AC、人格障害関連

依存型ジャイアンと「怒り」

 依存型ジャイアンの一大特徴は、「(自覚される)攻撃性が非常に乏しい」ということだ。「私は一度も腹を立てたことがありません」という人もいる。聞いてみると、突然切れたように大暴れすることはよく聞いてみるとまれにあることはあるようだが、その最中でも「怒り」という自覚にはならないようだ。

 別の言い方をすると依存型ジャイアンには喜怒哀楽などの情緒的な反応自体が(実際はあっても少なくとも自覚的には)全般的に乏しく、感情的な「修羅場」になると、頭を抱えて「フリーズする」という依存型ジャイアン特有の反応の他に、アルコールや薬物、ギャンブル、過食や食べ吐きなどの摂食障害、対人関係、買い物への依存などのAddictionや、ふらつきや耳鳴り、動悸、過呼吸、慢性疼痛などの身体症状、抑うつ状態などの形で現れる。
 
 もともと一瞬の場当たり的な状況適応だけで生きていて、過去と照合しないで何でも「受け入れる」ので、余程露骨に攻撃されたりいじめられない限りその場の相手に合わせていて問題を感じない。また、継続的な思考が無い結果「自分が無い」ので、「自分の立場が侵害された」「損をした」という自覚も生じないことが多いだろう。だまされても全く気付かないこともあると私は想像する。その意味では、病気にさえならなければ、ある意味非常に適応的なスタイルである。

 依存型ジャイアンが認知療法により回復して、自己突っ込みに苦しむ超合理的強迫的ジャイアンになってくると、「自分なら自己突っ込みするところを何でお前は平気でいるんだ!」という激しい自己突っ込みを背景とした怒り、相手の言行不一致への激しい怒りなどが出現する。本来のジャイアンに戻るという意味では私は回復であると考えるのだが、表面的には社会や身近な家族、パートナーなどとの関係で適応の度合いが悪くなることは実際多い。

 本人が回復して攻撃性を時に露にし始めると、せっせと世話を焼いていた共依存相手の依存型ジャイアンやASは逆に不安になる。
 その結果共依存関係が壊れることを阻止しようと、本人の依存性をかき立てるような言動で意識的にも無意識的にも引き戻そうとする。(私はおそらくこういう意味であろうと思われる周囲の家族の行動によく出くわす)。

 このあたりの行ったり来たりが依存型ジャイアンの自然経過である。

 私は「ここは怒って良いところだと思う」と言語的に説明する。「説明」という認知療法で、実際は体験していても自覚されていない情緒的なやり取りや、本人の中の情緒の動きに目を向けることができるようになる事で、「怒り」を自覚し、感情を取り戻す過程で、上記のさまざまなAddictionや反応性の身体症状を治すというのが私が試みているケアの基本的な考え方だ。


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コメント

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 6月 08日

    私の相方は、合理的強迫的ジャイアン的な部分を併せ持つ依存型ジャイアンだと思います。私は言語性優位の積極特異型AS。相方は 「私は一度も腹を立てたことがない。私は仏の○○とよばれている。」と自慢気に言います。それは、怒りなどの負の感情を対象の人に対して露にしていないだけで、内心「見下す」ことで怒りの表出を抑制しているだけで、その人が居ない所では悪口などで出し放題です。また、自分の意見が100%受け入れられない、(それは「貴方の考えは判るけど、私は違う××という考え」といったものでもダメ)、要求が満たされないと自分が見下されると感じ、その場では外見穏やかですが、内心は怒りなどが溜まるらしく、その感情がマスコミが報じる不祥事など怒り・攻撃性を露にしても周囲が受け入れることを材料にして過度の「そこまで言うのか!」攻撃的否定的言動になって現れます。
    ASの私は周囲に対し防御的攻撃性を持っていますので、相方のこうした攻撃的言動によって、それにいわば共鳴、共振して私の攻撃性が増悪するのに困っています。言語性優位のASですので情緒的共感性が弱く、認知的共感性を働かせる、そのためには周囲に関心を開いておかなければなりません。防御的攻撃性が現れると「そんなの関係ない」といった無関心、周囲を心理的に遮断することがおきます。依存型の攻撃性の発露によって、私の攻撃性が共鳴、共振してしまって、遮断が起こり易くなってしまうのです。その結果、AS特有の独りよがりと見える言動が強化されるのです。
    攻撃性を相方が自己コントロールして欲しいと思いますが、それは私にはどうしようもありません。私が取っているのは、相方に関心を向けておく、「耳を傾ける」態度を保つこと、それと依存型に由来する怒りには付き合わないで、相方の考えで受けいられる物は受け入れ、できないものは「貴方の考えは○○だけど、私は違う××という考え」という理屈の部分は是々非々の立場で接することです
    つづく

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 6月 08日

    つづきます。
    攻撃性を相方が自己コントロールして欲しいと思いますが、それは私にはどうしようもありません。私が取っているのは、相方に関心を向けておく、「耳を傾ける」態度を保つこと、それと依存型に由来する怒りには付き合わないで、相方の考えで受けいられる物は受け入れ、できないものは「貴方の考えは○○だけど、私は違う××という考え」という理屈の部分は是々非々の立場で接することです。
    ジャイアンさんはASとは違う形ですが、自分を全面的に肯定して欲しい無条件に認めて欲しいという根源的欲求を持っていると思っています。ASのそれが「乳児期」の赤ちゃんの自分を受け入れて欲しいと表現するなら、ジャイアンさんのは、「今、この時」の自分を受け入れて欲しいという形ではないかと思います。ASのその承認欲求が無理なように、ジャイアンさんの肯定欲求も実現不可です。私ができるのは、相方の言い分を聞くこと、受け止めること。それで「耳を傾ける」態度を保つようにしています。
    ともに表出される喜怒哀楽など感情では、怒りの扱いが私には難しい。怒りの共感は望ましくないので、理屈での合理性などに基準をおいて是々非々で接するようにしています。無条件ではないので、相方には不満が残るのでしょう。時折「貴方の××は常識とはちがう」というASを逆手に取った言い方をされるので不快ですが。
    今回のエントリーを読んで、相方が自分の心の中の情緒の動きに目を向けるように接することも有効なのか、例えば「貴方の怒りはわかるけど、、」と前置きするとか、と思いました。

    • ぴよよ
    • 2009年 6月 09日

    >依存型ジャイアンが認知療法により回復して、自己突っ込みに苦しむ超合理的強迫的ジャイアンになってくると
    ただ真っ直ぐ合理的になるだけなら、外での問題行動には発展しないでしょうが、他人に突っ込みたい衝動をどうにもコントロールできない環境に置かれていた場合は、自分に利益をもたらさない存在にイジメを始めるのかもしれませんね。
    こちらに怒りを向けられない代わりに、こちらの弱者にこっそり当たって、相手が悪いことにしようというような。
    イジメても自分に害のない、後ろ盾のいない、自らの身を守れなくて、自分が長所とする所を落ち度とする、糾弾する理由のあるみっともない存在・・・。
    ジャイアンにとっては私のようなADDの入ったASは元より、広汎性、LD、AC、周りに承認されていない難聴、僻地育ち等による経験不足の要領の悪さ、関節痛、運動音痴(運動協調性障害?)、肥満、甲状腺系等の様々な内分泌の疾患による動作の遅れ、妊娠疑い等などの、目立たない理由で動作に緩慢さのある人間は皆、無自覚な攻撃対象になり得ますね。
    程々で止める必要が全然生じないイジメは、物理的にどちらかを隔離しない限り命の危険に発展すると思っています。
    フィクションで申し訳ありませんが、源氏物語の桐壷宮は侍女以外誰も止める必要を感じなかったイジメで、病死しています。
    俗な例で恐縮ですが、ニュースの某刑事事件の加害者は「疎外感を感じた。」と言っているようです。これも、被害者が無自覚の差別を疎外と感じられるまで無邪気に気軽に続けてしまった結果にも思えるのですが・・・不適切な例示でしたらすみません。
    自我の守り方に目覚めて攻撃的になると言えば、一部のASにもたぶんあることでしょうね。
    相手は当然愛着相手か、自分の感覚で白黒で言う黒だと認識した悪者の中でも自分の手に負える弱者と認識した者か、周りがイジメている対象を自分もそうすることが正しいと認識した場合か、があり得そうです。
    いずれにしろ自分の認識が全てなので、全部KYな見込み違いに終わる可能性もあると思うのですが。
    痛い想像です。

    • wish
    • 2009年 6月 09日

     私は現在、このエントリー様の渦中にあり、様々な感情が入り乱れて少々虚脱気味では有るが、ここで虚脱感を理由に思考を停止させてしまったら『本当の自分』を取り逃がしてしまう気がするので、強迫的に自分を追い込んでいる。(…と言うか、日を追った現在は少し気が抜けてしまっている)
     私の場合は、エントリーやヒゲ達磨(AS?)さんの記載する「私は一度も怒った事がありません。」的な人間では無く、過去には怒りを自覚した事も有り、怒りとともに即、講義に出向いた経験も多々有る為、その違いは何なのだろう?と考える。
     また、今回は怒りを自覚しながら、その相手との「話し合い」と言う名目での戦いに挑む為の作戦を練っている最中に、ヒゲ達磨(AS?)さんの相方さん同様に、日頃から不正や理不尽を許せないASの息子との会話で、
    >マスコミが報じる不祥事など怒り・攻撃性を露にしても周囲が受け入れることを材料にして過度の「そこまで言うのか!」攻撃的否定的言動になって現れます。
    と言う状態になり、途中から眠気と「何で私はこんなに熱く語ってるんだろう?」と感じながらも語り続け、寝入ってしまった。
     日頃ASの息子との会話がおろそかになってしまう事があるので、一方的に近い形では有ったが、語り合う事が出来て良かったと思っていた。
     …が、それによってヒゲ達磨(AS?)さんに影響が生じるのであれば、私はASの息子にどんな影響を与えてしまったのだろうか?…と、考えてしまった。

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