ADHD関連

引きこもりの理論 – 現実的想像力の不足

 前述の「言語性IQ >> 動作性IQ」 のケース(言語性優位型と呼ぶことにしよう)に見られる認知と思考・行動の一つの大きな特徴は、「現実的想像力の不足」である。

 例えば将棋などのゲームでは、「自分の指した手と次に相手が指すであろう手、その次に相手は・・・等」と対局の流れを「読む」ということをする。(実は私は相手の手の意図が読めないので単純な駒取りを見逃して飛車を取られたりしてよく負けるのだが)。

 これと同様に、対人関係や社会組織の動きなどにも「自分がこう行動すれば相手はこう」というこれからありうるであろう経過を想像することが行われる。

 上記の「現実の成り行きがこうなるだろう」ということをいろいろ想像する能力を「現実的想像力」と呼ぶことにすると、言語性優位型の人はこれが特に苦手になっていることが多いのだ。

 例えば「先延ばし」の場合でも、「遅れてしまったではあるが、それなりに現実的に解決する」という選択肢の想像が出来ないことで、事態はさらに悪化する。

 逆に言えば、「今日やるならば何で昨日やらなかったか?」というような厳しい自己突っ込みのため、「問題を丸ごと考えること自体を先延ばしにしてしまう」というパターンを繰り返して居るうちに、現実的な「次善の解決」を考えること自体しなくなるという解釈も成り立つだろう。

 行き着く先は、言語性の高い能力を駆使して、「***だから現実に行動しなくてよい」「***だから現実に行動する意味が無い」という立派な理論を構築することになる。現実からのフィードバックの非常に乏しい「引きこもりの理論」の完成である。実にさまざまな理屈がこの引きこもりの正当化に利用されるのは驚きだ。

 ジャイアンは本来、対人関係では直感的には重症のKY(空気が読めない)であるが、何故か自分に有利不利になることだけは感じ取れる。(これを私は「状況理解の非対称性」と呼んでいる)。周囲をよく観察して、このジャイアン独特の感覚をうまく使えば、少なくとも想像の中では将棋の「読み」のような計算が可能だ。

 (私はもっぱらそれを使って仕事をしている)。私自身は成人してから自転車での風来坊生活や海外の一人旅の中で無理矢理に現実の中での体験を積むことを通してこの能力を現実的想像に結びつけることが出来るようになったと思うが、やはり「現実に努力したらうまく行った」という体験が必要だろう。

 逆に言えば、小さい頃に自分で努力して目標を達成して評価され、誉められる体験を積み、「努力家」のスタイルをインストールしておくことがジャイアンにとっては特に重要なのだ。


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コメント

    • むーん
    • 2008年 11月 15日

    >逆に言えば、小さい頃に自分で努力して目標を達成して評価され、誉められる体験を積み、「努力家」のスタイルをインストールしておくことがジャイアンにとっては特に重要なのだ。
    確かに、自分は「勉強」ではこれ激しくやってましたが、「家事」に関しては全くやってませんでしたね・・・(と、いうか、ジャイアン母が「家事は大きくなってから、本で読んで覚えればいいこと」と言って、全く強制しませんでした。)
    従って!現在、毎日普通に料理の手伝いをして、洗濯して掃除して作業所行って、普通に世間話して働いて。それだけでもう爆発しそうです。(多数派ヘルパーさんは、よく褒めてくれてますが。)
    PS;やはり精神疾患及びメジャーの影響もあるのか?と、リアル主治医と専門医は言いますが。何はともあれ、私はすぐ怠けてしまうので。ありがたいことです・・・AS援助職がいた頃は、AS被影響症候群でそれどこではありませんでしたが。そういえば、彼にも「分からん事は分からないと言え」と散々言われたな。

    • ぴよよ
    • 2008年 11月 15日

    この「現実的想像力」、私もとても低いです。
    将棋はもちろん、学童時代のバスケット、バレー、ピンポン、バトミントン、果ては鬼ごっこも隠れんぼもゲーム性のあることは全部苦手です。ストレスです。
    だから、多くの子に何時間もお絵かきする欲求の無い小さな幼児時代も遊びに困り、フィードバックに不足しましたし、学童時代になっても何時間も読書する相手も見つからず、私のほうが相手してくれる人に合わせるしかなくて、思春期になっても“つるむ”という名の共依存をしてくれる相手は見つからず、携帯もパソコンも無い時代、相手をしてくれる友達に会えるときだけそこそこに合わせて、フィードバックの無い、私の必要が見える鏡も無いまま、ときには私が鏡役を求められてこなせなくて捨てられて、私は大人になりました。
    そして、大人になっても分かりませんでした。
    「自分がこう行動すれば相手はこう」動くだろうと、正しく予測することは全然できませんでした。
    頭にあるのは理想だけでした。
    自分の理想を叶えるためには私が私に関わる人の理想を叶えて、欠かせない人にならなければならないという、果てしなく共依存色一色な理想でした。
    多くの当事者が共依存に陥る原因は何かと、発達障害を知った後の私は、黙々と考えた時期がありました。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2008年 11月 15日

    続きます。
    難易度として、共依存は分かりやすいのだと思いました。
    一部の海外テレビドラマは極端な例ですが、展開が非常に分かりやすい、把握しやすいのだと思います。
    理解力の範疇に収まる展開を、自分の苦労が報われたとか運が回ってきたとか、感情的なご褒美として解釈するのは、発達障害を解らなければ無理もないことだと思います。
    単に、現実と言語が一直線に結びつき易く、一連のエピソードが簡単な系列図で把握できて、その状況を作り出した人も単純で未熟で浅はかなだけで、決して当事者自身の愛のためでも苦労に報いたわけでも何でも無いのにです。
    そして、頭で考えてばかりいたら、私が世の中に必要とされない理由や、私と関わる人の理想に答えられない現実や揉めそうな将来像ばかりが組み立てられるのです。
    人間関係を作れない者の中でも、技術や才能のある人は放置されても逃げ込める場所、受け入れられる場所を見つけられますね。
    私も社会に出たての頃、そういう受け入れられそうな場所を探さないのかと、やんわりやっかい払いを言われたことがあります。身動きできませんでした。
    いいですね。身動きできる人は。
    しかしそれでン億円の借金作るまでも無かったのではないかと思わされる例も世の中あります。もったいない。

    • むーん
    • 2008年 11月 15日


    申し訳ない、ぴよよさん・・・
    「共依存」ってそんなに分かりやすいですか?(ジャイアン母と共依存していた私が言うのも何ですが・・・)
    私は、「共依存」当時、ジャイアン母やAS援助職の心理が読めなくて、イジワルされてエラい苦労しましたが・・・(身体症状もありました。)
    「引きこもり」当時以前から、いや幼児期から「現実的想像力」が非常に低かったのは同じですが、お絵かき読書(とか映画鑑賞とか音楽鑑賞とか)に、相手が要るものでしょうか?(逆に言うと、私は其れほどまでに「引きこもり」に陥りやすいタイプなのですが。)
    すいません、失礼は承知でちょっとお聞きしてみたかったので。

    • あまがえる
    • 2008年 11月 15日

    現実社会の先を読むということがとっても苦手です。
    また話の仕方でママゴトの様に暗黙の台詞が存在している会話は大嫌いで全く受け付けません。とてもイライラしてしまいます。
    小さい頃から褒めて伸ばすというのが良いのですね。これは僕はできそうだと思います。

    • kei_
    • 2008年 11月 16日

    私の場合は、とかくゲーム性のあるものが好きでした。
    お正月に家族でやる恒例の花札大会や麻雀をする私の姿を見て母親は、バクチの道に入るのでは?!と心配していました。
    私は単に自分の「カン(直感)」が当たるのが楽しかったのと、すぐに結果が出る(見える)のが好きだっただけなのかも・・。
    スポーツが好きだったのも、体を動かすのはもちろん、勝ち負けがはっきりしているところ(白黒思考)が好きだったからかもしれません。
    人間関係・社会組織の動きを読む・・・現実的想像力の欠如も否めません。
    その為、先読みするクセがついたのか、と思います。
    先延ばしに関しても同様で、「~する意味が無い」という結論に達したことを、やろうとすると身体症状が出ます。
    それでもやらなければならない時は、「意味」はないかもしれないけれど、「価値」はあるかもよ、、と思うようにしてみているところです。
    有利・不利、損・得の感情に結びつけ易くなるのかも・・。
    これをして、幾分今まで先送りしてきた事柄に手を付け出してきましたが、これを「対人」で使ってしまうと、ただでさえ「相手」を観ていない接しクセが、ますます悪化しそうな気もしています。
    「努力」がいつの間にか「~ねばならない」に変わっていくような感覚があります。
    むしろ、「弾みで」とか「思い付きで」のほうがうまくいって、「意志」の力で事に挑むと余計なプレッシャーが掛かるのかアウトのパターンが多いです。
    ただ、その「弾み」が付く様なことが年から年中あるわけではないので・・。
    (意図的になにかするとしたなら、この「弾み」をつける何かをみつけることかも?!笑)
    書きながら、それじぁ、肉体的に相当体力が必要!!と感じました。だって常に刺激し続けているってことですものね・・・。
    自身の肉体破綻はこれだったのかも・・・??です。

    • くらら
    • 2008年 11月 16日

    Keiさんと同じです
    ゲーム大好きです
    白黒はっきりするから
    テレビゲームなら攻略本があり、どのゲームでも勝つ為の法則をある程度しればかてるから
    ところが世の中はそんなに簡単じゃない
    そもそもピアノにも答えがない
    ので、卒業後しばらくピアノを選んで良かったのか悩みました
    今はストライクゾーンの広い音楽が大好きですけど。
    こうすればこうなる
    と、実社会の読みは下手ですね
    言い訳とか
    下手
    といわれます(((^^;)
    あー損してる

    • ヒゲ達磨
    • 2008年 11月 16日

    >前述の「言語性IQ >> 動作性IQ」 のケース(言語性優位型と呼ぶことにしよう)に見られる認知と思考・行動の一つの大きな特徴は、「現実的想像力の不足」である。
     上記の「現実の成り行きがこうなるだろう」ということをいろいろ想像する能力を「現実的想像力」と呼ぶことにすると、言語性優位型の人はこれが特に苦手になっていることが多いのだ。
    AS的には、なぜを考えてみたくなります。
    動作性IQは、新しい状況に適応する流動性知能に関連が深いと言われている。下位検査項目では、「部分間の関係を予測する力、思考の柔軟性」「結果を予測する力、時間的順序の認識」などを調べる項目がある。
    これらの能力が相対的に低いから、ありうるであろう経過や結果を想像する能力が相対的に弱い。その上、予め予想・想定していた姿と現実は食い違う。本人にとっては「新しい状況」=現実に適応する知能が弱い。それは例えばスケジュールが突然変更されるとパニックになるという形でも現われる。動作性IQの相対的低さ、劣位が「現実的想像力の不足」に現象している。
    私は、これらの下位検査項目だけは、動作性IQの中で高い。だから自宅と店を365日往復するという準”引き籠もり”で凌げるのだろう。スケジュールが突然変更されるとパニックになる事はあるが、
    (続く)

    • むーん
    • 2008年 11月 16日

    ・・・ジャイアンの空気の読み方は、時として相手に「失礼」である・・・
    これ、ジャイアン同士でも感じるところです。申し訳ないぴよよさん、mario(AS)さん。
    何つうか、勝手に相手の深層心理を推し量って、精神的ちゃぶ台ひっくり返すが如く、ASをパニくらせる所があると、自分でも思う。・・・これは、社会的にはやっぱりKYと言われる所以なんでしょうね。ここに改めてお詫びします。

    • ぴよよ
    • 2008年 11月 17日

    むーんさん、こんばんは。
    >「共依存」ってそんなに分かりやすいですか?
    >私は、「共依存」当時、ジャイアン母やAS援助職の心理が読めなくて、イジワルされてエラい苦労しましたが・・・
    私の解釈では、黙ってフェイドアウトしたり私を無視していなくなる人、距離を置く人が分かりづらいです。
    もしかするとむーんさんならうっすらお気づきくださるかもしれませんが、私の分かりやすさとは、自分が助かること、説明されて楽になることばかりに焦点を置いていません。
    陰に隠れて“悪いお代官様”のように裏工作をやる人よりは、面と向かって机を離して「学校くんじゃねえ!ばい菌!」(実体験。)と正々堂々、浅はかにいじめるような人のほうが目に見えて分かりやすいのです。
    母は聞き上手の才能があるので、我が家の子ども達それぞれの、学校の同級生のお家事情を母親仲間からいつの間にか集めていました。
    多動だったあるいじめっ子は、多動ゆえ?彼の母親に体罰をされていて、でも高校に進学しても収まらなかったそうです。そして、二輪車で事故を起こし帰らぬ人となりました。
    そういう話は、いじめっ子の分析にいつのまにか役立っていました。私にばい菌があるのではなく、他でストレスを溜めるから、私が八つ当たりをされるのだと、年月を経るごとになんとなく分かっていきました。
    他にも親子、恋人なら、相手が優越感を感じたいから、居心地良くなりたいから、都合を叶えて欲しいから当事者をスケープゴートにする、などの相手の“必要”と卑怯さが、とても見えやすいと思います。
    しかし分かればいいというものでも無いですね。
    当時の子どもの私の結論は『だったら八つ当たりに選ばれなくなるような誰から見ても完璧ないい子に・・・』という、子どもならではの浅はかな発想にしか繋がりませんでした。
    全然磨かれていませんね。現実的想像力は。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2008年 11月 17日

    続きます。
    >お絵かき読書(とか映画鑑賞とか音楽鑑賞とか)に、相手が要るものでしょうか?
    30年前の記憶ですが、幼稚園から始まる集団教育は、人と繋がったり馴れ合うことを強制されます。
    教室の中でみんながしていることは、私もしないと恐怖でした。給食時間の机寄せ合い、実験の班決め、その都度流動的に人と繋がるのは至難の業でした。
    さらに地方の子達は稼業繋がりなどで繋がりが強く、彼らも流動的なチーム作りを憎みました。仲良しで集まることに競うようにこだわり、それが彼女らにとって気持ち良く酔える自己表現だったのかもしれません。
    私は、この試練がいちいち面倒くさかったです。
    そんな私を哀れんで「はい、あなたの居場所はここよ。動いたら駄目よ。」と黙っててもお世話を焼いてくれる友達がいれば、私は先生に「なんで自分から行動しないんだ。」と怒られなくて済むし、親に「この子は引っ込み思案です!」と嫌な評価が伝わることも無くなる、と丸投げを夢見ていました。
    子どもの頃の私の妄想は、何だかジャイアン特性で説明つくものが多いですね・・・。
    ともかく、読書で夢見て脳を休ませる自分の欲求も、学校で丸投げできてコーチも受けられて何も恐くないと思わせてくれるような友達の捕獲も、両方叶えたかったのです。
    パニックやトラウマになりそうな事態はどうやって予防するか、を子どもの頭で妄想していました。予防したら、後は楽ですから。
    それは、人の“必要”や理想に応える貴重な子になることで、ご褒美として与えられるルートしか、思いつきませんでした。
    自分から自己主張して、命令して友達を作ることは、図々しい行いだからです。理想的な子がやることではない。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2008年 11月 17日

    続きます。皆さん、すみません!
    >ここに改めてお詫びします。
    私は、私に始めの質問をくださったコメントを読ませてもらったとき、失礼ながら「お返事を書いたら探求心が満たされて、はいおしまいかな。」と想像していました。
    でもすごい謙遜してくださってる。
    いえいえ、私も謝っても謝りきれない相手を沢山持っている身ですよ。そのお気持ちがすごいことです。
    それができるだけでも、元彼さんを越えましたよ。
    むーんさんのお話しから察するだけですけど、たぶんその元彼さんなら、損得の計算無しにADHDに頭を下げることは思いつかなそうです。おそらく知的にとても高いからでしょう。人に頭を下げなくても、知的な高さで提供できるもので、失礼はいくらでも帳消しにできると思っている天狗のタイプかもしれません。
    仮に私がそのかたのクライアントになったとしても、たぶん、面倒な波風立てないように距離を置いて、面談を止めていくだろう気がします。きっとむーんさんとは違う観点で、違和感を感じるかもしれませんね。
    ASもね、怒りますよ。
    人に迷惑かけますよ。
    ADHDから見たら、素直さが無くて可愛げの無い怒り方だと思います。
    怒る相手も計算して決めてしまいますからね・・・。
    誰相手に怒ったら、一番効率よくコーチして場も私も納めてくれるかを探すのです。
    現実的想像力が無いゆえの自己防御です。
    ずるく見えるでしょ?
    ずるいんです。
    そしてずるいながらも、多数派の都合に振り回されてきた結果、私の身近には怒れるほど近い人はいなくなりました。
    元彼さんと私の成れの果てが逆だったらいいのにと思いますか?
    私は残念ながら今のほうがいいです。
    結婚したらこのブログが見つけられなくなります。

    • むーん
    • 2008年 11月 17日

    ・・・何と言うか、胸の痛くなるお話で・・・(実感としては、「人が必要なかったジャイアン」であった私には、「友人が欲しかった」言う気持ちは、「否認」していたのか、はたまたもともとあまり無かったのか、よく分かりませんが。)
    (ただし、今、それなりに理解者に恵まれている方だとは言われます。)
    ・・・元彼の行く末ですが。
    彼は案外、馬鹿ではなかったらしく。(今、思うと受動型ASのACが途中でいじめっ子に変身したタイプだと思われますが。)・・・私の後に、多数派ACに乗り換えました・・・(結婚したかどうかは知りません。)が、「自分のある女性がいい」と・・・
    多数派AC(がかってる?)女性に、自分があるかどうかよく分かりませんが、途中で発達障害同士の「共依存」がヤになったらしいですね。・・・最後は私との関係は泥沼化していたので。・・・多数派ACさんは、私よりかはマイペースが彼に対して貫けるようでした。ま、私も多数派ヘルパーさんを、この年になって親代わりにする方を選んでしまったので。
    先々を考えると苦しいですけどね。やっぱり「居場所」は誰しも必要だとは思います。

    • 2008年 11月 17日

    私、自分のしたい事好きな事にはのめりこむタイプだとは思います。でも、それは、決して努力しようと思ってしているのではありません。私がしたいからしているに過ぎません。
    そういえば、私は小さい頃から、先生や親から努力家だと言われていました。
    でも、努力と言う事がどういうことかわかりません・・・私ってホントは、努力家ではないので。
    その頃は、母の言うがままにピアノの練習をさせられていました。それで、レッスンの時に先生に丸をもらって・・・
    きっと、母や先生は、その事で「私が努力している」と言っていたのかもしれません。でも、今になって思うのはそれは私の努力ではなく、母の努力だったと思うのです。
    その後普通の高校に入り、全然音楽とは別の部活に入りました。
    とても楽しくて、将来その道に行きたいと親に言いました。でも、両親揃って大反対。結局、私は諦めて、高校からそのまま付属の短大の家政科へ親に行けと言われ行きました。
    高校3年間はピアノは全然弾いてませんでしたが、家政科の進学が決まった頃から、やはり私には音楽しか出来ないと思い込み(思い込まされ?)、短大に通いながら、せっせとピアノやら電子オルガン等、勉強しだし、卒業後、ある音楽教室の講師として今に至ってます。
    ・・・で、今最近になって、やっと自分でも音楽が楽しいと心から思えるようになりつつあります。
    全く、私とピアノの関係って、どこまでが母の思いで、どこからが自分自身の意思なのか・・・
    私にはやんばる先生のおっしゃる、「現実的想像力」欠如のため、人任せであり、自分で考えながら行動する事が出来ないのだと思います。
    「ACだから現実に行動しなくてよい」「どうせ親の意思だから現実に行動する意味が無い」等と言い訳しながら生きてくよりは、自分で作った道を歩いていきたいと思い始めたところですが、とっても難しいです。

    • ぴよよ
    • 2008年 11月 18日

    5つめのコメント、すみません。
    むーんさん、失礼な鴨が、まだネギを刻んでいます。w
    >彼は案外、馬鹿ではなかったらしく。
    私を棚に上げますが、大馬鹿男なのではないでしょうか。
    私のささやかな記憶力で、むーんさんの文を思い起こす限りだと、元彼さんのやっていることは発達障害の欲求とオスの本能の言うがままに暴走しているだけに見えますよ。
    昔の子ASの私が理想の“友達コーチ”を探していたのと根っこは同じに思えます。
    昔の私には尋ねようもありませんが、“友達コーチ”はきっと取り替え可能ですよ。
    あの多数派子達のように、友情の共依存に酔いたかったんだと思います。人と同じにしたくて、それこそベロンベロンに酔っぱらってみたかったのです。
    妄想が仮に叶ったとしても、きっと一人ではすみませんよ。
    だって私の役に立たなければいけないわけですから。
    元彼さんは、ASらしく理想とこだわりを全部叶えるまで、まるでグルメを食べ歩くようにむーんさん達を味見して回り、付き従う側と従わせる側を両方味わって知的好奇心を満たして、楽しく実験しているようではないですか。
    大人げない嫉妬のようですが、私のような小市民凡人ASには許されない贅沢ですよ。ぜいたく。
    私に置き換えるとすると、男性を積極奇異AS、ジャイアンADHD、多数派ACに乗り換えながら付き合うわけですか?
    なんて恐ろしい!(該当のかた失礼しました。)
    最後私が独りぼっちになったとき、借金負わされてないかしら、何人の身内を裏切ってるかしら、記憶再燃で職場で何回ミスするかしら、薬何錠飲んでるかしら? 恐ろしい末路しか浮かびませんよ。
    元彼さんは教育はしてくれたかもしれませんよ。確かに立ち直りの師匠かもしれませんよ。
    でも天才の大馬鹿男かもしれませんよ。
    しかも仕事を失っています。むーんさんや私のような、努力あっての不注意ミスではない、限りなく故意の理由です。
    そんなASが挫折もせずに、愛着対象を探し続けることを、私は正常とは思いません。賢いとも思えません。
    >多数派ヘルパーさんを・・・・
    依存ではなく、立派に“利用”していれば、ご自分を元彼さんと同列に考えることは無いと思います。
    元彼さんも“利用”したんだと、いつかは意識に再インストールできるといいですね・・・。

    • パパイヤ
    • 2008年 11月 18日

    YANBARU先生みたいに海外放浪一人旅や自転車風来坊みたいなことをしてやっと、ゲームでの想像力が現実的な想像力に落としこめるんですねえ。私は、普通の生活上で破天荒というか波乱万丈というか、多数派の常識人がプラスマイナス100位の範囲で収めてることをプラマイ10000位行ってる感じです。多数派の常識人からは引かれてしまいます。「転ばぬ先の杖をおせっかいでするんじゃなく、転んでもほうっておいてほしい(転んでも全然リカバリーできる自信あるんだから)」と思いますが、多数派やASの人からはあぶなっかしくて、見てられないんでしょうね。
    でもなんやかんやあったからこそ、これ以上はあぶない、大丈夫、ということが身をもって分かるようになったのかなあ(そしてそれらはジャイアン・ASの親・配偶者から離れて自立して、文句言われても無視、の状態で行う必要がある)とこの記事を読んで思いました。
    過去のいろいろも成長のためにはしょうがなかったのかな、と後悔のたねが成仏できた感じです。

    • むーん
    • 2008年 11月 19日

    ぴよよさん
    全くの私信になりますが。
    貴女は聡明な女性だ・・・私と違って、経済的にも自立しているし、状況を見抜く力もある!
    ここはぴよよさんへのはなむけの言葉になりますが。是非とも、リアルで、貴女を大切にしてくれるパートナーを見つけて、そして「自尊心」を取り戻して欲しいです!ここの主旨からはズレますが、あまり頭で堅苦しく考えず、本能でもって。・・・そうすれば、また道も他に拓けて来るかと。バーチャルは所詮バーチャルですから。

    • kei_
    • 2008年 11月 20日

    私もやんばる先生のように、放浪一人旅他をしないと、この現実の世界では、「落とし込み」が出来ない類の人間だったのかも、と思います。
    将来なりたい職業に、ジャーナリストになって世界を駆け巡りたい・・とか小学校の文集に書いてたかもなので。
    実はその頃からすでに窮屈感を感じていたのかもしれませんね。
    ただ、どうしても自分の感覚の中では、いいことも悪いことも過剰に反応してしまう性質が、この生き方を善しとしなかったようにも思えます。
    人生を変えるような出来事ならともかく、日常の細々したことで感じたストレス(違和感)ですら身体症状として現れるわけで・・。
    よく多数派さんは「場数を踏めば」とか「免疫がつけば」とか言うけれど、それも確かに・・とは思うものの、ある意味で「脳」は記憶しているけれど、「自分」は覚えていない!!っていうか(忘却の彼方状態)、
    一種、条件反射的になってしまってる??ような、というか。
    だとすると、うまく「利用して」(得意なジャンルか?!笑)、プラス方向の条件反射をインストールできるといいのだけれど・・。
    >常識人がプラスマイナス100位の範囲で収めてることをプラマイ10000位行ってる感じです。
    ・・・自分もそんな感じがすることが多いんですよね。。
    この「幅」がどうもあり過ぎて自分も相手も困惑~!みたいな。
    自然に任せた生き方をするなら、「波乱万丈」は避けて通れないってことなんでしょうね。
    そんな生き方をしてしまったら、とっくの昔に自然淘汰されてたんじゃないか?!っていう気持ちもしないでもないですが、
    人間って、そんなに弱くもないのかも・・・と最近は思えたりもしています。

    • いずみん
    • 2008年 11月 21日

    自分は、言語性IQ >> 動作性IQがかなり極端でした。
    手先も不器用なので、ゲームもパズルなどはできますが、アクションゲームなどはいまだにだめです。
    周りの人に「とても頭がいいのに、普通の人がしない失敗をよくしている」と言われたことが何度かあります。
    「頭がいい」というのは、つまりは言語性IQのことなのでしょう。口が達者で、理屈を言うことでは人に負けない、でも行動に移すことはできない。理由を付けて先延ばしにして、みっともない結果しか出せない。
    このような人間は、世の「たたきあげ系」の人からすると許せない存在として映るようです。
    実は、最初の仕事が「口だけ商売」の典型のような、コンサルティング業でした。そこで、たたきあげ系の人たちとさんざんやりあって、いちど事業会社でもまれるべきだと思って転職し、現在に至ります。
    もちろん転職した先では、言行不一致のために周りに責められ、自分でも激しい自己突込みをしてあげくひどい身体症状が出たりしましたが、その過程で、やはり地道な努力とその結果こそが人を動かせると身をもって知る(これをインストールというのでしょうね)一方、自分のやたら高い(らしい)言語性IQは、それはそれで人より優れているのだから、うまく生かすべきものとして大事にしよう、と思うようになりました。
    それでも今もよく「理屈を付けて先延ばし」の誘惑に負けてますが…これは一生続く戦いなのでしょう、敵は自分の脳ですものね。

    • むーん
    • 2008年 11月 25日

    >逆に言えば、「今日やるならば何で昨日やらなかったか?」というような厳しい自己突っ込みのため、「問題を丸ごと考えること自体を先延ばしにしてしまう」というパターンを繰り返して居るうちに、現実的な「次善の解決」を考えること自体しなくなるという解釈も成り立つだろう。
    ・・・ここでは、「天然」キャラを通していましたので、(それに所詮引きこもりだし!?)あまり書きたくありませんでしたが、上記のような形でかどうかよく分かりませんが、「引きこもり」ってものすごい自己突っ込みあります。
    「何で生まれて来たのか」とか、「何で生きているのか」とか、「何で20年前に出来た事を10年前にやらなかったか」とか。非現実的なまでの泣きたくなるよな自己突っ込みあります。
    だけど、それ人前で言っても仕方ない。親に甘えて、人に恨まれて、何もしてなかったのは事実なんだから。(だし、笑われるだけだし。そういう自己突っ込み自体おかしいし、だったら「働け」って責められるだけだしするし)
    でも、親に「希望」がないって辛いんです。「この子は将来、施設にでも入れればなんとかなるだろう、あるいはひょっとしたら自殺してくれるかも知れない」と思われてるのは。・・・攻撃されるのを承知で書きました。

    • 2008年 11月 25日

    むーんさん、辛いです。私は攻撃なんか出来ません。
    私もこんなこと書きたくありませんが・・・
    私がもしも、例えばの話ですが、夫を殺したりしたら、
    それで始めて親は真剣に私の事考えてくれるようになるのではないか・・・
    等と考えてました。
    ですから、実際に殺人事件を起こした犯人の気持ちが判った気になるときがあります。恐ろしい事ですが。
    でも、今になって思うのは、私がそんな事をしたからとて、わかってくれるような親ではないと言う事。そんなことしたら、ますます、ウチの親は図に乗って「かわいそうな親」を演じる事になるのだなと・・・
    この年になってこんなことを考えるなんて、なんて幼稚な人間だろう、と思います。
    むーんさんと私とでは立場も又親のタイプも違うとは思いますが・・・
    ここでは、自分の気持ちを偽ることなく何でも言えます。
    書く事によって、たまねぎの薄皮を剥いでいくように、本当の私を取り戻せていけるような気がします。
    やんばる先生に感謝です。

    • むーん
    • 2008年 11月 27日

    ・・・な・・・泣いていても仕方がない、家の経済力がヤバくなっている今、何か自分に出来る事を見つけねば!!
    ケーキ作り、料理はイマイチ向いてないみたいだし、(しかし作業所は今の所絶対必要・・・人に慣れるために!)自転車放浪するには体力が衰えてるし。
    多数派ヘルパーさんは、「自分一人で打ち込める仕事が向いてるのでは」と最近言います。・・・しかし全然、現実的想像力なしに文筆業やると言うのもか~な~り無理がある。
    接客は向いてないから、「勝ち組奥さん」は当然X!
    ・・・明日、またリアル専門医の診察受けます。・・・発達障害支援センターは、検査の結果待ちで相談受付してくれるそうです。

    • pal
    • 2008年 12月 08日

    幼少時に努力家のスタイルをインストールさせるのはどうしたらいいのかわかりません。
    簡単に人の言うことをきかない場合はどうしたらよいのでしょう。
    ・面倒だと思えば言語性能力を駆使していいわけばかりいうでしょう。
    しつこくやらせれば逆切れするでしょう。
    ・それでも取敢えず生きていくために最小限の勉強だけはさせようと無理にやらせればACとなり、
    鬱になったのは親のせいと逆恨みするでしょう。
    ・けなさずほめてあげなければいけないとほめれば、増長して勘違いし、ますますえらそうに、無責任になるでしょう。
    ・分かっていてもどうしてもできなくて、鬱になるかも。
    ・自分と向き合えといっても、幼いうちは自分が他と違うという話をするだけで嫌な気分になり、
    鬱になり、こんないやな思いをするのは親のせいだと思い、全ての嫌な出来事を親の策略と脳内変換するでしょう。
    唯一努力する可能性があると思われるのは、その子供に何か特別な能力があり、
    努力すればその道で成功する可能性があるというニンジンが目前にあるときだけで、
    そういうときは驚くべき過集中で努力すると思うのですが。
    努力家のスタイルをインストールするには、本当にどうしたらいいのでしょう。。。
    大人になり自分に向き合えるようになるまで事実上無理なのでしょうか。
    無理だとしたら、取敢えず大人になるまでは、せめて自己肯定感が低くならないよう放任して、まわりに迷惑をかけ、
    嫌な奴だと言われつつも、本人的には気分よくすごしてもらうしかないのでしょうか。

    • 2008年 12月 10日

    私は、palさんのおっしゃっている事、ほとんど当てはまってます。
    >・けなさずほめてあげなければいけないとほめれば、増長して・・・
    これは、親に褒められた記憶がほとんどないため、当てはま
    らないのですが・・・
    いや、親としては、私の事を褒めてたかもしれませんが、私にとっては、ピントがはずれていたのか、
    覚えてないのかもしれません。
    一つだけ、母から褒められて覚えている事があります。
    小学5年生頃、
    ウインナーを炒めてそれを家族に食べてもらった所、
    「すごい心がコモっている炒め方だねー。nは、料理がうまいねー」と言われた事です。
    そのおかげで、今でも料理は、得意分野です。
    母はそのときは、本当にそう感じて言ってるんだ・・・と(母はそんな事思ってなく発した言葉だったとしても)
    私自身たぶん理解して、納得できたのだと思います。
    本当に子供の頃褒められた記憶はそれっきりですが、
    料理に関しては、自信があるせいか、それ以来
    その料理で人から褒められたときには、「私が作ったのだから当然おいしいに決まってるでしょ」等ととてもうれしい気分になれます。
    ・・・がほかの事、仕事の事やら私の性格など、人から褒められても、かえって自己突っ込みが入り、全然うれしくありません。
    いつも母から注意されてそれに対して自分の思った事を言うと、「口答えするな。親の言う事は黙って聴くもんだ」と言われ続け、
    自分の意見を言うのは悪い事なのだ、とインプットされたような気がするし、
    又、毎日ピアノの練習を言葉でも非言語的な態度でも強要され、ACになったし、
    運動やらその他できない事ばかりで鬱になったり、
    そして、>こんないやな思いをするのは親のせいだと思い、全ての嫌な出来事を親の策略と脳内変換
    しています。
    大人になり、この事実がはっきり認識でき、結局自分の脳に問題があるのだ、と思えるまでずいぶん時間がかかりました。

    • 動作性学習障害者
    • 2008年 12月 12日

    WAIS-Rで言語性IQ111動作性IQ86という結果がでました。
    たしかに言い訳だけで行動しません。
    9年ほど引きこもりしています。
    この言語性IQを活かせる道というものがないのか考えます。
    いつまでも引きこもっているわけにもいかないので。

    • ぴよよ
    • 2008年 12月 13日

    すみません、最近の記事で近いのはここかもと思っただけで書かせて貰ってます。
    ちょっと嬉しいので書いているので、ヤンバル先生にさえお読み頂ければ、アップするかどうかはお任せいたします。
    昨日、インフルエンザの予防注射に行き、リタリンをもらっている頃から私を知っててくださってた看護士さんに声を掛けて頂きました。
    「リタリン貰わなくなっても、元気そうに見えるんだけど、結果としてもらわなくても大丈夫だったんじゃないのかな?」
    私としては全然大丈夫ではありませんが、全ての医師が私から話を振らないとリタリンについては触れない中、私の調子を気に掛けて頂いたことはその気持ちがとてもありがたかったです。
    国はリタリンを無くし、その得られなくなった効果分の責任を、建前上は支援センターに丸投げしているようなものです。支援センターに行ったことはありませんが、そこの職員からは「無くなっちゃったの。もうしょうがないの。」としか言えません。不満の矛先をセンターに投げただけです。
    不便を耐える責任は当事者本人に押しつけられたままです。
    分かち合う人間すら誰も用意できません。
    私が正職員でなかったらとっくに首を切られて、食べていけなくなっている、たぶんうつになる、病院でもハローワークでも「ここじゃないよ。」とタライ回される。自助団体はお友達を無難に作れるコンディションの者以外は許容できない。親も私のストレスの山のような言語化にはもう耐えられない。
    私のように他人のフィードバックにすがって生きる特性の者には特に、生きていていい理由すら無くす危険と隣り合わせだった立場なのは誰にも見えません。
    今でも潰そうと思えば潰せるのが私のような現実的想像力の足りない職員です。過酷な場所に悪い前評判付きで転勤させればすぐです。
    社会全体が、私達の解決しない不自由を無かったことにしやがった、と思っていました。
    でも、全部見えないまでも、見ようとしてくれた人がいたのは、ありがたいことでした。嬉しいことでした。
    私も突然のことなので全部は説明し切れませんでした。いい言い方も選び切れませんでした。私の言葉は、ここで言われているような最先端情報の何パーセントも伝えるには足りなかったと思います。
    でも、“こんなかたもいてくれるんだな。”と、思わせてもらいました。

    • ひまわり
    • 2008年 12月 14日

    『褒める』ことについてですが、
    良いことをした時に褒めたり、努力した時に褒めたり、頑張った時に褒める・・・
    というのは、褒めるほうも、そんな場面はそうそうないと思ってしまうし、
    >・けなさずほめてあげなければいけないとほめれば、増長して勘違いし、ますますえらそうに、無責任になるでしょう。
    ・・・と、感じたりするように思います。
    人はそんなに頑張れないし、努力をしてばかりいられない。
    現に、自分はというと、出来ることを出来る程度やって、
    その結果「こんなに頑張ったのに、認めてもらえない・・・」なんて、感じたりします。
    頑張ることを、努力することを、褒めるのでは、
    子どもは頑張らなきゃ褒められないし、努力しなきゃ親に認めてもらえない、
    という少しACにもなり兼ねない愛情の受け取り方をするような気がします。
    褒めるのは、
    本人がなにげなくやってる、落ちた物を拾った行為を「拾ってくれてありがとう」とか、
    電気を消してくれたら「電気消してくれてありがとう」とか、
    普通にできることを、「おりこうだね」「ありがとう」「助かったよ」と言うことが、子どもにとって心地良い『褒められた』である気がします。
    親が望む姿には程遠い内容のであっても、『褒められた』記憶としては残り、少なくとも自己肯定感は高まり、
    何をやっても叱られる(上手くいかない)自分ではなく、
    そのままの自分でいいんだ!このままの自分で(人には劣るかもしれないけれど)頑張ってチャレンジしよう!という、「努力家」のスタイルを、身に付けていけるような気がします。
    その「努力」の向く先は、親が望む方向とは違うかもしれません。
    けれど、自立して生きていける力に結びついた時、
    親も、辛抱強く子育てしてきた自分自身を、褒めてやれるように思います。
    私は、子育てがほぼ終盤に近付いた今更、そのことが分かりだしたようです。
    もっと早く、こういった(YANBARU先生の)ブログに出会い、自分自身の事、家族の事、を知れたら良かったと、悔やまれます。
    このコメントは、私の考えであり、気を悪くされる方がみえましたら、すみません。(不適切でありましたら、削除をお願します)

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2008年 12月 14日

    私の母は、私が6歳の時に弟を事故で亡くしています。それでなのでしょうか、あれはダメとかいわれた記憶がありません。
    父はAS?と思える人ですので、ルール志向で結構口うるさかったですが・・
    今思えば、私ら3人の子には「生きていて有難う」という思いが根底にあったように感じます。
    それでなのかな、私がASで様々トラぶってもも2次障害がほとんどなく、自己肯定感が強いのは??

    • 2008年 12月 15日

    私もひまわりさん同様に、
    自分の食べ終わったお皿を流しのところに持ってきてくれたりしたときに
    「~してくれてありがとう」「お母さんの手間が省けて助かったよ」・・・とか、
    早起きの苦手な息子が、いつもは、7,8回起こしに行かないと起きてこないのが、例えば、2回目で起きてきた時等は、「今日はすぐ起きられたね」等・・・
    普通幼児に褒めるような言葉ですが、そういった事を言い続ける事が、まだウチの息子にとっては自己肯定感につながってくのだろうと思い実行しています。
    そして私自身は、努力したつもりは全然なくただやりたい事をやってるだけ・・・と言う認識でしかありませんが、
    そういった過集中状態の中で自分自身成功出来たと思い、又、さらに人様から「良かったよ」と言われると、少しずつ自信がついてくる事を、大人になった今、実感しています。

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