ADHD関連

ASとADHDについての中間総括

 私は(児童の専門でない)精神科医から出発してこれまで主に成人発達障害について考え続けてきた。
 私の考え続けたテーマの中心は、「ASとADHDはどこで区別できるか?」だった。
 中間総括として、現時点での私の考えをまとめておこう。

①ASは、本当の意味で自分を客体視することが出来ない。(自分を中心とする自分のほうからのパースペクティブしか出来ない)。自己突っ込みが出来る(見られる)場合にはASではない。

②ADHDは基本的に人を「利用」はしても人にこだわることは非常に少ない。他方ASは人にこだわり、人を無視することが出来ない。

③ASは愛着の相手とそうでない相手の場合に根本的に異なる行動パターンを取る。(ダブルスタンダード)

④自己突っ込み(やそれの現れとしての先延ばし)が見られればADHDであるが、ADHDは全てに自己突っ込みが見られるわけではなく、自己突っ込みのないADHDもあり、それは依存型ジャイアンである。

⑤受動型ASは愛着でない世間には合わせて生きるが、愛着の相手には100パーセントの理解や受け入れを要求し、高圧的になる。
 他方積極奇異型ASは世間には抗して我が道を行くが、愛着の対象には甘く尽くして厳しい態度を取れない。

⑥依存型ジャイアンは、ADHDの場当たり性を極限まで突き詰めた一瞬だけに生きるADHDであり、過去は全て忘れ、その瞬間の状況に合わせるだけとなり、その結果合理的思考が出来ず、「生きた他者」の認識も出来ない。

⑦受動型ASと依存型ジャイアンは(自分が無い、責任の自覚が困難などの点で)表面上非常に似ているが、受動型ASは「自分から動かない」「人を無視できない」「愛着の対象には依存しているのに高圧的に振舞う」のに対し、依存型ジャイアンは「人は単に利用や依存の対象でしかない」「依存相手から言われれば素直にまめに行動する」という意味で区別できる。

⑧ジャイアン型ADHDと、いわゆるノビ太型との違いは、非言語的状況察知能力の差であり、ノビ太とはKYなADHDのことである。

⑨ジャイアン型ADHDは、自分の有利不利に関係することだけ非言語的に非常に鋭敏に察知できるが、逆に自分の行動の他者への影響についてはまったく対照的にKYとなる。これを私は「状況理解の非対称性」と呼ぶ。

⑩上記①③④などにより、ASとADHDのケアの方針は全く別の考え方とならざるを得ず、診断上はきちんと区別することが重要である。

以上、「自説」でしかないので、これから少しずつ学問的な形にまとめて行こうと考えている。


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  5. 原点回帰
  6. 行き違い共依存
  7. ジャイアンのACの治療
  8. 日本ADHD学会

コメント

    • mario (AS)
    • 2009年 9月 07日

    個人的にですが、整理して頂きたいなぁとずっと思っておりましたので、嬉しく思います。
    もし出来るならば、先生の視点・分類で子供の発達障害も扱って頂けたらと思います。子供たちが大人になった時に少しでも苦しまずに済むような育て方を模索していますので。(私の息子が積極奇異型AS疑い、ガールフレンドの子供が依存型ジャイアン疑いです。)
    あと①ですが、「本当の意味で自分を客体視することが出来ない」の意味がいま一つ分かりません。
    私は常に自分を客観視し、行動や考え方を変更・調整し続けているつもりです。自分以外の全ての人から「あなたは正しい」と言ってもらわなければならない感覚からですが…
    これは“本当の意味”では無いですか?
    本当の意味とは何ですか?
    私にはダブルスタンダードも余り無いと思います。多分、誰に対しても甘くかつ厳しいです。パートナーに対しても“表面的に甘く接する”事が出来ない(嘘がつけない)ので、何かのキッカケで感情が一旦すれ違うと、関係の修復が難しいです。

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 9月 09日

    >自分以外の全ての人から「あなたは正しい」と言ってもらわなければならない感覚からですが…
    この点で、客体視にならないと思います。正しいor正しくないといった価値判断は、ひとまず脇に置いて、捨象して、他者、相手からは、どう見えるか、見えているか考えることではないでしょうか?
    欲を言えば、その二人を脇から岡目八目で見ている第二の視点でも見れると良いと思いますが、、、
    全ての人から正しいという評価を得たいと言う欲望を捨てるのは、難しいですが、、まして愛着の対象の人から得たいと言う気持ちはASの根源的な欲求ですから、困難度は高いですが、これを何とかしないと、結局、愛着対象をコントロールする、正しいと言うようにコントロールすることになると思います。

    • pal
    • 2009年 9月 09日

    私のそばの依存型ADHDではないかと思われる人たちは、唯一KYでない自分の損得という面で相手に突っ込まれると、ものすごい勢いで攻撃してきます。攻撃の仕方は高圧的で、感情的、幼稚で論点がずれているのですが、上げ足の取り方は超うまいのでついかっとして相手のペースにのりそうになってしまいます。
    攻撃してこない依存型ADHDタイプの人もいるのですが、こちらは突っ込んでもとりあえず攻撃してこないので、取りあえずは問題ないのですが、上手に依存するのでその迷惑さに気付くのに長期間かかってしまいました。
    前者の攻撃的な人たちは依存型ADHDと呼ぶのか、それとも自己愛的人格障害とよぶのか、自己愛的人格障害だともっと狡猾に長期にわたって相手を貶めていくイメージがあるので、ひどい攻撃はその場かぎりが依存型ADHDなのか。
    高圧的に攻撃、という点ではASとの区別もなんだか難しい。
    でも依存型ADHDではないかと思われる人達と接していての感想は、彼らは自分の他者と比べてのおかしさを奥の奥のほうのどこかで感じている、だけど自分のペースでやっていくために、(というよりは一番ラクに労力を費やさずに皆が良いと思うものを手に入れるために)、良くわからないけれど、なんだかものすごい能力をつかって、都合の悪いことを忘れ、相手の存在をオートカットし、依存し頼れるものはすべて使って最小限の労力で実を取ろうとしているかのような印象を受けます。
    ある意味異様に極めている、というか・・・
    ただ他とのアンバランスさで、最終的に得はしないのですが。
    そしてもうひとつ不思議なのが、彼らは「いいもの」を手にいれたがるのですが、手にいれようとする「いいもの」の価値基準は、ASと違って、大概がとっても「他者から賞賛されるもの」、なのです。そういうものを超ラクに手に入れようとするから、騙すほうからみるととてもわかりやすく、本人は気付いてないけど利用されてることが多い。ただ、形としてはおかしいけれど、人とは関われている。
    そういうのを見ていると、ASとは全く違う形で、他人にはわかりにくい、最後には自分が一番になって関わりたいという形での「他者との関わりを強く求める人たち」なのかなあ、という気がしてきました。

    • mario (AS)
    • 2009年 9月 09日

    ヒゲ達磨(AS?)さん、ありがとうございます。
    ご指摘の点は良く分かっています。他者からどう見えているか出来る限り客観的に判断し、相手に何かを言う事無く、自分の行動を変更・調整するように心掛けていますよ。
    結果として(主に他者に何かを求めない点で)、嘘つきになった自分に苦しむ毎日です。ASは自分の心の中にあるものを他者に押し付けないと言う点で、自分に対して嘘つきになる必要があるんじゃないかなぁと思ったりしています。

    • mario (AS)
    • 2009年 9月 09日

    palさんのコメントを読んで、ADHDの分類が余計に分からなくなりました…
    最初に攻撃的と書かれているのは、依存型ではなく素のジャイアンではないですか?指摘が的確であればあるほど、自己突っ込みと自己保身の狭間で本人がヒートアップし、凄い感情的な逆襲をしてくるのだと理解しています。本人は後で自己突っ込みに苦しむらしいですが…
    依存型は、不利な反撃よりも、その場を取り繕うようなゴマカシをする印象ですが… 良く分かりません。

    • kcotan
    • 2009年 9月 09日

    ベースにミラーニューロンの統合不全というか、自閉圏の特徴があるかないかっていうのの上に、さらにADHDがあったりなかったりするんですよね?
    私は大雑把に、その人が人にからかわれたときの反応と、普段の表情をかなり手がかりにして区別してます。

    • ひまわり
    • 2009年 9月 13日

    『自分の特性を調べたこともない、言われたこともない知らない、高い高いプライドを持った未自覚のAS』
    の旦那には、①③⑤⑦の受動型ASの特徴が当てはまります。
    先生の「自説」であるというものの、確かに依存対象に対する態度はまさにその通りです。
    >「自分から動かない」「人を無視できない」「愛着の対象には依存しているのに高圧的に振舞う」
    ・・・こんなところが私(合理的なADHD)には我慢ならないところです。
    私が依存に走りそうなときは、まさに
    >「人は単に利用や依存の対象でしかない」「依存相手から言われれば素直にまめに行動する」
    という態度に出てしまうため、共依存になると心身ともにやられてしまい、
    しかし、自己突込みが復活すれば、「利用価値なし!」として、切り捨ててしまう。
    人のことは分かるんですが、自分が
    >逆に自分の行動の他者への影響についてはまったく対照的にKYとなる。
    ・・・と言われると、辛い。
    こんなに自己突っ込みしてしまうのに、KYな面があるとは・・・。
    marioさんも書かれていますが、
    >私は常に自分を客観視し、行動や考え方を変更・調整し続けているつもりです。
    この辺りが分からないから、発達障がいなのでしょうか?

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 14日

    ここのブログ記事にはどちらかというと就労以前の問題を抱えている人が取り上げられていることが多く、それは実際に優先順位として取り組まなければならない状況の人達ではあるのでしょうが・・・。
    自立支援が言われ出した初期の頃の当事者自己啓発の風潮に乗せられて現在私のように訳も分からず社会に食い付いている者、そして問題点を改善しきれず持て余されている者が居続けることも、犯罪行為とまではいかなくても迷惑行為であることには変わりないと思うことがある訳です。
    人の顔色が変わる、集まって何か話している、話が広まる、謝る隙が無くなる、自分の価値が無くなっていく過程をリアルに進行するスローモーション映像で見せられ続け、それを語って客観的見解を貰う場所も無く、笑顔で正気を保ち続けろと望まれても長期的には無理なものは無理でしかない。
    仕事一つ取っても、こだわる強さも長さも一カ所で仕込まれたらその思考回路というか癖はしばらく継続する訳ですが、隅々にまで視界に入れ、実際の業務に採用するものとしないものに分けてその理由も一つ一つ揃え、その答え合わせをどこまでも理論整然とし続けてやっと確認作業が終わりの時代と、問題をカテゴリー分けしたら見出しだけ要るものと要らないものに分けて、その理由を確認したら方向性の設定を完了して、後は具体的業務内容は個人の責任で作成提案してねのやり方に、人が変わったことで変わっても、私はそれを半年経っても察知できません。
    どこまでが私の責任で出す答えなのか、その見誤りで似たような経緯の問題を何回も起こし、根本的な姿勢の間違いなのか、業務連絡として要求されていることの読み間違いなのかが聞かないと未だに分かっていません。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 14日

    続きます。
    それをその場で確認するためにはこのコメントに負けない長文で口頭語りをつづけなければならなくなるので、処理しきれなくなりどこかで感情的問題に置き換えられます。実家が先頭を切ってもうこの対応です。
    実際、このコメントも目をつぶってどこか途中ででブツッと切り捨てたら、それ以降は何が書きたかったのか、察することができる人はいないと思います。切らなくても分からないかもしれません。
    語りたい、誤解されたくない、良く思われたい、でもそれすら我慢するために黙って反芻して生活時間や睡眠時間を無駄に削る繰り返しがもう沢山なのです。社会の決まりを守るとか人に合わせるとかの義務を拒否したい訳ではなく、私の特性も障碍ももう何でも良いので生産性の無い無駄が嫌でたまらない、というこれも我が侭なのです。
    ヤンバル先生、世の中に“私達”を広めてください。お願いします。

    • kcotan
    • 2009年 9月 14日

    脳の右前島皮質?に共感とか不快感とかの情動をつかさどる部分があるんだそうです。
    そこの機能というかニューロンが発達してない人は、共感力とか快・不快を意識する力が弱いんだそうです。(違ったらごめんなさい)
    で、そこの機能は、人類の進化とともに、遅れてできた機能なんだそうです。
    人間が近代二足歩行になったために足腰をまだ痛めやすいのと同じように、その新しい脳の機能も、まだ統合不全を起こしやすいそうです。
    いまはたぶん、年齢のいった人は、新しい機能を持ってなくても普通な世代なのかもしれません。「あの人はガンコ」「あの人はとにかくそそっかしい」で済んでいたんだと思います。(私の父は典型的にそれで済まされて今に至ってる世代だな)
    そういえば、たしかに近年の新入社員(というか就職氷河期以降の?)の気の遣い方は高度だと、個人的に感じていたりします。
    とても私には真似できないなあと思うくらいに高度な気遣いをします。それも一人や二人じゃなく。

    • くらら
    • 2009年 9月 15日

    私が思うに
    ADHD、特にジャイアンは自分が生きることに必死である
    依存ジャイアンになると生きることに必死ではあるが面倒なことは自分ではしたくないので人にやらせようとしたり、都合のいい人にすりより寄生する
    寄生した先を奪われるようなことがあれば生死に関わるのでただちに攻撃する
    これが夫に寄生する妻の場合、夫が子供の面倒をみるのも自分から夫を奪われることにあたるので子供を攻撃する
    家庭内だけでなく
    自分は上司にすりより部下を上司に近づけない、などの形で現れる
    とにかく自分だけが認められればあとはどーでもいい
    そこに後輩育てなどの言葉はない
    発する言葉は刹那的で意味がない
    偉そうでもっともらしいことを言ってみたりするが
    自分はできてなかったりする
    恐らく他人が言ったことを言ってみているだけである
    自分が忙しい時に他人が暇そうにしていると癇癪をおこす
    依存ちゃんとしては忙しい自分を助けてほしいのである
    しかし他人は他人なりに忙しい時があることを理解してないので、まともにいうことをきいていると
    年中忙しくさせられる
    さてAS
    自分の主観=客観
    と思っている
    というかそれを目指している
    ので
    頑張ったのに認めてくれない
    などという
    頑張った=主観であり客観的評価を得られるかどうかとは何の相関関係はない
    わからないことにはふれたくない
    わからないことがある=人格否定のように感じるらしい
    だがADHDのように周りをけっとばしてでも生き残りたいということではないらしい
    ADHD、特にジャイアンはとりあえず持ち上げ、依存ちゃんはとりあえずかわいがってあげるふりをすればいいような気がしてきた
    どちらの暴言もまともにとりあわないことで精神的ストレスにならなくてすむ

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 9月 15日

    >ADHD、特にジャイアンはとりあえず持ち上げ、依存ちゃんはとりあえずかわいがってあげるふりをすればいいような気がしてきた.
    そうですね、”とりあえず”の浅い付き合いなら、これでいいのでしょうけど、それを続けいていって多少でも深い付き合いになると、依存ちゃんは、悪口出しまくりになりませんか? 拒絶性人格障害の数歩手前になりませんか?
    >他人が言ったことを言ってみているだけ< なので、聞いているほうが辛くなる。この前に言っていたことと違う、論理的整合性、一貫性がないと突っ込みたくなるけど、依存ちゃんは「今日は今日、昨日は昨日」「その場良ければ、全て良し」ケセラセラのヒトだから、骨折り損の怨まれ儲けになるのが関の山、下手すれば私のいないところでは私の悪口を言うエネルギーを生ませるだけだと思って、黙っていますけどね、腹ふくるる思いが溜まって辛いです。 >さてAS 自分の主観=客観と思っているというかそれを目指している
    やっぱり、そう外からは見えます?!
    他者を受け入れるため、できるだけ柔軟でいるためには、全ての人から「正しい」と評価されたい思いと、自分の正しいはあくまでも主観である、他人に押し付けないと自戒しないと駄目ですよね。

    • くらら
    • 2009年 9月 16日

    ひげ達磨さま
    依存ちゃんと「とりあえず」の浅いつきあいになるのは宿命かと思います
    依存ちゃんは他者が見えてない
    他人について自分と今並行してたまたま隣に飛んでいるロケット
    と認識しても
    それが連続して明日も一緒に並行する
    とも思っていないし
    昨日も一緒だった
    とは思っていない
    いや思っていても本人が一貫した態度をとれないので結果としては
    ひとつのロケットがずっと並行飛行しようが毎日違うロケットが並行飛行しようが
    依存ちゃんのとる行動は変わらない気がしてきた
    ということは
    こちらが年月の積み重ね分深いつきあいを
    と思っても
    依存ちゃんには無理なのではないか?
    という気がする
    私が知る依存ちゃんはひどい言い争いをしたあと暫くたつと相手に普通に愛想をふりまくことができたりする
    ちゃんと時間の連続性を認識できるならこんなことはできないはずである
    要するに
    相手は誰だって
    どんな状態だって
    良いのである
    自分に興味関心を持ってくれれば!!
    私も依存ちゃんの
    自分に興味関心を持たせたいがための自分以外の人への悪口攻撃には辟易してます
    しかも!自分の前にいない人について言う
    ので、陰口を叩かれてる本人に報告する
    なるべく聞き流す
    に徹する
    そうしているうちに
    職場に
    あいつは陰口叩く。気をつけなきゃ
    という空気がうまれるし
    誰々さんもそーだって言っていた
    と依存ちゃんにいわれることもなくなる
    と同時にとりあえず依存ちゃんを持ち上げとけば周りをけおとさなくてもいいんだ
    と今度は安心して自分の自慢をしだすのでまだマシかと思う。
    彼らは勝手にサバイバルしているのでとにかく巻き込まれないことが必要かと思う
    ASには主観と客観に何の関係もなく、周りに認められなくても自分には自分なりの価値があり、怒られたとしても自分のたまたまある部分だけ怒られた
    と思ってほしい
    そして自分の価値観を押し付けないこと
    それに尽きると思う
    私はのび太系なので
    ほんと我ながら不器用でさっさとできないことに腹がたつ
    スマートに物をこなすことができない
    どーしてなんだろう?

    • mario (AS)
    • 2009年 9月 17日

    ADHD系の方って皆さん、ジャイアン性も、依存性も、強迫性も、のび太性も持ってる気がする。まぁ純粋に偏る事自体が少ないだろうから当然なんだろうけど、それらの出方も、状況・時間・相手によって切り替わるから上手い対応が難しい印象…

    「ASには主観と客観に何の関係もなく、周りに認められなくても自分には自分なりの価値があり」
    そう、これです!
    周りの評価に左右されない位に自己評価を高くする。
    そうすれば、その自己評価を保つ為に努力もできます。
    最近、ASは自己評価が高くなるように育てるしかないと思ってますし、その結果が積極奇異型ASなのではないかと…
    その上で(成長してから)価値観の相違を学べば良かろうと!
    (自己評価が高いほど、他者に自分の考えを押し付けなくて良くなる。)
    私も(そもそも高い)自己評価を高く保つ為に、死に物狂いで、家事や育児をこなしてます。仕事も、一般的な評価とは異なりますが、自分なりの評価尺度で(これ重要!)高い評価となるように頑張ってます。私は、他者の評価はあればもちろん嬉しいけど、必須ではありませんよ。
    ADHDから見ると「何様のつもり!?」ってなりそうだけど、ASが社会的に(パートナーとも?)安定していられる一つの重要なスタンスだと思います。

    • くらら
    • 2009年 9月 19日

    >ADHD系の方って皆さん、ジャイアン性も、依存性も、強迫性も、のび太性も持ってる気がする。
    MARIOさま
    そうですね
    かつて私は子供が好きで教育職を志したのですが
    つい子供をいじめてしまう自分に唖然としました
    まぁ子供は母親がした通りに子育てをする
    虐待をうけた子は自分の子を虐待する
    とも言われていましたので発達障害とは思いませんでしたけど。
    それから教育スキルを学び自分でも気をつけ
    (だって怖い先生が許される時代ではありませんから仕事として気をつけないと稼げないのです)
    やっと自分の攻撃性を教育現場では出さなくてすむようになりました
    一般の仕事のスキルの本の中に
    「嫉妬の延焼は努力で消そう」
    みたいなことが書かれていまして
    (当たり前といえば当たり前)
    以来他人をこきおろしたくなった瞬間は
    これを思いだすようにしています
    依存性ジャイアンで悪口がとまらない人は
    努力することよりも悪口で成功体験を積んでしまったのでは
    ないか?という気もしています
    >私も(そもそも高い)自己評価を高く保つ為に、死に物狂いで、家事や育児をこなしてます。仕事も、一般的な評価とは異なりますが、自分なりの評価尺度で(これ重要!)高い評価となるように頑張ってます。
    そうなのかなぁ
    だからASをみていると
    自分の出来を客観視できているのかなぁ
    という気がしてきます
    音楽ですから録音もあるし自分の出来について客観視しようと思えばできるはずなのですが
    やたら自己評価は高く
    実力が伴わない
    (ひらたくいえば音痴、とか声が汚いとか。音楽って出来が悪いと騒音でしかないので迷惑なのですが)
    歌い手に何人か出会ったことがあります
    ADHDからすると不思議でなりません
    しかもADHDならそんな録音は聞かないのですがASはちゃんと聞く
    で、本人は
    頑張っているからこれ以上は無理
    とか
    先生に注意されてショック
    とか言う・・・
    そりゃ注意されるでしょう・・・?
    もっと頑張っている人もいるから頑張らなくちゃとは思わないのかなぁ?

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 20日

    そうですか・・・。
    ASの自己評価ね・・・最低限の自己コントロールを保つために程度ならたぶん不必要なものではないのでしょうね。
    運転中に再燃、ましてや記憶が抜け落ちるような事態はもっての他ですし、日常生活でも限られた24時間を再燃や幻聴、嗜癖依存等でコントロールできなくなったら社会生活お終いに近づきますからね。
    自分が自分の境界内にきっちり収まらなくて、自己評価の自給自足が出来ない不安定なASから見たら、何と言いますか、共通項のある同じ種族とは思えないですね・・・。
    いや、生きる場所が違えば私も自信一杯になった可能性もあるのかもしれませんが・・・。
    収入に繋がって独立できる才能に恵まれない、対人欲求をなだめたい時の異性同性との出会いも友達を引き寄せて増やす能力も無い、凡才で薄幸のASなつもりなので、自己管理がスマートに出来ないからこそ、我に返るためには本来定期的に、溜めすぎた自己意識や歪んだ?認識を大量に出してメンテナンスを受けないとどんどんねじ曲がっていくことがあると思っています。
    私は同じじゃないかも・・・と思っていたとしても、他人から客観的に見たら、時々分からないままに大量に強迫的に自論を出そうとする様子は、もしかすると凄く自信過剰に見えることもあるのでしょうかね?
    思い返せば『我流』の記事にも通ずるのでしょうが、関わる人達から“良く思われる”という目標に向かって、私も逆算しようとすることがあります。うまく行きませんが。しかし“他人からの印象”は、私にとって不治の病の薬のようなものですが・・・。
    それを余所で補う場所が実質、無いがために申し訳なくも職場は私を叱りきれず?支援者は年をまたぐと居なくなり、上司には私が私の問題を解決する方向を見出せないことを注意する義務があり、親には感情論を思ったまま好きなだけ言う権利がある(言われたのです。親だから。質が悪いですよ。)というのが、私にとっての揺るがない今のところの環境なのです。

    • ひまわり
    • 2009年 9月 20日

    なんだか、ASの人は、面倒な人生を送っているように感じます。
    私なんか、悩みも多く、対人関係も苦手で、どう生きたらいいか分からなくなることも度々ありますが、
    基本的には、それらを長く引きずることはなく、忘れてしまっては・・・どうやら同じことを繰り返すようです。
    「何様のつもり?」なんて思いませんが、
    『正しい』を追求したり・・・
    『高い評価』を要求したり・・・
    大変だなーと思います。
    人付き合いが苦手なら、寡黙に生きればいいのに…
    「それでは、社会生活が・・・」なんて思ってみても、苦手なものは苦手なのだから、仕方がないのでは?
    『他者を受け入れるため』の努力をしても、
    >自分の主観=客観と思っているというかそれを目指している
    ・・・・・・と見られ、
    『自己評価を高く保つ為に、死に物狂いで、家事や育児をこなして』いたって、
    >やたら自己評価は高く 実力が伴わない
    ・・・・・・と言われるようなことなんですよ。
    そうなんですよ、ASの人の必死の努力は、自分の物でしかなく、
    周りの人は、他人の努力には無関心であることに気付くべきだと思います。
    例えば、努力は認められて、出世をしたとしても、出世したかった自分の思いほど、周りは「すごーい」とか「うらやましー」とかという感情や気持ちもなく、
    ましてや、役職として『上司』と敬うかもしれませんが、人間的には、人が人を認め好きになることは、全く違うところにあるので、いつまでも賞賛の対象にはならない!ということを知るべきだと思います。
    だから、不完全な私としては、人を意識しなくていいんじゃないかしら?と思ってしまいます。
    ぴよよさんのように、
    >関わる人達から“良く思われる”という目標に向かって、私も逆算しようとすることがあります。うまく行きませんが。
    ・・・と、悩みながら生きるのもいいんじゃないでしょうか?
    ぴよよさん自身は苦しいかもしれませんが、
    とても人間らしくて、きっと上司や親も注意しがいがあると思いますよ。
    ぴよよさんごめんなさい。
    でも、不完全な人間が歯車のように絡み合って生きるのが、人生なのではないでしょうか?

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 20日

    いやあ・・・ひまわりさん、何と言うか、ありがとうございます。^^;

    • mario (AS)
    • 2009年 9月 21日

    くららさん
    「やたら自己評価は高く 実力が伴わない」
    実力が伴わない事を自分で認めたら、それを辞めなければならない、僕は(ASは?)そう感じます。だから一旦は自分の成果を評価する。そこからスタートして客観的評価を受け入れられるかは個人の資質かと。ただ、まず(その指摘は正しいのか?と)疑うことから入るので、周りから客観的評価を受け入れない奴と映るのは事実でしょう…
    ひまわりさん
    「人を意識しなくていいんじゃないかしら?」
    それが出来れば、ASじゃないって気がします。
    人を意識しながら、どう存在し続けるかがASのテーマかと?
    人付き合いが「苦手」だからと寡黙に生きる事を選べば、きっと引きこもると思います(孤立型ASかな?)。
    なかなか理解してもらえないようですが(無理かも知れませんが)、ASの中はきっと悩みで一杯で、でもそれだと一歩も動けなくなるので、自分のそれに目を瞑る(自分の感情にも鈍感になる)。自分がAだと思うものを、BだCだと言われると本当に悩んでしまって何も出来ないので、Aだと決めて動く。その辺りの調整がうまく出来ないのがASでしょう、きっと。(AとかBとかCとか、選ぶのを責任も含めて相手に任せちゃうのが受動型なのかな?)

    • ひまわり
    • 2009年 9月 21日

    確かに、marioさんの言う通り、人を意識しないで生きられないからASだということです。
    私も、ADHDの特徴に色々当てはまり、だからといって どう気を付ければいいのか分からないことはあります。
    分からないからこそ、発達障害なのでしょうから…
    他のテーマでぴよよさんがコメントされていたように、
    自分の特性に気付き、悩みながら(marioさんは悩んでいるかどうかは分かりませんが)生き方を探っている発達障害の人と、
    全く自分の特性には気付かず、自分は完璧であり、自分に間違いはない!と思って生き、周りと多大なズレを生じるさせながら生きている人とでは、
    周りとの温度差は、かなり違いがあるように感じます。
    せっかく自分に気付いた者の集まりの場なので…
    『人を意識して、努力して、高い評価を求める(この解釈で合ってますか?)』ことに一生懸命になったとしても、
    人は、それほど関心を持って評価したりしないと思いますよ!という、(発達障害が感じにくい)相手の気持ちを書きました。
    『人を意識して…』というASさん側の意見と、意識された側の意見…ということです。
    まるでASを理解していないような誤解を与えるような書き方で、すみませんでした。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 22日

    ひまわりさん、marioさん、ここが、私も個人的に矛盾点として煮詰まっている所なのです・・・。
    評価はとてもありがたいです。その一方生き方を悩ませてもらいながらでも、悩みすぎると確かに健康を害するのです。
    周りの評価に心を込めて過集中に左右されると、(独り身は歯止めが利かない側面もあるでしょうが。)最後は倒れるのが結果なのです。障碍の自覚が中途半端な内は、倒れる前に自分でなかなか調節できなかったですし、周りの人間が忙しい環境なら尚更その空気に優柔不断に巻かれます。
    だからmarioさんのように、文面から感じるに自己嫌悪を100%に近い確率で予防しているかたは、お子さんにとってはたぶん頼りになるお父さんでしょうし、職種の中でも特に、人間関係を横に置いておいても休まれては困る職種の職場だと、そういう点では確かに使える人員だと思うのです。
    ただ、ASが能力的に落ちてしまいがちなものが必要とされる職種に居る場合、人の評価とか、連携とか、総合的な資質とか、コミュニケーション力とか、協調性とか、そういうものが話題に登る時がどうしてもあって、例えば年が変われば人事配置が変わり、自分は動く気がなくても周りが動く時に自分も組織の環境調整のために必要があって動かされる時。それは発達障害を知りたてで心因症状がまさに激しく出ている当事者にとっては、救いになる可能性もあるので、痛い過去のある私は否定出来ないです。
    後、必然的に前記の話題がどうしても出るときとして、仕事でミスをした時にも近いことが言えます。
    どちらも仕事の効率を出すために大切なことだと思っています。私の理想の法的支援のように「私の仕事で判明したこれこれの問題点の答えをください。」「はいどうぞ。」という位にコンビニ並に速攻で手に入る解決策が無い限りは、私は、“困り”ます。なんとかしたい、なんとかなって欲しい、なるものならし向けたい、解決に近づくために私の手に負えることでできることは何? と困ります。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 22日

    続けます。
    困ることは非効率的でしょう。困ることを抱える職員は本来は不要な存在でもあるでしょう。
    marioさんの意向にどこまで一致しているかしていないか分かりませんが、考えようによっては問題解決能力や柔軟性の弱いAS自身が困ることも、周りを困らせることも、本来は非常に意味のない、価値も必要も無いことなのかもしれないのです。
    ASの頭に常駐している意味、価値、必要、これらが無い所には本来自分が存在する理由は無く、必要としてくれる所に居るのが相応しいと、そういう生き方もあるのかもしれません。
    たぶん、言葉で言われないと解らないぴよよでも、ここまで昏々と説明されたら腑に落ちるかもしれません。気持ちが分かりましたよ、と。
    ただ、これは自分に向かってもきつい現実ですが、それを実行できる能力と行動力と強運があったとしても、多数派も当事者も、そのASを必ずしも依存抜きで健康的に歓迎し尊敬するとは限らないと思っているのです。私の欲求で言うと『人に良く思われている』とは限らない。
    例え
    >愛着の相手には100パーセントの理解や受け入れを要求し、高圧的に~なりたくてたまらなくても、
    >甘く尽く~そうと約束してもです。
    (いや、たぶんmarioさんのことですから、書かれていない努力はしていて、今更極端なことはしていないのでしょうが。)
    仮にASの誰かの職種が、私の職場には無いような、個人スペースを囲うつい立てがあって個人を尊重するビジネス方針の所だったとしても、そういう中で集中して出す業績が高く、自己ベストであったとしても、つい立ての中で出した業績も米やパンや薬、つまりサラリーにしか化けない・・・。
    そしてつい立てから気分爽快に顔を出したときにも、人間関係を作っていないのに外の情報をボランティアで教えてくれる人はいない。
    人がそこに出入りするなら歓送迎会の時間や場所はどこ、非常ベルが鳴ったら何が起こった、避難場所はどこ、人とは口を利かなければ働けないし、質問しなければ社会は分からないことだらけなのです。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 9月 22日

    いつもすみません。続けます。
    昔、ここに出会う前にインターネットで愚痴ったことがあることですが、幾ら私が私の心身をちょうど良く調節してちょうど良く気分の良い範囲だけで働いて上手な自己管理をしたとしても、それは偉いことでも名誉でも何でも無いのです。
    しかしだからと言って再燃をフラッシュバック等まで悪化させて、勤務不能なまでに自分の体を虐めることが反省として正しいかというと決してそうではない。何故なら、背を向けられたり叱られたことはあっても誰も私に正しいと言わなかったからです。
    全国の(ヤンバル先生を除く)お医者様達にお願いしたいこととは、二次障碍で悪化した当事者に速攻で薬を出すことの前に、自分か、他人(だとADHD依存型かも。)か、違う物か、何を責めて症状が出ているのか見極めて、そこは言葉にして突いて頂きたいです。ヤンバル先生程やってくれというのは不可能ですが、それでも必死で予約、待たされて、診察までこぎつけて、心因症状に薬しかフィードバックを貰えないことは不要な空想を膨らませ、認知の歪みを促進します。
    人に心を閉じるきっかけになり、それこそ違法薬物なりの嗜癖依存に陥る可能性を生みます。
    他人を傷つけないために自分が自己嫌悪で傷つきっ放しでいい訳でも無く、自分を健康で元気で快適な生活にするために余所に無関心でいればいい訳でも無い、どちらが白で、どちらが黒に限られている訳ではないことを、これから来院する当事者にはきちんと説教して欲しいのです。
    分析は少々出来ても、白黒以外の答えを何歳になっても自力で出せないのがASなので、権威者から言われるしか無いのです。私のように身体症状の薬が要らなくなっても、自分で自給自足できない思想がこれです。世の中、marioさんのように他人への迷惑を自己努力で最小限にできる実力のある当事者は爪の先程しかいないと思うのです。
    国がリタリンを取り上げたのですから、他に出来ることは何でも行なって頂きたい。
    説教もして、支援センターにも取り次いで、必要なら職場介入も辞さないで頂きたい。
    病院から一歩出たら、そこには宇宙人の私達とは違う距離感で生きていて、私達に何か思っていても何を言っていいのか分からない地球人の人間達しかいないのですから。

    • のりまき
    • 2009年 9月 24日

    先生の独自の分類は、他の発達障害関係の説明よりもいつもよく頭に入ってきます。さらなる理論の発展を心待ちにしております。
    ひとつ思うのですが、先生の分類には、病院に訪れることが一生ない人たちが入っていないような気がします。ADHDというのが病気ではなくひとつの傾向であるのなら、「社会との軋轢が顕著であるかどうか」という条件を取り外して包括的に考える必要があるのではないでしょうか。
    私などは病院こそ訪れませんでしたが、典型的なジャイアンということができますが、私の周りに、「整理整頓が普通の人よりできる」「気配りもとてもできる」のだけど、はなはだしい注意欠陥や、集中力のコントロールの困難、しぐさなどにADHD独特の「雰囲気」の見られる人たちがいるのです。それでは彼らは、先生がここでADHDの第一条件として分類されているように、「人にこだわらないか」というと、そんなこともない。普通の人の感覚もいっぱい持っていて、一般的な「情」をよく持ち合わせているのです。親御さんに愛情いっぱいに育てられるなどして、普通の人の感覚も持ち合わせることを可能としたADHD群がいる可能性はないでしょうか。
    彼らは先生の分類でいうと、彼らはADHDには入らないのか、それともやはりADHDとしてとらえるべきなのか、そのうちご意見を日記上でお伺いしたいところです。

    • ぴんぴん
    • 2010年 3月 06日

    今日、初めてブログを読ませて頂きました。
    この書庫を読ませて頂き、やっぱり、私は AS なんだ。と、感じました。(診断済みですが)
    私は、『AS であることを隠す必要はない』『事実だからわかってもらいたい』と思い込んでいました。
    すっきりと読み易く、理解し易く、なんか、救いになります。
    ありがとうございます。
    また、伺います。

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