私は受動型ASケアにはずっと悩み続けてきたが、最近やっと一つイメージが浮かんだので記しておこう。
受動型ASの基本発想は「共依存」だが、私は次のように考える。
「必要とされることが必要」 + 「自分からは動かない」 = 「共依存」(郭公の雛的生き方) という図式だ。
つまり「必要とされることが必要」だけではウィルスのように寄生しなければ生きられないスタイルは帰結しない。第二項の「自分からは動かない」という部分が問題なのだ。
「自分からは決して電話しない」とか、「必ず愛着の対象を動かすように非言語的な手段を使いまくる」という受動型ASの周囲にとって困った行動は、私は養育環境によって変化しうると思う。
例えば、私の知る受動型ASの人で、ジャイアンとカップルで結果的にうまく行っている人もいるのだが、その人の養育環境は、「親が早く亡くなり、弟や妹の学費を稼いで、世話もしてきた」というものだった。
これは「必要とされることの必要」の状況だが、ウィルス化する共依存型受動型ASとの違いは、「自分が動いて生きていくしかなかった」ということだ。
「自分で動く」限り、行動の形で責任は取っているので、ジャイアンとの共存は可能だと私は思う。(ただジャイアン側からは「利用」に近い形になるとは思うが)
だから共依存ウィルス型の受動型ASは結局「甘やかされた」経過の帰結なのだろう。愛着の対象である親が共依存的なあり方を許して、身に付けさせてしまった結果、「自分で動かなくて良い」というスタイルが出来上がったのだろう。
受動型ASの一つのケアは、「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針だ。愛着の対象からはどんどん遠ざけて、だれも尻拭いをせず、本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境を作り、徹底した自己責任の原則で育てる。
飽食の日本でウィルスのように生きるくらいなら、発展途上国に行って井戸を掘り続けるとか、木を植え続けるとか、干潟の掃除をし続けるとか、「絶対に揺るがない必要とされる状況」を自分で探して、自分の力で「必要」に応える行動をし続けて生きたら良いと思う。下手に人間を相手にする立場をとるから厄介な問題が生じるのだ。
>だから共依存ウィルス型の受動型ASは結局「甘やかされた」経過の帰結なのだろう。愛着の対象である親が共依存的なあり方を許して、身に付けさせてしまった結果、「自分で動かなくて良い」というスタイルが出来上がったのだろう。
>受動型ASの一つのケアは、「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針だ。愛着の対象からはどんどん遠ざけて、だれも尻拭いをせず、本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境を作り、徹底した自己責任の原則で育てる。
全く仰る通りだと感じます。
(今日は、ヘルパーさんの言いつけを無視してこっそり遅くまで起きてます。)
私の父方祖父(受動型AS)の場合がまさにこれでした・・・
彼は、富裕な植木屋の甘やかされたボンボンで、大正時代にはいわゆるモボでした。で、親の金を湯水のように使って、ダンスホール経営に手を出したのが運のつき。すってんてんになりました。
問題は、その後です。追い詰められてなんと一家のためにリヤカーを引いて「屑や」を始めたんです・・・
幸い、お坊っちゃん育ちで古物を見る目があったので、最終的には小さな道具屋を構えるようになり、(大酒飲みの癖は最後まで取れませんでしたが、)
ジャイアン祖母に蹴飛ばされつつも、いい父親であったと息子である父も語っていました。
晩年、脳溢血で倒れてからは祖母も祖父に優しく、献身的に看病していたのを今も覚えています・・・
>「必ず愛着の対象を動かすように非言語的な手段を使いまくる」という受動型AS・・
この部分ですが、
受動型ASは他人を利用するという解釈でいいでしょうか?
不登校の三女には、「必要とされている」状況を、学校の仲間や先生の力を借りて、私が必死に作った。
「必要とされている」環境を整えてやっても、やはり「自分からは動かない」。
しかし、
>「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針
・・・は、みごとに彼女を自傷行為に走らせた。
そうなると、
>「必ず愛着の対象を動かすように非言語的な手段を使いまくる」という受動型ASの周囲にとって困った行動
・・・に対し、共依存的なあり方を許さざる得ない状況に陥っていく。
今、少しずつだが、「自分で動く」練習を始めている。
受動型ASの娘を、受動型ASの旦那のようにしてしまわないように、ここで勉強して、自己決定でき、自己責任を負える人間に、育てていきたい。
追い込んでやりました(^-^)v
ある友達が演奏会に出る
と言ったものの
プロフィールも自分で書かない
練習もきちんとしない
そして少しでも気にくわない状況、こちらが注意したりすると
降りる
という。
ノルマ代等お金もいただいており、ある程度私に傷がつかないメドがついたとこでおりて頂きました
案の上
私が出ろと言ったから出ることにした
先生が降りろというから降りる
と全部人のせいにし、お金をかえせ
と言ってきましたが
統括する社長に
出る
と言った以上責任はとってください
損害賠償で訴えられないだけマシだと思え!
と言ってやりました
はずかしながら音大卒。
ASにおにあいの先生業をしてます
それにしても
私のことがうらやましいからそんなに注意するの?
といわれた時は自己愛疑った。
先生がケアに難儀されてる受動型ASは、ニート・無職の人ですか?もう少し具体像を知りたいです。
私は受動型AS息子の責任は親にあると思うので、働いて収入を得るという事の重要性を日々伝えています。そして同じ働くならば自分の適性を活かした仕事が長続きするのだから、今の勉強が大切なんだと。(だんだんシドロモドロ・・)
親が放棄すると、物好きなパートナー?を見つけてお互いに苦労するので、それも出来ません。
わざわざ受動型ASに近寄る相手(ケアする人は違います)は、私も含めて「わけあり」です。ある意味、自業自得の人だと思います。私の考えは間違っていますか・・?
徹底して自己責任の状況においたとして、それで精神的に頑張りきれない状況になったりはしないのでしょうか?
僕自身は受動的ASかどうかわかりませんが、健常者になろうと十数年社会へ出て稼ぐ事に挑戦しました。結局ぼろぼろの精神状態で日本語を理解する事も困難なくらい疲れきっていました。
社会や人に対しては不信感が強くなっています。人を信頼する等もっての他。必ず裏があるから裏を読むことが信条となっています。
あおがえるさん、大丈夫ですか?
二次症状が出ている時は、頑張り過ぎないのが一番だと思いますが・・・
私の場合は子どもは二人ともジャイアンですが、この頃よく脳裏に浮かぶ言葉があります。
昔のことわざ 「かわいい子には旅をさせろ」 です。
これは私のような浅はかなジャイアンのためにあるのじゃないかって何度も思った。
私が子どもに関わると支配するか甘やかしで、とんでもなく子に迷惑をかけるので・・
そんなヘンな子育てをするくらいなら(今の時代に放浪させるわけにいかないので、子への世話は衣食住の最低限はしますが)
”子どもはどんどん世間に出て 子どもなりの人間関係も渡世術も 全部子どもが自分で学んでこい
自分の失敗は 誰のせいにもしないで 自分で考えな
失敗が嫌なら 次から自分で気をつけな”
という「子どもに丸投げ」方法が無責任な私にはお似合いです。
ここまでくるのに気が遠くなるほど、長い時間がかかりました。
私同様に浅はかな子ジャイアンは単純な一刀流なので喜んで親から離れ、まるで鎖を放された犬か野良猫のように自由です。(この先どうなるのか保障などありませんが・・)
私が子どもに教えられることなんて、ちっぽけでくだらないことだと自覚しています。
こういうふうにしかできない自分に自己嫌悪もしますが・・
これでも昔よりはよほどマシなのです。
今回のお話は、まさに我が家のことです。
我が家は、夫(AS受動型)と私(ジャイアン)の共依存夫婦です。結婚当初は私も夫の言葉に振り回され、かなり甘やかせてしまいました。過去に約十年近く別居しておりましたが、現在また同居です。その同居のいきさつも、夫がアパート大家と喧嘩をして居られなくなり、私が買った家に転がり込んできたわけです。私自身もまもなく還暦と言う年齢と寂しさから、それを許したわけですが……
でも、年を取った分、夫も大人になっているかと多少の期待もしましたが、現実には以前とまったく同じ、
「やっぱり同居は無理だわ」と言う私の言葉に、ただ、「じゃぼくは出て行けと言うの」と興奮してパニックになったり、涙を溜めたり。私の方が、彼を苛めているような錯覚を起こしてしまいます。
夫は恵まれた家庭環境で育ち、母親はキチンと躾けてはいたようですが、基本的には甘やかされて育っています。
人の気持ちが分からないのはそのせいかと思っていました。
>受動型ASの一つのケアは、「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針だ。愛着の対象からはどんどん遠ざけて、だれも尻拭いをせず、本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境を作り、
私が今、若干の期待を持って、夫に突きつけているのはこれです。
私は夫より4歳年上で、数年前に仕事を早期退職したので、現在は無収入です。数ヶ月前、夫に、私の老後を、精神的にも経済的にも支え、安心させて欲しいと言いました。夫はそれについては受け入れましたが、具体的にはまだ何も動いていません。
今後は、私が体力的に衰え、更に介護が必要な状態にでもなれば、夫は動くのでしょうか。
私の老後につなぐ期待です。
>発展途上国に行って井戸を掘り続けるとか、木を植え続けるとか、干潟の掃除をし続けるとか、「絶対に揺るがない必要とされる状況」を自分で探して、自分の力で「必要」に応える行動をし続けて生きたら良いと思う。
前のコメントを書いてから、疑問が出てきたんですが、
受動型ASが必要に答える行動をし続けたとして、その結果、労働に喜びを持つようになるとか、人を思う心が生まれてくるとか、変化は望めるのでしょうか。
居心地のいい場所を見つけたら、また元の何もしない<受動型>人間になってしまうのでしょうか。
むーんさま>>
今のところ引き籠り療養生活&投薬のおかげで元気ですが、これまでの体験から社会や他人に不信感を抱き、警戒する心はますます堅固です。
なので支援を申し出てくれる方々(自閉症スペクトラムを知らない)の手はことごとく振り払ってます。悪意としか思えませんから。
一人暮らしの時は健康管理は自己責任でしたが、あまりの強迫癖のためそれだけで相当疲れました。
必要とされると頑張って、自己責任を全うしようと必死になりますから、僕には合ってない方針だろうと考えています。
あおがえるさん
私などは、30代に一度中間施設暮らしを体験しましたが、2年足らずで、一友人に騙されただけでショックであっという間に療養生活に逆戻りしました。
ですから、十数年障害を引きずって「稼ぐ」という事にチャレンジされただけで十分尊敬に値すると思います。
あまり、ここの主旨からは外れた内容になるかも知れませんが、世間にはそもそも社会生活に向かない人もいると思います・・・精神的サポートがなければ尚更の事です。
どうかご無理されませんように。
私の場合は見方を変えれば、私が生まれてきたときから既に親に向かって罠を張っていたようなものですね。(親に怒られそうな言い回しですが。)
ともかく虚弱で、水分も離乳食も吐いては発熱、便秘しては食欲不振、栄養不足で体力不足で猩紅熱を二回、自家中毒も成人しても忘れた頃にまだなっている体でしたので、親をどうしようとか意識する前に本能で、おそらく自立を拒否する方策を取っていたのかもしれませんね。
それでも一人で寝かされ、ぜんそくで寝不足でも「学校へ行くの?行かないの?」と自分で決めさせられたのは、まず子だくさんで物理的に私だけに手を掛けられなかったこと。そして、今では間違いですが、ぜんそくは精神的に鍛えれば起こりにくくなると言う情報しか無かったこと。
そして、発達障害を知った後の私が今以上に親に当たらなくなったのは、失礼極まりない表現ですが、いわば親の無知。
私の特徴も症状も行き詰まりも、私のことを一番知っているのは私になってしまい、そこだけは親をはるかに追い越した感覚をどうしても感じてしまいました。
私の『であるべき』こだわり満載の言語の聞き取り能力、理解力も、もうこれ以上の進展は望めず、仮に「私が追い越した」なんていおうものなら、広い人生経験や恩や礼の話と一緒くたにされて、親を怒らせてこんがらがらせて私も怒って終わりになるでしょう。
育ててもらった人間に対し、感謝だけでなく一歩間違えれば侮辱に当たることさえ認識してしまう、ASの業を感じます。
生かしてもらって、アダを成す人間ばかりを増やしてしまうなら、人間社会に生きることを拒否してしまえば、確かに人と憎み合わなくて済みます。
しかし、それを知るために多くの人と憎み合ってしまったし、今でも、憎い。毎日、憎い。憎い。憎い!
目を開ければ人と人とが会話している。雑談が続いている。まだ続く。まだ続く!
耳から入る会話には、私でも答えられる質問と、時間を掛けないと答えられない質問が混合して入っている。過去にした、会話に答えられなかったときの代わりの返事のシミュレーションが再燃する。
私に終わりのない再燃と自己嫌悪だけさせて放置する、平凡で、ちょっと変わってる、悪意の無い、ストレスの溜まった、限りなく普通の人達!
少し前に受動型ASのことで随分ともめていたようなので、受動型ASの自分が書き込んでいいのだろうか、と恐る恐る書いています。
今回先生が書かれていることは、すごくわかります。
私の場合、親が何でも先回りしてやっていたので、本当に「自分からは動かない」人間になってしまっていました。
受動型ASな上にACでもあるので、余計他人とは共依存的な関係しか結べなくなっていましたし。
でも、これではいけないと思い、数年前から自分を変える努力をしています。
私の場合、ASよりも先にACであることに気付いたので、そこから回復しようと何冊も本を読み、今はACカウンセリングにも通っています。
最近になってそれらの効果が出てきたようで、「私はもう親には何も期待しない。自分の力で生きていこう」と決心しました。
すると、自然と自分から動くようになり、なんだか自分自身がたくましくなったように感じています。
私は愛着の対象がいると、必ず共依存に陥って精神的にしんどくなってしまっていたので、今は愛着の対象を敢えて作らず、なるべく一人で行動するようにしています。
私にとってはそのほうがずっと楽なんです。
ASなのに愛着の対象がいなくても生きていける自分は、変なのだろうか?とずっと思っていたのですが、受動型ASにとってはそちらのほうが健全でいられるのですね。納得です。
これからも、自分は他人に依存しやすい脳を持っているのだということを自覚しつつ、できるだけ「自己責任で」「自分の力で」生きていけるよう努力しようと思います。
>だから共依存ウィルス型の受動型ASは結局「甘やかされた」経過の帰結なのだろう。愛着の対象である親が共依存的なあり方を許して、身に付けさせてしまった結果、
そうですね。
(本人が)切れる→(周囲が)腫れ物に触るような扱い→(本人が)図に乗る
のループですね。納得。
自分のことでも周囲から見放されてしょうがなくなってからでないとやらないのに、他人(妻子)のためのことなんか絶対自分からやらないですよねー。
何か問題が起こると「そっちがやりたがったからー」とか逃げるし。
>自分のことでも周囲から見放されてしょうがなくなってからでないとやらないのに、他人(妻子)のためのことなんか絶対自分からやらないですよねー。
>何か問題が起こると「そっちがやりたがったからー」とか逃げるし。
同感!同感!同感!
ウチの場合は「お前が、そう言ったからー」でしたよ。
私が家を出た後、旦那の元に足繁く通う、旦那の母親の姿がありました。
40過ぎの息子のお世話をしていましたよ。
4年も経つと、さすがに今は、立派に(仕事以外の)色々なことも、自分でやって、幸せそうです。
>前のコメントを書いてから、疑問が出てきたんですが、
受動型ASが必要に答える行動をし続けたとして、その結果、労働に喜びを持つようになるとか、人を思う心が生まれてくるとか、変化は望めるのでしょうか。
>居心地のいい場所を見つけたら、また元の何もしない<受動型>人間になってしまうのでしょうか。
困った・・・
同じ作業所に通おうとしているところの友人が、どうやら受動型ASらしい・・・
彼女は、学生時代は親元を離れてピースボートに参加するなどして、全くの甘やかされていない一匹狼だったので、病で元に戻ってしまったとしか思えない。
ちなみに私の回りは、今まで何故か積極奇異型AS男性ばかりだったので、(彼らは自分の責任は自分で取る、)どう対応したらいいのかさっぱり分からん。
PS;人の事はなんとでも言えるもので・・・ジャイアンらしき母親と共依存(なのに苦痛じゃない)らしい事には気づいていたけれど。
悠々とさん、みさん 貴重な指摘をありがとう!
視点を変えて自分を見直してみて、気付いた点がたくさんあったので、自分の全体像がもう少しで見えそうな気がします。
m2さん、zzzさん、思いつくままに書いているので、違うと思う点があったら指摘して下さい。
普通にこだわっていない、と書いたけれど、実は普通にこだわっていることが分かりました。自分でも書いているけど、親に対して普通を見せる対応をしているのは間違いない。自分の場合、三歳ごろには情緒障害になっていて、実際に何でそんなことも分からないのかと思うほどダメだった記憶しかないけど、自分がダメだと思い込むようになり、小学校低学年の頃にはすでに親に対して愛着を感じていない。外で友達にダメな自分を訴えているのは、ダメだから助けてくれ、失敗しても見逃してくれよと、愛着対象の友達に依存を求める行動だったのではないかと考えました。よくあるパターンの逆になってしまっているが、そう考えると親に対して普通を見せていたことに説明がつく。
全部内と外を逆転して考えれば、親に依存を求め、外で普通を見せるという対応も考えられる。コミュニケーションの面では、幼いころは親とどのようにコミュニケーションをとればいいのかすら理解できていなかったように思う。親は「手がかからず、一人で遊んでいた」と言っていたが、親に「忙しいから後にして」と言われると素直に従い、それ以上何も言えなくなってしまった。今考えれば、駄々をこねて自分に振り向かせるというのが正解だったかもしれない。
4歳ごろ、近所に住んでいる一つ年上のお兄さんと遊びたいのに素直に言えなくて、お兄さんではなく、その父親に「遊ぼう」と言って何度も家に行っては困らせたことなども思い出した。普通なら生まれ持つはずの最低限のコミュニケーション能力がない、または理解できなかったのかもしれない。
先生、投稿する場所を間違えました。削除をお願いします。
> 受動型ASの一つのケアは、「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針だ。愛着の対象からはどんどん遠ざけて、だれも尻拭いをせず、本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境を作り、徹底した自己責任の原則で育てる。
ああ、とストンと落ちるモノがありました。
人と近いとどうしても(自分自身はそうしようとは思っていなくてもor相手への無意識な要求で)イザコザがおきがち、です。
上記引用の特に
>愛着の対象からはどんどん遠ざけて
と
>本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境
…この部分に『結局やっぱり組織と名のつく場所での仕事にはつくなっていうことか…』『自分の場合、職場≒家庭(という愛着の巣窟)にすらなりかねないっつうか実際なりやすかったりするから余計よろしくないよな、やっぱなー』
と再認識。
職場以外では
こうしたネット環境での対人でのみ言語をかわすので(あとはスーパーなどでの「買い物会話」くらい。)
言語における指示待ちだとかの『受動』は出ているとして(自己認識あり。)
たとえネット上の愛着が出現しても職場でのようなイザコザ(非言語でのコントロールだの、空気読みすぎによる複雑な人間関係への疲弊だの)は起こらないと思われる(そう今は感じている)ので…
『一人』で仕事するのが……いーんだろうなぁ…はああぁぁぁ。
(個人的にはそれへのエネルギー、そもそも生きたいというエネルギーがないっつう問題が。)
>受動型ASの一つのケアは、「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針だ。愛着の対象からはどんどん遠ざけて、だれも尻拭いをせず、本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境を作り、徹底した自己責任の原則で育てる。
子どもが受動型かどうか、私にはよくわかりません。しかし子どものタイプが何であれ、時機を見て自己責任をつきつけることは必要だと思いますし、子の自立を目指すことは親の責任でもあると確信しています。
しかし!「子どもの言うことを認めつつ、手を出さないこと」・・・自分自身、思いもかけないところで反射的に手出しをしてしまうことがあり、そこに母親の限界を感じます。同時に、母が一人で対応することの困難を感じています。家にいるときは常に考えを巡らせていて、心身に疲労がたまってきました。まさにエネルギー切れ、っていう感じです・・・
この「考え過ぎ」ということ自体が、子どもへの依存なのかもしれません。書き込みをしながら、そこのところを自分自身の問題として捉えていく必要を感じました。
もうすぐ(家では自分だけだが)夏休み!家族の理解を得るため、休みたいと声に出して言おう。自分の力で気持ちを切り替える工夫をしてみます。
初めまして・・・
近く先生の診療を予約しようと悩んでいた
れい303 と申します。
AS受動型・・・そう思っていました
ですが
KY過ぎて、ADHD依存型になりました
なりましたというか
戻りました
現在別居中の主婦です
主婦業は、していません
こちらの掲示板にたどり着いたのは
一週間程前かと思います
何だかAS受動型の方に・・・
遠隔操作してもらった気がします
無職さんに似た人でした
ありがとね。
これから、間が空くかもしれませんが
こちらの掲示板のおかげで、自身を説明出来る
まで認知が多数派に近づいたのかな
そう思い、自身の為に投稿しました
愛着と利用・・・利用だったのか・・
どうかなあ・・まだ変身するかもと受診
先延ばし・・・やっぱり・・・ADHDだよねえ