(ここであらためてご説明しておきますが、このブログは私の直感的に感じたことをそのまま書き散らしているだけで、学問的なエヴィデンスとは程遠いものです。そういったものを期待される方はどうぞ別の先生方の論文などをお調べください。私はASやADHDの人の本人や周囲の人がこれらの発達障害について理解を深めるのに役に立つ可能性があると考えた私の思い付きを書いているだけですので、それ相応のご理解をお願いいたします。ここに書いたことに関連するご自身や身近な人から得た個人的、実感的なコメントをよろしくお願いいたします。また、私が述べていることと直接関係のないご自身のお考えを発表されたい方はどうぞご自身のブログなどでお願い致します。)
さてADHDの自己突っ込みについて考える中で、物事をADHDは「事実」として、同じことをASは「行為」として捉えるのではないかと思いついた。
例えば「自分の発言の後でその場に居た人たちの多くの顔の表情が変わった」と認識したとする。それをADHDは「自分の何らかの不適切な発言が場の雰囲気を壊したということなんだろう」と想像する。ADHDの頭にあるのは「発言が不適切で雰囲気を壊した」という「誰が」「自分が」という主体と切り離された物的な「事実」の関係である。
同じことをASの人は必ず人称をつけて、「自分の発言に対して、周囲の人が、自分に対して、ある雰囲気で何かを伝えようとした」という風に受け取るように私には見える。主体が行う「行為」として捉えることが多い。誰が誰に対してということを抜きに出来ない。第一感は「行為」としてみるのではないだろうか?
私はASとADHDのすれ違いの多くがこういうところで起こっている可能性を想像する。ADHDは人称を省略したり、事実の関係を伝えようとするが、ASは「その言葉で相手から自分へのどのような気持ちの表現を伝えたいのか」と受け取るのですれ違いになる。逆にASの発言をADHDは人称を省いた事実の関係として受け取るので意味が伝わらない。
もっともジャイアンは「なんであんたにこんなことを言われないといけないか?」とむかつくことが多いのでいつものことながら自分に向けられた場合のみAS的な受け取り方をする。
いや、済みませんでした。
私はこう思うし、こういう感じなんだけれど、
その相互理解のための一つのパターンとして
何か役に立つ?って思って書き込んでみたんです。
これを書いたらもしかして何かASの思考パターンなどの
いろいろとヒントにでもなるかしら?と・・・。
それで誤解されたくないので一言だけ、私は対立する気もないし、それならそれで素直に引き下がります。
どうも余計でした。では。
>自分に向けられた場合のみAS的
そうなんですね。
私のこのイライラ、ムカつきはAS的...
私の中のASっぽいところなんでしょうね。
最近、ブログでのいろいろなコメントを読んで思ったことなのですが
例えば
ちょっと変わった車があったとして上手く走らせることができないと
ADHDは「自分の運転が下手だから」と思い(どんくさいから)
ASは「この車が悪い、他の人が乗っても自分と同じようになる」
という風になるのかなぁ...と。
>「自分の発言の後でその場に居た人たちの多くの顔の表情が変わった」
ことを
>ADHDは「発言が不適切で雰囲気を壊した」という「誰が」「自分が」という主体と切り離された物的な「事実」の関係
と認識し、
>ASの人は「自分の発言に対して、周囲の人が、自分に対して、ある雰囲気で何かを伝えようとした」
と認識する
というの、よく解ります.
では、多数派はどう認識するのでしょう?
上記以外の受け取り方が全然想定できないです.
なんだか今自分がとっても、発達障害だなぁと実感しますねぇ...
正解を聞いたら、なあぁんだぁああっ
って思うんでしょうけど...
ここの話は重要かなと思いますが、直観的に理解できませんでした。特にここが分からないです。
>逆にASの発言をADHDは人称を省いた事実の関係として受け取るので意味が伝わらない。
ASの人は、深読みをするということなのかな、と思いましたが、それ以上が分かりませんでした。よろしければ解説をお願いしたいと思います。(なぜか太字になってます。すいません。)
そう、そうなんです!!!いつもながらその冷静な分析というか、とにかく助かります。こちらのブログで実に沢山の気付きをいただいています。今後ともがんばってください。
ところで、私はおそらく合理的なADHD、旦那は受動的なASなのですが、どうしていつも絶対に主語は自分でしかないのかが不思議でした。まさにこのすれ違いです。そこをなんとか、AS側が「事実の認識」も考慮するということができないかどうかといつも思うのですが、歩み寄りの努力だけはやめないようにして欲しいものです。。
ASでも事実は認識します。(受動型のみかもしれませんが)
ADHDと違うところは、事実そのものでは納得することができなくて、必ず理由付けが必要なところだと思います。
理由付けをするためには、「誰が」「誰に」というのは重要なキーワードですから、絶対に無視できない情報でしょう。
もっとも、受動型ASの場合は、自分のこだわりと関係無いところでは、「事実なのだから、仕方ない」と割り切ることはできます。こだわりの範囲では一部の愛着対象に対してもできますね。
おそらく、積極奇異型ASの場合は、この割り切りができないのでしょう。何事にもすべて理由を求めてしまう、そんな感じがします。
こう考えてみると、ジャイアンと受動型ASは、自分に関係することはAS的で、自分に関係ない部分ではADHD的な状況となって似ているということかもしれません。
効力が真実を量る。肝心なのは実際的かそうでないか。医者も定型なら考え続けるか、類推するか。比して当事者はそれを内より見、直感は本質を貫く。
それにしても、「なぜASの事もそこまでわかるのですか!」と驚嘆を禁じえません。
そう、ADHD系の母は会話でさえ主語がない時があって、何を言っているのかさっぱりわからないのです。(指摘すると激高する。)なぜそう他人事のように?と思う。なるほど。
距離感の違いだろうか。それとも何事にも関連性の中に意味を求めるASが変なのか。それなくして事象の説明はつかないだろう?とAS的には思うのですが、ADHDにしてみれば、「そんなことはどうでもいい。重要なのはそこに何があって何がなかったか。」になるのか。
想像力が内に向かうか外に向かうかの、得意分野の差の片鱗がここにも垣間見えるだろうか。
ADHDは「自分の運転が下手だから」と思い(どんくさいから)
ASは「この車が悪い、他の人が乗っても自分と同じようになる」
あれ?逆じゃないですか?ジャイアンADHDの小生はとりあえずは絶対クルマのせいにしますが….(その後反省思い直し自己突っ込みはします)
>「自分の発言の後でその場に居た人たちの多くの顔の表情が変わった」
という事態が、多数派には普通ありえないことでしょう。
ASに囲まれた、とかだとありえますが、その時は、「自分はこの空気に従わないといけない」と思うだけでしょう。
多数派は、「自分は」という意識はほとんど持ってないように思います。「周りにあわせる」の方がずーっと重要なのではないでしょうか。
多数派から見ると、一つの出来事に対して、ASはこだわりすぎ、ADHDは考えすぎに見えるのでしょう。
また、ASからは何も考えていない馬鹿に、ADHDからは周囲にあわせて行動できるすごい人に見えるのでしょう。
ここは自己評価の下がりやすさにつながるポイントではないかと思います。
>ADHDの自己突っ込みについて考える中で、物事をADHDは「事実」として、同じことをASは「行為」として捉えるのではないかと思いついた
説明しにくい状況を、うまく説明してもらった感じです。
自分がその場で不利になるとわかっていても、それが事実ならば正直に認める・・、これは、合理的ADHD等だけでなく、多数派の方の中にも正義感の強い人は不利だとわかっていても、事実なら認めると思っております。ASの方でも、正義感や公平であるべきにこだわりのある方なら認めるのでは・・と個人的に思いました。(個人的には、正義感や公平な心という意識 対 自己正当化や自己愛との関係で捉えています)
自分のある「行為」にこだわりがあると、行為と人格、両方を責めたり指摘したりしていないのに、行為と人格、両方をこちらが責めたりしているように被害的に受け止められてしまう。また被害的に感じたり、怒りを感じることについては、記憶力が強いので過去のトラウマとリンクされてしまってるのでしょうか。。また全く同じ説明を、愛着の対象の方がしてくれると、驚くほどスムーズだったりします。
だからと言って、常に愛着の対象の方がその場にいて説明してくれるとは限らないので、私が説明しないといけない時があります。その為にもここで理解を広げるのに読ませて頂いています。
>あれ?逆じゃないですか?
逆じゃないみたいですよ。
だって正直
最近のASの方のコメントを読むとそう感じますよ。
「自分はちゃんとしているから絶対悪くない」って。
私だって読んでびっくりしています...そんなのありえないって。
私もジャイアンですが、こういう場合「自分の運転が下手だから」と凹みます。
(後からの反省、自己突っ込みも同じだと私は思います)
車が確実におかしい場合は修理...
「でも他の人ならこれくらい慣れて乗りこなすんだろうなぁ」というのがあります。
それにASは「自分の運転がどんくさい」とは思わないと思います。
(キチンとしているので自分流に極めてから乗りそうです)
YANBARU先生と皆様 ごめんなさい。
最近の私の書いた内容は、YANBARU先生の毎回のテーマからはずれたものがありました。
いろいろな方のテーマからはずれた意見にもつい反応してしまうところが私の悪いところです。
これからは自分の書く内容がテーマに沿っているのか気をつけます。
私から見えている景色というか
私の見える世界は、違う場合があって・・・
私から見たら確固としているわけです。
その景色を見た場合の反応が一番最初に
ごく自然に来るんです。
あってるあっていないはともかく
私の見えている世界は、反省の箇所が違います。
現場で正確な状況が分かっていればいいですけど。
ポンコツ頭をボカボカ叩きたくなることもあります。
解れば、反省もします。ただ申し訳ない、
私はいつもその場面が去った後日になってしまう。
だからといって努力を必要としないと言いたい訳でもなく、暗闇も慣れれば、進めるかと思います。
私、自分で注意しないと主語がなくなります。主人に指摘されて気付きました。
逆に仕事上、主語(人称)のないお客様との会話はとても疲れます。人の振り見て・・・ですね。
よく考えると、自分の主張したいことには確実に「私は」をつけて強調しています。
m2さんがいうように自分に関することにはAS的(こだわる)と思います。
先生の ASは「その言葉で相手から自分へのどのような気持ちの表現を伝えたいのか」と受け取るのですれ違いになる
のところ、今、分かりました。そういうことだったのかと。
私はWhiskyさんのメール友達について単純に、「話を聞いてもらって安心できる間柄はいいな、そんな友達なら自分は好きだな」を省略して「私的には好きな人」と伝えたら、Whiskyさんは「それは失礼だ」と。
私は事実の部分しか考えていませんでした。先生の説明をあてはめるとWhiskyさんの「失礼」の意味がなんとなく(はっきりわかればよいのですが)わかります。
AS 対ADHDだと会話するだけで混線ですね。
でも混線の理由が分かり安心しました。
度々すみません。
もう一度、先生の文章を読んだら理解できました。
私の言葉を「行為」として捉えたら確かに、「よく知りもしない人のことを簡単に好きだなどと言うな」ということですね。
ASとADHDは、「共通の事実」についての受け取り方にこれほど差があるということを改めて実感しました。
次男が小さい頃、なにかにつけて納得しない次男の気持ちを推し量って(次男は口が重いのです)、「〇〇はこういう気持ちなんだよね?」とか「こういうことだよね?」と私が確認した時に次男は「違う!」と言い、もっと反発していたのです。不思議でした、わけがわかりませんでした。きっとこういうことが先生の指摘する「すれ違い」だったのかと今日初めてわかりました。
過去の先生のテーマについてもじっくり読み返してみます。
事実と行為というお話を読んでいて思い当たることがありました。
ペアトレにおいて、自閉系の人とADHDで子どもにかける言葉の違いがあります。
赤ちゃんが泣いている。その赤ちゃんの声がうるさくてパニックを起す。その事実は自閉でもADHDでもあります。そのときのペアトレでの声がけの仕方はまるっきり違ってきます。ADHDには、「がまんできたね。えらかったね。すごい。」という声がけになるのに対し、自閉の子どもに「我慢できたね」という言葉は使えません。
ADHDがほめ言葉はその場を「すべてほめられた事実」としてうけとるのに対し、自閉系の子供たちは、「えらかったね」という言葉より、「我慢できた」という言葉で、自分が我慢させられたという行為と取るため、赤ちゃんの鳴き声は我慢するもの、私は我慢したくない、我慢させられるからすべての赤ちゃんは嫌いだと考えてしまうことがAPでもあるので、行為につながるほめ言葉を使ってはいけません。混乱してしまうのです。
ですから、自閉傾向がある場合は、赤ちゃんを世話させて赤ちゃんを嫌いにさせないことも大事になってきます。
以前習ったPTでの話です。
アールグレイさん はじめまして
自閉傾向が強い子の場合はどのような声かけが適切なのでしょうか?簡単に教えていただけたら嬉しいです。
YANBARU先生、こういうやり取りをするのは許可されますか?
もし望ましくない場合はこの文を削除してください。
自分の運転がどんくさいとは思いませんよ。と言うか、どんくさかったら運転しません。
上手く走らせられない車もとことん努力して走らせます。練習しても特製の把握をしてもダメで、打つ手がなくなったら「車がダメか…」あるいは「この車とは合わないか…」となります。自分は悪くない!
何だか、元妻と自分の事を書いているような感じがしてきた(^^;
あひるさんの指摘を読んで以来考え続けて来ましたが、どうしても「自分は悪くない」「自分は正しい」「自分はキチンとしている」と言う気持ち(考え)を抑えることが出来ません。人の評価は全く関係なく、自分にとっては「事実」なんです。(ビックリされるんだろうなぁ)
事実と行為ですか。
なるほど、受動型AS旦那とADHDである私の会話を思い出すと、心当たりがあります。
私はそこで何があったか。という事実を捉えてほしいのに、「誰がしたか」にこだわる旦那
「誰が」にこだわると彼の対象における気持ちで事実の捉え方が変わってくるので、話がややこしくなって混線する会話。事実を客観的に見る事を期待する自分にはすごくもどかしかったです。
積極奇異のASです。
こちらで、私の場合をお話しするべきか(嵐に巻き込まれるのが怖くて)
それとも、YANBARU先生へ直接お伝えするべきかを長く悩んでいました。
m2さん ありがとうございます。
とても的確に述べていただいています。
積極奇異も(私の場合ですが) まず 「事実を認識」します。
その後の説明は、m2さんのおっしゃる通りです。
自分のこだわりと関係ないところでも、割りきりが出来ません。
自分が存在している、全てのあらゆる場面で、ひっかかり、理由付けを行おうとします。
しかし、そんなことを続けていたら苦しくなるばかりなので、「事実なのだから、仕方がない」と割り切れるように大変な努力(非常にエネルギーを使います)をしています。
私が、この場で申し上げたかった事は、
marioさんのご発言をもって、「だからASは」とご理解いただいては立つ瀬がないからです。
(marioさん失礼をお許し下さい)
YANBARU先生のおっしゃる「人称」がAS故のキツイところなので、車を例えでの論議は成立しません。
したがって、「事実」を見て、「ドキッ!」とし、まずはともあれ、私が加害者であると思い込み「ごめんなさい」。
その後、すぐに「事実の確認作業(理由付け)」に入るというやり方が、ふぇありー流ASの物事の捉え方になるのですが。
AS以外の方には、それでも「自分は悪くない!」と主張しているように写るのかもしれませんが、ASも「自己突っ込み」はしています。
それが、「こだわり」に関してのみなのかが、今もなおはっきりしません。
ただ、ジャイアンのように四六時中「自己突っ込み」をしていない事は事実です。
そっか、やっと分かった。
ADHDが何か不満を言っている。
AS(私)が思う、「それ、俺のせいじゃないやん!」
ASは相手の発言を真剣に捉えて対処しようとするので、ややこしい事になるのか。「それは大変だったね」と表面的に同意、あるいは「ごめん」と取り合えず謝罪すれば、丸く収まる。ASは、何でそうなのか?それに対して自分は何をすれば良いのか?責任の所在は何処なのか?を考えて対応するので、「我慢するしかないね」とか「それ、自分の責任やん」とか言ってしまいそう…
つまり“関連付け”ですね。ASは物事を関連付ける傾向があるので、人称の抜けた発言はあらゆる意味で自分に関係付けるのですね。
さて、多数派はどうなのでしょう?発する情報から人称が抜けない、とするとそれはASと変わりない?受け取る情報は、人称を適切に補うのかな?それとも相手の表情なりを読みながら、適当に(いい加減に)対処するのかな?
やっと、ACの自己批判とADHDの自己突っ込みの違いがわかってきました。ADHDは何かおかしいというのは察知できる。それがすぐわかるときもあれば何日もひっかかっているときもある。そして、あるときピンとくる。
ADHDはいつも状況改善のための前向きな自己突っ込みをやっているのですね。その点で、ACの自己批判とは全然違うものだというのがわかりました。
また、いつも自分の変化と改善求めるADHDに対して
ASがなぜ変化しようとしないのかこの言葉でわかりました。
ASの人は必ず人称をつけて、「自分の発言に対して、周囲の人が、自分に対して、ある雰囲気で何かを伝えようとした」という風に受け取るように私には見える。
何かを伝えようとしたがそれが何かわからない。
だから自分としては対処仕様がない。
きちんと伝えないあなた方が率直でないので あなた方のほうが変わってください。ということなのでしょう。
たくさんの人とトラブルを起こしながら 変化しようとしないASの友達のことが少しづつですが理解できそうな気がしてきました。
ちなみに、その友達とは6年くらいのお付き合いですが、先日「あなたのことはよく知らない」と言われてしまいました^^それでも彼女が切れないわたしはジャイアンでしょうか・・・・・・?^^;
エイトさん、はじめまして。
>自閉傾向が強い子の場合はどのような声かけが適切なのでしょうか?簡単に教えていただけたら嬉しいです。
お返事遅くなりましたが、ご質問ですがこの場所でお話しするのは私のブログではないのでご遠慮させていただきます。ごめんなさい。
そして、私は、ADHDの子どものペアトレを学んでいるので、自閉ASについてはまだまだ不勉強なので簡単に説明できないということもご理解下さい。
こちらのサイトでASについて教えていただいているところです。
ADDの子どもですが、理解の仕方にAS的なところがありとても参考になっています。
アールグレイさん お返事ありがとうございます。
偶然ですね!私の次男も医師からADDと診断済みですが、教育カウンセラーの先生はASでは?と。
私もこのブログで勉強中です。
みなさんのコメントとYANBARU先生の記事を改めてよんで、
ぼんやりと輪郭が見えてきました。
事実+納得感ですか・・
納得感は自分的な理由付けだから
仮説とか、事実でなくても一応理屈を付けないと収まりが
悪いということですよね。
そして、ASの人の発言は、事実を話している訳ではなくて
「誰々に何々を伝えたい」という含みを持った発言ということですね。
あーーなんか、すごくめんどくさいですね。。
でもジャイアンも自分に関してはそうだということですよね。
確かに、「わたしは悪くない!!」と私も言ったことありますねー。
思考がまとまらずふわふわ雲に乗って
飛んでいってしまいそうな状態でこれ以上考えられません。
私がここに参加している理由は、
「自分の結婚生活が始まったのも終わったのも必然で、
うっかりしてたとか努力不足とかじゃなくて、
脳の構造的にどうしようもなかったんだ」
というはっきりとした裏づけがほしかったんだなーと、
気付きました。
そして、やっぱりASの人と結婚生活を営むのは私には役不足だという
結論に達しました。
合理的ADHDなら可能かもしれないけど、少なくとも私には
無理ですね。
じゃあ、自分がジャイアンから合理的ADHDになればいいじゃないかという
話ですが、
ジャイアンを脱するにはイネイブラー的な人がいないところじゃないと
いけないんじゃないかと自分的に思ってるので、
元夫とは無理ですねー。
>思考がまとまらずふわふわ雲に乗って
>飛んでいってしまいそうな状態でこれ以上考えられません。
ジャイアンの人が自分を例えるとこういう感じになるのですね。
私から見ると、ジャイアンは行動力がありすぎる障害に見えるのです。みなさん、きっと人並み外れた行動力をお持ちですよね。
思考をまとめる時間に耐えられず、先に行動してしまう。
頭の中を整理するより先に口や手足が出てしまう。
ここで言えば、コメントを書き始めてしまう。
>やっぱりASの人と結婚生活を営むのは私には役不足だという結論に達しました。
さみしいですね。
私は、ジャイアン女性しか愛せません(ADHDなら妥協は可能ですが)。
ある程度までは、本当にうまく行くのですが、どこかで上記のような雰囲気を出して去ってしまいます。
あの行動力と、気持ちを読むことの難解さ(言葉と行動があまりにも違っている)がたまらない魅力だと思ってます。
また、行動力が致命的に欠ける受動型ASにとっては、ジャイアンのバイタリティがパートナーに必要なのです。
普通の結婚生活なんか全然望んでいないのですけど、それがいけないんでしょうかね。
思考がまとまらずふわふわ雲にのっていくこと、私もよくあります。考えても答えが出ず、脳ミソが悲鳴をあげる前にふわふわと。
辛いときは、とんでもなく飛躍した夢物語なんかを妄想して自分で自分を癒します。
私は主人に「タラレバ女」と呼ばれます。主人に言わせるといつも現実離れしたこと、こうだっタラいいのにな、ああすレバよかったのに と口走っているらしいです。
現実に引き戻されて、考えるのに疲れると今度はとりあえず行動します。だから「行動力がある」のではなくて「行動するしか方法が見つからない」が本音です、私の場合ですが。
私の「タラレバ」と「実際の行動」は確かにかなりかけ離れていますから。ジャイアンのこんなところがASの方に好かれるなんて驚きです。
主人の そんな夢みたいなこと言ってないで、毎日コツコツ生きろ の言葉が良くも悪くも私の行動をセーブしている
のかもしれません。
先生のテーマからズレました、すみません。
こういう記事分かりやすいです。ADHDのほうですね・・・。
え、誰が?私がですよ。と、主語が無いことも指摘されます。
ジャイアンの人は分かりにくいのかもしれない・・・。
しかし受動型ASの人は空気壊す発言はしないでしょう。