ADHD関連

他者へ④他者のイメージ

  依存型ジャイアンには「現在」は無い。一瞬過去の「状況」があるだけだ。周囲の人は「与えられた不変の状況の一部」として認識されるだけだ。

 「並んで飛ぶロケット」のイメージで言えば、並んでいる相手は「いつも同じ場所に必ず飛んでいる」という前提がある。

 実際は異なる。自分が少し離れた後で戻ってきても、元の軌道に相手がそのまま居る保証はどこにも無い。

 依存型ジャイアンの世界には、「相手が意志で選択する」という想定が根本的に落ちている。登場する人間は状況の一部で生きた「他者」ではないのだ。

 相手と離れたくなければ、並んで飛び続ける努力をするしかない。依存型ジャイアンの前提は、「相手は必ず自分から離れないで飛び続けるはず」という根拠の無い断定を意味する。

 「現在」とは、「不可知で不安に満ちた未来に向けて、今この瞬間に同じように未来への不安を抱いた他者と同じ場所を共有する」ということだ。

 「自分にも他者にも不可知の未来への不安があり、逆に言えば選択の自由がある同士が選んで今この瞬間をともに過ごすことになっている」というのが「現在」の意味だ。

 もう一度書こう。ある依存型ジャイアンのケースは「母が離れて行かない」ことの意味を理解した。その瞬間に本人は「母と共有する現在」を体験した。母が本人と寄り添って生きることを選択していることを感じて、本人は母の期待に応えたいと思った。

 この瞬間に、「約束された利益」が無くても前向きに動く根拠が出来た。これが利益とは区別される生きる「意味」であり、他者と現在を共有してお互いに選択しあうことによって生じてくるかけがえの無さが「意味」であるのだ。

 不可知で不安に満ちた未来へ向けて、常に選択の意志を持っている他者と現在の一瞬を共有し、お互い選び合っていることの意味を自覚することが「他者」を実感するということになる。

 以上、直感的には決して他者を感じられないADHDである私自身が「想像」によって作り上げた「他者」のイメージだ。

 おそらく多数派には「直感的に感じられる非言語的な体験としての他者との共感」のようなものがあり、本来の「他者」はそちらであろうと思うが、依存型ジャイアンの治療には上記のイメージが役に立つ可能性がある。


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コメント

    • YK
    • 2009年 4月 25日

    不変の状況と感じていた現実はもろくもうつろい、
    そこに居るはずの人はこの世の人でなくなり、
    永遠に戻ってこない。
    それを実感として受け入れることの困難さ。
    しかも、
    移り変わる現実は不安でとらえがたく、
    柔軟に変化する人は理解しがたく、
    いつもどう動いているか神経を尖らしていなければならない。
    私にとって現実は、
    すべてがくるくる回る万華鏡。
    どこに集中すればいいのか、
    どこに身を置いていればいいのか・・・・。

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 4月 25日

    この4?回シリーズ、最初はどこへ行くことやらと思っていましたが、見事に着地しましたね。ああ、ロケットだから発進か、発射か・・
    ASで考えると
    ASの世界には、「相手が意志で私の受容を選択する」と「相手の受容能力には限界がある」という想定が根本的に落ちている。愛着する人間は状況の一部で意思を持ち能力に限りがある生きた有限の「他者」ではないのだ。ASの前提は、「相手は必ず自分から離れないで、私を丸ごと受容し続けるはず」という根拠の無い断定がある。
     親だろうがパートナーだろうが、私と同じく能力に限りがあり有限なのだから、私が相手の全てを受容できず、出来る限りの部分的に受容するように親、パートナーも私を受容する。また、親だろうがパートナーだろうがが、その部分的受容を続ける必要、必然性はまったく無い。「親やパートナーが受容し続け寄り添っている」ことは決して「当たり前」ではなく、「意志に基づく選択として離れて行かない」ということだ。
     不可知で不安に満ちた未来へ向けて、常に選択の自由を保ったまま、私を部分的にしろ受容し続ける選択をしている他者。この私と寄り添って生きることを選択している相手と離れたくなければ、私も相手を受容し寄り添い続ける努力をするしかない。
     お互いに選択しあい、受容しあうことによって生じてくるかけがえの無さを感じる対象が、愛着ではないASにとっての「他者」
    言葉遊びかな・・

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 25日

    自分の感覚や感性、価値観に自信を無くしている所ですが
    >この瞬間に、「約束された利益」が無くても前向きに動く根拠が出来た。
    これは素晴らしい言葉なのではないかと思いました。
    治療であれ教育であれ、一人のクライアントをここまで導けるだけでもその“場所”と関わった意義が十分にあり、ただの家族とか友達とか横の繋がりだけでは絶対得られない成果であると思います。
    こういう成果を達成できるヤンバル先生が、羨ましい。羨ましがるなんて失礼ですみませんが、いい言い方が思いつきませんね。
    私は、“ASの外面”の中でしか並んで飛ぶように見せかけることが出来ないのかもしれません。
    後付け能力として、後から身につけるしかなかったのかもしれません。
    理由はどうあれ、私のコンディションが落ちて、自己コントロール力が下がったとき、自動的に周りは全員私の裁判官のような認識をしてしまうのかもしれません。
    集団の中でそう訓練された・・・しなければ薬をたらふく飲みながら引きこもる人生になったかもしれませんが・・・女性集団特有の「そうだね。」の肯定メッセージの獲得を目指して自分を強迫するうちに、そうでないメッセージまで自動的に影響されて、影響される時とされるべきでない時の区別が分からなくて、切り替えを練習していたらさらに他人を苛立たせ、要するに誰にとっても邪魔な存在でしか未だにいられない。
    そもそもロケットの操縦が出来ないので、時に心身を不調にしながらでも人のロケットに付いて歩くか、繋いで牽引して貰うかしか飛べない人間のような気がしています。自主性で飛んだら人を傷つけるのです。以前はなるべく人を傷つけないようにリタリンも役に立ったのに・・・。
    昔は自立行動をするために空想や希望で動機を補って旅行などしていましたが、他人の尊重をADDなりに全速力で覚えたからか、そうするうちに出来なくなりました。
    私と感性を近くする人は、病院の中とか鍵が掛かっていて勝手に出たらいけない場所にしか、生きていないような気がしています。

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 27日

    依存型ジャイアンタイプ側からのイメージの想像ですが、利用しやすい他者はいわば家畜のようなものなのでしょうか?
    いけませんね。私がいいように利用されている様を真正面から見過ぎていても。
    利用されてしまうことを決して了解しているわけではないのに、特に私は後も引きまくりなのに、まるで許しているかのようなフィードバックを勝手に受け取られることがあります。それこそ先方の勝手な想像でしかないのですが。
    だから鈍感な振りをすることがあります。
    利用されていると気付かない、暗黙の了解で先方が許されたがっていると気付かない振りをわざとすることがあります。
    気付かない振りをしたらしたで、やっぱり心象を害することもあります。
    何をしたいのかというと、先方は謝らないで責任放棄をしたくて、でも人と角を立てるのも面倒で、タメ口のフレンドリーな会話で楽しく楽チンに責任押しつけをして、後から気の向くままにケチだけつけたいと・・・。自分の都合だけ言いたくて責任は無いものとしたがっているようです。
    未だにこのタイプとは公私共々うまくいきませんね。私は低姿勢を捨てないくせに、責任の境界線はここと決めたらなかなか譲らない。そして融通が利かないからです。
    だから仕事では特に死角に隠れた問題を見つけられない。
    望まずにパワーゲームになったケースは嫌ですね。ゲームと呼べるほど楽しめないのに。下手なのに。でも仕方なく学ぶ所ある経験になってしまったら、嫌でも時々思い出すしかないんですよね。
    現実で問題を起こして回ってしまう人達こそ発達障害を知って診断が必要なのですが、そもそもそのための自立支援法だと思うのですが、現実で色々振りまいて回る人に限って、何もしてなくてしようともしないのです。
    本人が困らないのでしょうね。
    私達家畜を、過去にこだわらずその時、その時に本人の好きなだけ使えさえすれば用はないというか、それが能力の限界なのでしょうか。
    私が周囲との調和を気に掛けられるのは、決して利用されて捨てられるためではなく、KYを挽回してその場に適応するため。両親にされてきた訓練は私を内側からは苦しめますが、体面を考える能力に繋がりました。でも苦しいですが。
    こう書き続ける私の言葉も、読む人によっては「モォ~」としか読みとれないのかもしれませんけどね。

    • るる
    • 2013年 12月 04日

    先生。
    他者へ①~④、すごくすごく感銘を受けました。
    (同時に、読み違えていないか・・・という一抹の不安もありますが)
    私(ジャイアン)にとって「他者」は確かに『与えられた状況の一部』です。
    相手が意志で選択するという想定が根本的に抜け落ちているとまでは思えないけれど、その認識が希薄であることは確かだと思います。
    約束された利益がなくても前向きに動く根拠ができたこと、これが利益とは区別される「生きる意味」であり、それは他者と選択しあい共有しあう「かけがえのなさ」であること。
    〈かけがえのない〉という言葉の意味を、今までは実感として理解できていなかったのだと思いました。目からうろこです!
    〈かけがえのなさ〉という視点を新たに持つことにより、AS家族への「尊重」という思いが深まる気がしました。
    先生の
    >この瞬間に、「約束された利益」が無くても前向きに動く根拠が出来た。これが利益とは区別される生きる「意味」であり、他者と現在を共有してお互いに選択しあうことによって生じてくるかけがえの無さが「意味」であるのだ。
    のところ、「利益」という言葉を入れ替えれば、ASにも通じる「意味不明の人々の真理」なのではありませんか?

    • chikako
    • 2014年 10月 08日

    意味は関係性のなかにしかないということですよね。。。

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