AS(アスペルガー)関連

ASグループのタイプ分け

 さて前回の「愛着の有無」で愛着ありとなった人はASグループである。この時点で、「特定の愛着の対象だけに極端に態度が変わる」人が残っているはずである。

 さらにASにもいろいろあり、下記の自閉症の3分類が分かりやすい。

A.積極奇異型 人の中に積極的に出て「仕切りたい」AS

B.受動型    相手中心で常に受身で行動するAS

C.孤立型    自閉傾向が強く孤立へ向かうAS

 分類は次のように行う。

 1.学童時などに、「学校と家で態度が全く違う」と言われたことがある」、ASの中ではADHDの様に「相手中心で場当たり的で優柔不断に見られる」人はまず「受動型」に分類される。この中には自閉傾向が弱く、外見上ほとんど発達障害に見られない人も含まれる。

 2.残った人は「後悔するならはじめからするな」という非常に首尾一貫性を重んじる人が多いはず。その中で、どんなに不適応になっても社会に出て行こうとする人が「積極奇異型」で、自閉が強く引きこもりがちになる人が「孤立型」となる。

 積極奇異型と孤立型は良く似ている。例えば積極奇異型の人で社会で不適応を起こし、二次障害として強迫症状や視線恐怖、聴覚過敏の悪化などがあり、その結果引きこもりがちになった人は、表面上分類が難しい。その場合、「社会に出て行きたい」「自分が中心になって注目されたい」「仕切りたい」という人への衝動があるかどうかを細かく考え、あれば積極奇異型、無ければ孤立型となる。

 詳しくは下記。

 http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/as.htm


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コメント

    • まーちん
    • 2006年 10月 25日

    子供の頃を思い出して、わたしは受動型かと思いました。
    でも最後の部分、
    「社会に出て行きたい」「自分が中心になって注目されたい」「仕切りたい」は、強く持っているんです。
    積極奇異型を含む受動型、これもアリですか?
    昔から、人前に立つのはかなり苦手ですが、
    でも自分の知っていることや習得したことを人に伝えたい、
    その一心から、
    現在、子供を指導する仕事に就いています。
    人前は苦手ですが、
    自分が中心になれる安心感がある時は
    人前が可能なんですよね。

    • yurin
    • 2006年 10月 25日

    私の息子(5歳)は受動型自閉だと思います。
    自閉(AS)と呼ばれる人全てかどうかわかりませんが、
    『独自のルール』を持っているように見えます。
    人によって態度が変わるように見えるのは、
    人に対してもこの『独自のルール』をあてはめて考えるためかな、と。たとえばお母さんは『甘える対象』、お父さんは『どこかへ連れていってくれる人』のような感じ。
    また、そういうルールがいったん固定してしまうと、なかなか崩せないために、『甘えるのはお母さんだけ』のように、同じ人には同じことを要求する傾向もあるような。
    自閉症の人をそんなに多く知ってるわけではないですが、
    息子を見てるとそういう気がします。一見柔軟性があるように見えても、相手によって変わるだけで根本的に『独自のルール』を崩してない。
    ADHDと呼ばれる人には、こういう概念はないと思っています。

    • ミリ
    • 2006年 10月 25日

    自己診断と愛着の有無から、自分は、受動的ASではないかと思っていましたが、AS症候群の所の
    「後悔しない」
    「悩んだり、自己評価が下がらない」
    「服装や食べ物に対するこだわりがある」
    等が、全く当てはまらないなと思いました。
    愛着の有無の所を取り間違えていたのかなと思いました。
    他人と家族では、態度を変えるし、小さな頃は内弁慶と呼ばれていたし、愛着はあるだろうと思ったのですが。
    けれど、基本的に「去るものは追わず」みたいなところがあります。
    行動パターン一覧表を見させていただくと、ぴったり該当したのが「ADHDのAC」だったです。

    • ALIVE
    • 2006年 10月 25日

    こんにちは。
    私の場合は、自己診断してみると、
    「孤立型AS」80%+「積極奇異型AS」20%+(学習障害)かなと、感じます。
    「受動型AS」の要素は、見出せませんでした。
    確かに「孤立型AS」と「積極奇異型AS」の性質は似ているなと、思います。
    「後悔するならはじめからするな」というのは、そのとおりで
    その思考のありようの自己分析は、下記のようになります。
    1・何百もの可能性の中から自分で選択した、ただひとつの事を
    やるのであるから、(ひとつの事を選択するために、他の全ては捨てたのだから)
    結果がどうなろうと、後悔はありえない。
    (後悔と苦悩は別の事柄で、うまくいかなければ苦悩はするし、頭痛などの身体的
    不具合はでる)
    2・後悔とは、すでにおこった事柄に対する反応である(と思う)が、
    すでにおこってしまった事柄は、事実として変えることはできない。
    (過去はあるが、その過去は固定された状態であり、変化はしない。
    そのような変化しえない事柄に対して、どのように対応していいか
    理解できない。)=反省はできるが後悔はできない、後悔する意味がわからない
    ・・・という図式が成立します。
    逆にたずねたくなるのは、人はどのような時に後悔して、その後悔を
    どのように扱うのかを知りたいです。
    後悔の機能を知りたいです。

    • yurin
    • 2006年 10月 25日

    息子(5歳)の例で申し訳ないのですが
    息子は自分で『こうしよう』と思ってしたことが上手くいかないと、言葉の上で『お母さんのせいだ』などと、人のせいにします。
    『後悔する』とはひとことでいえば
    『あんなことしなければよかった』ということだと思っています。
    つまり自分なりに考えて選択したことなのに、うまくいかなかったときに、自分の選択に対して否定するようなことではないかと。
    自閉でない人はそういうときすぐに
    『じゃぁ他の方法でやってみよう』と考えを切りかえることができます。しかし自閉の人は、このあたりの切り替えができない、もしくは、しにくいのではないかと想像します。
    だから、時として『○○のせいだ』とでも言わないと
    どうしようもないのかもしれないです。
    『間違ったと思いたくない』といえばそうかもしれないけど、それは自閉特有の『考え方をすぐ切り替えられない脳の働き』からきているのかなと思います。

    • ミリ
    • 2006年 10月 25日

    >人はどのような時に後悔して、その後悔を
    >どのように扱うのかを知りたいです。
    私の場合は、自分の言動により、相手を怒らせてしまった時、悲しませてしまった時、
    あんなことを言わなければ良かったと後悔します。
    怒らせてしまったときは、その時の相手と自分の言動を思い返しては、くよくよ考えます。
    何度も何度も、強迫観念のように考えたりすることがあります。
    悲しませてしまった時、、一番の後悔は、親の病気の時に自分が冷酷な態度をとったことですが、やはり思い出しては、胸が痛み、涙をこぼしたり、また、夢にも何回か出てきました。
    自分の発言のせいで、面倒な仕事をしょいこんだときも、あー、なんであんなことを言ったのだろう!タイムマシンで戻れたらなーと思うし、
    その他、もっと勉強すればよかった、という後悔もしばしばします。

    • 匿名
    • 2006年 10月 25日

    皆さんコメントありがとうございます。
    マーチン様
     あなたは積極奇異型で、家で態度が違ったのは、「家の人が愛着の対象だった」からではないですか?
    yurin様
     よく観察しておられますね。観察することは理解につながります。私はその「自分なりのルール」の共通性をいろいろ考えています。その結果が「愛着の対象とそれ以外の人への態度の極端な違い」でした。おっしゃるとおり、ASの人は柔軟とは程遠いですね。このあたりが重要なADHDとの違いだと私も思います。
    ミリ様
     この後でADHDのところで説明しますが、受動型ASとADHDのACは一見良く似ていて区別が難しいですね。あなたの書いているとおり、自己評価が下がらないのと、愛着が鑑別のポイントです。
    ALIVE様
     この場でこういう語り合いが出来てうれしいと思います。良い質問をありがとうございます。
     それぞれのお答えで少し違う立場の感じ方を想像できると思いますが、私なりのお答えは以下のとおりです。
     「判断する時点では分からなかった新しい参考情報がその後の経過の中で追加されたときに、その新しい参考情報を総合して考えると、さかのぼって考えれば別の選択肢を選べばよかった」という意味で後悔することがあります。また「全く予測がつかない偶然の結果(じゃんけんとかサイコロの目など)についての自分の予測が外れた場合に残念だった」という意味でも後悔はありうると思います。
     私の考えでは「後悔」という現象は、判断の根拠となる情報が時々刻々と変動し、また偶然的な要因が大きい場合に起こりがちだと思います。
     私のコーチングでは毎回こういう話になり私自身も勉強になります。こういう話が出来て楽しいですね。
    http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/
     

    • ALIVE
    • 2006年 10月 26日

    どうもありがとうございます。
    皆様のおかげで、私の思考パターンがみえてきました。
    yurin様、回答ありがとうございます。
    とてもわかりやすい表現で、私の学びを助けてくれました。
    >『後悔する』とはひとことでいえば
    >『あんなことしなければよかった』ということだと思っています。
    わかりました。私の場合、「後悔するならはじめからするな」という
    ルールが確立しているゆえ、その感情を理解できないのですね。
    私は「過去など無い。あるのは今だけだ。」という感覚が強いので
    私の過去を振り返らないというやり方に
    自己を客観的にみれない要因があると感じました。
    >つまり自分なりに考えて選択したことなのに、うまくいかなかったときに、
    >自分の選択に対して否定するようなことではないかと。
    この言葉を読んで、今、ふと思ったのですが、私の場合はパニック状態が
    「後悔」の形態なのかもしれません。もう少し探求してみます。
    >『間違ったと思いたくない』といえばそうかもしれないけど、それは自閉特有の
    >『考え方をすぐ切り替えられない脳の働き』からきているのかなと思います。
    私の場合は切り替える(リセットする)という行為にも、手続きがあります。
    切り替えの手続きには、それなりに時間がかかります。
    その手続きが完了する前に、他の事柄(刺激)が入力されてしまうと、対応できずに
    パニック状態になってしまいます。(これもコーチングを受ける前は、誰もが私と同じ
    ようになると思っていました。コーチングで初めて、パニック状態を理解しました。)
    多くの人々は切り替えが見事です。私からすると、まるで何事も無かったように
    切り替えて変化しますが、私にはできません。できない事はできないという真実を
    私は知りました。そして、それが私のルールブックに追加されます。
    これが現在の私の思考パターン(物事に対する感じ方・応じ方)です。
    自閉症を資質として持つ人間の思考パターンのひとつとして
    参考にしていただけたらと、思います。

    • ALIVE
    • 2006年 10月 26日

    ミリ様、回答ありがとうございます。
    具体的で、率直な心情が伝わってきました。
    >私の場合は、自分の言動により、相手を怒らせてしまった時、悲しませてしまった時、
    >あんなことを言わなければ良かったと後悔します。
    ミリ様は、他者の存在をしっかりと認識されているます。
    それゆえ、自分と他者との関係において、「後悔」されるのですね。
    それは、自己評価をする結果、「後悔」が生じるという事だと理解しました。
    私は自己評価ができないようです。やはりこの点でも、私は自己を客観的にみれない
    事があきらかになってきました。
    私は他者との関係において、「経験上、とにかく言語化しておかないと、社会の中では
    小突き回されてしまうだけだ。」という思いが強く、相手より先に一方的に話をして
    やはり「後悔するならはじめからするな」を適用してしまいます。
    さらに、私の会話方法は、「相手が誰であろうと話し方を変えない。相手によって変えない
    事こそが誠実だ」というルールがありますので、この辺が、他者と軋轢を起こす要因に
    なっていることを、今、自覚しました。
    他者と直接的に接する場合は、このあたりを注意してみようと思います。
    最近は、誤解を招きそうな可能性の高い話をする場合は、あいだに支援者(自閉症を
    理解している人)に入っていただいて、話を伝えるという方式を使っています。
    それでも相手は、自閉症の事実を知らないので、話の展開はやっかいです。
    社会では、発達障害も自閉症も、まったく理解されていないというのが、実感です。
    これまでの文章で、私は一見、言語を使って、それなりに表現している様に
    感じられているかもしれませんが、表現の量に対して、理解の量が少ないです。
    これも自閉症を資質として持つ人間の特徴のひとつかもしれません。

    • ALIVE
    • 2006年 10月 26日

    YANBARUドクター様、このような場を提供していただいた事に感謝します。
    >「判断する時点では分からなかった新しい参考情報がその後の経過の中で追加
    >されたときに、その新しい参考情報を総合して考えると、さかのぼって考えれば別の
    >選択肢を選べばよかった」という意味で後悔することがあります。
    私の場合、一度決定したら、それを固定化してしまうという事が、生き辛さの
    要因であることが、再度示されました。これは自分で自分の首を絞めている
    イメージが浮かびました。
    途中経過を追加して、再構築するという作業が必要だということが学べました。
    しかし、私は「世界はあまりにも複雑で難解だ」という実感が強くて、
    その複雑さ・難解さに対応するための、唯一の手法として、どうしても固定化という
    作業が必要になっているようです。それでも、「途中経過を追加して、再構築する」
    という事は具体的な事なので、私のルールブックに書き込んでみます。
    >「後悔」という現象は、判断の根拠となる情報が時々刻々と変動し、
    >また偶然的な要因が大きい場合に起こりがちだと思います。
    この刻々と変動する状況という事態に、私は弱いです。
    予想できない状況や突然の変化は、恐怖です。
    ここでは、「できない事はどうやってもできない。無理やり対応して、自分が
    いびつになるよりも、できないままの自分でよい。」を適用してます。
    どのルールも自分に都合の良いルールになっているのかな
    とは思いますが、
    私の生きるための絶対的基本理念として、
    「理想とするあるべき姿の自分(理想的な自分、こうであったらすばらしいであろうと
    思う自分)を構築するために、他者と競争したり自分や他者を犠牲にするよりも
    あるがままの自分でよい」がありますので、この絶対的基本理念は譲れないのです。
    続く・・・

    • ALIVE
    • 2006年 10月 26日

    ・・・続き
    >私のコーチングでは毎回こういう話になり私自身も勉強になります。
    >こういう話が出来て楽しいですね。
    YANBARUドクター様が、常に私の重箱の隅をつつくようなAS独特のコメントに
    対しても、辛抱強く、そして権威をふりかざすことなく対応していただけるので
    私もくつろいだ雰囲気の中で、安心してAS全開で、書き込めています。
    私は人生において、このようなドクターを他に知りません。
    以上、長文になりました。
    皆様、どうもありがとうございました。

    • 匿名
    • 2006年 10月 29日

    ALIVE様
     あなたの書き込みはAS的な認知について他の人が理解するのに非常に役に立つと思います。
     「臨機に再構築する」ということはASの人にとって非常なストレスとなりますので、私は現実的には「そういう変化の起こりにくいように環境のほうを合わせる」ことを本人や周囲の人には勧めています。
     私も「あるがままの自分」が一番であると思います。ただALIVEさんも自分自身と他の文化を「理解したいと望み、理解しようと努力する」ことをしていますね。その努力の結果によって、「あるがままの自分」自体がおそらく成長していると思います。またコメントをお願いします。

    • sangyou575
    • 2008年 6月 04日

    海はありますが、それをコップですくうと、海ではなくなってしまいます。
    海は、無限の顔を見せます。
    穏やかで受け身なときもあれば、大荒れで人を飲み込んでしまうこともある。
    分類というコップにより、こぼれでた海のことも忘れないでほしいです。

    • F
    • 2014年 3月 03日

    私がASの説明を読んでいて特に驚いたのが、「ASは後悔しない」という説明と、「想像力の欠如」でした。
    特に「ASは後悔しない」という説明には、「そんな人、この世にいるのかな?」とびっくりした覚えがあります。
    自分がAS寄りなのかもしれないと思い始めてからも、しばらくはこの2点が引っ掛かり、「やっぱり私はASじゃないんじゃなかろうか」と疑問に思っていましたが、『後悔』と『想像力』の言葉の解釈自体が、他の人と違うのかもしれないと思い始めました。
    私の『後悔』は、「自分の選択が正しかったのかどうかについて、考え続けること」のようです。
    だから「あれでよかったのかなあ」とか「別の選択肢を選ぶとどうなっていただろうか」とは考えますが、「別の選択肢を選べばよかった」と考えたことはないです。
    もしここに神様がやってきて、「記憶はそのままで、子供時代に戻してあげるから、人生をやり直してごらん」と言われたとしても、断ると思います。
    私は全く同じ選択肢を選ぶから、無駄だと思います。
    「想像力の欠如」という言葉もぴんと来なかったです。
    この場合の『想像力』は『横』(時間軸は今のままで、自分の行動がどう波及するか)を指すみたいですね。
    私は想像力とは『縦』(未来に向かって、どうなっていくか)だと思っていて、最後にどうなるかまで考えて行動する自分は、『想像力』はあるのだと思っていました。
    ASのうちのどのタイプかは、未だによくわかりません。
    受動型ではなさそうな気がしています。(受動型を名乗るには、自分には器用さが足りない気がします)
    昔から引きこもるのが大好きだけど、孤立型らしき人を見たことがないから、よくわかりません。
    積極奇異型の人は理解しやすくて好きだけど、見ていると何だかひやひやして落ち着きません。

    • さーこ
    • 2014年 3月 03日

    もしここに神様がやってきて、「記憶はそのままで、子供時代に戻してあげるから、人生をやり直してごらん」と言われたとして、私の場合の断る理由は、「私は私以外にありえなかったから。」と答えると思います。
    「別の選択肢を選ぶとどうなっていたか」という発想や、「全く同じ選択肢を選ぶから無駄」という発想がありません。過去や未来に向かっての「もし○○だったらどうなるか」の想像ができないんです。したがって後悔もありません…。どんなにつらくても苦しくても、現在の自分を肯定するしか選択の余地がないので。
    「横」(時間軸は現在のままで、自分の行動がどう波及するか)の想像は、まぁ少しはできるのかな、と思っていますが、それまでです。受動型のような行動にはなりません。
    たしかに危なげでひやひやするとは思いますね。
    (…ふと疑問。もしかしたら受動型の人は、他人の立場に立って想像する事はできなくても、「横」と「縦」の想像ができるのかな)
    私は社会で不適応を起こし、二次障害として強迫症状や視線恐怖、聴覚過敏の悪化などがあり、その結果引きこもりがちになったという人間なので、最終的には「社会に出たい、そして日々を健康に過ごしたい」という気持ちが残りました。
    「自分が中心になって注目されたい(むしろ注目されれば挙動不審になる気がする)」、「仕切りたい(むしろ私の仕切りより他人が仕切る方が効率的な気がする)」、という人への衝動は薄くて、自分でもあるのかないのかわかりませんが、私の場合、分類上で言えば積極奇異型だと思っています。

    • F
    • 2014年 3月 03日

    受動型の人は、どちらかというと『横』(空気)への想像力のほうが得意なんじゃないかなと思います。
    ただ、ASの思う『横』への想像力には、思い込みの産物でしかないものも混じっているかもしれません。
    積極奇異と思われる院長は、「仕切りたい」とか「目立ちたい」ようにも見えました。あの人は男性でしたから、周囲からはそういう姿勢が好ましいとされて、そのまま大人になったということなのかもしれません。
    私が少し気になるのは、ASの心性を『庇護』という単語で説明できるのではないかという記事と、「中心志向があると逃げることができない」というコメントです。
    私は、スタンダードな積極奇異型の人は、庇護の親モデルを演じているのではないかと感じます。行動の動機に、「自分の身内を守りたい」という責任感があるように感じました。
    院長は、外部の方からの一本の電話や軽い会話について、妙に慌て始めるときがありました。弁護士に相談の電話をかけたり、スタッフに「大丈夫だからね」とわざわざ言いに来たりしていました。スタッフは「そんなに大ごとな話だったかな?」「クレームではなかったよね?」と顔を見合わせていました。
    私には、「スタッフ(身内)は僕が守らないと」と言う意気込みのように見えました。
    ただ、一方的に庇護される側としては、「・・・?」というのが感想です。庇護される側の意志は考慮されていませんから。
    そして積極奇異型ASのそういう姿勢が、他者からは「仕切りたがり」とか「支配的」と評価されるのではないかと思っています。

    • あきら
    • 2014年 3月 03日

    まさにそれを書かせていただこうと思っていました。
    横への想像はたくさんしました。けれど当たりません。
    きっとこういう反応があるはずだ、と思っていても
    それが返ってきたためしがないので、だんだんと
    想像しなくなりました。
    喜んでもらえると思ったことが、そうでもなく
    怒られることを覚悟したことが、褒められたりしました。
    ですので、行動するときに考えるのは、結果はどうあれ
    「自分が満足できるか」だけになりました。
    ですので、他人の反応に落胆することは少なくなりましたが
    他人の気持ちを考えないといわれると、その通りだと思います。
    ちなみに、縦の想像もします。
    こちらはあまり外れません。

    • さーこ
    • 2014年 3月 04日

    スタンダードな積極奇異型の人は庇護の親モデルを演じているのではないか、という事ですが、私がずっと子どものころを思い返してみると近いものを感じますね。
    私が現在、行動するときに考えるのは、「自分の現実に見合っているか(自分の現実(身体、精神、その他の状況や状態)から、かけ離れたものでは無いか(実現可能なものかどうか))」という事ぐらいですね。大体の場合ですが。

    • さーこ
    • 2014年 3月 04日

    (訂正→)私が子どもだった時の頃を思い返してみると近いものを感じます。
    ****
    私が自分をふり返った時に思うのは、
    私の思う『横(空気)』の想像力は、まず第一に、思い込みの産物である事が多く、100%完全に当たらないのは当たり前である、と思っているという事です。
    適切な距離を保ったコミュニケーションというものがほんの少しでもできたなら、それだけで「…あ、やったのか…!?(できたのか…!?)」という気持ちになります。相談員さんなどの対話の中から、以前よりもほんの少しでもできるようになったという、ふり返り、検証、事実確認などを得てから、事実を「…そうなのか…」と認識するのが私の第一歩です。そして、またもう一度、他人との部分的な理解(または部分的な共有)を、言語や行動などをもってやり取りしていきます。おそらくコミュニケーションというものはそういうものなのかもしれません。部分的な理解、または、部分的な共有。個人的な実感です。
    私には受動の人が言うような欠片感がありません。たしかに、私の人生はうまくいかない事が多く、精神的には一部分を失ったかもしれません。しかし、「欠片(残った私)とは、私自身そのもの」という、全体像の想像を失わなかったので比較的健康状態は良好だと思います。
    私が思い出せないのは、私自身の本心です。実感を伴った本心がスッポリ抜け落ちているような気がします。
    「自分が満足できるか」なんて、考えた事もなかった。
    他人の反応に落胆することも無いです。「他人の反応は、自分が想像できないものだというのが当たり前」という前提があるからです。

    • あきら
    • 2014年 3月 05日

    ああそうか、想像とは言っても、自分が絡むことばかりじゃありませんよね。
    自分が絡まない横への想像はそれなりにできているのかも知れません。
    自分が絡んでいると「次になにをすべきか」を考えるので
    できるだけベストな選択をしようと思います。
    ASDやADHDを検証・議論したサイトは沢山あるのですが
    「正答」である多数派も一緒に議論したサイトが見つからないので
    自分の考え方や行動が社会に即しているのかどうかが不明です。
    ASDのここが間違いだ、は判るのですが、では答えは何なのか。
    一緒に議論されることの多いADHDや各種人格障害は対比にはなっても、物差しにはならない。
    物差しとなるべき定型(社会)の例は示されていることがありません。
    他人の反応を期待するのは、AC的な部分かも知れませんね。
    今は全くありませんが、子供の頃はよくやっていたように思います。
    自分には逆に、本心がないのかも知れません。
    やりたいことよりも、できることをやって生きてきたので
    どこかに置き去りにしてしまったようにも思います。

    • さーこ
    • 2014年 3月 05日

    この「他人の反応は自分が想像できないものだというのが当たり前(だから、現象(事実)を冷静に見て、ほんの少しでも想像できるようになりたい)」、という前提がある事により、私は昔よりも、さまざまな人間との交流が、(100%完全では無いにしろ)できるようになってきました。
    私は別段、色々なタイプの人間と(100%完全に)交流できるようにならなければ、と気負ったわけではなかったのですが、私の人生は、これまで自分でも想像しなかった幸運な方向に進みつつあるようです。
    たしかに、「世界に一人を孤高」と捉える見方とは違いますね。
    「合理的に考えて、自分が納得できるかどうか」については、またゆっくり考えていこうと思っています。

    • F
    • 2014年 3月 06日

    横への『想像力』ですけど、自分(AS)であるまま、相手と立場だけを入れ替えても、うまくいきません。
    「自分が相手の立場だったらどうするか」は、自分と相手が同じ考え方をする人間であることが、最適解の前提になっています。
    だから、「相手だったらどう考えるか(自分と相手はどうしようもなく別物である)」でシミュレートしないと、『察知』の過程で失敗になるはずです。
    前の仕事を辞める直前、仲よくしてもらっている看護師さんから「もう仕事を辞めようと思う」という話をされました。
    私は「そうなんだ、それは仕方ないね」と返しました。(私は「慰留されるのは鬱陶しい」「慰留は、するほうのわがままである」と考えるので、「相手にそれをすべきではない」と感じ、ドライに返していました)
    さらにしばらく話を聞いているうち、「何だろう・・・本人が辞めるという結論を出しているにしては話が長いな?」という違和感を感じました。
    それから、この人が私に対してはよく「大変やけど、一緒に頑張ろうな」的な話をしていたのを思い出しました。(そのときの私は「言われなくても頑張るよ・・・?」という違和感しか感じなかった)
    それでようやく、「この人は私に『そんなこと言わずに、一緒に頑張ろうよ!』って言ってほしいのかな?」と思い当たりました。
    でも、私にそれ(慰留)はできません。代わりに『慰留できない理由』を全部説明しました。
    私はあなたが好きだし、一緒にいるととても頼りになるし、他の人もそう思っていると思う。
    私はあなたと一緒に仕事ができたらいいなあとは思うけど、私があなたにできることは、愚痴を聞くくらいである。
    (私は看護師ではないから仕事を替わってあげることはできない。部署が違うからシフトを調整してあげることもできない。あなたの立場を強化する政治力もない)
    あなたのために具体的に何かしてあげられるわけではないから、無責任に「そんなこと言わずに、一緒に頑張ろうよ!」と引き留めることはできない。
    でも、あなたのことがどうでもいいから引き留めないわけではないことはわかってほしい。ごめんね。
    私の話を聞いて、その人はちょっと頭の中が切り替わったのか、しばらく考えるような素振りのあと、吹っ切れたような(?)雰囲気になり、話は終わりました。

    • F
    • 2014年 3月 06日

    多分、私の『反応』は最適解ではないと思います。(慰留するのが最適解だと思う)
    ズレているのは自覚していましたが、「私はこういう理由であなたの期待とはズレた行動をしています」と説明することで、(Fさんは私のことをどうでもいいと思っているんだ・・・という)変な誤解は避けられたかなあと思いました。
    私には、他人に向かって「想像力がない」と簡単にいう人ほど、自分が普通である(できる)ことに胡坐をかいているように見えます。
    私の本心を言語なしに正しく理解した人は、見たことがありません。(自分も、失敗してばかりです)
    言語を使っても、「通じた」と感じることは滅多にないです。
    同じ日本人で、同じ日本語を話していて、同じ時代や場所で生活していても、「自分と他人は違って当然」が前提にないと、お互い不幸になると思います。

    • あきら
    • 2014年 3月 07日

    あまり自分の環境では起き難いですが(性差もあるでしょう)
    自分だったら慰留してしまうだろうと、思いました。
    ただし、相手の期待に応えるために慰留するのではなく、
    自分がその人と一緒に仕事をしたいから、という理由になると
    思います。相手を思いやっての行動ではありません。
    ですので、最適解からは程遠いのに、一番近い結果になるという
    奇妙なことになりそうです。
    自分と他人との違いをわかっているつもりですが、実際には
    判っていない(それすらも独自解釈)んだろうなと思います。
    自分は、この場で使われている、非言語アピールの意味を
    間違えていたようです。
    ドアを勢いよく閉める、舌打ちをする、そういうものを
    さしているのかと思っていたのですが、そうではないのかな。
    同じ言葉でも使う場面によって意味が大きく違うことに
    最近やっと気付くようになったと思います。

    • さーこ
    • 2014年 3月 07日

    横(空気)への『想像力』の話です。
    >「自分が相手の立場だったらどうするか」は、自分と相手が同じ考え方をする人間であることが、最適解の前提になっています。
    というお話ですが、「言語(理屈)のみで考えた場合、そうなる」のであって、実践でのリアルタイム(空気)の「場」で対応した場合、「言語(理屈)」とはおそらく異なるというのが私の考えです。
    縦(過去や未来)への想像力なら、比較的、「言語(理屈)」でもっておおよそ当たるのではないのかと想像しています。
    「正しく理解」とは、「正しく(言語による100%一致の)理解」という事かと推測しますが、生身の人間が生活する日常の場において「言語による100%一致の理解」を求める日常(リアルタイムの場)とは、おそらく精神的にしんどいものだと想像します。
    横(空気)の想像と距離感というものが、100%ではないにしろ、ほんの少しだけつかめるようになったかもしれない私から言えば、「言語による100%一致の理解」を執拗に求める人間は、精神的に強迫的に感じ、完全に受け入れる事もできません。(部分的に「そうなんだ」と留めるのがやっとです。)
    多数派もおそらく(私と同じ理由や感覚ではないけれど)、「受け入れられない」「(人によっては)自分の事を否定された、と思うかもしれない」、と想像します。

    • さーこ
    • 2014年 3月 07日

    自分(AS)であるまま、相手と立場だけを入れ替えても、うまくいかないのは、私にとって当然だと思っています。
    私は「最適解」と思った事がなく、ただ、ミヒャエルエンデの本に出てくる「モモ」のように、一生懸命、人のお話を聞いてきただけです。
    仲よくしてもらっている職場の人から「もう仕事を辞めようと思う」という話をされたなら、まずその人の状態を見ます。顔の表情を見ます。現在のその人の雰囲気を見ます。緊張しているのか、思い詰めているのか、落ち着いているのか…というところを見ます。そして、これまで日常で交わされてきた雑談の中から、その人の生活環境を思い出しながら、ふと言葉がひらめくんですね、「…何かあったんですか…?」と心を込めて聞いてみます。その人が私に明かせる話ならば聞くし、明かせなさそうなら、何もわからなくても(言語による理解が何もできなくても)「そうなんですね」などと言うようにして、それ以上その人に踏み込むのを終わりにします。
    そういう事ができるというのは、「言語による100%一致の理解」に「こだわっていないから」だと、私は自分をそう思っています。
    そして。「言語による”100%一致”の理解にこだわらない」のが、おそらく日常的なコミュニケーションであり、こだわらないからこそ、ほんの少しでも、それこそ0.001%からでも、「私は、わからないからこそ(想像できないからこそ)、他人の気持ちや立場を、「少しずつ」わかるようになっていきたい(想像できるようになっていきたい)」→((注意):私はそもそも、「完全な理解」というものを日常のコミュニケーションにおいて考えなくなりました。)という事につながってくるのだと、私個人としてはそう思っています。

    • さーこ
    • 2014年 3月 07日

    (補足)→ 多数派の場合、「(人によっては)自分の事を否定された、自分の現在の状況を拒否されてしまった、と思うかもしれない」、と私は想像します。
    ****
    (横(空気)への想像について、言語による説明を試みてみましたが、「最適解」という解析以外における生身の人間の事をリアルタイムの場において想像するのが困難な人や、理屈と生身のギャップによって自分との折り合いのつけ方がわからずにACになってしまったかもしれない人に向けて、生身の人間がどう感じるのかについての説明を、ASの私が試みるのは、思った以上にむずかしいというか、困難ですね…。)

    • あきら
    • 2014年 3月 08日

    多数派の世界は言語による”100%一致”の理解にこだわらない、
    とても救いになる言葉でした。うれしいです。
    自分は、自分の言葉を100%理解して欲しいとは思っていません。
    ですが、自分の障害に貼ってあるレッテルには、それを求めると
    なっているので、そこに大きなギャップがあります。
    自分としてはそう思ってないのに、他人から見るとそう見えるのか、
    そう思うとどんどんコミュニケーションが取り辛くなっていました。
    (仕事空間では別ですが)
    多数派の世界が案外「ゆるい」と見えるのは自分だけかと思って
    いましたが、そうではなさそうなので、これからもマニュアルに
    とらわれず、その都度、現実と向き合うことにします。
    ヒントをたくさん頂きました。ありがとう。

    • 道産娘
    • 2014年 3月 09日

    私も上記の方の「多数派の非言語的なやり取りの説明」、とても分かりやすくて「納得」してしまいました。(…と同時に多数派に対する捉え方が私とかなり似ていてビックリしました)
    おそらく「相手の心情を配慮してフォロー」なさっているのだろうと思いますが、先走って手を出す・配慮するのではなく「言語的に相手に尋ねる」姿勢は私も好ましく感じました。
    「分からないからこそ、言語的に確かめて相手の気持ちを『理解』する」というのは私もそうですね。
    とても参考になりました!

    • F
    • 2014年 3月 11日

    (書き忘れてましたが、慰留しない理由について、「私もいつ辞めるかわからないから」「(件の彼女の件で)私には余力がないから」という理由も述べました)
    私には、他人からの言動が『要求』とか『要望』のように見えているようだ(過剰反応ぎみである)、ということは何となくわかっていたのですが、上の慰留の件でもそれが表れているように思います。
    相手から話(弱音や愚痴?)を聞いたときに、「自分はこの人のために具体的な何か(協力・環境の整備など)を提供できるだろうか?」ということが行動の始点になっているからです。ここだけ見ると、少しADHDっぽいです。
    逆の場合も同じで、実は「ガス無しライター」のコメント欄で私がさまざま事情を書いたとき、他者からは弱音とか愚痴とか承認欲求だと捉えられるのが苦痛でした。再三「具体的にどうすればいいのかが聞きたい」と書いていた所以です。私は、もっと即物的で表面的な世界に生きていると思います。
    (私が考える最適解が、本当に相手にとっての最適解かどうかは置いておいて、)私は「相手は私に慰留してほしいのかな?」と想像したものの、それを提供していません。
    私にはそれは「できない」、言い換えると、私は「したくない」からしませんでした。
    自分の意志で寄り添わないので、相手には「(期待に添えなくて)ごめんね」と言いました。
    0.001%の誤差を縮められるかもしれないことに期待を込めて、寄り添う努力を続ける。それはとても優しい接し方だと思います。
    コメントを読ませてもらってひしひしと感じたのは、どの人も「人(他者)が好きなんだなあ」ということです。
    羨ましくもあり、悲しいような、清々しいような気分です。でも無い物をねだっても仕方ない。
    「そこまでディープに、他者と関わりたくない」。
    これが私の正直な気持ちです。
    いつかもう少し歩み寄ることができるようになるのか、できないままなのかはわからないけど、少なくとも今は「したくない」ということのようです。
    自分の中でひとつ区切りがついたので、しばらくここを離れようと思います。
    YANBARU先生も、コメント者のみなさんも、お元気で。
    たくさんのヒントをありがとうございました。

    • 道産娘
    • 2014年 3月 13日

    >0.001%の誤差を縮められるかもしれないことに期待を込めて、寄り添う努力を続ける。それはとても優しい接し方だと思います。
    うーん…誤差を縮めるどころか、私の場合は真逆なんですよね。
    どちらかと言えば「期待」を捨て「相手と自分は違うのだ」と割り切る。(ぶっちゃけ、未だに割り切れない時もあり、相手に期待し、結果を求めてしまう時もあります)
    以前は「自分が気付かないうちに、自分の考えを相手に押し付けてしまっている」と思い込み、(被害的な認知の方達に)腫れ物に触るような態度をとってましたが、今は「それは相手の感じ方の問題であり、私の知るところではない」と割り切ることにしています。
    ちなみに、この方のコメントを読んでいて「(相手からの)要求や要望に見えてしまう」のは、ご本人の過剰反応ではなく、元々の依存的な特性から「相手が自分を必要としている」と捉えてしまうからなのでは?と思いました。
    「自分と他者との境界線がない(曖昧?)」と言えるかもしれない。
    私としては「ASを含む依存的な方達にこういった困難さがある」と理解することは、自分の言動を省みる上で大事なことです。
    とても参考になりました。

    • さーこ
    • 2014年 3月 13日

    最近の私は、「自分にできる事には限りがある」、と自分に対して厳しくするようになりました。
    自分の中にある「(言語的な配慮における)過信」を捨て、「生身の自分が現実にできる事」を考え、「自分の生活上における、生身と理屈と行動のバランス(破綻しない領域)を見つめ」ながら、「相手の環境や状況や人生と、自分の環境や状況や人生は、違うのだ」と折り合いをつける。
    自分の困難さと他人の困難さが似たようなものではなく、似ているように見えて異なる場合がある、という事も自分の中でわかるようになったという事で、ここでのやり取りはとても参考になりました。

    • 道産娘
    • 2014年 3月 14日

    「折り合いをつける」
    何だか「常に他者を感じている」ASの方らしい発想だなと思い、考えさせられました。
    私が「自身の言動を省みている」のは、「自分は他者を感じず、知らず知らずの内に周囲の人達を『モノ扱い』して傷付けている上、それを忘れている可能性がある」からという理由もあります。
    相手への誤解を避けるため、常に意識してはっきりモノを言うように心掛けてはいるものの、私は、ASや多数派の様に「言語とほぼ同時に非言語的な部分に配慮する」ことができません。(ちなみに「非言語」について、他の方のユニ〜クなコメントがヒントになり、もう少しで言語化できそうなのですが…考え中)
    なのでストレートな物言いで相手の反感を買ったり、傷付けてしまうこともある…と、自身の言動を省みて、改善できる部分は改善する努力をし、できない部分は「できない」と割り切るようにしています。
    他者を感じないADHDと違い、(特に積極奇異型)ASは「(人の近さから)自身の存在が他者に何かしらの影響を与えていることを常に想定する」と同時に「自身も他者から何かしらの影響を受けている」と考え、厳しくご自身を律して行動するのだろうなと思いました。

    • 道産娘
    • 2014年 3月 14日

    あと「(相手からの)要求や要望に見えてしまう」という見方について。
    自分で「納得」し、受け入れるか・受け入れないかの「選択」ができないのだなと思いました。
    ただ、私がASさんのそういった「困難さ」を知った上でできることは何もありません。
    (元々「本人だけ」のこだわりに対し口を出すことはありませんでしたが)自分とは違う特性の相手を「尊重」し、自分自身の特性も考慮して「相手の言いなりにならず、仕切ることもしない」関係が一番かな。
    私の場合、「依存させて欲しい」という相手の意思を無視して、一方的に「○○させて貰う」と考えているので、「折り合い」とは違うのかもしれませんね。

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