AC、人格障害関連

砂漠の岩山の孤独

 井戸の住人のことは井戸の中でやってもらうことにして、ジャイアンの理解の試みに戻ろう。

 甘やかされたジャイアンはさながら、誰も居ない砂漠の真ん中の岩山の頂上に立って「俺はこんな高いところに居る、一番だ」とただ一人叫び続けているようなものだ。

 甘やかされたジャイアンにも、周りに誰も居ないことはうすうす感じるのだが、「自分は高いところにいるのだから気にしなくて良いんだ」と自分に言い聞かせ続けながら目をつぶっている。

 少し苦労をすると、周りに誰も居ないことが見えて自分が孤独であることを考えざるを得なくなる。そうすると今度は「こんなところに居てどうなる」という根本的な合理的な自己突っ込みのブリザードに襲われ、砂粒をいやと言うほど叩きつけられ続けることになる。

 遠くの山に自分よりも少しでも高い位置に居そうな人を見つけると、「あの山は自分の立っている山より低いんだ」と無理やりの証明を試みたり、目をつぶって空想の世界に逃げ込んだりしなくてはならない。

 自分が何か失敗してごめんなさいを言うようなことがあれば、まっさかさまに山のふもとまで転落する(から言えない)。

 本当にさびしくなって、「誰かに本当に理解されたい」と望み、頂上の孤独の無意味さを嫌というほど味わった後に、不安でぼろぼろになりながら自ら不毛の岩山を降りることが唯一の救いだ。

 

 

 

 


関連記事

  1. 発達障害のコーチング
  2. ジャイアンの成育④依存型ジャイアンへの道
  3. 依存の3要素
  4. KYのASとADHD
  5. ダメんずジャイアン
  6. 積極奇異AS-ジャイアンADHDカップル
  7. ジャイアンのACの治療
  8. ブログ上コーチング③「陰口」

コメント

    • しあ
    • 2008年 2月 24日

    ずっと読ませていただいてます。
    話し合うことが出来なくて、なんでも勝手に決めて走り出してしまう。そんな元夫の心の中がこんな風だったんだって、その寂寥とした風景を思い浮かべると、悲しい気持ちになります。
    いつも不思議に感じてたのは、好きな仕事でもう少しで1つのことが達成できるというところで、放り出してしまうことでした。今まであんなに熱心に取り組んでいたのに、それが報われて評価されるのにナゼ?
    いったいどんな状態が彼の満足だったのか?なんでそこでじっとしてればいいのに走り出てしまうの?
    何を望んでどうなれば幸せを感じるのかが分からないのが一番つらかったです。

    • どらねこ
    • 2008年 2月 24日

     井戸の中にも井戸があって
    外側の井戸の住人は自分も井戸の住人だと気づけない。
     
     自分の周りには井戸がたくさんある。
    もしかしたら、自分も井戸の中にいるのかも知れない。
    漠然とした不安にいつも包まれている。
    (ありがちなSFみたい)
     井戸の外で楽しく暮らす人の仲間に入りたい。
    でも、入れない。
    じゃあ、いろんな事が出来るようになれば仲良くしてくれるのかな?
     自分なりに頑張ったけど変わらない・・・
    なんで、あいつと同じ事してるのに自分は
    可愛がってもらえないの?
     「可愛がってくれないなら一人で生きてやる」
     「あいつだけ特をして許せない。かみついてやる」
    本当はやさしく撫でてもらいたいだけなのに。
    好きでどらねこやっているわけではないのです。
    不毛な闘いから卒業出来るのでしょうか?

    • ねね
    • 2008年 2月 24日

     本当にさびしくなって、「誰かに本当に理解されたい」と望み・・自ら不毛の岩山を降りることが唯一の救いだ。
     これがACになる程の苦境を味わったほうがよい理由ですね。
    そうなると不幸だと思っていた生い立ちは自分には必要不可欠だっということになります。
    自分の過去の価値が逆転できそうです。
    力が湧いてくる思いです。
     YANBARU先生、ありがとうがざいます。

    • エイト
    • 2008年 2月 24日

    ジャイアンの自己分析を進めるにあたり、m2さんにお願いがあります。
    m2さんはYANBARU先生も仰るように、ASの理解についてはたいへん優れていると思うのですが、その勢いでADHDやジャイアンを理解して解説(しているように私にはみえる)はやめていただきたい、と私は思います。
    私が1番気になったのは「ジャイアンの根本的矛盾」のところのm2さんの1回目のコメントです。
    「低い自己評価」を実践して成功した私からみて、m2さんの  ジャイアンには「低い自己評価」と「低い他人評価」がよい  というのは全く違う、と思います。
    自分本位を抑えるために「低い自己評価」を目指すわけですから、それと同時に「低い他人評価」を意識してしまったら「低い自己評価」に自分をもっていく意味がなくなりますから。逆に「高い他人評価」くらいでいいと思います。
    私は先生のこの薦めを、悩めるジャイアンの方々にもぜひ経験してもらいたい、と本気で思っています。m2さんの理論が実践する方の頭の片隅に残って、実践が失敗するような事態も十分あり得る、と思います。混乱のもとです。
    ASがADHDを理解することは困難(もちろん逆も)です。「ADHDを理解したつもりの理論」はご自分の中だけにしていただきたい、と私は願います。

    • エイト
    • 2008年 2月 24日

    私の両親はジャイアンです。私も兄弟もジャイアンです。
    親から自立するまでは、親ジャイアンのエゴの砂嵐を叩きつけられ、めでたくACも経験しました。
    紆余曲折ありましたが、良くも悪くも、私はたくましくなりました。
    両親は喧嘩しながらも、二人揃って「不毛の岩山」の頂上にいるようです。父親はたまに五合目くらいまで降りてきて、また登ってをくりかえしているようです。
    何故、あんなに価値観が違うのに、離婚に至らないのか?
    今回の先生のテーマで理解しました。別れてそれぞれ別の岩山にいるよりは、お互いに腹をたてながらも一緒の岩山にいたほうが寂しくないから。
    いつか、二人揃って下山できることを心から願っています。どうか、足が弱る前に降りられますように。

    • m2
    • 2008年 2月 24日

    私はジャイアンしか愛せません。
    よって、ジャイアンが生きやすい状況を解明するのは、私にとっても重要なことです。
    また、客観的に見ないとわからないところもあると思いますので、ジャイアン系の発言も続けたいとは思ってます。
    >「高い他人評価」くらいでいいと思います。
    これは、私の話に疑問を挟めるくらい、「低い他人評価」を確立されているからこそ、言える言葉です。
    私くらい自信を持って発言しているASに疑問を持てるくらいであれば、後は「低い自己評価」が有効になるでしょう。
    他人評価を確立されていないジャイアンの方が低い自己評価を実践したらどうなるでしょう?
    自信家のASや、多数派の常識に疑問を持っても、自分を信じ切れない、そういう状態になるだけではないでしょうか?
    YANBARU先生の話を、人の話をうのみにしやすいACの方やACに近い方が、実行したら危険と思ったので・・
    具体的に言うと、こんな感じでしょうか。
    高い他者評価→相手はすごい→依存
    低い他者評価→相手がかわいそう→奉仕
    であり、バランスが取れるのであれば、真ん中がよいのでしょうが、それが簡単にできないのが発達障害なのですから、上の2つであれば、まだ低い他者評価の方がマシ、バランスはその後に取ればよい、ということだと考えています。
    これは、YANBARU先生の臨床経験である、子供→AC→ジャイアンとなり、そこから「低い自己評価」と進むのが一番うまくいくということと矛盾はしていないと思いますが、いかがでしょう?

    • ぴよよ
    • 2008年 2月 25日

    どらねこさん、私の読みとりが間違っていたらごめんなさいですが、どらねこさんはここのブログで言われている意味の井戸の中にはいないと思われますよ。
    井戸というのは、すでに思い込みが一線を越えて人間社会に戻って来られない人、戻る意志のない人だという解釈をしています。
    自己突っ込みをしていたとしても、いつの間にかそれが自分を甘やかす口実に変身している、なすすべの無い人です。
    少なくともここをお読みになって、自省していらっしゃるわけだから、どらねこさんは立派に山を下りていると思いますよ。
    ただ、私は山を下りた今でも(というか、母が許さなかったのでもともと登っていませんね)100vs0思考の苦しさから逃れる道を探してまだ見つけていませんが、それでももう山に登る気はありません。
    井戸の中にいるということは、そうして自己突っ込みのような言い訳をしながら、へりくだって人間社会とかかわる方法を身につける意志を捨ててしまった人ということではないでしょうか。
    アル中の人は、とことんまで底を見るまで、どんな人の言うことにも耳を借さなくなると言われていますよね。それに似た状態では?
    井戸の中のASにしろ、井戸の中のジャイアンにしろ、アル中にしろ、それはそこまでいくと自己選択でなったわけですから、だから井戸の中にいろという表現になっているのではないでしょうか。
    どらねこさんや私がもがいている場所は、ASの認知の壁の中であっても、そこが学ぶことによって透明のスケルトンな壁になれば、井戸の中でないことが分かって安心できる思います。きっと、井戸の中ではないですよ。
    本物の井戸の中にいる人は、もっと重篤です。
    蛙ならまだ可愛いです。出てくるように誘ってもいいと思いますが、養育環境も本格的に過酷だと、リングのサダコのような人格障碍者に化けているかもしれません。
    そうなったら、いくら発達障碍者特有の親近感を持って近づいてもダメです。いくら沢山の井戸が見えたとしても、手を出さなくてもいい井戸があると言えると思います。
    どらねこさん、私も、お互いに、共依存のような井戸の中に戻らないよう、努力しましょうよ。確かに不毛ですけど、私は、サダコよりは壁の中のナマケモノザルでいいんです。しょうがないです。
    付け加えると、リタリンがあればもっとQOLがあがるんですけど……。

    • どらねこ
    • 2008年 2月 25日

    ぴよよ様へ
    ごめんなさい。
     変なコメントを書いたばかりに心配を掛けてしまいました。
    冒頭の2行はここ最近の流れについての風諭です。
    後半はしっかり私のことです。
     こんな事しなきゃいいのに、気がついてみればいつも手遅れ。
    一人でいる事が苦しくなければいいのに・・・
    そんな毎日です。
    でも、コメントうれしかったです。
     私の母も山の上には登らせてくれませんでした。
    (いまだに私が発達障害者だと認めたくないようですが)
    ジャイアンは甘やかしてはいけないというのは本当に実感しています。
     私の前には一つの井戸があるんです。
    息子はまだ小さいのですが自閉症(たぶん高機能)で す。
    井戸の中に一生閉じこもってもらいたく無いと思っています。
     このブログに来たのも彼の心を理解したいなぁ、と思ったのがきっかけです。
    自分のことだけでも精一杯だったのに、今度は子供も・・・
     
     前向きに生きているジャイアン仲間と出会えて私も少し前に進めました。
    ぴよよ様、一緒に努力していきましょう。
    これからもよろしくお願いします。

    • エイト
    • 2008年 2月 25日

    m2さんへ
    私はあなたの理論の確認作業につきあうほどの時間の余裕はありません。
    あなたの理論は、他者にとって、YANBARU先生の毎回のテーマを、より理解しにくく、より複雑にする可能性がある、ということをわかっていただきたいだけです。

    • エイト
    • 2008年 2月 25日

    m2さんに質問があります。
    私は○十年生きていても、自分自身の不可思議な部分をもっと知りたい、より良く生きたいと考えて、YANBARU先生のブログに真剣に参加しています。少しAS風ADD次男やジャイアン長男のことももっと理解したいと思っています。
    私がASを理解したい気持ちと、m2さんがジャイアンを理解したい気持ちは、お互いに理解できますよね?
    同じ気持ちを持つ者同士、自分にはわからないことを先生のブログのなかで学んでいこう、という共通の目的、意思があることも、お互いに理解できますよね?
    お互いが学ぶ「場」では、お互いが相手に迷惑をかけず、自分が可能な範囲で協力を惜しまず、それぞれが自分に必要な理解を深めていく。先生への礼儀、敬意の念も忘れない、これらの心構えが必要不可欠であることも、お互いに理解できますよね?
    少し堅苦しく書いてしまいしたが、以上のことは私とm2さんだけでなく、ブログに参加する他の方々にもあてはまることだと、お互いに理解できますよね?
    以下は私の考えですが、気持ちよく学ぶためのルールとして
    ジャイアンはエゴイスト部分をこの「場」で丸出しにしない。
    ASはこの「場」で「低い他人評価」をしない。またこの「場」で「自分の持論を展開」しない。
    これらが最低のルールだと思いますが、異論、反論、追加などがありましたら、ぜひお聞かせください。
    日本語で書きましたので、気持ちは通じると、「行き違い」はないと信じます。

    • 月の草
    • 2008年 2月 25日

    おひさしぶりです。
    ___先生:「あの山は自分の立っている山より低いんだ」と無理やりの証明を試みる
    これって、いつもいつもしているかもしれません。誰かに常に保証してもらいたいんです。その保証をしてくれるのが、友人であれ、なんであれ、パーフェクトAS・スーパーADHDだったかもしれません。普通のヒトからの評価には、価値がないような感じです。けれど、その評価は、愛着や依存から来るものだったりして、けして仕事の価値を見ての評価じゃない。愛着や依存にのっとってなされた評価は、簡単に覆ってしまうんだと、今になって思います(夫から私への評価)。そういう危ういものに頼っていた自分が後悔されます。

    • エム
    • 2008年 2月 25日

    エイトさん、私(ADHDのAC)がm2さんの話を信奉しているようで心配になりましたか? なかなか自分語りできないのが受動型ASなので、受動型ASを身内に持つ者としては、m2さんの話はとても参考になるのですよ。 確かにADHD分析に関してはアレ?と思うところもありますが、そんなに押し付けがましい言い方ではないと感じます。AS男性にはめずらしく
    他者の意見も聞いて、YANBARU先生への敬意はもちろんあると思います。それがなければ、先生の率直なコメントがとんでくるのではないですか? 皆、YANBARU先生の記事に対しては成る程と理解につとめ、コメントはその理解のための参考と捉えてるのではないですか? 先生がついているので大丈夫だとは思うのですが、AS男性を議論に引き込んでいい思いをした事がありません。 私自身のトラウマでしょうか?AS男性を煽らないで、と思ってしまいます。

    • 月の草
    • 2008年 2月 25日

    m2さん、こんにちは。
    私(自己正当化型ADHD)は、m2さんがはじめて書かれた時から、ご発言にほっとしたり、参考にしてきました。
    私はといえば、仮に先生の仰るように周りは見えたとしても、自分のことはさっぱり見えません。自分の悪いところが全く見えないため、AS夫の感性をブチ潰してきたとさえ思うこの頃です。この上なく愛らしく、素晴らしい未来を持ってるはずのASの子供のことを思うと、二度とそれを繰り返したくない。そのため、ASから見て客観的に自分がどう映っているかを知るには、ASの皆さんの発言は私にとって貴重です。先生が非掲載にされた記事がどのようなものかわかりませんが、たとえば人を射貫く激しい表現は、AS人の心情として筆舌に尽くし難い、もんどり打ってる状況を表すかなにかかもしれない。一つの結果や真実を表すものなのかもしれないと、私は思いますし、たとえグロテスクに見えても参考になる情報があるかもしれないので、私はくまなく読みたいです。
    >高い他者評価→相手はすごい→依存
    >低い他者評価→相手がかわいそう→奉仕
    それ、私にはとてもあてはまっています。パーフェクトでIQの高いAS夫(あるいはスペシャルADHD)に依存してきました。自分の評価をあげるために、かわいそうな相手を探して奉仕するというのも同じくらいしてきたと思います。「可愛そう」という言葉を相手に失礼、差別的だと嫌い、けして使わないようにしてきたにもかかわらず。
    唯一、自分が好きだからやるのだ!として主体的に取り組んできたことも、上記の二点を軸に動いているため、目的がいつのまにか「相手によって評価をあげてもらう」になっていた。これは、依存された相手にとっても(特に可愛そうの場合?)、自分にとっても、不幸な結果を招いてきたと思います。相手を尊重し、信頼する。これから程遠い。
    どちらも依存でしかないようですので、今後は「自分はどうしたいのか?どうするのか?」を軸に、主体性を大切に動いていこうと思います。いつかは自分で自分の責任をキッチリ取れるようになり、それができていると実感したい。
    だいぶ時間がかかりましたが、ようやくここへきて自分の行くべき道が開けてきた気がしています。

    • エイト
    • 2008年 2月 25日

    エムさんが仰るように:皆、YANBARU先生の記事に対しては成る程と理解につとめ、コメントはその理解のための参考と捉える:正にこの部分でm2さんのコメントは誤解を招く、と思い私は意見しました。
    でも、m2さんは自分のコメントは正しい、と思っているようなので、私がそのことに関してこれ以上言うつもりはありません。
    また、私はいじめっ子でも決して煽っているのでもありません。合理的ADHD部分の本領発揮と受け取ってほしいところですが、2回目の私のコメントは、m2さんが先生のブログに参加するにあたり、どのような考えを持つのか、知りたかっただけです。m2さんに嫌われることは覚悟していますが。
    私とm2さんのやりとりに関わらず、m2さんはエムさんの疑問に、できる限り答えてくれる方だと思いますよ。エムさんが心配する必要はないと思います。

    • 匿名
    • 2008年 2月 25日

    コメントについて
     私はここで展開する診断の分類名や使う言葉については、必ずある特定(もしくは数人)の実在の人を思い描きながら書いています。そうしないと言葉だけが独り歩きしてエイトさんの言うとおりにかえって大事なことが分かりにくくなります。
     上の議論で言えば、「他者評価」という言葉が分かりにくいですね。「自分から他者への評価」であれば曖昧さは無いですが、自分から他者への評価と自分から自分への評価が別々にありうること自体、おそらくASの場合にしか言えないことだと思います。
     ジャイアンの場合極論すれば(自分の評価を低くさえしなければ)他者はどうでもよく、その意味では評価の基準はひとつです。
     エイトさんが分かりにくいと表現しているのはこのあたりかなと思います。そういう意味では、ASの人には「理解することの難しさ」をもっと厳しく自分に言い聞かせて欲しいですね。
     (最近私はASについて書くことをためらう気持ちがあります。ASについては、あくまでも周囲の関係者として表面的、社会的現実的に関わらざるを得ない立場からASを理解するためにという話にどとめて、それ以上のことは書くまいと思うようになりました。ASの人の内面まではとても想像は困難だと感じるからです。)

    • エイト
    • 2008年 2月 25日

    私ジャイアンは「他者から自分への評価」は気になりますが、YANBARU先生が仰るように「自分から他者への評価」は普段からあまり意識していません。だからm2さんから「他人評価」という言葉がでてきた時は、率直に言うと驚きました。それゆえ、先生の「ジャイアンには低い自己評価がよい」という薦めにおいて、「他人評価」まで念頭に置くこと自体、私のような単純なジャイアンにとってはかえって複雑に感じます。m2さんの1回目のコメントをよく読んだ今でも、わかったような、わからないような感じがします。
    ものごとはシンプルが1番、考えても理解できないときは即実行、の精神で、初トライで先生の薦めに成功した私は、わざわざ複雑に理解する必要がない、かえってわかりにくい、と思ってしまいました。この気持ちを素直に書けばよかった、と反省しています。
    でも、ADHDにもいろいろなタイプの方がいて、私のように、「即、実行」よりも、まず「先にイメージを掴みたい」方もいることは確かです。そういう方にとっては、m2さんの説明がプラスに作用する、ということは、今、理解できました。
    自分のつもりは、他者のつもりとは違う、ことを慎重に意識して、これからもブログに参加します。ご迷惑をかけることもあると思いますが、よろしくお願いします。
    ブログに参加していて思うのですが、私は、ADHDの方の文章は理解しやすいですが、ASの方の文章は理解が困難だと思うことが多いです。言葉の壁、理解の壁があることを感じますが、「脳の違い」なので当然ですね。

    • たかこ
    • 2008年 2月 25日

     わたしはこちらで使われている言葉の一つ一つの意味から理解する事が(ついていくことが)できなくなりました。むずかしいです。
     自己突っ込みというのは、わたしだと常日頃やってる、本音と建て前にあてはまるのかなあとか、そういう次元です。
     どのことを表現してあるのかがわからないです。が、多数派にはわからない、のか、私が理解する能力がないのか、それさえもわかりません。
     私の周りには、ASの主人とその母(姑)ジャイアンの2人しかいないので、その人たちの事で、感覚的に思い当たる事をつれづれなるままに書くしかできません。
     今日の私は、「やろうと思ってた事半分もできなかったな私って怠け者でだめねえ」と反省したのと「すごい短時間で晩ご飯の用意できたじゃん、私ってすごい!」という感じの1日でした。そしてまた明日もいろんな事を反省して、怠け者だけどそこそこやってる自分にある程度納得しながら生きています。
     日々反省です。けどまた同じようにだらけたり、自分に厳しくしたりします。
     毎日いろんな言い訳もしますが、言い訳をした部分は結局自分が努力しなくてすむだけなので、成長しないだけで自分のためにはならないと思うので、言い訳はなるべくしないように心がけています。
     自己評価とかって真剣に考えてみた事はあまりありません。
     コンプレックスも沢山あるし、若いときは特に自分の容姿や話べたでくよくよする性格に悩んで、努力もしたし、その結果今の人生があるのでしょうが、自分はいい加減で、なんのとりえもないけど、それでもそれなりにいいじゃーんと今は思っています。
     そのうえ、最近はおばさん化してあつかましくて恥も外聞もないし、物忘れもひどいですが、そんな自分もおもしろいです。
     関係のないコメントでした。すみません。 

    • oda
    • 2008年 2月 26日

    ?ジャイアンを理解するために?
    たぶん多動のないADHDのodaです。
    >m2さんはYANBARU先生も仰るように、ASの理解についてはたいへん優れていると思うのですが、その勢いでADHDやジャイアンを理解して解説(しているように私にはみえる)はやめていただきたい、と私は思います。
    このエイトさんのコメントに賛成です。
    m2さんは、「客観的にみないとわからないこともある」(から自分は発言する価値がある)と返事をお書きですが、m2さんがジャイアンに関してつけているコメントは、月の草さんが書いているとおり、あくまで、自閉症者のm2さんからみた、愛着する彼女(m2さんの判断ではADHD)についてというとても主観的なものだと思います。
    まるで客観論のように記述されるのは不思議です。
    それから視野に多数派の存在がないのも不思議です。
    発達障害の理解に当たって、常にASとADHDを対立軸に置く、という大前提を、なぜ置く必要があるのか全く理解できません。(ですので、たかこさんの以前のコメントや、Whiskyさんのコメントも自分には謎です。)
    m2さんのADHDに関するコメントは、YANBARU先生に失礼だと思います。
    YANBARU先生のブログ上でのコメントでありながら、先生がひとつづつ組み上げようとしている「なにか」への道筋を、横盗りしたうえ、指導下に置こうとしているようにしか読めません。しかもかなり不適切な指導下に。例えていうなら、一次元の数直線上に住む住人が二次元の平面デザインを指導するような。しかも一次元の数直線は対数目盛りかもしれない。
    ジャイアンを理解したいのであれば、自分が理解したいジャイアン像をジャイアンに押し付けるのではなく、ジャイアンにしゃべらせておけばいいのではないでしょうか。
    どうしても持論を展開したいのであれば、ご自分で一から理論を組み立ててというのはできないからここへ来ているのでしょうから、無料ブログかHPを作られて、ここへトラックバックを申し込みされたほうがいいかと思います。

    • 奈々子
    • 2008年 2月 26日

    私は、物事が調子よく進んでいるときは、自分の言動が本当に正しいか、周りの人がどう感じているかを考えなくなることがあります。
    他者不在の、自分だけに通用する小さな世界に疑問を感じなくなり、合理的な自己突っ込みも弱まってしまう気がします。
    ACになるギリギリの心理状態は、ブレーキの代わりになって、じっくりと周りを見渡す機会を与えてくれるのかも知れません。

    • エイト
    • 2008年 2月 26日

    「これ以上言うつもりはない」と言っておいて申し訳ないのですが、気になったのであれからまた考えてみました。
    :高い他者評価→相手はすごい→依存
    :低い他者評価→相手がかわいそう→奉仕
    この部分についてだけ取り出してみたら、確かにジャイアンにあてはまっていると思います。月の草さん同様、私も「強い意志と強い自分」をもつ主人に依存していると前にも書きましたし、困っている人を見たらできるだけ助けると思います。しかし、ジャイアンが「低い自己評価を目指す」ときにはあてはまりません。何故なら、「高い他者評価」については、ASの「愛着」の場合と同じく、簡単に依存の対象が代わる事はないからです。私が「低い自己評価を目指す」を実践した時も、主人でない他の第三者に依存するようなことはなく成功しました。「低い他者評価」については、前にも書いたとおり「人として最低な自分」の境地なので「低い他者評価」はあり得ないです。ACやうつが強いジャイアンが「低い自己評価を目指す」ことは普通に考えて、まず本人は実践しないし、他者も勧めません。最初からACやうつのジャイアンは先生の薦めの対象になりません。だから、YANBARU先生が仰るように、シンプルに、
    「ジャイアンは低い自己評価を目指すとよい」でいいと思います。以上が私の理論です。やはりジャイアンは「他人評価」自体、意識が薄い、と思います。自分本位なことを十分にわかっている、でも自分本位でいたい、そこをなんとかするためのポイントが、「自己評価」なのかと。一方、ASは、自己は完璧に確立していて変わりようがない、だから「他人評価」を確立して、より確固たる自己を意識したいのだ、と私は想像します。ASにとってのポイントは「他人評価」なのではないでしょうか。marioさんも納得していますし、Whiskyさんの最後のコメントは、私からみれば「低い他者評価」です。自分が絶対で、「低い他者意識」を露骨に表に出すようなASの人は、迷惑なので「井戸の中にいてほしい」、という先生のお考えには私も共感します。
    私は直感で、説明責任を果たさず、m2さんの理論は違うと感じ、「反応」して語気が荒くなりその結果不快感を与えてしまったことは反省しております。申し訳ありませんでした。

    • エイト
    • 2008年 2月 26日

    前述のコメントが枠に収まりきれず、目一杯書いてしまいました。読みにくいと思います、すみません。

    • すばる
    • 2008年 2月 26日

    YANBARU先生のブログの話と似たような印象を私の周りでもよく感じます。だからこそ先生のブログを参考にさせて頂いています。
    コメントのやりとりを見て、更にここでも関係を再認識する事となってます。先生の記事そのままの事がコメントで繰り広げられていると感じます。
    あくまでも私個人の経験上の認識ですが、ASはアドバイスや教えるのが好きだなぁ・・とよく感じます。こちらの気持ちや話を理解しようとせずに、アドバイスや色んな事を教えたがるのが好きなのかなぁ・・と。ただ、気持ちや話を理解しようとしないで、断定的に独善的に言ってきたりするので、こちらにとっては傷つく言葉として心に刺さる時があります。
    「今の言い方や言葉は、気持ちが傷つくのだけど・・」と伝えても、「そんなつもりで言ったんでは無い」や「アドバイスとして言った自分に対し、なんで傷ついたと言われなくてはいけないのか」など・・。いくらそのつもりは無くても、傷ついたという事実は事実なのに、そこには目を向けないのです。とにかく「傷ついた」という事に対して全く目を向けなかったりするんですよね。
    または他のすり替えになるものを目ざとく見つけて、返答としてそのすり替えたものを言葉にして返す。そういった印象があります。これはあくまでも私個人の経験のことですが、ここ最近のコメント状況が私の経験した事のある状況に似ています。
    そういった状況に好き好んで出くわす訳では無いのですが、親達の集まりに行けば、当然色んなAS要素の方たちや自己正当化ジャイアン要素の方々がいたりします。私の場合それらを避ける訳にはいかない事も多く、またどうしても関わらなくてはいけない場合もあるので、ここで理解しようと思っています。
    非難している訳ではありません。失礼があったなら私の言語表現や理解が悪いのです。大変失礼致しました。

    • ねね
    • 2008年 2月 26日

    皆さんのコメントを読んで、以前、ある研究者(名前は忘れてしまいました)がADHDは「ダメだということが分かっているのに抑えられない」ASは「ダメだということ自体わかっていない」と説明していたことを思い出しました。
     エイトさんがおっしゃられた「先生への礼儀、敬意の念」について、ジャイアンの方なら注意されて気づき非礼をわびるということはあると思いますが、ASの方は非礼という感覚がないのではないかと思います。
     ジャイアンの矛盾のところでm2さんは「極めたらADHDは天使、ASは神」と書いていました。天使は神の被造物なのでランクが全然違います。神が天使に意見をしても失礼だとは思わないでしょう。それほど認識の違いがあるのではないかと思います。
     わたしはADHDの特徴として万人を平等に感じたいと思いながら、ジャイアンの特質としてすぐに見下げたり 妬んだりする自分の心が嫌になります。
     今回はその特質を逆に利用して ASを失礼だと非難したかった自分を抑えて、食い違う原因を自分なりに考えてみました。
     

    • 月の草
    • 2008年 2月 26日

    論点がずれてようが支配的だろうがなんだろうが、ASはしゃべってくれた方がいいと思うんです。「ADHDを知りたければ、しゃべらせておけばいい。」ASにも言えることじゃないでしょうか。ADHDは、頼まれなくても喋り続ける。でも、実生活の中で、私の夫ASなど滅多なことでは自分の気持を喋らない(自分の気持がつかめないからしゃべれないと言ってます)。現象を理解するのは言葉だけじゃないし、ノンバーバルな部分とか、他にも方法はあるわけですが、比較対象があった方がわかりやすい。そして、皆で実際のところを見て喧々囂々するからこそ、認識を共有できるので、これって利益が大きいわ、とも思っています。
    ASの態度が変。他人から見ると変に見える状態をASが露呈する(あるいはADHDが)、ASは時に酷く不快なものを垂れ流す(あるいはADHDが)。私は、冷酷かもしれませんがどういった人種かをつぶさに観察する機会がここにはあると思っています。
    表現が優しく柔らかくても、実のところは最も残酷なやり方で、相手の手足を切り落として出口を塞ぐような流れであったり。それを見て警鐘を鳴らす人がいたり、スルーする人がいる。知らない間に信頼してしまう場合もあるかもしれないし、気付いた時にはお互い手遅れだったり。そういうのいっぱいありますよね。ADHDとASのハマりがちな罠。そして、そういう強いものを持ってるASやジャイアンを遠くから「凄い!」と遠巻きに見て近づかない人たち……
    赤裸々になったASの心持ちに腹を立てる人がいる、赤裸々なADHDの発言に驚く人がいる。他人が繰り広げることで、自分の変さかげんがだんだんと浮き彫りになって見えてきたり。変だ変だと多数派に言われたり、反対の性の人に言われる現象を、客観的に目の当たりにするチャンス。冷静なつもりの私も、これを読む貴方から見れば、穴だらけでアホさらしなことと思います。
    そうこうするうちにも、ヤンバル先生が一連の現象について考察を重ねてくださるわけで、アホを繰り広げれば繰り広げるほど、揺るぎないフィードバックが得られるわけで。それを見ては苦しんで、一つずつ階段をあがり、運がよければ死ぬまでに自分を無害化できるかもと思うわたしです。

    • かめ
    • 2008年 2月 26日

    日々の努力ご苦労様です。
    不毛の山を降りる時、みそぎのような感覚なのでしょうか
    つらいことを乗り越えたときには、きっともっと身も心も今までよりずっと楽になっているはず。と想像します。
    山を降りるだけで疲れ果てて燃え尽きてしまわないように。
    そこをわかってあげられる人になりたい私です。
    先生を応援しています。

    • エイト
    • 2008年 2月 26日

    私が蒔いた種なので、私に刈り取らせてください。
    m2さんからは返答がなく、この場に参加する意思がもうないようですね。
    おそらく、m2さんのなかで今回のことはもうとっくに、「削除」されてしまったことでしょう。
    しかしそれは客観的にみれば、「自分には理解不能なことの理解」を放棄し、大切なチャンスを棒にふり、自分に足りないものを知る苦しみから退散してしまった、ことのように思います。
    私は、自分(ADHD.ジャイアン.AC)の最低限の権利やプライドを捨ててまで、我慢して先生のブログに参加したくはありません。それと同じくらいの重さで、相手に意見したときに、自分に非があれば反省する礼儀は、持ち合わせているつもりです。
    今回のことを、自分の糧にするのか、それとも目をつぶるのか、それぞれが自由に選択すればよい、ただそれだけの出来事だったのだと思います。
    YANBARU先生、皆様、お騒がせしました、ありがとうございます。

    • エム
    • 2008年 2月 26日

    やはり、こういう結果になるしかないんですね。残念です。
    私は夫と息子が受動型ASだからわかるのですが、受動型ASは自らトップには立ちたがらないのです。おそらく、ANBARU先生がm2さんの認識をほめたので、何か役に立てるならとはりきって?自論を展開してくれたんだと思います。今回の事では、いくら前向きなASの彼でも少なからず傷ついているのではないですか?
    几帳面なASの事だから、コメントは先生の配慮で保留にされているのだと思います。
    ASからこちらが望む言葉を引き出すのはとても難しいです。だって、そういう脳なんだから・・。

    • ゆうちゃん
    • 2008年 2月 27日

    「他人から見た自分への評価」
    「自分から道自分への評価」
    「自分から見た他人への評価」
    ASの一人として個人的な見解としては、どれも完璧は無いと思います。
    自分のことは他人にある範囲しか見られていないことと、自分の他人が自分の知らないところでの行動を知りません。
    だから「決め付け」を自分は嫌う。あんたの知らない範囲を推測で判断してもらいたくない。その代わり自分は相手のことは推測しているだけで断定もしない。本当のことは相手から聞き出ししないと「誤解」や「思い込み」になる。
    同じ病気になった経験のない人に痛みや悩みを推論で理解しても肌身でどの程度の痛みなのか永遠に判らない。
    その意味からは他者を「断定表現」で軽々しく扱ってはいけないと常々思う。私はあなたではない。私はあなたの一部のみでしか判断出来ない。
    知らない部分と知りたくても出来ない部分を、さも知ってる様なことは辞めて欲しい。
    自分のことすら本当にどこまで知っているのか自分が一番気付いていない。その補足が他者からの評価と思う。100人いれば100人の評価が出てくる。それが自分を正しく理解されていないと感じても、相手が自分の内面まで知らないのだからある意味仕方ないと思う。
    秩序を重んじる積極奇異型ASの私は、他人に非礼な態度を取るASを理解出来ない。
    それはASのワークショップで感じた。ADHDを持つASはPDDを優先するという都立梅が丘院長で自閉症協会副会長の言葉や受動型や他の積極奇異型ASの人と接して境界線がなく一人一人障害の現れ方が異なっている。辻井正次先生が「個々人によって異なり、これだ、というASは存在しない」と述べられた。つまりASを語る上でローナ・ウイングやド・マイヤーの分類で枠に当て嵌めるのは無理があると感じる。だから自分は他者に決め付け評価はしない。他者について一部の面しか知らないのに全てと思い込むのが危険だから。
    尚これは個人の見解なので言葉尻を捕らえて批判するのは勘弁願います。

    • oda
    • 2008年 2月 28日

    ASとADHDを比較対象とすることと、常に対立軸に置いて考えることは違います。
    自分の理解では、
    集団を、自閉症という軸で見る、知的障害という軸で見る、といったとき、両者は対立しません。従って知的障害をともなう自閉症、知的障害をともなわない自閉症、というくくりが出てきます。
    同様に、注意欠陥障害という軸で見る、ということも、上記2軸と対立しません。従って、自閉症と注意欠陥障害の合併もありうると思います。
    しかし、YANBARU先生は、いまのところ、このブログ上では、合併という言い方を避けたうえで、両者の理解を試みるという立場をとっています。
    中間または合併①http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/20070219/1

    > 私は中間や合併の診断をしない。その理由は、「その人の困っている問題の解決やコーチングを行ううえで、両方ともいった診断が使いにくいから」だ。
    パーツの組み合わせということもしない理由も述べられています。
    ですから、YANBARU先生の自己正当化型ADHDという言葉を使いながら、ASという集団と、ADHDという集団が、独立して存在し、対立しているという図式に基づいた発言は、自分の理解の外です。
    それから自分は、こういったブログを医師が自身もADHDであるとしたうえで公開していることに感謝しています。ひさしを借りているもの同士から、母屋を叩き壊されるような危害は受けたくありません。
    自分は、先生のいうことには反論するなとか、ASは語るなとかとはいっていません。しかし、ジャイアンに関する先生の考察が闊達に行われなくなることは、自分にとって不利益なのです。
    AS被影響症候群http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/20061227/AS_
    このコメントでALIVEさんがいうとおり、複数で対応した方がいいと思いましたし、危惧を感じるかどうかは個人差があるでしょうから、それをいじめや一般論としてのAS排斥と受け取る方が出てきても仕方がないと思いました。

    • すばる
    • 2008年 2月 28日

    参考になるのと同時に、先生のブログに惹きつけられる自分がいます。
    機能不全家族で過ごした自分は、まずAC要素があり、私の父はADHD要素が強かった。父と母の喧嘩はいつも派手だった。怒鳴り声、暴力、でも仲の良いときは、とても仲が良い。極端な感情の両親で、穏やかな日より、嵐か吹いてるか、嵐の去った晴天かのどちらかだ。
    私の父は魅力的な人間で、父の人に好かれる雰囲気で、自営業が何とかうまく行っていたが、父自身、人を見る目が無く、見栄や虚栄を中途半端に教えるヤツらに出会ってから、父はそれらの甘い感情を覚えてしまってから、見栄や虚栄の為に使ったお金が借金となり、家族生活がおかしくなり、両親が離婚となった。
    この感情の激しさを、先生のブログでも感じる時があります。
    「ジャイアンの根本的矛盾」「砂漠の岩山の孤独」・・
    父は、見栄や虚栄のエサをまかれその裏を読まずに、自分を追い込み、最後病気で亡くなりましたが、私は父は幸せだったと思います。結局、家族に迷惑かけながらも多くの人に愛されて死んだから。父本人は、人を見る目が無かったので、騙した相手の事は、死ぬ前まで気が付いていたかどうかわからない・・
    騙す人、落としいれる人の中にも、AS・ADHD要素の人間や人格障害傾向の人がたくさんいると思います。だからこそ、モラハラがあり、パワハラもありです。
    お互いに喰う、喰われるをする時があります。激しいんですよね。コントロ-ルがうまく出来ないから、自分を操縦するのが荒いんです。

    • ねね
    • 2008年 2月 28日

    すばるさんにわたしも同感です。
    先生も
    ADHDの求める「理解」は厳密で、必ずお互いの考えをぶつけ合うことを必要とする
    と「ADHDの自己理解そのG (対人関係の特徴)」で書かれていました。多数派はこれを好みません。このような考えをぶつけ合える場所は通常なかなかないのです。 今回のやり取りの中で自分は血が騒ぐような、本来の自分が居ていい場所を見つけたような、懐かしいようないろんな感情が湧いてくるのを感じました。わたしはここで本当の自分を見つけることができたのだと思います。

    • エイト
    • 2008年 2月 28日

    (YANBARU先生、内容と表現に問題ありの場合は掲載しないでください)
    その1
    私が、m2さんのコメントのどんな部分が我慢できなかったのか、本音で書きます。これは個人攻撃ではありません、「ADHDからみたAS」と「ジャイアンの心理」の具体例として、ASの方の参考になればと思います。私の妄想もかなり入っています。いや、大部分が妄想です。
    odaさんのご指摘にもあるように、m2さんは常に「ASは~であり、ADHDは~である」と自分勝手に決め付けた理論を述べる。しかも私からみたらかなりズレている。何回も、くり返し、先生のテーマごとに持論を持ち出す。私は、そんなに熱心に発達障害を研究したいなら仕事を辞めて医師になればいいのに、私ならそうする、と思ってしまう。
    彼の説明好きを、エムさんは、親切心からだというが私には違ってみえる。やっぱり彼は不安なのかと。彼は知識も豊富だし、頭も良さそう、ASの理解はほぼ完璧みたい。彼は自分の辞書を持っている、かなり分厚くて、詳しい解説付きの辞書。でもブログに参加していたら、彼の辞書にはない文字がある、大変だ、一体なんだろう、一生懸命考えて、推理して、彼なりに辞書に付け加える。彼はみんなに辞書をみせる。「こんなに完璧になったよ」と自慢したいのか、「どう?間違いはないよね?」と確認したいのか、それとも条件反射みたいなものなのか、不明。ADHDのところ、違うよ、私、この前も「完璧」のところで注意したのに。ジャイアンが自己突っ込みするのは「自分の行動に責任をとる」からだって・・ジャイアンは基本的に責任とりたくない生物なのに。
    また彼が変なこと言ってる、「ADHDは考えすぎる障害だ」とか「ジャイアンは考えて行動するとまず失敗する」とか「考えはじめると、思考がとんでもない方向に暴走する」とか。全くハズレじゃないけど、彼になんか言われたくない。彼はいったい何人のジャイアン女性とつきあったのかな?100人かな?
    私の健忘症はひどいけど、覚えてる限りでは、私はASを否定的な表現で言ってない。逆に自分ではかなり気を使ってるつもり。

    • エイト
    • 2008年 2月 28日

    その2
    あ、また、今度は高級官僚のこと。読み物としてはおもしろいけど、それ、送信するとこ違うみたい。先生のブログじゃなくて、文部科学省に訴えないと意味ないと思う。
    私の学校の偏差値がそれほどでないのも、息子たちが馬鹿なのも、そうか、原因はジャイアンなんだ!納得!っていうか、ジャイアン受験生の親が読んだら泣くよ、絶対。
    それに、先生に正面から「ASとADHDは理解し合えない」って、爆弾発言。私の自爆テロに近いかも、凄い。でも彼がジャイアンしか愛せないなら、理解するしかない、と思う、矛盾してる。
    あ、すばるさんが注意した、偉い、すばるさん。でも反省してる様子なく、エムさんの質問に応えてる。そういえば彼が言ってたもん、ASは簡単には自己評価は下がらないと。ということは、すばるさんレベルの注意のしかたじゃ、モグラ叩きなんだね。これからも永遠に彼からのストレスのシャワーを浴びるのか。「ジャイアンの心理分析を進めたい」先生の気持ちがほんとうによくわかる。せめてADHDとジャイアンについて彼が解説するのは阻止したい。これ以上、耐えられない。
    私は馬鹿丸出し、AC丸出し、ジャイアン丸出し、本音でブログに参加してるけど、彼からは攻撃されてるとしか思えない、もう限界。なるようになれ、みんなに嫌われてもいい、彼に私の気持ちをわかってほしい。
    以上、こういう風に私の妄想はふくらみ、爆発してしまったのでした。リアルなジャイアンの心理、実況生中継でした。
    疲れた、でもすっきり!
    先生、あとで問題になるのは嫌です。掲載は先生のご判断でお願いします。

    • ケセランパサラン
    • 2008年 2月 28日

    はじめまして。少し前から拝見させていただいていました。
    私は夫と別れたくないです。夫に今までした自分の行動でたくさんの迷惑をかけ、全く成長せず同じことの繰り返し、相手の気持ちをコントロールしようとして、自分の寂しさを埋めようとして取り返しのつかない行動をとって試していました。
    嫌われたくない、見捨てられたくない。手に入れた幸せや安定を素直に受け入れることができなかったのは自分自身だったのです。自業自得。
    もう、夫は「自分は頑張った努力したやることは精一杯やった、燃え尽きた」と話してくれました。好き嫌いの次元が違うと。
    私はそれでも、夫にしがみつき愛してます。
    許されるはずがないのに、愛情はもうないのに、別れたいのに、私が自立してないから、経済的にも仕方なく、子供の為に一緒に住まわせてくれています。
    子供にも悪影響を及ぼしているのもわかります。
    私は非難され、許されるはずがない、一生をかけて償う責任を取りなさい。私は夫の人生をめちゃくちゃにしたようです。責任ってどうやったらとれるの?夫の幸せは私の幸せと同じじゃない。
    いつも不安でいることに慣れてしまったのか、幸せを感じると明日この幸せがなくなってしまうとか、ちょっとした夫の行動や態度が裏切りとか不信にかわる。
    私は本当に愛されているの?となるのです。
    私自信がそれに気づいたのだからこれから自分を成長させて対等に夫と話せるようになったら、納得できるのか。
    疎外感、孤独感はいつもあったけど、露骨に避けられたりしながら、住まわせてもらっているのをどう解釈し、自分も夫も自然に生活できないとストレスが溜まる一方で良くなろうしているのに良くならないように感じます。
    今は私はジャイアンのように頂上の孤独さの無意味さを感じることができてますか?
    どうやって不毛の岩山を降りることができますか?
    山の麓まで転落してますか?
    寂しさと罪悪感と疎外感と孤独感はあるけど、
    これでも、小さいけど希望と目標をもっているのです。
    甘えている縋っているだけでしょうか。
    夫から消えた方がいいのでしょうか?
    夫とやり直すことは不可能ですか。

    • すばる
    • 2008年 2月 28日

    私のコメントの中で注意したい気持ちでコメントを書いた覚えは無いのだけど、そのように見えたのなら、私の言語表現の乏しさからくるのだろうと思います。本当に言語表現がヘタです。皆さん言語表現が上手です。エイトさんのコメントの文章も毎回感心しています。
    ネット上の事ではありません、過去の事ですが、ある人との事で、ASなのかジャイアンなのかわからないですが、非常に自己中心的な感情で、理不尽に法律を持ち出された時もありました。いわゆるエリート出身の方でしたが、通院歴もあり時には療養も必要な方でもありました。
    素人の私達がどうこう対応できる方では無かったのです。というか、対応も何も、そもそも私達はその方に他の人の感情や気持ちもあるので・・とただ普通に伝えただけだったのですが、とても怒らせてしまったのです。(先に書いたアドバイス好きなASの方の事ではありません)
    でも、他の場所でもその方は同じ事をして、その場所では出入り禁止になっていました。
    そういった事があった後で思う事は、色んな方が居る、そしてその方々の心の中には、その人なりのトラウマがあるかもしれません。もちろん、エイトさんの心も中にも色んな想いがあり、私の心の中にもあって・・
    ただ、先生の言われるようにブログ上では「言葉だけが独り歩きするネット」だと私も思うので、言語表現に自信の無い私は、感情的なコメントをする自信がないんです。
    それでも自分の思うことを、すごく遠巻きにコメントで言っていたりしていますね。遠巻きにするくらいならコメントしなければ良いのに、でしゃばりなんですね。そういったところが私のジャイアン的な部分なのかもしれません。私の場合、根本的矛盾な行為がこういった形となって出てくるのかもしれません。
    エイトさんのエゴにはエゴで返す。すごくわかります、私もエゴには敏感なんです。私も相当なエゴの持ち主なので・・。今日は午前中、個人的なある出来事がきっかけで、自分のエゴが出そうで必死に抑えていました、この感情は、自分のエゴがきっかけだと思い何とか沈めました。私のエゴ意識が薄ければ、相手のエゴにも気が付かなかったのにな・・と。今日の私のエゴを沈める事が出来たのは、YANBARU先生のブログから、エイトさんのコメントでの気づきのおかげもあります。

    • mario (AS)
    • 2008年 2月 29日

    エイトさんのコメント、感心しながら、驚きながら読みました。主な感想は「はぁ、そんな風に受け取っちゃうのね~。知ってるつもりでも改めて驚いたな!」ってところでしょうか?
    ASの私から見ると、m2さんのコメントは全く違和感ないのです。自分が受け取った内容を確認したい。あるいは自分の考えを確認したい。同意して欲しいし、違っていれば指摘して欲しい。そして同一の認識を持ちたい。ここは、認識の違いを明らかにしてして行く場だと思ってるし(間違ってるかも知れませんが)、必要ならば無視する事も可能です(m2さんがそこまで考えているかは知りません)。
    ASはどうしても分かり合いたいと思っている。ADHDはそもそも無理だと思っているから、ASの行為を押し付けに感じてしまうのかな?
    分かっているつもりでいても、押し付けにならないように行動するのは、(私にとっては)なかなか難しい事に感じます…

    • mau?
    • 2008年 2月 29日

    ASとADHDの相互理解が無理とかではなく、単なる誤解だと思いますよ。
    一般的に多数派や(全てではないでしょうが)ADHDが自分の意見を表現する場合、あらかじめ「間違っていると言う可能性」を織り込みます。(感情的に強弁する場合は違うかも知れませんが。)
    表現方法としては、硬い表現や断定的な表現を避ける、相対する意見についても言及・評価する、などでしょうか。
    それらは、周囲との(感情的な)摩擦や孤立を避ける「自己防衛」や「処世術」です。
    また、「自分とは違う意見・感覚を持った他者が存在する」と言う前提に立った広く一般的な「暗黙の了解」であるとも言えると思います。
    今回の場合、m2さんの文章にはそれらの要素があまり見受けられず「(絶対の)真実である」と言う様な印象を(読み手に)与えてしまった。そして、ある種の「傲慢さ」や「押し付け」に似た感覚を与える結果となってしまったのだと思います。また、人によっては明確な感覚ではなく、単なる違和感を感じた人もいるでしょう。
    これは、「本人がどう考えている」でなく、「そう読み取れる(感じる)」と言った国語の問題です。
    コミュニケーションの道具としての「言葉」、その使い方が違う為に起きた不幸なすれ違いですね。
    これは、AS~ADHD・多数派間だけでなく、日本人と外国人なんかでもよく起きる事だと思います。
    変な話、お互いに使い慣れない言語でコミュニケーションを取った方が上手く行くのではないかと思う問題点です。

    • 菜の花
    • 2008年 2月 29日

    はじめまして(^^)
    以前YANBARU先生にADHD疑いの診断を受けました。
    自分ではADHD、AS両要素を内面に持っているのではと思う今日この頃ですが・・・
    marioさん
    >ADHDはそもそも無理だと思っているから
    それは違います。どうしても分かり合いたいのはADHDも同様です。ただASの方は、反論の余地を与えないくらいものすごく断定的な物言いをされるので、聞く側にとっては耐え難い圧迫感があることを理解していただきたいのです。

    • エイト
    • 2008年 2月 29日

    自分が原因をつくっておいて、今更、申し訳ないのですが。
    これからも、ブログに参加してくる方々は、私のような重症ジャイアンや個性的なASの人が多いと思います。
    だから、先生の注意書きがあっても、それでも、今回のようなトラブルもこれからもあるのかな、と思います。
    私が今回のことで感じたのは、ASの人にとっての思考や理論は、ジャイアンにとっての気持ちや感情と同じで、本人にとっては、「大切なかけがえのないもの」なのだろうと気付きました。
    YANBARU先生の言葉を、ASであろうが、ADHDであろうが、自分のものとして理解している、そのことについて、私などがいちいち指摘したり訂正したりするべきではないのかと、今、思います。その人の考えはその人のものだと、口出しするのは失礼なのだと。私が「私はコーヒーが好き」と言ったとき、誰かが「違います、あなたは紅茶が好きなのですよ」と言われたら、驚愕して、怒ります。それと同じことだと、それぐらい失礼なことなのだと、思います。
    私もすばるさんと同じです。だめだとわかっていても、できなくて。m2さんの場合でいえば、いちいち訂正するのは疲れるし、爆発したら命がけだし、我慢するとストレスが溜まる。どれをとっても苦痛ならば、我慢することが、このブログ上では先生や他の皆さんに迷惑をかけない、最善の方法なのだとわかりました。これからは気をつけます。
    昨日は、あひるさんのコメントにあった、「自分に関係ないコメントは読めない便利な脳」(私もそうなりたい)と、パパイヤさんのコメントにあった、「まわりにあわせると自分がストレスたまる、自分にあわせるとまわりがストレスたまる」(今回の私)の言葉が頭のなかをグルグルしてました
    。odaさんが教えてくれたページもすごく参考になりました。私も皆さんの何気ないコメントに助けられています。

    • むーん
    • 2008年 8月 14日

    (結局、過去スレッドとは言え出しゃばっていてすみません)
    この内容は、あまりに自分に手厳しいので、今までコメントをためらっていたところですが、
    多数派ヘルパーさんと襖一つ隔てた部屋で暮らし始めて、病気仲間とのメールも増えて、ようやく20年間しがみついていた岩山を降りかかっているのかなと思います・・・
    (私の場合、「病気」という口実から、親が「岩山」という名の「地下室」に閉じ込めていたというのもあるけれど。完全なAC状態ですね。)
    自分で洗濯をしたり、料理をしたり、友人の相談に助けられたり、そんな些細な事からゆっくりと自己評価を上げている気がします。まだまだです。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP