランも考えておられるとのことで、楽しみにしています。
愛着の有無については、難しいなと思いました。
ALIVE様の書き込みにつきましては、先日の「後悔しない」ということに関して、私には、当たり前のように思っていた「後悔する」という思考がないということに関して、明瞭に理解できました。
ありがとうございました。
ミリ様、こんにちは。
愛着の有無については、確かに表現として、意味を見出すのが難しいですね。
でも、みんなでいろいろ考えて、表現して、意見をだしあえば、だんだん輪郭が
はっきりしてくるのではないかなと思います。
ミリ様が「後悔する・しない」ということに関して、明瞭に理解された事によって
逆に私も理解・再確認することができました。こちらこそ、ありがとうございました。