自己コーチングガイド各論② ASの自己理解そのB(状況理解)
B. 「場」の状況(空気)の理解が「独特」であることを理解する。
多数派は、特に複数の人の参加する状況(「場」と呼ばれる)において、他の参加者の表情や口ぶり、態度やしぐさなどの非言語的情報を駆使して、他の参加者の意図や「場」における立場、自分自身の「場」における立場などの「場」の総合的な「状況理解」(「空気」、雰囲気などと呼ばれる)をリアルタイムに直感的に予測・更新し続ける。これを多数派の「状況理解」と呼ぶことにする。状況理解において、言語的な情報のやりとりはむしろ表面的で、本質的なやりとりはむしろ非言語的な形でなされる。
これに対しASは、非言語的な情報のやり取りは出来、また「場」の状況「空気」を直感的に察知する能力は持っているが、その受け取り方、「解釈」が独特という特徴がある。
直感的な状況の察知能力はある意味では多数派よりも鋭く、「回避できない」ほど反応してしまう。(しかしその反応の仕方、状況理解が多数派の状況理解とは異なる意味づけになる)。例えば極端に被害的であったり、逆に相互干渉的であったりする。
その結果として、周囲の人が「引いて」いることを感じたり、微妙に無視されたり遠まわしに不快感を表明されて、「場」の中でのいたたまれなさを感じることが多く、そう感じながらも「意味が分からない」という事態となる。
「自分の生活で上記の説明に当てはまることがありますか?」
この困難さを克服する方法は、まず「自分の状況理解と多数派の状況理解はかなり意味づけが異なる」ことを冷静に理解することである。直感的な状況理解をいったん個々の生の体験である「感じ」の集まりに戻して、多数派の意味づけを想像しながら組み替えなおすという作業となる。
例えば後からでも、「さっきの状況は多数派はこう見る」ということを信頼できるサポート者(理解ある上司やケースワーカーなど)に助言してもらい、状況理解に関する「多数派流の状況理解のパターン」を頭の中に蓄積していく。
また、通常は、「理屈っぽい極端に厳格な人」というイメージとなるように表面上は行動し、言葉で細かく理屈っぽく突っ込むことを繰り返し、出来るだけ言葉で説明してもらえるような関係に持ち込むようにするのが摩擦を少なくするひとつの方法である。
上に書き入れたあなたの困難さに対して、上記の工夫を考えてみて書き入れてみましょう。
YANBARUドクター様、内容の濃い具体的な表現を構築していただき
ありがとうございます。時間もかかった事だろうと思います。
この自己コーチングを参考にする方の視点で考えると、現時点で多数派世界と
どのぐらいの距離にいるか、あるいはどのぐらいの距離を求めるかで、個々の
「状況理解要求度」自体が違ってくると思うので、標記自体が難しくなってしまいますね。
(それこそ百人百色状態です)
ですからまず、自分はどのように生きたいのかという事を、ある程度方向つけておかないと
この先を一人でこなしていくことは難しいなという感じがします。
結局アドバイザー(助言者)が身近にいないことには、状況理解自体どうにもならないのが
私の場合現実ですし、一人でやっていると思考の袋小路に入ってしまいます。
今までの自己診断・自己コーチングを読み通して感じたことは、やはり肝心の
多数派世界の意識をデータとして自分がもっていないため、限界を感じ始めている
自分がいます。(基礎データがない)
正直に言うと、私自身、あまりにも無力です。
ただそこまで思考を進めないで、純粋に今回のテーマである「ASの自己理解そのB
(状況理解)」だけに絞れば、とても参考になっています。
今、何が不足しているか、そして今後、何が必要かがわかりますから。
まず自分自身が落ち着かないといけません。深呼吸してみましょう。
ゆっくり現実との妥協点を検討してみようと思います。
あと、これは要望なのですが、YANBARUドクター様の周りにいるスタッフの方の
率直な意見などが聞けたらいいなと、思います。
(多数派世界への理解の助けになると思います。)
こんにちは。感じた事を率直に書き込みます。
1・
状況理解に関しては、私の場合確かに、「回避できない」ほど反応してしまうであり
被害妄想的であり、こだわりに基づいた独自の解釈=独自の状況理解になっています。
「回避できない」ほど反応=衝動的なので、事柄を理解する前に、自分でも思いもしない
行動をしてしまう事が多々あります。(要するに、この場合、状況理解自体不可能)
そして回避できない反応をした時点で、多数派世界からは迷惑がられています。
(回避できない反応をした時の、周りにいた人々の困惑した顔や目つきが
頭に焼き付いています。=終わらない過去)
2・
>例えば後からでも・・・
確かにこの「後から助言を受ける」のは有効な方法なのですが(それ以外の選択肢はないので)
今、現時点でおこっていることに対しては、無力化されてしまいます。
でも、この作業を繰り返さないと、居場所がどんどん狭くなってしまうので、私は助言を受けます。
3・
>「理屈っぽい極端に厳格な人」というイメージとなるように表面上は行動し・・・
現実的には、理屈っぽい印象を相手にもたれたら、それだけで引かれてしまいます。
なぜかというと、YANBARUドクター様も指摘されているように
>多数派世界の「状況理解」は、言語的な情報のやりとりはむしろ表面的で、
>本質的なやりとりはむしろ非言語的な形でなされる。
であるとすると、言語で細かく理屈っぽく表現すればするほど、摩擦というか誤解される
場面は増えると思います。
多数派世界からみたら、理屈っぽい人間とは距離をとりたくなるのが事実ではないでしょうか。
>出来るだけ言葉で説明してもらえるような関係に持ち込むようにするのが・・・
相手が家族以外では、この関係に持ち込む前に、関係は壊れると思います。
これは実例・成功例を私が知らないからかもしれませんが、想像できません。
お互いに直接自分の意見を伝える事は、この国ではご法度なのではないか
と思うほど、直接的な意見の交換は難しく、嫌われます。
(もっともこのあたりは、私の話し方にも問題点があるので、改善しようと思います。)
ALIVE様
>直接自分の意見を伝える事は、この国ではご法度なのではないか
偏屈者(ADHD)の私とは『直接自分の意見を伝える』という意味合の理解が違うかもしれませんが、
理屈っぽいキャラクターはそれはそれで良いのではないでしょうか。
私は偏屈(ADHD)ゆえ、直接的にしか自分の意見を言う事しかできませんし、納得いかないお付き合いを継続することも難しいことです。
多数派の人なら適当に聞き流して、それなりに関係を継続できることでも、私には耐えがたく我慢ができません。
そんなわけで今日も『偏屈ぶり』を発揮してしまいました。
これで私は、また誰かに嫌われたと思います。
でも、もう、それでいいやと開き直りました。
多くの人に偏屈は受け入れられないかもしれませんが
それでいいや、と思えました。
だから、同じように理屈っぽいキャラでもいいと私は思います。偏屈は良くて理屈っぽいキャラがダメなわけないです。
多くの人に受け入れられなくても、
たとえ少数でも、わかる人は、絶対いますから。
こんにちは。
>2006.11.12 10:41
>自己コーチングガイドの部分のみ、お互いのコメントに対するコメントは「無し」ですが、
>それ以外のご意見は大いに参考になりますので、どしどしお寄せください。
というルールが発動されましたので、さりげなく表現します。
私は言語化に時間がかかるので、昨日までに書き上げた文章があるのですが
私はルールを尊重するでしょう。
「理屈っぽいキャラクター」に関する個人的意見。
私は学生時代から、はっきりと他者との距離感・違和感を感じていたので
いろいろなパターンで他者に接近していきました。
(このあたりが人に近づきたい衝動をもつ自閉症ですね。)
この中で、もっとも嫌がられパターンのひとつが「理屈っぽい」でした。
(会社組織の中での開発業務に限っては、有効である場合もあったのですが・・・)
それで個人的経験上、「理屈っぽいキャラクター」で接すると
(というより素の状態でじゅうぶん理屈っぽいのですが)
相手からの反応が引き出せなくなるので(相手の意見・意識を知る機会を逃す)
「理屈っぽいキャラクター」に意義を感じることができないのです。
私にとっては、どのような意見であろうと、なにかしらのはっきりした意思表示を
してもらわないと、私自身反応できないのです。
正直で率直な意見が、私の反応できる数少ない言葉なのです。
(暗黙の了解とか社交辞令等は、私の想像力の及ばない場所に存在している。)
コメントありがとうございます。
ALIVE様
今書いている自己コーチング②は自分自身の特徴の理解が目的ですから、どうするかの前にまず理解を考えましょう。
また後で、別の形で具体的な「どうしたら良いか」のコーチングについて書くことになると思います。
相手との「近さ」「避けられなさ」がある以上、客観的な認識を可能とする距離でさえとり辛いことはあなたの言うとおりですね。
私が「理屈っぽい」イメージを勧めるのは、実は「それ以上に誤解されるよりはマシ」という意味です。
確かに好まれるイメージとは言えないと思いますが、ASの人が現実に持たれているイメージは実はもっと厳しいことが多いのを私は知っています。
また、理屈っぽいイメージでであれば、わずかに多数派の中での理論的な思考を重んずる人たちとの接点を作るチャンスがあるということもプラスです。
比較の対象が、私は悲観的過ぎるのかもしれません。
yurin様
ADHD的には一部の人にでも分かってももらえれば良いので、抵抗はないですね。
コメントありがとうございました。
YANBARUドクター様
>今書いている自己コーチング②は自分自身の特徴の理解が目的ですから
>どうするかの前にまず理解を考えましょう。
そうでした。ご指摘ありがとうございます。
>私が「理屈っぽい」イメージを勧めるのは、実は「それ以上に誤解されるよりはマシ」という意味です。
わかりました。このぐらいストレートな表現ですと、とてもよく理解できます。
(私は言葉では傷つくことはありません。傷つくのは行為によってのみです。逆にみると、言葉で
多数派世界の人々を傷つけることに鈍感かもしれないです。そうです。やはり私の話し言葉は
多数派世界の人にはきついかもしれません。注意しなければなりません。)
>理屈っぽいイメージでであれば、わずかに多数派の中での理論的な思考を重んずる人
>たちとの接点を作るチャンスがあるということもプラスです。
この表現にYANBARUドクター様のご配慮を感じます。
確かに数少ない理論的思考を重んずる人たちとの接点になります。
私は自分で自分のプラス面を見出さないといけません。
私は自分で自分をはげまさないとなりません。
いいことに気がつきました。
>比較の対象が、私は悲観的過ぎるのかもしれません。
いえ、現実的だと思います。あまりにも高いハードルを示されるよりは安心できます。
どうもありがとうございました。
私の場合の状況理解
とても被害妄想的になってしまいます。
「見えすぎるほどの状況」なので頭の中は多分オーバーヒートになっていると思います。
当然逆に「見られている」とゆう感情も出てきて、参観日や運動会などは保護者として学校に行くことはこの上ない苦痛です。
かといって、「多数派」になろうと無理に合わせると、ますますどつぼにはまってしまいます。
「分からない」ことに「不安」になって、執拗に聞くと回りが引くのは理解しているので、逆に、「分かっているふり」をすることで結果的に相手に不信感を与え、自分自身も「挫折感」を味わうことになります。
YANNBARU先生の仰るとおり、「理屈っぽい極端に厳格」な人のほうがまだ相手と分かり合えるような気がします。
>例えば後からでも「さっきの状況は多数派はこう見る」とゆうことを信頼できるサポート者に助言してもらい・・・
私には信頼できるサポート者がいませんので、その辺は自身で修正するしかないですね。
例えば、被害妄想的に考えているときはなるべく違う事を考えるとか・・・・。多数派の考え方を理解するにはまだ時間が必要かもしれません。
少しずつ「見せ掛けの多数派」から脱却して、私なりの「個性」を取り戻し、そこそこ「多数派」に交わっていくのが当面の目標です。簡単ではありませんが。
過去の記事を読ませていただき、ようやくわが子が積極奇異型ASだと考えるに至りました(母である私の診断ですが)。
自己正当型の要素を持つ合理的ジャイアンの私とは、難しい親子関係になるということも、よくわかりました。
今わが子(15才)の現状は、この記事の状況に合致しており、集団生活その他の生活に支障が出ています。
子どもは生きづらさを感じて、とても辛いのだろうと思います。一方、子どもの言動により、学校その他に迷惑がかかっています。犯罪行為はありませんが、常識的には、子どもの行動は意味不明に見えると思います。
私は「子どもの言動を尊重し、子ども自身に任せること」が、親のできる唯一のことと考え、この2年ほど一切の手出しをしていません。最近の親子関係は徐々に良くなっています。
本音を言えば、この機会に確定診断を受け、然るべきサポートを受けることが、子どもを楽にする方法だと思っています。
しかし親子の相性の問題もあり、母から上の提案をすることは困難です。したがって、子どもが通院その他のサポートを求めてくるまで、母からは動けないな・・・と思っています。
私には、ASの子どもの気持ちが理解できていません。
ASの方から見て、ジャイアン母である私の対応はどのように感じられますか?
ご助言いただけましたら、うれしいです。
るるさん
すみません、私は一応ASですが、全然お役に立てそうもありません。ジャイアンのお母さんとASのお子さんの関係に一番良い方法というのが、良くわからないからです。YANBARU先生ならたぶんおわかりになると思うのですが・・・
ただ参考までに、我が家の例をお話しますと、我が家の子ども(AS2名)はわかりやすい症状(1人は強迫性障害、1人は対人恐怖症)があったので、母親主導で、病院に連れて行きました。
ASの子どもの場合、すべてを任せられるより、お母さんにどんどんリードしてもらう方が安心するかもしれません。
今、娘にそのことを聞いてみたら、「お母さんがいろいろ調べてリードしてくれたから助かった」と言っていました。
るるさん、追記です。
今朝、先生の新しい記事「のび太と依存2」を読んで、なるほどと思ったのと同時に、以前の子育てを思い出しました。
カウンセラーが私に教えてくれた一番初めのコツは
(たぶんASと多数派の子ども向きなのかもしれませんが)
「子どもは何をしていいかはわからなくても、選択することはできるから、お母さんがいくつかの選択肢を考えて、これらのどれがいい?と聞いて選ばせると良い」とのことでした。
カウンセリング以前は私の意見を押し付けるのみだったので、子ども達は萎縮して、ストレスも大きかったようですが、選択肢を選ばせることによって、すごく関係がスムーズになりました。
それにしても先生の新記事を読むと、ADHDのお子さんは放置がベストとのことなので、るるさんのお子さんがADHDかASかをしっかり見極めることはすごく大事ですね。
方針がガラッと変わってきますからね。
アメジストさん
アメジストさんのお嬢さんは、リードされてうれしいとお感じになられたのですね。
我が子の場合は、親子関係が明白に悪化してから、強い言葉で「絶対口出しするな」と言い続けていました。
今思うと、同時に「思いを察して、私の思い通りに動けよ!」オーラもすごかったのです。
実は2年前当時は、そのことがわからなかったです。ブログなどを参考に、最近ようやく強い依存関係に気づいた次第です。
現在も、言葉では「口出さないで」と同時に「私の思いを察して適切に動いてよ」という雰囲気を感じます。
私は、母が察していてはいつまでも互いの自立につながらないと考え、あえて“察しない立場”をとっています。
「察してほしいことを言語化して他者に伝えること」が、自立につながるのではないかなぁ、と思えるので・・・。
それに、私の“察し”は多分、子どものポイントをはずしていると思います!
アメジストさんのコメントには、ほんとにいつも助けられています。ありがとうございます。
このコメントは非公開希望です。
先生が「ASの子ども」も本来「放置」が良いとお考えでしたら、今朝の、「私のこの記事へのコメント」は不掲載になさってください。
アメジストさん
6月24日07:49の投稿は、アメジストさんの「追記」を読ませていただく前の書き込みでした。
現状として、子どもは私の提案を受け入れられる心境にない、と言えます。2年半前くらいから、すべての声かけを「拒否」していました。
今春以降ようやく、少し話せるようになってきましたが、それでも、少しでも提案の要素が含まれると途端に不機嫌になります。
「そんなことわかっているから言わないで」「ほかならぬ母だけには言われたくない」気持ちが強いように見えます。
ジャイアン母を「逆支配(?)」したいようにも思えます。
ASかADHDか、この見極めが難しいこと、こちらのブログからも伝わります。子には非常に行動的・衝動的な面もあるので、ADHDである可能性も捨てられません。ただ、柔軟性は全く感じられず、一度思い込んだら、認知の修正は非常に難しい印象です。
大人に対しては、大人の意向・常識に沿って流暢に話すし、場に即した対応ができてしまう子です。対大人のリアルな関わりの中では、子どもの独特な個性をわかってもらえず、行動の突飛さだけが問題になります。
いろいろ難しいです。
少し時間を置いて、現状を考えてみました。
今の気持ちをまとめてみます。
1.ひと月ほど前から、諸々こう着状態となっており、早急に決着したいジャイアンるるにとって、非常にストレスフルな状況が続いていることに気づいた。
2.アメジストさんのコメントを読み、ひょっとしたら子どもも、心の奥では(無自覚かもしれないが)助言を求めているかもしれないと思えた。私自身が「提案なんてもってのほか!聞いたことだけにさっさと正確に答えて」というタイプなので、子どもの「拒否」も同様の心情からなされているとしか思えていなかった。
3.自分自身のいら立ちと焦りを、少し冷静に見ることができた。
とりあえず、今の自分ができることは、ゆったり構えることだと思いました。
まずは子どもが自分の現状に向かいあい、自分を理解することから始めるのが相当なのだろうと思えました。時間がかかっても。
サポーター云々は、その後の話ですね。
しかし同時に、私にとって理解不能な言動を違った角度から捉えられることを知り、子どもとの関係が変化するきっかけになると思いました。母の受け止め方が変われば、事態も変化するのではないかなぁと・・・。
アメジストさんのおかげです。
るるさん
コメントを読んで、「すごい!」と思いました。今朝から今夜までの間に、これだけ洞察が深まっているとはびっくりです。臨床心理のいいセンスをお持ちですよ。(素人がこんな生意気なこと言ってすみません)
>とりあえず、今の自分ができることは、ゆったり構えることだと思いました。
これはすごく大事なポイントですね。実は私がカウンセリングを受けた時に並行して習ったのは「リラクゼーション」でした。
それまで、いつも肩に力が入っていて、何でも頭でっかちに考えているから、子育てがうまくいかないのだと教わりました。
肩の力を抜いて、いつもゆったり構えるようにしたら、自然と子どもに対する態度が変わってきたし、子どもはそのことに敏感に反応しました。母親の変化が本能的にわかるんですね。
そのベースの上に親子の信頼関係がだんだん作られてきました。一度、信頼関係が出来上がると、コミュニケーションが自由自在になりました。新しいものを取り入れてもスムーズになじむことができました。
「急がば回れ」で、じっくりと進めば、きっと事態が好転すると思いますよ。
アメジストさん
肩の力を抜いて、ゆったり構える・・・
これが私にとって、何よりも難しいことなんですよね(苦笑!)
ともかく、がむしゃらに動きたくなっちゃう!
とりあえず“戦略的ゆったり”という風な、ゆったりすることを目的にじたばた行動する感じ、で行こうかなと思ったりしています。
↑これでホントにゆったり構えられるのか!?
いつも温かいコメント、ありがとうございます。
>肩の力を抜いて、ゆったり構える・・・
これが私にとって、何よりも難しいことなんですよね(苦笑!)
ともかく、がむしゃらに動きたくなっちゃう!
なるほど。以前、YANBARU先生も「自分はリラックスというのはニガテだ」と書いていらしたことがありました。
そうだとすれば、別の方向からのアプローチがいいのかもしれませんね。
そのあたり、タイプの違う私にはどうすれば良いのか、よくわからないんです。
リラックスについて話が出ているので…。
ADHDさんは、おそらくどこまでリラックスしていいのかわからないのかもしれないと想像します。
私の母がジャイアンADHDだと思うのですが、母本人の衝動によるこだわり(低周波治療器使用)に、相乗効果を期待するオイルトリートメント(以前から母本人が気に入っているラベンダーの精油を使用)を、本人の同意を得てからするのですが、熟睡傾向にありますね。
ADHDさん本人の衝動を尊重しながらも、プラスアルファの効果を狙って、受け流しながらも再度本人の元へと気を導く循環のイメージで私は接しています。
「私は脇役」という感覚を持てるかどうかなのかな。
一つの事例として参考までに。
もっと正確に言うなら「私は脇役」というよりも「私は中継地点」と言った方が近いかな。
他人の体をトリートメントしている時、私は「循環」のイメージと同時に「透過」のイメージも少し感じながらしています。(濾過ではありません、念のため)
アメジストさんは、私の母の長年の友人に少し似ていますね。
私は、自分が小さな頃から、実の母よりも慕っている尊敬するおばさまで、ついこの間「心が開放されている」というような言葉を言われたばかりです。
その穏やかな人柄でありながら、なぜか人生は紆余曲折であり波乱万丈で密度のある人生を送っているようです。最近、産業カウンセラーの試験に合格したそうですよ。
余談でした。
さーこさん
コメントありがとう。アロマテラピーは奥が深そうですね。リラックス効果が強いんですね。
私は人生経験は豊富ではありませんが、家族や親せきを通して、精神科の病気とは縁が深く、病院やその他の療法と関わる機会は多かったと言えますね。
さーこさん はじめまして。
「脇役」「中間地点」・・・どちらもジャイアンるるの頭にはない感覚でした。
自分からは到底考えつかない“キーワード”を、どうもありがとうございます。