ADHD関連

コーチング②ADHDの対人関係

自己コーチングガイド各論② ADHDの自己理解そのG (対人関係の特徴) (ADHDのACは除外、別に論ずる予定)

G.ADHD特有の対人関係の特徴を理解する。

 多数派は対人関係を、全体として複数の人で構成される「場」として認識し、その一要素、一構成員として自分自身や他者を認識する。「場」においては、自分自身から見て重要な人と重要でない人の序列(立場)があるほか、「場」全体の中での(雰囲気として察知される)「仕切る人」と「従う人」の序列(立場)もあり、そういう複雑な関係の絡み合った「場」全体が人間関係となる。

 多数派はその中で、自分自身の序列(立場)や、相手の序列(立場)とを瞬時に直感的に察知して、基本的に「表立って対立が生じない」ことを重要として対人行動を決める。

 従って、多数派は特定の二者関係も、その他多くの関係の中で「比較的近い相手との二者関係」であり、言わば重要性は「程度の差」であって、ある相手との関係が他の一切の関係に優先する「絶対的」であったり、また逆に「完全に平等」ということもない。

 これに対しADHDは、人間関係を基本的に「一対一関係の集まり」と認識し、多数で構成する集団の「場」をほとんど認識しないで、基本的に一対一の場面での対人行動をそのまま集団の中でも適用してしまう。

 また、ADHDは、基本的に特定の他者に執着はなく、「誰にでも平等かつ対等である」ことが対人関係の特徴である。人との関係は常に対等で、お互いを尊重し、束縛を嫌う。人に対しては、「理解(自分を理解してもらうこと)」だけは求めるが、「相手の考え方は自分と違っていて当然」で、対立を恐れることなく、同じになることを要求することもない。

 また、意志伝達を主に言葉のみで行い、言葉の上の文字通りの「理解」がADHDにとっての全ての理解である。 

 

 あなたの生活で上記の説明に当てはまることがありますか? 具体的に書き出してみましょう。

 

 この対人関係の特徴は、現実生活の中では、多くの場面では多数派から「状況を弁えない」という反発を食らうことも多いが、ある特定の場面ではプラスに働くこともある。「例えば仲間外れにされた人(弱者、疑い深い人等)と仲良くなる」 ことはADHDは得意である。

 ADHDの側から努力するべき点は、「多数派が集団の「場」での対立を恐れる行動パターンを持っている」ことの理解と、多数派からの誤解を回避するための予防策だ。例えば、「重要なことは一対一の場で伝える」などは有効である。

 また、「理解」の意味が違うことを理解することも重要だ。ADHDの求める「理解」は厳密で、必ずお互いの考えをぶつけ合うことを必要とするが、多数派の意味の理解は、ただ「表面上対立していない」というだけの意味であり、それを(ADHD的には無意味に見えても)多数派は後生大事にしているのだということを理解する。 

 

 上に書き入れたあなたの困難さに対して、上記の工夫を具体的に考えてみて書き入れてみましょう。

 


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コメント

    • yurin
    • 2006年 11月 21日

    私は過去に人間関係に失敗が多く、過去のたくさんの失敗から多数派を観察した視点から、考えたこと感じたことを書きます。
    >多数派は特定の二者関係も、その他多くの関係の中で「比較的近い相手との二者関係」であり、
    というのは、多数派の人が特定の二者関係を決めるときは、
    『トータル的に相手(人)をみたときに、その人間関係の場のイメージ(雰囲気)に近い人を選ぶ』ということではないかと思います。これは自分自身が『場の雰囲気にあった人』であろうとするためでしょうか?
    >言わば重要性は「程度の差」であって、ある相手との関係が他の一切の関係に優先する「絶対的」であったり、また逆に「完全に平等」ということもない。
    これは、多数派が常に協調や調和を重んじるゆえでしょうか?特定の人に対して極端に『絶対的』であっても、また『完全平等』であっても、全体から自分達の関係を見たとき『調和』を取るにはしばしば都合が悪くなる。
    簡単に言えば『表面上誰かと特別仲良くなったり(絶対的な関係)、誰とでも完全に平等であったりするよりも、たとえ同じ相手であっても時に親和的、平等に接していたとしても、時には自分が一歩下がって相手を立てたりしたほうが、結果的に全体の関係を自分にとって有利にすることが多い。
    (つまり全体の関係を、自分の味方につけるためでしょうか?)
    続く・・・

    • yurin
    • 2006年 11月 21日

    ・・・・続き
    私は頭でわかっていても、こんな対人スキルは到底身につけることはできません。
    だいたい『状況がわからない』から、誰が仕切る人でだれが従う人なのか、直感的にはさっぱりわからない。
    それがどうにかわかって、『従う立場』とわかったとしても私は『人間はいつの時も誰に対しても対等』というポリシーは絶対捨てられなかったし、これからもそれは変わらない。だから、従う立場なのに仕切る人に逆らうような行動をしたり、言ったりしてしまう。すでにこの段階で『タイミングに合わせて相手への対応を変える』という技は使えない。
    たとえ使えたとしても当てをはずすか、納得できなくなって、しまいにぶち切れるのが毎度のパターンだったように思う。
    だから結論は『最初はどうにか合わせていてもそのうちぶち切れるのだから、最初から無理して多数派流でやろうとしない』。
    それでも、多数派流でないといけない場面は多い。子どもの学校の親同士の付き合いはそれだ。一応合わせてはいるけど、それが辛くなってきたらそれ以上無理しない。一時的にその場を離れるか距離を置く。時には理由をつけて集まりに参加しない。たとえ無理して仲良くなっても、毎度のようにぶち切れてしまって評判を落とすとちょっと厄介なのがこの手の付き合いだから。
    ただ、たまにだけど私に『愚痴』を長々と話す人がいる。
    いつも特定のグループに属さないから、かえって話がしやすいのかもしれないと自分では思っている。

    • yurin
    • 2006年 11月 21日

    『調和』という言葉について:
    私が対人関係で『調和』という言葉を使う意味合いについて書きます。
    それは『その場(グループ、人間関係含めた)のバランスや彩り』。料理で言えば『盛り付け』、洋服でいうなら『コーディネイト』のようなもの。
    単に『人が何人か集まってる状態』が私にとって『集団(グループ)』なのですが、多数派の人には単純にそれだけではない『意味合いや存在などその他もろもろ』がそこにあるような気がしています。

    • ミリ
    • 2006年 11月 22日

    >(ADHDのACは除外、別に論ずる予定)
    現在の私自身の状況は、ADHDのACとADHDの部分が両方とも、存在しているように思えるのですが、
    現在の職場に入ったばかりの頃、あることで、疑問を感じ、上司に「これは、おかしいのではないか?」というようなことを、他の人もいる前で、伝えたのですが、
    上司の返答は、「おかしくない。それは、そういうものだ」といわれ、
    私は、本を調べて、「ここにこのように書いてありますが、どうなんですか」と更に言いかけたら、
    周囲の先輩から、口々に「もう、やめておきなさい」と止められた経験があります。
    今でも、私が、その時に、言っていたことは、正しかったと思えるのですが(上司は、その件に関しては、知識が古かった)、
    私は、場の状況を考えずに、発言していたので、周囲に止められたと思います。
    今も、そういうことをしてしまうこともあるのですが、反応が怖くて、言いたいことを言えなかったり、考えすぎてとんちんかんなことを言ったりすることも多いです。
    偉い人の前や、会議の場では、緊張が強く、言いたいことの十分の一も言えない場合が、ほとんどです。
    >「相手の考え方は自分と違っていて当然」で、対立を恐れることなく、同じになることを要求することもない。
    このようになりたいものです。
    自分は、対立を恐れています。
    理想的には、対立を恐れず、自分の言いたいことを、周囲に理解できるように、上手に、発言できることができたらと思うのですが、理想が高すぎるかもしれません。

    • yurin
    • 2006年 11月 28日

    ・・・今日、多数派を観察しながら。
    多数派とは基本的に
    ・『異質』と見ると反射的に排除しようという性質があるが
    ・表だった対立は避けたいので
    ・排除しようとしている相手には、その本心を悟られたくない。
    この結果、多数派はADHDの私に対してある時はさりげなく無視、またある時は表面上親和的になる。これは私にとって少しばかり『居ずらさ』も感じるのだが、そのあたりは言葉で説明してもまずわかってはもらえない。(説明すると更なる誤解や反発を招く可能性がある。)
    多数派の人と仲良くなれなくても『あの人たちは所詮違う人種(脳の持ち主)なのだから』と認識することがまず大事だ。
    私ができることは、とにかく『多数派を観察すること』しかない。
    そして観察結果から自分なりに作成した『多数派の見る人間関係図』を割りだしそこから『多数派が望んでいるであろう私の行動』を『想像』して『なるべくそれからはみ出さず』動く。
    簡単に言えば『発言、行動が控えめになるようコントロールする』ということになるのだと思う。
    多数派同士であっても表だってないものの『影の対立』は必ず見られるというのも重要な事実で、これはADHDにとって、もはや理解も想像も不可能な世界になる。
    状況が読めないADHDの私としては、『必要以上に踏み込むとかえって危ない』ということもわかってきた。

    • 匿名
    • 2006年 12月 10日

    コメントありがとうございました。
     
    yurin様
     多数派流の「協調」「調和」の分析はずっと続けましょう。ADHDの側から全部を察知することはあなたの言うとおり不可能です。まあ「想像」くらいはするようにしておけば大丈夫です。
     ところで世間には幸いに「道理」とか「筋」「建前」というのがあり、ADHDが「正論」を突き通すと、多数派は反論出来ません。ADHDは「あくまでも正論を主張し続ける」という戦術があります。「致命的な対立を招く直前まで突っ張ってみる」と言うイメージで行くと、以外に「押し切れた」ということになることがあります。
    ミリ様
     ここに書かれているあなたの態度は、多数派からはおそらく「大変なトラブルメーカー」「上司に好んでケチをつける悪意の行動」と誤解される可能性が大です。
     あなたの行動は決して間違っていませんが、「うまくいかない」ことが分かれば、別の戦略が可能となります。
     例えば「一対一の場で話す」というような方法は有効です。多数派の行動は一対一では変わります。
    コメントありがとうございました。

    • olympia
    • 2007年 10月 14日

    初めまして。
    これまで、うつ病・多動の目立たないADHDなどの診断を受け、
    主観的にはACだと感じている者です。
    最近こちらのブログを拝見し、中でもこの記事に非常に関心をひかれましたので、
    コメントさせていただければと思います。
    こちらに書かれている「場の論理」は、西洋流の「個の論理」に対する
    日本的な対人態度の特徴として、故・河合隼雄氏が紹介している内容に近いと感じ、
    しかし、さらに詳細に解説されているものとして拝読いたしました。
    >多数派はその中で、(中略)基本的に「表立って対立が生じない」ことを
    >重要として対人行動を決める。
    この傾向は、政治家の会合から中学校の教室にいたるまで、
    日本人の大多数によって取られている態度および行動原則だと思います。
    私自身の経験では、それ以前は子どもらしさから本音の発言をしていた級友たちが
    ある時期からパタッと集団の場で「意見」を表明しなくなり、
    なんともいえぬ抑圧的な空気が流れ始めたのが小学六年生頃からだったと記憶しています。
    HRでも、場の調和を乱すような発言は許されないという空気が流れ始め、
    そこで意見を言う者がいると目立ちすぎて「場違い」になってしまい、
    対立を恐れずに議論をしたい、という自分の素直な欲求が全く封じられる
    状況が始まりました(日本では学校に限らず、ほとんどの場所でそうなのだということは
    成長するにつれて思い知りましたが)。
    そこで、苦労して多数派の真似をして場に合わせようとしてきましたが、
    どんなに努力しても「普通」になることはできず、
    「天然」とか「個性の強い変わった人」と思われてきたようです。

    • olympia
    • 2007年 10月 14日

    (続きです)
    >これに対しADHDは、人間関係を基本的に「一対一関係の集まり」と認識し、
    >多数で構成する集団の「場」をほとんど認識しないで、
    >基本的に一対一の場面での対人行動をそのまま集団の中でも適用してしまう
    私の意識では、人間関係は常に一対一の「我と汝の関係」で、会話は「対話」であり、
    それ以外の形にはあまり関心を覚えることができません。
    「場」に合わせるのが苦手ということも含めて、これもADHD特有の認識なのかと
    目を開く思いでした。
    長年、苦労して適応しようとしてきたため、
    自分が素直に発言すると周囲がどんな反応をするかはよくわかっています。
    「びっくりし、後ろへ飛びのくような引き方をする」のです。
    これは、「意見なんか言わないで黙ってやり過ごすべきところで、
    自分の意見を言った」とか、「建前で濁すべきなのに本音を言った」ときです
    (誤魔化して通すべきところを、正直に言う信じられない奴、
    という驚かれ方をしたこともあります)。
    やんばる先生がお書きになっているとおりです。
    けれども、ADHD特有の率直さを喜んでくれる人たちもいます。
    日本で暮らす、在日外国人の方々です(仕事でしばらく関わりがありました)。
    彼らは慣れぬ異文化の中で、日本独特の「場の論理」「場のルール」にとまどい、
    なかなか本音を語らぬ日本人を不正直と思ったりしているのですが、
    (ようやく話の通じる日本人に会えた)という感じで、
    「正直に言ってくれてありがとう!」と感謝されることが何度もありました。
    (これが、ある特定の場面でADHDがプラスに働く部分ですね)。

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