ADHD関連

あるコメント

以下は去る掲示板のあるコメントです。このブログでのことについて書かれています。(一部改変)。コメントの主はある依存型のジャイアン氏です。

他人の土俵で相撲を取る、っていうことにお二人は拘っておられるんですね。確かに、そのように突っ込まれても仕方がないのかもしれませんね。(私を黙らせるための極論を言われているような気がするのですが。)

私の価値観では、あらゆるシーンはフェアであって欲しい。人間関係は、フェアであることが、私が一番大切にしていることの一つです。つまり、権力とか、ヒエラルキーに私は反応します。

ある場所にボスがいて、その倫理観が他人から見てどうあれ、ボスが自由なコンセプトで遣るのが当たり前で、気に入らないなら国外退去というのも、ありがちな現象ですから、それでも構わないとスルーすることも多いです。

自分の問題ではない、自分に関係の無い場所であると定義して。

ですが、心の底では、横車が押されているのを目にした場合、それに気付いたものの責任として、打たれている人をけして見過ごせなくなり、つい仲裁に入ってしまう習慣を持っています。

リンチに遭ってる人を目の前にした時、救わない、救わずに済ませた意固地の無い、根性なしの自分、自分が騒動に巻き込まれるのを怖れて、自分の身の安全を図って他人の被害を見過ごす汚らしい自分を、けして後まで許せない。皆さんはどうです?

まーちんASさん、受動型ASを呼び寄せてくれるなといわれますが、

わたしには、受動型AS、ASたちに行き過ぎた酷い罵声を浴びせ、皆で吊るし上げているように見えました。ほとんどリンチのように見えましたが、どうなんでしょうか。

それってどうなんだろう?と、皆を批判したい気持が沢山沸き起こりましたが、それは皆さんの問題で、私の問題ではありませんから、相手を批判したり、非難することはやめ、「自分はどうするのか?」という、自分が主体的に考えて行動する遣り方に考えを改め、

「私は、まーちんASさんの世間を味方につける言い方には問題があると思いますが、実際問題として、自己正当化型は計り知れない迷惑やストレスを周りにかける場合があることを、私は自覚したいと思います。特別扱いされないために、留意。常に自戒し、一つ一つ自分の行動を検証することが必要な私です。云々。今まで一緒に考えてきた仲間が長い時間と労力をかけてここに集い、一緒に考えてきたお仲間の方が1人2人と減っていくのは、実に残念で、大きな喪失感があります。また戻ってきていただけないものかなぁ、と思います。」といったコメントを寄せました。

それがいけない、場にそぐわないということでしたから、いったん諦たのです。ただ、それでもやはり、そういえばバッシングサイトのこともあるしなぁ、と。疑念が拭えなくなったので、ここで話しはじめたのです。(Aさんが私に知らせてこられたのは、単なるきっかけにすぎません)

 この発想について特にASの方の御意見をお聞きしたいと考えています。


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コメント

    • さーこ(AS)
    • 2008年 8月 04日

    個人として率直に言うと、意見云々、というよりも、 気持ち悪い です。
    私個人としては 関わりたくない です。

    • さーこ(AS)
    • 2008年 8月 04日

    よく考えてみると、ここら辺の発想が、私としては違和感を感じますね。
    >それってどうなんだろう?と、皆を批判したい気持が沢山沸き起こりましたが、それは皆さんの問題で、私の問題ではありませんから、
    私だったら、皆を批判したい気持ちが沢山沸き起こったなら、「それは、そういう気持ちを抱いた私自身の問題だ」と、自己突っ込みを入れる事になります。
    そして、自己突っ込みを入れた後、「なぜ、皆を批判したい気持ちが沸き起こったのか」という事を取っかかりにして、自分を観察、分析し、考えて行きます。
    それと同時に、相手を批判したり非難したい衝動に対して、自制のためのブレーキをかけて、冷静に自分の事を考えるための環境を自分で整えた結果、他人にもの申す事は止める、という事になります。

    • まーちんAS
    • 2008年 8月 04日

    ジャイアンは、しばしば、自分に都合が悪い時に猛烈な攻撃を相手に仕掛けます。とにかく相手をねじ伏せて自分が優位に立つことだけが目的に感じます。
    *これはジャイアンにとっては健康的な衝動でしょうが、相手や一緒にいる周囲の人間はイヤな気分になることです。
    だから、周囲の人間はジャイアンには、本当のことは言わないでおこうかな・・?って気持ちになります。
    わざわざこんな災い被りたくない、触らぬ神にたたりナシです。*
    ジャイアンはこんな風に特別扱い?されることを自分で、どう考えていますか?
    そこは感知しないからOK、または、特別扱いでOK?
    それとも、自己突込みが入りますか?
    人それぞれ、考え方は違うと思いますが。
    >>>
    このコメントからのことでしょうか。
    この**の部分を、私自身の意見を直接書かなかった理由は、<私の主観で書くと、事実の状況の説明がしにくかったから>です。状況を説明するためには、私の主観を書いても意味がありませんから。
    私の主観は、こうです。
    *私は、猛烈な攻撃をしかけることがジャイアンにとって健康的な衝動なのかもしれないなーとは想像はしています。
    しかし、猛烈に攻撃されることは、私にとっては不愉快です。そして、場の雰囲気も悪くなって、例えば職場なんかで言えば仕事効率が悪くなると感じることも、イヤです。
    こんな場合、周囲の人間(ADHD・AS・多数派と特定しません)は、ジャイアンに<その行為(猛烈な攻撃を仕掛ける原因になった行為)は、この場では不適切だからやめてほしい、やめなさい>って言いたいのを我慢している気がしますが、言わないようです。私もそうする時もあります。
    しかし、私が目に余ると感じた時は、ジャイアンにその旨伝えます。猛烈な攻撃が来ることはだいたい予測しています。触らぬ神にたたりナシであろうが、私が言う必要があると判断した時は、きちんと言います。それがふさわしくない行為だとしたら、それを教えることが私が思う人間の道として適切だと思いますから。*

    • まーちんAS
    • 2008年 8月 04日

    書き忘れました。
    私は、猛烈な攻撃をしかけることがジャイアンにとって健康的な衝動なのかもしれないなーとは想像はしています。
    猛烈な攻撃をしかけることが、健康的な衝動なら必要なことだと思います。
    もし、生理的な見解として衝動を昇華させる方法を変えることが可能であれば、それもアリだと思うし、できないとしたらそれに応じた対応を私が考えればいいと思いました。私にできることはこのぐらいかと。

    • ふぇありー
    • 2008年 8月 04日

    私は、こちらでのコメントが難しくなった事と、場違いである事が多いことから、自身のブログを再開してかなり厳しい批評も書いてきました。
    内容は、まーちんASさんに近く、方法はさーこさんの2番目のコメント内容にそっくりです。
    思ってしまった感情は打ち消す事が出来ず、私の中でも不消化になってしまうので、書き綴り掲載し、その数分以内に「やってしまった」という激しい自己突っ込みが入った過程を更に記載しました。
    私個人の事情で、私の特定は不可能ですがある程度は特定できる範囲でのブログ運営をしており、全て自己の責任下においての発言のつもりですし、感情を書き留めるという形にしています。
    それでもAS的(サムライ的)潔さには反しており、そんな自分を許せないでいるのが、ふぇありー流ASの思考になります。
    ここに掲載されたコメントの内容は、「他人の意見を借りて、他人の土俵を借りて、しかし自身の感情や意見は間違ってはいない」と主張なさっている様に、私にはとれます。
    ご自身での責任はとろうとせずに「とあるサイト?掲示板?を見付けたので、ちょうどいいので、自論を正当化します。」という感じでしょうか。
    あまりの衝撃に、私自身のブログ(立ち寄る方もいなければ、コメントもありませんし、討論の場にするつもりもありませんが)も閉鎖しようかとこの時間まで悩んでおります。

    • mario (AS)
    • 2008年 8月 04日

    前後関係が良く分かりません。先生がお聞きしたい「この発想」とはどの部分なのかもよく理解できていません。
    世間を味方に付ける:私は、客観的な視点を持つように心がけています。結果として自然に、世間から見てどうこうと言うもの言いになります。「世間を隠れ蓑に」してしまう側面には気を付けなければなりませんが、世間を説得する必要がある場合には必要な視点です。「私がこう思う」と幾ら主張しても世間は反応しません。
    ジャイアン氏からの攻撃:すっかり慣れました。この人は、とにかく私を叩き潰したい状態なんだと冷静に捉えることができます。長年の疑問が先生のブログで解けた点でもあります。目的が攻撃の場合にはコミュニケーションを取る利点がありませんから、基本的に“その際だけ”スルーする事にしています。結果的な不利益はジャイアン側にあります。いや、理解を目指していない時点で不利益はなく、相手をスルーまで追い込んだ=勝ったという利益だけあるのかも知れません。ジャイアンは後で自己突込みをしているらしいので、何とか(表面上負けた)自分を納得させる事も出来ます。
    リンチ、つるし上げ:私はそうは捉えてませんでした。あくまで数人のジャイアン氏による攻撃があるだけで、全員からと言う訳ではありません。援護射撃は嬉しかった。自分が一人ではないと感じる事が出来れば、一人でも戦えます。
    先生の方針:ADHDとASの相互理解の場から、ジャイアンが自分を捉えなおす場に“変わった”のだと理解しています。ここがASの居る場では無くなったことは残念ですが、先生の方針ですから仕方ありません(ASの場はASが作れば良い。作りたいとも思い続けていますが、その余裕も力量もありません。)。またAS被影響症候群から逃れたばかりの一部のジャイアン氏にとっては、AS的なるものを目にする事自体が辛いのだろうと見て取れますので、それもあって基本的にROMする事にしました。流れから必要を感じたら「書き込みの是非は先生に判断を委ねて」再びここにも出てきます。もっとASを理解したい、ASの書き込みを読みたいと思われるADHD氏が居られましたら、他の場所に誘導して頂ければ幸いです。

    • あおがえる
    • 2008年 8月 04日

    ”あらゆるシーンはフェアであって欲しい。(中略)ヒエラルキーに私は反応します。”には同感。
    ”リンチに遭ってる人を目の前にした時、(中略)自分の身の安全を図って他人の被害を見過ごす汚らしい自分を、けして後まで許せない。”そういう時もあったが今は自分第一!必ず見捨てます。
    自己の正当化なのかなぁ?

    • ひまわり
    • 2008年 8月 04日

    mario (AS) さん
    以前のmarioさんへのコメントで『さん』を付けず、呼び捨てにしてしまったことを、お詫びします。
    marioさんの書き込みを見て、思い出しました。
    すみませんでした。
    ところで、私もmarioさんの書き込みには、反応しすぎてしまうことがあり、 marioさん に嫌な思いをさせているかもしれませんが、
    私は、(その頃は気付きませんでしたが)旦那の意味不明さに苦しみ、身体症状が出て、20年目にやっと別居に至れたという経緯がありますので、
    marioさん の一言一言に、過去を思い出され、苦しかったり、腹立たしかったり、イラついたりしてしまいます。
    でも、それは、旦那の悪気のなさを知るには、越さなきゃならない壁だと思い、
    marioさんをはじめ、ASの方々のコメントを期待しています。
    私は、ジャイアンではないと思われます。
    非情なまでの合理的ADHDなので、中心志向も攻撃性を自分自身感じることはありません。
    しかし、ASな旦那は、私が反応し攻撃してくるまで嫌なこと(本人は私に正しい考え方・生き方等を教え込もうとしていたと考えられる)を言い続け、私が攻撃し始めたら、「しめた」と言わんばかりに、冷静に「頭がおかしいんじゃないの?」と、どこまでも私を馬鹿にしたような態度を取るため、かなりの取り乱しをするはめになっていました。
    旦那はASらしく、私に対する愛着がひどく、私を一心同体であるかのように扱っていたので、
    旦那との関係で、いい距離を持つには、離れるしかありませんでした。
    旦那の所に戻るつもりはありませんが、旦那も愛着対象がいなくなったら、自立して、なんでも自分で決め、自分で行動しているようです。
    旦那だけを責めるわけにはいけないことを知ったこのブログに感謝しています。
    今後も、marioさん達ASの方々のご意見を、お願いしたいと思います。
    (ここでのルールをまもりつつ…なので、難しいでしょうが…)

    • kodawari(AS)
    • 2008年 8月 04日

    根の心 幹の心と 葉の心 これら修めて 花心を得
    ねのこころ みきのこころと はのこころ
    これらおさめて はなごころをう
    『コメントの主はある依存型のジャイアン氏です。』との紹介でしたが,私には,『AS氏』に思えます。どうなんでしょうか?
    ジャイアン諸氏のコメントは,ある意味わかりやすいです。『花です』
    ジャイアン諸氏の『咲き誇り』は,『書いただけ。どう読まれようが,読まれ方まで指定はしない。』とも同じ事,『突き落とし』にも通じていると思います。ブログの世界では,おしゃべりが特にかみあわなくてもいいんです。でもおもしろいし、判る。
    一方,AS諸氏のコメントは,『基本的に議論』ではなかろうかと思います。根同士で,細かいことを議論し,『ひげ根』をのばす方向を調整しあう。AS諸氏以外からみると,なにをしているか,喧嘩をしているように見えるかもしれませんが,根を伸ばしてゆく方向の調整作業です。そして,立脚点が異なることを理解すると議論は突然に終了し,またまた孤独な根の作業にもどります。『ライオンかとおもったらモグラだった』状態です。
    いずれにせよ,ブログの世界は,外の世界ですから,根っこは特にひげ根は鑑賞にはたえません。
    私はASですが,ブログの世界では,『ジャイアン的』な 発言を心がけたいと思っています。

    • むーん
    • 2008年 8月 04日

    ・・・私の軽率な一言が、mario(AS)さん叩きの印象を深めてしまったかも知れないです・・・まず、あやまります。すみませんでした。
    正直、私もひまわりさんと同じで、mario(AS)さんのコメントを読んでいるとAS元彼を思い出して辛かったです。しかし、過去ログを読んでいる内に、mario(AS)さんは、ジャイアンにとって貴重な、率直な一言を「世間の道」とかいう隠れ蓑を着ずに言える数少ない方だと思うようになりました。
    ただ、ここで合理型ADHDとジャイアンを比較するのは(別に、mario(AS)さんに限らない事なんですが)正直やめて欲しいです・・・ジャイアンだって人間です。それが、mario(AS)さんは、実感として分かっている方だと思います。
    ので、「一人でも戦える」のでしたら、「ハンマー叩き」を怖れずにまた来て下さい。是非お願い致します。

    • lune
    • 2008年 8月 04日

    しばらく姿を見ないなと思われた方がいらっしゃるかも知れませんが,途中からコメントが掲載禁止にされていました。
    ここに今コメントが掲載されているとしたら,私は先生にASと診断された訳でしょうか。
    ジャイアンがASにかみつく様には,とてもダブルバインドな感じがあります。
    ジャイアンは,たとえ孤独になろうとも我が道を行くべし,と言いながら,違う「生き方」(多数派に囲まれた中での)をするASを非難します。
    でも,ASはASなりに,ジャイアンとは違う生き方を選択して我が道を行っている訳で,正しく「私のやり方」で生きていると思います。
    ジャイアンは,自分は自分のやり方で生きていくのだ,と宣言するのであれば,そうでない生き方をする別のタイプの少数派や多数派をも尊重すべき(同調はしなくてよい)ではないのでしょうか。
    ひとりひとりが自分のやり方を選べばよいというなら,その選び方や選んだ中身について,他人がとやかく言うべきではない,という気がします。
    そこをとやかく言うのであれば,ジャイアンも周りからとやかく言われることに甘んじないといけない。自分は批判するけど,批判されることは許さないというのは,決してフェアではないはずです。
    あんまり整理できていないかな。

    • くらら
    • 2008年 8月 04日

    Kodawariさん
    ジャイアンは花で
    ASは根
    ですか?
    わかるようなわからないような
    だから私は
    さっぱりしてる
    野生児
    といわれるのかしら?
    つまり裏でぐちぐちねちねちせず、ありのままである

    ASは議論になっているんですか?
    いつも己の正しさのみ主張し、相手の正しさを認められるようには見えません。根が絡みあうことは一生なく、どうかすると他の根をよけて歩いているようにさえ見えます
    またメール、ネットの世界ではおっしゃられるようにはっきり書かないと伝わりません
    更にASには抽象論は全く通じないと私は思っていますので余計にはっきり具体的に書いてます
    (ASは発信技術は優れているが受信感度が低いと私は思う)
    Marioさま
    私は私が不戦勝したと思っています
    何しろ私の問いに答えずにそちらは逃げだしたんですから。そちらはスルーといいますが。
    自己突っ込みをいれるとすれば
    言いかたきつかったかしら?
    だけですね
    お生憎様。

    • まーちんAS
    • 2008年 8月 04日

    続き。私の意見
    >ジャイアンはこんな風に特別扱い?されることを自分で、
    >どう考えていますか?
    >そこは感知しないからOK、または、特別扱いでOK?
    >それとも、自己突込みが入りますか?
    >人それぞれ、考え方は違うと思いますが。
    ジャイアンはこんな風に特別扱い?されることを自分で、
    どう考えていますか?私には想像が付かないことなので、もしできれば教えていただきたい。
    人それぞれ育った環境も生きている環境も違いますから、考え方は違うと思う。したがって、いろんな意見があるのでは?と想像します。同じ人でも、その状況によっても違うことを考えるかもしれませんので、思いつくことがあったら意見をお願いしたいと思います。
    たくさんの意見、その中に見える共通した傾向があれば、それが、いかなる状況にもかかわらずジャイアンに共通する傾向であると、考えられるかもしれないと私は思います。
    例えばその例として、
    ●特別扱いされることを感知しないので見過ごしている。気づかないということでOK、の状況にあると思う。
    ●特別扱いされることは気づいているが、気にならないのでOK。
    ●特別扱いされることに気づいている、気づくと×××のように感じる。だからOK,もしくはこんな風な行動に出る。
    ●特別扱いされることには、自己突込みが入る。
    と、私なりに想像してみましたが、これはジャイアンではない私の考えであって、ジャイアン自身の声ではない。
    ●は私なりに想像です。こんな風に書いていただけると、私には理解しやすいかもしれません。

    • まーちんAS
    • 2008年 8月 04日

    >この発想について特にASの方の御意見をお聞きしたいと考えています。
    読んで、そうですかと思いました。
    依存型のジャイアンの一人の意見として受け止めました。
    こういう方もいらっしゃるんですね。
    私やASの立場を擁護してくださっている気持ちがあるように感じられ嬉しく思いました。しかし、私が感じたことがコメント主さんの意図とは違うかもしれませんから、嬉しいとか悲しいとかいった私の感情を書くのは、場違いに思います。
    元々、ASに向けて書いたコメントではないように思えますので、私が口を挟む場でない気がします。だから、感想を求められると答えに窮します。

    • まり
    • 2008年 8月 04日

    >ジャイアンは,自分は自分のやり方で生きていくのだ,と宣言するのであれば,そうでない生き方をする別のタイプの少数派や多数派をも尊重すべき(同調はしなくてよい)ではないのでしょうか。
    Luneさんの上記コメントは、私の身近なジャイアンさんに当てはめることができます。彼女は「人は人!」と言って不利な場では自分を守ります。和を乱す問題を指摘されても「これが私のやり方なんだから」と決して協調性を見せません。しかしながら、自分の気に入らないやり方を目にするとメチャクチャ怒って攻撃します。「人は人なんじゃなかったの?」と突っ込まれても、かなり無理な持論で押し通します。この「矛盾」に周囲の多くは困るし振り回され、果てには『また言ってるよ。もう勝手にすれば。人は人だしね。』と「隠れて見下す」事になります。
    特にモラハラDV級の自己正当化には、「隠れ見下し」の手段でしか対応できないのが現実のように思います。
    『群れ』を嫌い、私に群なんか必要ない!と言い捨てるなら、『群れ』は私を理解しない!と怒る必要もないはずなのになぁと不思議に感じた事があります。

    • kei_
    • 2008年 8月 04日

    朝、marioさんの書き込みを読んで、時間ができてから・・・と思っていたら、たくさんコメントが増えていて、びっくりしました。
    ちょっとズレたことを書いてしまうかも・・ですが、先生の記事を読んで感じたことを書いてみます。
    この記事を読んで、最初に感じたことは「前後関係が全くわからず」 「この発想についての感想は?」と問われても、“どうしたもんかなぁ~”・・・でした。
    (ASっぽい部分の私の気持ち、といったほうがいいのかな。)
    marioさんの冒頭の一文とほとんど同じ気持ちだと思うので・・・。
    でも、この後の気持ちは合理的ADHDかもしれないのですが、思考のクセとして、いつも「高低差ナシ」「どっちもどっち」的に考えたがるので、前後関係や双方の言い分もわからない以上、それに対して感想を述べても、憶測にしかならないだろうしなぁ・・・とか思ってしまう。
    リアルの世界ではそういう場合、それでもなにかと会話を進める為に、「まぁね~、片方だけ聞いただけじゃなんとも言えないけどねぇ・・」と前置きしつつ、必死で相手の状態を読み取ろうとしていたり(笑)。
    相手が怒りまくっているときに、この「平等」を念頭にした発言で関係がこじれること、度々だったので・・・。
    私はここに書き込みをするようになって間もない者ですが、過去記事を読ませて頂くと、marioさんがおっしゃるように、以前はお互いを理解する為の場で、今は「今後の方針」のように、ジャイアンの自己探求の場、ということですよね。
    (ここからは、あくまでも私の希望と考えですが)、
    ADHD, AS, そして多数派とたくさんの方々の感じ方、考え方が知りたいと強く思っています。
    つづく・・・

    • kei_
    • 2008年 8月 04日

    つづきです
    その理由は己が何者かわかっていないこととも関係しているでしょうが、自分と違うもの(考えetc)と出会って、混沌とした中ではじめて自分が見えてくることもあるんじゃないかと思うからです。
    で、その混沌とした中だからこそ、自分を見失う・・・矛盾してますよね。
    先生がこの記事を書かれて、ASの方々の感想を求めたのは、このブログにASの方々の感じ方が必要と感じられたのではないのか・・??
    とちょっと勘繰ってしまいました。ごめんなさい。
    同じタイプの考え方をする人達だけで探求していくと、どうしても「先止まり感」を感じてしまう気がしてたんです。
    別の考え方をする人達を理解しようとすることで、自己探求を進めるということは、以前先生が「理解不可能なことの理解」で書かれていた、
    >自分のもともとの考えを一部壊して変化させる ~中略~ 
    その不安を覚悟するかどうか・・
    なのだろう・・・と思います。(ADHDもASも。)
    P.S
    かなり個人的なコメントですが、luneさんがそんなことになっていたとは、驚きでした。
    過去のコメントから(私は、ですが)AS的とは感じていませんでしたし、「通訳」してくれて理解が進んだことが何度かありましたし(笑)。
    ただ、閉塞感があったので、そこらへんだったのかなぁ・・と。
    個人的な感想なので、不適切でしたら、削除お願いいたします。

    • むーん
    • 2008年 8月 04日

    >そこをとやかく言うのであれば,ジャイアンも周りからとやかく言われることに甘んじないといけない。自分は批判するけど,批判されることは許さないというのは,決してフェアではないはずです。
    私もluneさんの仰ることは正論だと感じます・・・
    「私は自己突っ込みが激しいのだから、私の事だけは攻撃しないで!」というのは、やはりどこかおかしいと思うし、
    そうやって岩山で、一人自己突っ込みをどんどん激しくハードにして行ってもかえって辛いような気がする。
    私は、まーちんASさんらが居られた頃の雰囲気を知りませんが、(過去ログから推測するだけです、)内省だけでは人は進歩しないと感じます・・・。出来たら、ここをまたAS&ジャイアン&多数派の話し合いの場に戻して欲しいです。

    • むーん
    • 2008年 8月 04日

    テルモさんが前に仰ってた、金子みすヾの「私と小鳥と鈴」をここに引用します・・・
    「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが
    飛べる小鳥は私のやうに 地面を速くは走れない。
    私がからだをゆすっても きれいな音は出ないけど、
    あの鳴る鈴は私のやうに たくさんな唄は知らないよ。
    鈴と小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」

    • lune
    • 2008年 8月 04日

    このエントリーではコメントを載せていただけるのでしょうか。
    > 『群れ』を嫌い、私に群なんか必要ない!と言い捨てるなら、『群れ』は私を理解しない!と怒る必要もないはずなのになぁと不思議に感じた事があります。
    ジャイアンが群れることを嫌うのは,群れが個体を群れのルールに従わせようとするからではないかと思います。そのことと,群れが私を理解しないと怒ることとは,ジャイアンにとっては矛盾しないと思います。
    ジャイアン的には,私が群れを理解しなければならない義理はない(そうすべきだと言われたら,ジャイアンはそれを不当な強要と感じる)。
    私が私のありのままでいることを,群れ(周囲の他者)は当然認めるべきだ。私は好んで群れの中にいるのではない。
    ジャイアンが自己主張するとき,それは周囲の理解を求めてしているつもりはなく,当然の権利の宣言のようなものなのだろうと思います。
    つまり,まーちんさんが疑問に思うような,「特別扱い」という認知は(少なくともその時点では)生じないのではないでしょうか。
    でもそれをジャイアン以外の周囲の者たちから見ると,「群れが私を理解すべきだ」と主張しているように見えると思います。
    で,コミュニケーションのスタイルがそんなふうになる,そのおおもとにある特性とはなんなのだろう,と考えるのですが・・・

    • kodawari(AS)
    • 2008年 8月 04日

    くらら さん
    ASの議論は,根を伸ばしてゆく方向の調整作業です。そして,立脚点が異なることを理解すると議論は突然に終了し,またまた孤独な根の作業にもどります。ASは根がからみあわぬように議論をする。くららさんには,花が咲き誇る,たくさんの花があれば,それはそれで美しい。そんな状態をが議論だとおもわれているのだと思います。
    AS同士で,テーマの合意があり,各々ある程度準備がある場合,議論自体は結構楽しいものです。

    • kodawari(AS)
    • 2008年 8月 04日

    くらら さん
    ASの議論は,根を伸ばしてゆく方向の調整作業です。そして,立脚点が異なることを理解すると議論は突然に終了し,またまた孤独な根の作業にもどります。ASは根がからみあわぬように議論をする。くららさんには,花が咲き誇る,たくさんの花があれば,それはそれで美しい。そんな状態をが議論だとおもわれているのだと思います。
    AS同士で,テーマの合意があり,各々ある程度準備がある場合,議論自体は結構楽しいものです。

    • まーちんAS
    • 2008年 8月 05日

    私が書いたコメントを全て掲載するのでなければ、
    今掲載されている文を削除してください。

    • mmm
    • 2008年 8月 05日

    わたしも依存型のジャイアンであり、以前m2さんの発言に対しての先生のコメントに対して、このブログ上で同じようなコメントを書いた事があります。(その後自己突っ込みが入りましたが)平等とかヒエラルキーとかに反応しがちなのは確かです。(行き過ぎると気持ち悪いのは承知で)
    そして、このコメントはふぇありーさんが書かれているように、自分で責任をとらずに自論を正当化していますね。ジャイアンと受動ASは似ているというエントリーがあったと思いますが、この部分で、依存型のジャイアンは受動型ASに似ているなと感じました
    すぐ自己突っ込みが入ればいいというものでもない。。。
    うまい具合にジャイアンとASを使い分けていて、そういえば日常でもうまく使い分けて多数派の方を泣かせてしまったことがあったことなどを思い出し、自分が気持ち悪いし、治せることなら早く治したいです。
    ・・・・と今、新しいエントリーに気付きましたが、そのまま投稿します。

    • くらら
    • 2008年 8月 05日

    まーちんASさま
    特別扱いですか?
    数年前までは本当に私は猛獣で怒らせたらこわい人でしたが
    今は滅多に怒りません。
    にも関わらず、コワイオーラは出ているらしく、意見を言ってくれない方もいます
    特に受動型ASは私に対して服従姿勢をとります
    私は意見を言われ、それがよければ採用し、悪ければNGを出します
    一つの判断材料として意見には根拠があるべきですので根拠がなければ却下です
    また怒ってもしょーがない相手には労力の無駄ですので怒りません
    一応聞く姿勢で怒らないようにしているにも関わらず
    受動型ASに腫れ物に触るような「特別扱い」されると気持悪いです
    そんなにコワイかしら?
    私は獅子座なのですが
    私は眠れる獅子よ
    普段は猫よ
    しっぽふんだら怒るけど
    と友達に言ったら
    とんでもない!立派な獅子よ
    と言われました
    全然自覚ないです

    • まり
    • 2008年 8月 05日

    >ジャイアンが群れることを嫌うのは,群れが個体を群れのルールに従わせようとするからではないかと思います。そのことと,群れが私を理解しないと怒ることとは,ジャイアンにとっては矛盾しないと思います。
    「群れのルール」の捉え方がそもそも違うのかもしれません。私にとっては、群にルールは在って無い様な物です。人は皆違いその中で自分を尊重するのと同様に他者も尊重するとなると、「私は違うけどあなたはそうなのね」と『譲り合い』『妥協』というものが生まれます。私はそれを『ルール』とは思っていません。群れたければ自然とそうなるだけです(そもそも人間はサルのときから群れる動物なので)。
    極端な話モラハラDV級であっても、ありのままでいてもらって構いません。ありのままが「攻撃的で破壊的」なら他者が離れるのも当然です。互いのために自然とそうなります。この「自然」を力ずくで捻じ曲げようとすると、相手も自分も苦しめる事になるのだと思います。

    • まーちんAS
    • 2008年 8月 05日

    くららさん
    詳しい書き込みをありがとうございました。
    ここでのコメントのやりとりは基本的に禁止されたと思うので、返答は期待していません。
    でも、わざわざ書いてくださったこと感謝します。

    • lune
    • 2008年 8月 05日

    ほかのエントリーではコメントを載せてもらえないようです。
    こちらはまだ載るのでしょうか。
    > 「群れのルール」の捉え方がそもそも違うのかもしれません。私にとっては、群にルールは在って無い様な物です。人は皆違いその中で自分を尊重するのと同様に他者も尊重するとなると、「私は違うけどあなたはそうなのね」と『譲り合い』『妥協』というものが生まれます。私はそれを『ルール』とは思っていません。
    まりさんから見れば当然のことであって,ルールなどというものではないのだと思いますが,譲り合いや妥協をするには,相手の立場とか相手の視点とかいうものを一定程度は理解(同調ではない)することが多数派的には前提になっているのではないでしょうか。
    そこでは,公共の場というか,誰個人のでもない,共有の土俵のようなものが仮定されているように思います。
    ジャイアンが自分の土俵以外には乗らない(乗れない)のだとしたら,そういう共有の土俵にも乗ることができないことになります。
    そのことそのものが,群れの(暗黙の)ルールに従えない,ということになろうかと思いますが。
    > 群れたければ自然とそうなるだけです(そもそも人間はサルのときから群れる動物なので)。
    サルにも社会性の強い種(ニホンザルとか)と単独性の強い種(オランウータンとか)がいます。
    テリトリーの広さ(人間の場合は心理的な距離感みたいなもの?)には,種(タイプ)による差異があるのではないでしょうか。
    単独性の強い種にとって,群れることは自然ではないでしょう。
    サルなら,違う種が同じ社会を構成することはないのですが。

    • まり
    • 2008年 8月 05日

    luneさん、
    >相手の立場とか相手の視点とかいうものを一定程度は理解(同調ではない)することが多数派的には前提になっているのではないでしょうか。
    相手の視点や立場を理解できなくてもあまり関係ないように私は思います。むしろ「人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然。」ということが前提なのだと思います。なので「人は人」と言いながら他者のそれには切れたり「何で何で?」と執拗に疑問を持つ人を見ると??となるわけです。
    ニホンザルとオランウータンは別々に進化したものなのでそれを比較する事は私にはピンと来ません。
    人間とチンパンジーを比較してタイプに差異があると言ってるようなものですから。
    それよりも、同種からなる群の中での「個性」での比較の方が的を得てるように思います。
    同じニホンザルでも個々にはリーダータイプ、同調タイプ等の差異がありますから。
    群を嫌い、苦労を覚悟し自らの意思で群から離れて一人暮らすタイプのニホンザルがいたとしたら、それは「個性」の自由と私は思います。

    • lune
    • 2008年 8月 05日

    自分の立ち位置がいまひとつわかりづらくなっていますが(ジャイアンではない,ASでもない,多数派とも言いがたいのです・・・)。
    > むしろ「人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然。」ということが前提なのだと思います。なので「人は人」と言いながら他者のそれには切れたり「何で何で?」と執拗に疑問を持つ人を見ると??となるわけです。
    そこのところの感覚は,私としては共有できるつもりでいます。
    でも,ひとによっては,その「前提」を当たり前のこととして受入れよと言われても,ぴんとこない(さらにはなぜ?!と怒り出す)のではないかと思えます。
    「自分は自分」ということが,自分にとってそうだから,他人にとってもそうだ,という理解・感覚を,誰でもが苦労なく身につけているという訳ではないのではないでしょうか。
    > ニホンザルとオランウータンは別々に進化したものなのでそれを比較する事は私にはピンと来ません。
    > 人間とチンパンジーを比較してタイプに差異があると言ってるようなものですから。
    > それよりも、同種からなる群の中での「個性」での比較の方が的を得てるように思います。
    多数派と少数派,少数派の中でもADHD系とAS系は,種が異なるくらい異なるのだ,ということを前提とする方が,無用な行き違いを少なくできるように思うので,敢えてそのようなたとえを引き合いに出しました。(もちろん,どちらが進化した種か,とかいうのではなく。)
    サル学について格別詳しい訳ではありませんので,たとえとしてわかりづらかったのなら申し訳ありません。

    • まぁ
    • 2008年 8月 06日

    やんばる先生からは積極奇異型ASと教えていただいた者ですが、他の病院ではADDと言われた者ですが。
    これは、ADHDだからであるということではなく、
    書き込みした人のポリシーというか
    育った過程で出来上がった人格じゃないでしょうか。
    ただ、ジャイアンはうちの父なんですけど
    あてはまりますね。
    つまり、権力や自己モラルに従うしかないという考えて、
    それ以外をあり得ないと排除しようとする。
    でも、きちんと筋道を立てて
    あなたは正しいことをして下さったのは
    わかったけれども、こういうことがあるので、
    あなたがおっしゃったこういうことのないようにするの
    でこうさせてくださいと矛盾なく説明するとOKします。
    よくわからないけど、ADHDの父親に罵倒されても、
    結局私はメゲナイASなので、
    ASはどんな環境でも自分自身の基礎っていうか
    左右されないマイペースを保てるけど、
    ADHDは、結構、規範に左右されるというか、
    自分を規範に位置づけるとことから始まる
    イライラする意見は、排除していかないと不都合なんじゃないですか
    イライラしやすいっていうか・・・癇癪持ち多いよね。
    ADHDに罵倒されてもケロっとして
    また付き合って行けて、
    ADHDも、ASの悪口やイライラすると罵倒するけど、
    そういったときに後で自己つっこみしたときに、
    それでも変わらず接して来るASを見て
    仲良くしていられるというか・・・
    それにADHDは、ネチネチしてないので、
    手の込んだいやがらせもするタイプじゃないし。
    対立しても、うまくいってますが。。。
    ADHDと接して怒られると
    自分のASの悪い癖が偏らずにすむので勉強になります。
    ってあくまでその記事を読んでのコメントなので、
    コメントとしてふさわしくないかもだけど書きました。

    • Hir00mi
    • 2008年 8月 06日

     ジャイアン諸氏の反応が過剰だなと感じていました。コメントが直接本人に向けられているわけでもないのに、いきなり怒鳴り返しているように。その点では「依存型のジャイアン氏」と似た印象を受けてました。
    特に、AS氏への反応が本人へと云うよりも、AS氏に映るジャイアン氏個人の過去現在の感情が混ざっている印象が強かったです。
    PTSDって言葉が頭をよぎったり。(不適切な素人診断に当たるようでしたらコメント削除お願いします)
     ただ、吊るし上げ・リンチとは感じてませんでした。ジャイアン諸氏のコメントもAS諸氏のコメントも 1対1 か 自身から特定多数 へ向けたメッセージと受け取れて、「集団」で袋叩きにしている印象はなかったです。
    …ジャイアン/合理的ADHD/積極奇異型ASのコミュニケーションって基本的に1対1で自己発信型なのでしょうか?…
    …それで云うと、依存型ジャイアン/受動型AS/ACは多対1の受信型? 多数派は多対多コミュニケーション?…

    • mario (AS)
    • 2008年 8月 06日

    くららさんの「まーちんASさま 特別扱いですか?」のくだりは、
    > 私が書いたコメントを全て掲載するのでなければ、
    > 今掲載されている文を削除してください。
    を受けたものですよね。
    このまーちんASさんの要求は至極正当なものですよ。一部だけ掲載すると本人の主張は捻じ曲がって伝わりますから。
    一方で、ここの主はYANBARU先生ですから、載せる載せないの判断の自由は先生にあります。
    ですから希望が受け入れられなければ、まーちんASさんはここに書き込まないという選択をすることになります。そのような、ASがここを去って行くデメリットを先生は受け入れるしかありません。
    先生がここでの暴君と言う意味ではなく、ASの書き込みがジャイアンの思索を妨げるデメリット、ASの書き込みを完全には追いきれない先生の時間的制約、などから許されると言う意味です。(個人的には、ASの書き込みを全て掲載した上で、問題点を指摘するというスタイルを望みます。)
    私のコメントは今のところ殆ど(最近では全て)掲載されていますが、YANBARU先生の掲載基準をかなり真剣に想像して、基準に外れないような範囲で言いたい事を言うように表現を練ってます。書きながら投稿しなかった記事は相当数に上ります(結果としてスルーになったものも多いです)。
     :
    戻って今回の元の記事、このように他の掲示板の書き込みを一部だけ持ってくるのは許される方法ではありません。当然の結果として、色々な誤解を招きます。元の書き込みの主には、説明や反論の機会もありません。私は前後関係が分からないと断った上で記事の内容にコメントしましたが、コメントすべきではなかったと思い直しています。

    • エイト
    • 2008年 8月 06日

    まりさんとluneさんのやりとりに便乗します
    ジャイアンがライオンだとすると
    井戸の中系ASはカエルかモグラ
    それ以外は宇宙人
    多数派はシマウマかサルか鰯とか
    みんなで一緒に食べたり逃げたりするのが好きな生き物
    同じ生命体でもこれくらい違ってみえる
    でもね、ライオンの噂話なんかしてないで、餌のとり方とか新しい餌場とか、もっと大事なこと考えたらいいのに
    心配無用、自分は完璧だっていうなら昼寝でもしたほうがいいんじゃない?
    好き好んでライオンの近くをウロウロして、あとからいじめられたと責任転嫁しないでね

    • まり
    • 2008年 8月 06日

    すみません、話がそれてきてしまいましたが、、、
    Luneさん、
    >「自分は自分」ということが,自分にとってそうだから,他人にとってもそうだ,という理解・感覚を,誰でもが苦労なく身につけているという訳ではないのではないでしょうか。
    仰るとおりだと思います。
    そしてそれは、AS・ADHD・多数派etcの区別無くそういう人はいるのだと私は思っています。その理由が、境界性の問題を抱えているだったり、行間が読めないからだったり、制御が効かなかったり、etc…
    あくまで私の個人の感覚なのですが、人は皆それぞれの土俵の上(個性)にいるのだと思います。そして自分の土俵から他者の土俵に遊びに行くことがあります。私の土俵に勝手に上がりこみ、住まわせろと暴れられたら追い出します。間違ってるよと指摘してくれるのは良いとしても、もし勝手に修理し始めるような事があれば帰ってもらいます。ここが気に入らないと言われるのはいいけど、「俺の土俵に対するあてつけか!」と切れて攻撃されるようなことがあれば離れます。それでもまた遊びに来てもらう内に私の土俵が違う厚みを持つ事もあれば、二度と来てもらわないということもあります。
    同じ様に、私が他者の土俵から追い払われて謝ったり、いやここには二度と来ないということも起きます。浅い付き合いのまま「あいつは理解の無いヤツだ」と評される事もあります。
    これが、沢山の土俵が集まり別の大きな土俵を成す場(職場など)ではまた少し違う感じです。プライベートでは避ければ済む大きく険しい土俵の持ち主がいたとしても、職場ならその土俵が入るスペースを作るために協力するし、必要であればその土俵に上がらせてもらうでしょう。
    なんだかまとまってませんが、自分の土俵を『守るための手段』として『他者の土俵に攻撃』を仕掛けないことは、誰であれ自分の責任においてしか遵守できないと思うのです。

    • kei_
    • 2008年 8月 06日

    「自分は他人と違っていてもいいんだ」(ジャイアンの“自分は自分”とは別)というのは、別のエントリでyouさんが書かれていたような、自己に対する肯定感や信頼感に強く関連していると思うし、「人は人」と言っておいてキレる、というのは、「依存心」と深く関連していると思うし・・・。
    私が多数派を理解しようと試みたとき、「多数派」という1つの団体の構成要員は、「多数派」と呼ばれている人達の「単一民族の集まり」・・のように捉えていた気がします。
    親子関係やそれまでに身に付けてきた対人スキル(らしきもの??)ではうまくいかない・・多数派や世間一般人はどう対応しているのか?・・と考えていた。
    その時、同時に身に付けようとしたことが
    >相手の立場とか相手の視点とかいうものを一定程度は理解(同調ではない)すること
    だった様に思います。
    とはいうものの、多数派、世間一般人といっても実体があるわけではないので、結局は身近にいる人の様子を伺っていただけ・・なんでしょうけど(笑)。
    >人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然。
    理解できない=イコール関係か切れる、コミュニケーションがとれない、と思っていた気がしますね。
    「何で?何で?」と執拗に疑問を持つ・・というのは、例えば「違っていてもいいの?」(同じでなければいけない) 「違っていても関係は成立するの?」みたいに、そういう環境に身を置いた経験がない場合のギモンなのかもしれません。
    つづく・・・

    • kei_
    • 2008年 8月 06日

    つづき・・
    仮に
    >人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然
    という考え方の人がいて、「これが多数派の対応の仕方なんだ!!」とすんなり上書きができれば別ですが、そもそも依存体質であれば、そういう人の近くには寄らない・・・(依存させてくれそうな人に寄っていくだろうから)、いても、関係が成立しないままで通り過ぎてしまうでしょうし・・・。
    「ルール」を学ぼうとした人間にとっては、「ルールはあって無いようなもの」だと、ただでさえKYでわからないのにもっとわからなくなるので(笑)、
    私が一般論が多いと言われたのは、この過程で過剰な一般化をした為かなぁ・・と思っていますが・・・。
    今までもそうでしたが、ここのところ特にACと被ってくるので思考の流れや向きや出所がどう違うのかが、イマイチ理解不足だろうと自覚しつつ、書いてみました。
    追伸:
    まりさんとluneさんのやり取りを読んで感じたことなので、記事から離れてしまった内容で申し訳ありません。

    • まり
    • 2008年 8月 06日

    keiさん、
    >人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然
    という考え方の人がいて、「これが多数派の対応の仕方なんだ!!」とすんなり上書きができれば別ですが、
    すみません、私の言い方がまずかったかもしれないのですが、あくまで一意見であって、多数派でも「だってそっちが変だろ、こっちに従えよ」っていう人もいます。それすらも『そういう個性もあるよな、私は違うけど』と私は特に反応しません。迷惑な場合は(他人や公共の土俵を侵す)指摘やアドバイスする場合もありますが、それらは「良かれ」と思ってすることであり、相手が拒否すればそれ以上は踏み込みません。
    もしそこで、その人を私の意志でどうにかしようとしたら(自分の意志でどうにかできるのは本来自分だけなので)、その時点で「依存」「執着」が生まれるような気がします。
    もちろん、どんな関係にも多少の依存や執着はあるんですけどね。度合いの問題かもしれません。
    >「ルール」を学ぼうとした人間にとっては、「ルールはあって無いようなもの」だと、ただでさえKYでわからないのにもっとわからなくなるので(笑)
    これは新鮮でした。
    そういうこともあるのかと勉強になりました。
    ありがとうございます。

    • むーん
    • 2008年 8月 06日

    >私が多数派を理解しようと試みたとき、「多数派」という1つの団体の構成要員は、「多数派」と呼ばれている人達の「単一民族の集まり」・・のように捉えていた気がします。
    >親子関係やそれまでに身に付けてきた対人スキル(らしきもの??)ではうまくいかない・・多数派や世間一般人はどう対応しているのか?・・と考えていた。
    その時、同時に身に付けようとしたことが
    >>相手の立場とか相手の視点とかいうものを一定程度は理解(同調ではない)すること
    だった様に思います。
    >>人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然
    >という考え方の人がいて、「これが多数派の対応の仕方なんだ!!」とすんなり上書きができれば別ですが、そもそも依存体質であれば、そういう人の近くには寄らない・・・(依存させてくれそうな人に寄っていくだろうから)、いても、関係が成立しないままで通り過ぎてしまうでしょうし・・・。
    これは、最近私も多数派ヘルパーさんと暮らし始めて、心底感じるところです・・・
    「人は人を理解出来ないよ」と、AS(多分)であり、そしてACサバイバー(おそらく)である弟に、この間ガンと電話で言われて、ものすごいショックだったけど、これをいともたやすく身につけているのが多数派の大半の人々なんだな~、と思う。
    ここで、「ASへの悪口がPTSD」というコメントを読んで笑ってしまったのだけれど、実際問題、ジャイアンのしつこさを同じ位しつこく受け止めてくれるのは、やはりASの方々と言う気も正直します。普通の多数派(←という捉え方が既にAC的なんだろうけど、)は、「俺の土俵から出てけ」とすこぶるあっさり少数派を追い出しますね・・・(また受け入れてくれる事もあるけど。)
    なんだか纏まってませんが、AS&ジャイアンの繋がりを、全てこれ「共依存」で片づけるのは、どうかと思う今日この頃です。犯罪に繋がってしまうと問題だけど、そうでなければ、一概に否定しがたいものが私の中には正直あります。
    「人を理解したい」と普通の多数派は思ってないんだな、ただ「存在を必要」としてるんだなと、何となくですが感じますです。
    PS;最近の私は、自分を「岩山のライオン」と捉えていません。ただ単に、「やしの木に登って降りられなくなった猿」と感じます。

    • くらら
    • 2008年 8月 06日

    Marioさん
    ぎゃはははは。(*^^*)って感じです。
    違いますってば
    まーちんASさんがジャイアンに
    特別扱いされるのをどう思いますか?
    と聞いたので答えたのです。
    特別扱い(について)ですか?
    です
    「について」を省いた私が悪うございました
    というか
    だからASは受信感度が、、、と言いたくなります
    まぁさま
    ASへの説明の仕方おしえて頂きありがとうございました
    なんだか猿の話でもりあがっておりますが、
    私は日本人と外国人
    とか
    チワワとラブラドール
    とか
    同種の異種として感じています
    ASさんには申し訳ないんだけどあまりにこちらの都合を考えない発言とかなさると
    私のことどーでもいいのね(` ´)
    と思ったりしますが
    ASはASなりに考えていたりして
    悪意のなさを後でしることが最近多いです
    自分で結論だすまえに一言考えている過程を伝えてくださればだいぶ変わる気がします

    • まーちんAS
    • 2008年 8月 06日

    むーんさん
    2008.08.05 08:50のコメントで、
    >まーちんASさんの「何故、ジャイアンは特別扱いされて平気なのか、自分には想像もつかないことなので」と言われると、
    と書かれていますが、私はそんなことをここには書いていないのです・・。
    文法的な欠点があるために、自分の意図が万人に伝わるように表現できないは、私の大欠点でいつも気にしているのですが。今回も正確に私の書き方が甘かったです。
    私(まーちんAS)に想像がつかないことは、
    <ジャイアンが特別扱いをされた時にどう考えるか?>です。
    もし気になったら、読み直してみてくださいね。
    よろしくおねがいします~。

    • むーん
    • 2008年 8月 06日

    すみません、まーちんASさん、私は理論的思考を捉えるのがすこぶる苦手なので・・・m(__)m
    で、考えてみましたが、私の場合、
    ●KYだから、特別扱いされてる事に普段全く気づいてない、で、たま~に指摘されると物凄く落ち込んで(自己突っ込みが入って)逆に全く黙り込んでしまって、いじめられる・・・
    とゆうのが通常のパターンであるように感じます・・・
    PS;ジャイアンにとって、「猛攻」を仕掛けるのは、「健康的」な衝動、というよりそれ自体がもはや「生理的」衝動と考えます。(私の場合、文字通り月のものが来ているとこの猛攻が酷くなります。)

    • こぱんだ
    • 2008年 8月 07日

    依存型ジャイアンは受動型ASより、自我があやふやな気がします。
    一貫性がホントないと思う。
    分単位で気持ちが変わってしまう。
    でも、その時その時の気持ちはホント。
    悪気はないけど無責任。…で自己嫌悪。
    受動さんとは似ているようだけど、やはり違う。
    私もコメント主さんと同じような書き方してしまいそう…自己嫌悪。

    • mario (AS)
    • 2008年 8月 07日

    >くららさん
    失礼しました…
    ごめんなさい。
    余談:
    うん、ADHD氏の言う(書く)事はいつも理解がとても難しいです。日常会話でも、話たい事の構造が見えるまで頑張って(我慢して)聞いてます。YANBARU先生の書かれることも、構造が見えなかったり、主張していることが何なのか分からなかったり… まぁだから「何々ですか?」って聞き方をする必要があって、そうしましたけどね(^^;

    • あひる
    • 2008年 8月 07日

    こぱんださん、はじめまして
    依存型ジャイアン...
    本当にあなたの言うとおりだと思います。
    「自分がない」からなのかもしれません。
    ここのコメントを読むと危ういというかフラフラしている人も...
    本音を言うと同じジャイアンとしてちょっと情けないです。
    こぱんださんは自分で気が付いているので問題ないように思えます。

    • kei_
    • 2008年 8月 07日

    まりさん
    返信、ありがとうございます。
    私のほうこそ、変にはしょって書いてしまったかもしれなくて、ゴメンナサイ。
    まりさんの
    >人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然
    という考え方を多数派全員の考えと読んでしまったわけではないんです。(実際は様々)。
    多数派が単一民族の集まりと捉えていた頃の私が→「多数派のルール」というものがあるらしい・・と思い込んで→それを学ぼうとした時に、まりさんのような考え方のひとが近くにいて→そうか~、とあっさり(まるでそれが多数派全員の考え方のように)自分に取り込んだとしたら・・・・・・
    というようなニュアンスで書きたかったんですけど、アレッ、たいして変わってないでしょうか??(笑)。
    ルールを学ぼうとした時点で、自分のことを「ちょっと変わっている?」 「なんか変??」と思っているわけで、本人的には軌道修正を試みているワケなんですね。
    今までと違ったルールを探しに出掛けている・・。
    で、「自分が変??」って、矛先を自分に向けているところで、すでにACのように思うのですよ。
    環境が変とか、関係性が変とか思ってもいいはず・・。
    例えば
    >だってそっちが変だろ、こっちに従えよ
    と言われた時も、まりさんのように
    >そういう個性もあるよな、私は違うけど
    と考えることも出来るし、「あなたが私に従ってよ!」でも、「あなたのここが変よ!!」と指摘するだけ指摘して、“さらば!”って人もいるかもしれないですし(笑)。
    つづく・・

    • kei_
    • 2008年 8月 07日

    つづき
    >「ルールはあって無いようなもの」だと、ただでさえKYでわからないのにもっとわからなくなるので(笑)
    というのも、自ら自身にメスを入れて、はじめて開ける道のようなもので、自分がわかっていない裏返しのような感じ。
    しばらくすると、「ルールがあってないようなもの」もわかってくるし、多数派が単一民族の集まりではないということも・・・。
    これも結局、「自身が見えてきている」ということと、連動して進行していくんですよね。
    まりさんの言う
    >人は違って当然。違うものは理解できない場合もあって当然
    はそういう意味で、とても新鮮で魅力的な環境なわけですが、これはリトマス試験紙のようなもので、居心地の悪さを感じたり、空虚感があれば、まだまだ。。。ということだと思います。
    「尊重」されればされるほど、自力で立つ力がないとふらついてくるのが、わかるから・・・。
    私の場合は、ACチックな出発点から過剰な一般化に進み、結果、対人がAS的(あくまでも自己分析))になり、余計こじれてしまった感もありますが、
    「一般的な対人スキル」としてのルールは、発達障害の診断を受けた児童に対して、アサーティヴトレーニングと共に指導されているのでは?と思うので、必要なことではあるのかと思います。(この辺のことはよく知らなくて、じゃないかな・・と)。

    • kei_
    • 2008年 8月 07日

    「依存」や「執着」の度合いも出所が違うと変わってくると思うんですよね。
    ただ、以前まりさんが、ADHD男性が対人面での苦痛な部分に対して、介入を試みて、芸術方面の才能に喪失はなかった・・
    というエピソードを読ませてもらって、すべてではないにしろ、本人が変えたい意志があるなら、介入が有効であったという事実(本人にあった方法)と、
    才能が残ったという2点がとても興味深かったのと同時に、
    「自分を変えられるのは自分だけ」のスタンスをどの立ち位置の人にでも、共通項で括っていいのだろうか・・・
    と自問していた時期だったので、それを確認する意味でも私にとって貴重な書き込みになりました。
    ありがとうございました。
    P.S
    長すぎて申し訳ありません。かなりヘロヘロです(笑)。

    • まり
    • 2008年 8月 07日

    keiさん、
    補足ありがとうございます。
    >そうか~、とあっさり(まるでそれが多数派全員の考え方のように)自分に取り込んだとしたら・・・・・・
    は、とても分かりやすかったです。群は群として見た場合と、それを成す個々を見た場合とで違いますもんね。。。
    今度はむーんさんの
    >「人を理解したい」と普通の多数派は思ってないんだな、ただ「存在を必要」としてるんだなと、何となくですが感じますです。
    で考え始めてしまいました。。。私にとっての理解する=違いを知るなのですが、それって理解した事にならないのかなと...
    ボーダー(AC)友人が以前荒れていたとき、ボーダーについては学ぶが決して彼女の取るべき責任を横取りしない彼に『分かってくれない!!』と爆発していました。傍からは、両親に満たされなかった子供の部分を非言語的に彼に満たしてもらおうと期待するが突き放されるため、「満たしてくれない⇒分かってくれない」のすり替えに見えていました。結局それで認知療法に自ら行くことになったので良かったのですが。
    そんな事を思い出して、ジャイアンの「理解されたい願望」「攻撃性」というのはACの部分なのだろうか?という新たな疑問が湧きました。どんなに相手が理解(違いを知る)しても、ACが満たされない限り「理解がない」と感じるのだろうか?と......

    • むーん
    • 2008年 8月 07日

    >両親に満たされなかった子供の部分を非言語的に彼に満たしてもらおうと期待するが突き放されるため、
    >ジャイアンの「理解されたい願望」「攻撃性」というのはACの部分なのだろうか?という新たな疑問が湧きました。どんなに相手が理解(違いを知る)しても、ACが満たされない限り「理解がない」と感じるのだろうか?と......
    これはその通りだと思います・・・まりさん。
    いくら「ボーダー」について学んでも、「彼女」の親代わりになってくれない限り、空しかったでしょうね、おそらく・・・
    今まで「違いを知る」ではなく「同じ感情を認めてもらう」=理解、と思っていたような気が私(ジャイアンAC)もします。(私の場合、元彼がかなり埋めてくれる分があったので、それで救われて現在に至っていますが。)
    多数派ヘルパーさんは、「違いを知る」をやってる感じは確かにします。例えば、私が友人の行動に不満を持つとすると、「んん?」と言ってくれるのが元彼でしたが、ヘルパーさんははっきり「そりゃああんたの気にくわないところもあるだろう」って言いますね・・・
    で、それが「気付き」(笑)になって、「なるほど不満を持ってるのは、彼女じゃなくて私の方なのね」という風に現在点に辿り着いてる気はします。
    ただ、元彼がいなかったら、そういう「認知」だけで現在までこれたかどうか・・・その”彼女”も自分を責めてかなり辛いものがあっただろう、と正直なところ思います。

    • まり
    • 2008年 8月 08日

    むーんさん、レスありがとうございました。
    >「そりゃああんたの気にくわないところもあるだろう」
    似たような事をボーダー友人に言って地雷を踏んだ事があります。『分かってない!』と...ACを受け止めるべくまずは肯定してあげれば良かったのかもしれないと思いました。
    『一刀流の起源』と併せてまた考え始めちゃいました。
    例のモラハラDV氏は我侭放題に育てられて一見ACではないように見えるのですが、良く見ると母親との関係が異常で、何事にも母親の承認を期待していて正にAC様だったんです。
    そこで新たに湧いた疑問は:
    自己正当化+AC=ジャイアン
    自己正当化+合理=ピーターパン ??
    というのも昔、そいつに殴られた事の無い人を数えた方が早いという超やんちゃ坊主が(ADHDかどうかは分かりません)いたんです。彼は極端な一刀流で、二刀流には怒りを爆発させていました。気に入らないと即襲い掛かる。加減を誤って骨を折られた子もいました。みんな避けて通ってました。それが今では正義の味方ピーターパンのようになりました。『オレ様は一刀流。こんなオレ様だけど皆仲良くやろうぜ!』という感じです。ご両親との関係も良く、ACのかけらも無い。正義感強くて活発で大人にならないピーターパンのイメージがぴったりなんですよね...彼がACになってたらモラハラDVもあり得たんじゃないかと思えるほど暴れん坊だったんですが。

    • むーん
    • 2008年 8月 08日

    >良く見ると母親との関係が異常で、何事にも母親の承認を期待していて正にAC様だったんです。
    ジャイアンorピーターパン、のお答えにはなってませんが、まりさんのお答えを読んで、少し自分のACが客観的に摑めたような気がします・・・
    普通、「んん?」と何でも子供の感情を「承認」する、とうのは、赤ちゃんに対して取るべき態度で、少し大きくなってきたら、実の母親でもやはり「そりゃああんたの気にくわないところもあるだろう」というのが、普通の「躾」ですよね・・・
    私の場合、(いつも自分語りになってしまうのだけれど)母が、「赤ちゃん的感情を肯定する」と、「虐める」を常に私に対して同時進行で行なっていて、それが自分のボーダーライン的混乱の元になってたような気がします。
    (まさに「分かってくれない!」ですね。)
    ただ、わたしはこの「分かってくれない」感情を、自分で抱えつつも、世間では”黙って”通していたような気がします。・・・
    ボーダー彼女は、世間様(これも日本の古い言葉ですが)に対して、自分勝手を爆発させられるだけ強かったと言うか、そういうパーソナリティだったから、認知療法に向いていたのかも知れないとあるいは思いました。
    (私の場合、カウンセラーに対してそこまで正直になれないです・・・やっぱその場では、自分の感情を取り繕ってしまうか、屁理屈で喧嘩してしまうかどちらかだったと思う・・・)
    長文レス相済みません。

    • まり
    • 2008年 8月 08日

    むーんさん、
    >母が、「赤ちゃん的感情を肯定する」と、「虐める」を常に私に対して同時進行で行なっていて、
    おもいっきりダブルバインドですね。
    いわゆる本音と建前が発信者に自覚された二刀流ならば、
    ダブルバインドは「無自覚二刀流」という感じでしょうか。
    傷つけられた側も、傷に気がつくことなく過ごしてしまいそうで恐いですね。
    >自分で抱えつつも、世間では”黙って”通していたような気がします。
    >自分の感情を取り繕ってしまうか、屁理屈で喧嘩してしまうか
    自分を殺して良い子でい続けようとするのは、とても辛い事のように思います。
    やはりACは、ボーダー友人のように一度破綻(さらけ出す)する事がキーなのかもしれないなと思いました。
    そのときにそれを受けとめてくれる人がいたら尚いいですよね、きっと。
    立て続けにレスしてすみません。

    • むーん
    • 2008年 8月 08日

    まりさん
    親切なレスありがとうございます・・・
    私は今まで基本的に「良い子」で、あまり徹底的に他人を悪者にしませんでしたが、
    『マタタビ』での某嬢とのやりとりで痛切に感じた事は、私はAS父の支配下にあったというより、(それもありますが)
    「依存型ジャイアン出身のボーダーライン」の母に、徹底的に非言語的に「コントロール」され「見下され」、しかも母には自己突っ込みが入っていなかったという現実ですね・・・
    私が、母を「おかしい」とはっきり感じたのは、AS彼との同棲を止めたと言うよりも、(それ以前の話なんですが、)私がネットで知り合って好意を持った、アル中のヤクザのところに、「本当に好きなら、彼の下宿に行って味噌汁を作りなさいよ」と言われたことですね。
    この時、「この人は狂っている、私の”母親”ではない」と思いました・・・
    境界性人格障害の母親を持つのはつらい事です。さながら理不尽な強制収容所にいるようなものです。
    AS元彼は、職務混同したという点では、社会人失格だったけど、私にとっては「いい人」だったのだと今分かりました。
    どうもありがとうございます。

    • むーん
    • 2008年 8月 09日

    (続きます)
    もちろん、彼にはAS男性として私をコントロールしたいと言う気持ち、肉体的衝動もあったと思う・・・
    でも、私の「中心志向」や「見下し」を、「いつも人を馬鹿にしているのが分かるよ」とか、「先延ばし」を、「怠けているとしか思えない」と一々誠実に注意してくれた面もありました。
    彼が、いなくなった今、彼の言うように「誰かが何とかしてくれるという発想をやめ」、自分で生きていける力をつけることが、今の私の最大の課題です。

    • kei_
    • 2008年 8月 09日

    >誰かが何とかしてくれるという発想をやめ、自分で生きていける力をつけること
    依存体質からの脱出を試み、日々悪戦苦闘する中で常に念頭に置いていることのひとつがこれですね。
    「自分で出来ないことを、他人にしてもらってまでやろうとは思わない。仮に頼んだとしても、やってくれるひとなんていなかったから・・・」
    そう言われたことがあるのですが、当時浅はかにも、それまでの自分の人生を全否定されたような気分になりましたね。(笑)
    頼めばやってくれる・・・どころか、頼まなくてもやってもらっていたかも・・でしたから。
    「頼む」と「頼る」の違いもわかってきていますが、ジャイアンはすぐに「依存」に進展してしまう脳らしいので、難しそうです。
    自分の人生には、不安も不安定も不便もいらない、ないものだ、今までもこれからも・・・
    それで終わる人生もあるのかもしれませんが、依存の中の「安定」や「安心」よりも、不安で不安定で不便でも、なぜか力が湧いてくる・・・そんな感覚があることにも気付きはじめてきています。

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