さて時間的継続性のイメージがある程度使いこなせるようになると、次は「責任」と「意味」の領域に入る。
私が実際に考えた説明は、例によってメリットに結びつける言い方で、「時間的継続的に一貫した行動の不変の方針があれば、他者の出方をある程度予想できるというメリットがある」というものだ。
依存型ジャイアンの一群には、「一瞬の出たとこ勝負でほとんどの場合何とか乗り切れる」というある意味で器用な人たちが居り、逆にその能力があるので合理的な思考は必要なかったということだと私は理解している。
「自分が業績を上げて上司が喜ぶことが理解できなかった」とか「謝っても何も変わらない、リカバリーすればいい」という超個人主義的、結果主義的な考え方」が帰結する。
ただ周囲の人のほとんどが時間的な継続性の世界で生きていることが分かると、「一瞬の適応」よりも比較的に確実に周囲の人の動きを「予測」できることが分かり、依存型ジャイアンの「利益、利用価値」の世界の延長上で、時間的継続性は認知しうる。
他者の動きをある程度予測できるためには、一定の行動原則の時間的に不変の法則性のようなものをを自分と周囲の人の間で「共有」している必要がある。
私はその「継続した行動の一貫性の原則」の一つとして「責任」の機能、有用性を説明する。個人個人がある共有した同じ原則の「責任」の考え方を共有しているから、知らない周囲の人の行動が予測できるのだ。
逆に周囲の人から「責任」を追求される状況とは、依存型ジャイアン本人の行動が一貫していないので予測不能となっていることの結果生じた周囲からの不満である。
現段階でまだ「他者」は厳密には出てきていない。状況の一部としての「写真の中のほかの登場人物」の行動の予測に「使える」ということで「責任」をまず理解するのだ。
「自分が業績を上げて上司が喜ぶことが理解できなかった」とか「謝っても何も変わらない、リカバリーすればいい」
僕はがっちりこの考えです。
成績をあげて親が喜ぶなど全くもってわかりません。むしろ自分を好評価する人には自分を都合の良い様にコントロール使用とする意図が隠れているので、警戒しなくてはいけません。理解を示す人はことごとく悪なのかも。
「誤る」行動をとってもまた繰り返してしまうのであれば問題は生じうる。「誤って」も何度でも失敗してしまうのは自分です。そうして他者から信頼を得られなくなっていきます。
故に「誤る」ことよりも原因を再発させない手段を講じる事にエネルギーを注ぐ方がよいとしか思えません。
責任によって一定の行動パターンが表れるというのは”ままごと”の様です。僕は大嫌いです。
やばいですね。
この時点でついていけてないです。
何が悪いのか??
何というか・・・凄いです。
「責任」の構造と機能を見事に文章化して起こしてあると思いました。
前の時間経過のテーマもですが、一部抜粋して切り貼りすれば、言葉の意味を間違って覚えているASへの説明にも十分使えると思いました。
ここまで詳しく起こしてある文はお目に掛かったことがなかったので、テレビはもちろん消して、雑音を消して集中して読んでやっと読解できました。
>「自分が業績を上げて上司が喜ぶことが理解できなかった」とか「謝っても何も変わらない、リカバリーすればいい」という超個人主義的、結果主義的な考え方」が帰結する。
高校時代の友人とのやりとりを思い出しました。
朝、友人が別の友人に「さっき、ごめんね」と謝っていました。
何を謝っていたのか聞くと、「バスの中に二人の友達がいて、その二人がケンカ中だったので、一人としか話をしなかった。だから、もう一人の話をしなかった友達に謝っていたと言うのです。
私は、「何であんたが謝るの?別に悪くないじゃない」と言いました。友人は「あんたには人付き合いというものがわかっていない」といいましたが、私は「明日同じことがあったら、もう一度同じことをするんでしょう」と言いました。
この記事を読むまで、自分のこの考えに何の違和感もなく、彼女の方がおかしいと思っていました。
今は、自分が間違いなくジャイアンであり、多数派との間にはものすごい溝があることを思い知りました。
私は、他人に関心がないだけでなく、他人が自分に関心があることもわからないということ。
このことが、「責任」の感覚がなかったり、ずれたりすることにつながっていると思います。
時間的継続性の無さは、「昨日と今日がつながらない、今日と明日がつながらない」もどかしさとして、少し自覚はしていました。
しかし、無いということがわかっただけで、どうつなげていけばいいのかは、わかりません。
どんどん、ひきこもりたくなっていきます。