「利用」は非言語的な意味を伴わない現実的な関わりであり、(しつこく書けば)大事なことは、「利用」と表現する限り「責任は利用したほうにある」と責任が明確であるという事だ。
対して「依存」はどうだろう。
受動型ASの場合は、要は「郭公の雛」的で、鶯の巣に鶯よりも体が大きい郭公の雛が「餌を持って来い」と当然のように口をあけて待っている図を想起しよう。「相手が自分を必要と言う」ことを切望し、相手がその言葉を言ったら最後、巣に居座る権利があると認識し、「必要と言っただろう」と当然のように異常にあつかましい理不尽な要求を巣の主に突きつけ続ける。(逆に必要でないと言われるといきなり関係をぶち切る)。
依存型ジャイアンは言葉でお願いすると自分の責任が生じるので非言語的なアピールで相手を動かそうとする。他にも無自覚なジャイアンは責任を取らなくて良いとなると簡単に丸投げしようとする。ACの共依存も同様だ。
説明するまでも無いことだが、ここに欠けているのは、「自分が相手を選ぶ」という自分の責任に基づいた行動だ。
郭公の雛は鶯を利用していないだろうか? 「あなたのため」と言って一方的な価値観の押し付けを続けたり、自立出来ないほどに「飼い殺し」を続けたり、相手の自己決定権(尊厳)を奪いながら支配し罵倒し続ける共依存者は相手を利用していないだろうか?
答えはこうだ。
実際は自分の不安を軽減したり、「大変な家族の面倒を見ている感心な同居者」としての自分への同情や賞賛が欲しかったり、(パートナーや社会などへの)八つ当たりのはけ口にするなどの非常に利己的な目的で相手を「利用」しているのに、表面上は自分の責任だけは逃れられるように「相手のため」「必要」等の偽善的なカバー(偽装)をかぶせている。
これはただの「利用」よりよっぽど悪く醜い、人間として許されないことではないだろうか?
(鳥類の郭公は自然の摂理の中で当たり前にやっていることで、何もごまかして居らず、ジャイアンの利用と同じことで、当然自ら責任も負っている点で、ここで言う依存、郭公のような生き方をしている人間とは全然違う。郭公の名誉のため)。
だから私は「利用」と表現するほうが良いと考える。表面上きれいな言葉をまとった利用は「利用してさらに責任まで取らない」ことを意味するに過ぎないのだ。
これが依存、共依存の本質だ。
御意・・・
それに、こういう「依存」「共依存」関係は、えてして犯罪にまで繋がり易い・・・
パワーゲームに勝っている方が、とめどもなくなって平気で法を犯す行動に出たり、逆に負けている方が、ある日ちゃぶ台ひっくり返すが如くに暴力振るったり。
某多数派さんにも告ぐ!ある日ある時、「欲求不満の弟、義理の姉を襲う!」なんて新聞沙汰になったら、洒落になりませんよ。
役所自体を人に例えると、自分で責任を負うことを避けているのが偽善的カバーと似ているのではと思いました。
役所は試験で入れる訳ですから、ジャイアンにも入りやすい労働場所と言えるのではと思います。
幼稚園卒園式のとき担任の先生から将来の夢を一人ずつ聞かれた時、私ははにかみながら、お母さんになりたいと言ったのを覚えています。
そのころの同時期の記憶として母が私に、あんたは結婚なんかしないで手に職をつけなさい。とも言っていました。
又、父母、仲悪くいつも母から愚痴を聞いてました。
親の言うこと聞いとけば、絶対に失敗はしないからとも言われて育ちました。
私が中学生ころになり、母にむかって反抗的な態度をとったとき母から発せられた、あんた将来絶対に悪い子供を生んで苦労するよという言葉は、今まで私のなかでずっとトラウマになっていました。
私21歳のころ、大失恋のため自殺未遂をしました。
その傷もぜんぜん癒えていない頃から、今度は母が、私に早く結婚しろと言い出しました。
自殺未遂で大量のガスを吸ったせいか、体調も優れず心身ともに鬱状態になってる私に、母は、見合い話をたくさん持ってきて
結局やっと見合い結婚がまとまったのは、私28歳の時。まだ、大失恋の傷は残っていました。
そして主人になんと結婚前から女装壁があったとわかったのは、
今から3年程前。
結局、すべて決めて実行したのは私自身です。
でも、母の言動が私自身を動かせたことも事実です。
先生の潔い書き方に拍手です。
誤解を招こうが、この「利用」という表現の仕方はジャイアンの人付きあいを的確に表した表現だと思います。
自分自身がそれを受け入れて 潔い生き方をしたいと強く思いました。
利己的と言われようとそれが真実なのだからしかたないです。
もう、きれいごとを言うのはやめにします。
「利用」の一連の記事を読んで 今日決心しすっきりしました。
ちょうど 同じような話が生活の中でも生じ 決意を強めた次第です。もう、脳にあらがわずジャイアンらしく生きてみせます。
むーんさん、
何か勘違いしてますよ。私含む家族は『弟』をどうにかしようとしているのではなくて、『火事』を始末したいだけですから。一人暮らしをして自宅が火事になってしまうのが本当は一番の薬なんですが。
依存の話に戻すと、火事をネタに弟が依存を誘っても誰もその落とし穴には落ちません。依存の形で利用したくてもできないので欲求不満になってる可能性はあるかもしれませんが。それで何か起きたときはその時です。家族の誰かが死んでも死ななくても、弟は追い出されるか刑務所行きですね(もちろん起きる前に追い出す事もあり得ますけど)。潔い利用の仕方に早く気付けばいいですが、それも本人次第です。
私にもまりさんによく似た義姉がいます。
何年も前に、まだ若い父(50代)と父宅で同居してくれたのはいいのですが、結局父を無職のまま飼い殺し状態が続き・・
時々機関銃のような愚痴℡・メールが届き、そのつど私は別居を勧めるも、また連絡は途切れてしまいます(その繰り返し)。そして、不思議と言語的に私の責任は追及しないんです。私はACだから、負い目はヒシヒシと感じてましたが・・。
私は義姉は(依存型)ジャイアンだとにらみ、父もASっぽいから、今までお互い利用しあって来たんだと思っています。
ただもう今や父に残されたのは住んでる家だけで一文無し!
義姉からお小遣いをもらっても、呆けてきたのか散財して大変らしいし、別居するにも双方お金がない状態で、これから一体どうなるのでしょう? 本当は、父を私に丸投げしたいんだと思うのですが、言ってはきませんね・・。ジャイアンの意地でしょうか?(もちろん、受け取れるわけないけれど)
自分の不安を減らしたり、「大変な家族を見ている感心な同居者」として周りの同情や賞賛を集める…まさしく、私の(依存型)ジャイアン母です。この行動で、良妻賢母で評価されてます。しかし、娘の私には、「あなた達家族の為 苦労してる」と非言語的アピールで、結果、私はACです。思えば、母は泣いたりキレたりする事で周りを「支配」してました。そして、一番の問題を直視していない。
母が一番優位だった訳で、私もこれをインストールしている…だいぶ前、「恩着せがましい悲壮感漂う行動はムカつく」と指摘され、なるべく気を付けてます。持つべきは、率直な友人です(感謝!)やはり、ジャイアンとして、自分の責任で他者を「利用」するのが、自分にも周りにも、よき選択なのだと、改めて感じます。
(饒舌は続きます)
>「利用」は非言語的な意味を伴わない現実的な関わりであり、(しつこく書けば)大事なことは、「利用」と表現する限り「責任は利用したほうにある」と責任が明確であるという事だ。
私も「責任」ということはある程度意識しますが、私の頭の中は、先生のようには「責任」ということがスッキリと明確に整理されていないなと感じます。もっと曖昧です。でもこれは重要なポイントのようですね。
それから「非言語的な意味」という言葉も私にとっては理解が浅いです。自分が無意識に非言語的なことをいろいろやっているんでしょうけれど、あまりよくわかっていません。ここもポイントのような感じがします。
これらのポイントが自分でしっかりと把握できるようになると、自分の中の盲点に光があたっていく気がします。
私の子どもがまりさんの義弟のような行動をしたらどうするかを考えていました。
義弟として考えると難しいので兄弟対応として考えました。
まず、事実を整理します。
弟がCDを探すため人の部屋に無断にはいった。そして、CDを無断で持ってきて壊した。持ってきていないとうそをついた。
息子は、弟の言葉を信じずに無断で弟の部屋に入りCDを見つけた。
このことから、悪いのは弟の無断で入ったこと、CDを盗んできたこと。壊してしまったこと。隠していたこと、うそをついたこと。と言うことが分りました。
だとしたら、この行動は犯罪行為であることを説明し、警察にいかなければならないことであることをつげ、連れて行きます。自分のやったことには責任を取ってもらわないといけないのです。そこで初めて弟は自分の行動の意味を知る事になると思います。
その上で、弟にはCDを弁償させて償いをさせます。
また、息子にも黙って弟の部屋に入ったことを謝らせます。
これらのことの対応は私が行うのではなく、父性として夫(兄)にやってもらうと思います。行動は夫婦一緒に行いますがキチンと躾けるためには父性が必要であると思っています。
(続きます)
(続きです)
火事の件についても、後始末、弁償は弟自身にさせることを夫に言ってもらうと思います。
母性は償うのが大変なのを励ますことは出来ても、厳しく躾けることは向いていないです。
その父性と母性の分担を誰がするかがまりさんのところは鍵のような気がします。まりさん一人ではうまく行かない問題なのは確かだと思います。
自分の子どもを見ていると、自分で償いをして始めて責任の重さを分るところがあるので、小さい時から責任の取り方を教えていかなければならないと思ってます。
利用するにしても、されるにしても、責任が伴うことをそして責任をとるとはどういうことなのかをわからせておく必要があると思います。
>まりさん
>依存の話に戻すと、火事をネタに弟が依存を誘っても誰もその落とし穴には落ちません。
義弟さんは自立できていないようなので、既に依存状態であると思うのですが。
>潔い利用の仕方に早く気付けばいいですが、それも本人次第です。
これは、
「何かをやってもらったら、頼んでいないなどと言わずに自立できるまではわたしを潔く利用して、それに感謝すればいい」というかんじでしょうか?
先生のことばに、いつも救われる私です。
『非言語的なアピール』が使えない自分に、もどかしさを感じたり、
>だから私は「利用」と表現するほうが良いと考える。表面上きれいな言葉をまとった利用は「利用してさらに責任まで取らない」ことを意味するに過ぎないのだ。 これが依存、共依存の本質だ。
・・・きれいな言葉をまとった『利用』ができない私は、ただ正直(素直)なだけなのに、自己突っ込みや責任まで取ってしまい、結果自分一人空気が読めてなかったり、損をするはめになる。
正直に(「利用」は非言語的な意味を伴わない現実的な関わり)しか生きられない自分は、決して嫌いじゃない。
けれど、生き難さを常に感じているのが現状です。
だから、ここに癒し(?!)を求めにきます。
私がこのブログにコメントする
→私がこのブログを「利用」している
→「利用」している者に責任がある
→私にとってのここでの責任とは、「このブログが実際のYANBARU先生の診察室と同じだ」と自覚して真剣に臨むこと
だと理解すると頭が整理されてきます。
そういえば、病院の診察室にいる時は確かに自分の症状を医師に伝えるのに、わかりやすいシンプルな言葉で話しますね。よけいなものはくっつけません。「非言語的なもの」はないと思います。
きれいな言葉で飾った「利用」、共依存、って旧道路公団と天下り先受注大企業との関係に照らし合わせるとよくわかるような気がします。
被害者は高い税金を無駄遣いされた上に、高い高速道路料金を払わされる国民ですが….
母は私のことを利用しているくせに、そんなこと微塵も思っていない。
母は、あなたのことを思って・・・等と言っているが、それは、母自身のために、母自身の不安を解消させるために・・・なんて、少しも自覚していない。
私は、息子を支配したくない。
でも、時々、心理的に<非言語的にアピール>している自分に気がつくときがある。
私自身、息子を利用していると自覚すると、少しは楽に
なれるのだろうか・・・
尊厳とは、自分の意思で行動する、自分の行動の責任を自分で負うということをあくまで貫き通すこと。
依存とは、自分の行動の責任を自分で取らず、他人のせい、と思っていること。そもそも自分で行動せず、言語的、非言語的に他人を操作し、他人に行動させること。他人を操作せずとも、他人の行動を享受するが、「自分が頼んだ」とは自覚せず、「相手が勝手に好きでやってること」と認識すること。
共依存とは、自分の行動は他人のため、と思って行動すること。(必ずしも、助けている相手本人だけではなく、周囲の他の人のためというのもも含む。)
そして、依存と共依存はセットであり、依存する人のそばには必ず共依存の人がいる。
共依存の人のそばにも依存する人がいる。
と、読み取りました。
>「責任は利用したほうにある」
・・・ここに行き着く前だったか、後だったか定かではないのですが、自分にとっては「責任」という二文字がやけに重たかったので、まずは「選択の自由」を入り口に入っていきました。
1.自分で考え
2.自分で決め
3.自分で選び
4.自分でする
最後の4がけっこう大切なんですが、体力的に無理な時は「依頼」に変えて・・・。
自分で考えて自分で決めて自分で選べば、もれなく「責任」付いてくる!!というしくみ。
試すチャンスは日常にゴロゴロしていて、まぁいかに今まで「責任」から遠いところで生きてきたのかを直視することにもなりましたが、他にも見えてくるものがたくさんあった様に思います。
以前にmarioさんが、あまり期待しないように・・・と書かれていましたが、無自覚の期待も多いと思うし、自分が何を基準にして物事を決めているのか、根拠のないパターンがあったりと・・・。
そういう風に重箱の隅を突くようなことの最中であっても、突然視野が広がる瞬間もあったりして・・・。
>「自分が相手を選ぶ」という自分の責任に基づいた行動
・・・練習問題のつもりも兼ねてそうしていくうちに、徐々に重めの「責任」に移行できればいいな、という感じでいます。
ふと、思ったのですが
雇用関係は「共依存」なのでしょうか。
依存と責任という言葉が繋がるとなんとなく今まで腑に落ちなかった事柄が浮かび上がってきました。
私は雇用する立場です。従業員からの文句はこんな感じでした「責任を果せ!給料上げろ!待遇を良くしろ!それが下の者を敬う態度か!こっちの苦労を少しは理解しろ!従業員の生活を保障しろ!」
私は雇用を売上の為の「利用」と考えていました。従業員をコストと売上の相対比でしか計れません。一緒に前(同じ方向)を向いて闘う同士であって、家族(向かい合って助け合う)のように思えません。
従業員側にはそれが心底馬鹿にされていると感じるようで、私に「仲間(従業員)」を大切にしろと要求するその思考が全く理解できず困り果てました。
ADHDのせいでしょうか、なぜ利用が悪いのか理解でなかったです。
彼らは私を利用して給料を得ているじゃないですか?
そのことを怒りとして感じた事はありません。
彼らの仕事に見合ったそれ以上(私の計算では)の給料を渡しました。
そして、売上が上がらなかったので赤字を出す訳にはいかずに(せっかくうちで働きたいと思ってくれた好意には十二分に感謝と謝罪の念を込めました)リストラをしたところ、残った社員から尋常ではない反発を喰らいました。
仲間なのにという言葉と怨まれたような目つきに釈然としませんでした。
売上は全員の責任かと思っていましたが間違っているのでしょうか。
なぜ雇用主ばかりが責められるのかが理解できません。
利用し合って成り立つ会社組織とは双方に責任がありますよね。
mmmさん、
>「何かをやってもらったら、頼んでいないなどと言わずに自立できるまではわたしを潔く利用して、それに感謝すればいい」というかんじでしょうか?
いや、ちょっと違うかな。私の考える「潔い利用」とは、利用してる(結果的にでも)と自覚する事です。弟は依存型なので依存(利用)したくてしょうがないのにそれを認められません。なので誤魔化して有利な状況を作ろうと(他者を供依存に巻き込もうと)します。依存に居座るも抜け出すも本人の意思の自由ですが、他人を操作できない事に憤慨しても何も得しません。利用してる事を認めれば、無駄も不愉快さも省けると思います(自分の醜さとの直面にも関わってくるのかもしれませんが)。
消防車が頼まれなくたって火事を消すように、『やってもらった』のではなく、『自分がやらないから先にやられた』だけのことです。感謝とかそういうことではなく、放置したら迷惑な事を自分が始末できずに他人に先を越されたからってツベコベ言うなと。そんな感じです。
>(逆に必要でないと言われるといきなり関係をぶち切る)。
・・・ACが回復するにつれ、AS援助職も、AS父もこういう態度になってきて、なんか困っている・・・
(関係が切れるのは、いいことかも知れないが。)
私には、今まだ「父親」的存在が必要なのです、YANBARU先生。