AC、人格障害関連

発達障害支援の留意点

 地元の福祉保健所で発達障害サポートの医療機関を集めた会議が開かれるが、私は都合で参加できないので、文書を出すこととした。以下はその原稿より。

 医療としての成人発達障害支援には二つの困難がある。
①「時間と手間がかかりすぎて民間医療機関のサービスとしては成り立ちにくい」。
②「依存的で他罰的なケースを依存させた末に、ケアの限界で逆に主治医が攻撃されるパターンとなることがある」。

 ①はまず診断にも生活歴や家族歴の聴取にかなりの時間と手間が必要となり、通常の精神科診察よりも診断に多大な時間と手間を要する。

 ケアにも、まず本人のストレスとなっている問題自体を探り当てるためにかなりの時間と手間をかけた聴取が必要。その後で多数派での行動の意味を考えながら本人のストレスとなっている問題の「答えを出す」作業にも同様に多大な
時間を要する。
 
 何よりも本人が納得するまで説明するには通常は省略される非常に根本的な部分から説明を試みなければならないので、短時間では根本的に困難なのだ。

 ②これも重大であり、結果として発達障害ケースが医療機関で嫌われる大きな要因の一つであると私は考える。

 ASに多いが、主治医なり福祉のスタッフなどの相手が「自分を理解してくれる」と思うと、「理解しているのは当たり前」となり、説明を求めても努力しなかったり、素振りや細かな表現から察知するのが当然だろうと考えるようになったり、また現実的な依存となると、極端なケースでは生活まで主治医に保障しろと求めたりするケースもある。

 (私自身の失敗例だが、例えば福祉事務所とのやり取りなどで主治医として影響力を行使した結果、「生活の困ったことは全て主治医が保障する」ような形になってしまい、主治医として大失敗であったと大いに反省した)。

 最終的には、「2年も相談しているのに解決しない」等と福祉担当者や主治医を攻撃することまであるため、そういう目に遭った医療や福祉の担当者は「こういうケースは懲り懲り」となり、発達障害支援に協力するスタッフが減っていく。
(原稿についてはここまで)

 私は受診希望のケースに全員先にメール等で相談の概要を伝えてもらい、私自身が予約するかどうか指示する形にしている。これは上記の②の状況を回避するためであり、「最初から依存相手を探しているケースを除外してトラブルを回避する」ことを考えてのことだ。

 メール相談でも、親からの相談で親自身の責任を自覚せず「本人の病気だけを治してくれ」と言ってきたり、あるいは「自分は被害者」ということだけを訴えて助けを求めたりする文面には私は「親であるあなた自身が変わることを考えないで本人だけを治すことは出来ません」とか、「被害者的な考えだけをしているうちは助ける方法は無い」と世間的には非常に不親切な返事を書くことも多い。
 
 それが本当のことだと私が考えるからそう答えるしかないのだ。
 


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コメント

    • あまがえる
    • 2010年 8月 13日

    発達障害を扱うことを避けているケースがあるのですね。
    トラブルは回避しなくてはと思います。
    親が変わるというのはかなり難しそう。僕の場合、神経症の治療の際、主治医が母親にそう言っていましたが、母親が変わった様には見えませんでした。
    結局は自分のために自分でやらなくてはと、自分に対して全責任を振り向けることで乗り切ったようなものです。

    • 黒すりごま(AS)
    • 2010年 8月 14日

    思い出します。子育ての壁にぶつかった最初の頃。
    ①母である自分が変わらなければいけない「強い恐怖感」
    ②「自分は子育てでこんなにがんばっているのに何故?」という「強い絶望感」
    ③ほぼノイローゼ状態で突然泣き出す私
    ④今のままではダメだ。何とか打開したい。自分を変えてもいいから専門家に相談しよう!という決意
    ⑤妙に素直になり、肩に背負った荷物が軽くなった状態
    ⑥専門家とともに毎日が応用問題の日々
    ⑦専門家からの自立
    ⑧さまざまな治療・工夫を並行して行う必要を自覚・実行
    ⑨子供は大きくなり、自分は更年期となり、再度自分自身を見直す時期を迎える
    ⑩死ぬまでの時間をどう過ごしていくのかが今後の課題  

    • kei
    • 2010年 8月 15日

    確かに親が変わる事でかなり変わりますよね、、、。
    特にADHDがらみは虐待的環境が関わっているケースが、私の周りでは多い気がします。世代間連鎖の中にいるとそのようなやり方しか知らないし、、、。先日小学校の時の同窓会に参加したのですが、当時まだ知られていなかったADHDがらみと目される人物二人は、完全に人生破綻しているという風の噂を聞き、、、。もったいないなぁ、、、。と思いました。
    そういう子って中学辺りから荒れるんですけど、小学校の時はいい子だったのに、段々猫殺しとかして、しまいには多重人格になったり、昔の恨み!といって喧嘩した相手の車に20年後に放火したり、、、。とまあ、今だに混乱の中にいる様子。きちんと理解され治療されていたらこんなことにはならなかったんだろうな、と思います。

    • 黒すりごま
    • 2010年 8月 15日

    些細なことですが、今度からハンドルネームに(AS)をつけるのはやめようと思います。狭義のASの診断を受けているわけではないからです。でも自覚的には「広義のAS」というアイデンティティーはピッタリとしていて、昔に比べて無理をしなくなり、とても楽になれたので、有意義でした。

    • ミーコ
    • 2010年 8月 16日

    YANBARU先生へ
    深刻な問題ですね。 考えなければならない。
    AS・ADHDなども親と子供(成人)と周りが理解を出来るような体制を早くやってほしかった。社会の取り組みが早くやっていたら多くの人が救われた。
    事件・新聞などでAS・ADHDと報道されて残念になりません。
    一番は、親と社会です。親が子供が苦しんでいる事を真剣に考えてほしい。子供イジメられても親が逆に何で怒らなければならないのか? 助けないのか? 話しを聞いてくれないのかを考えてほしい。 
    友人もAS以外の別の障害がありますが親に言っても中々、伝えたり理解されるのは難しい。
    子供・成人が苦しんでいるのに親が「子供を教えるのは先生などにある。」、「先生、主治医、福祉スタッフ、塾講師などが理解されていないから子供がこうなった。」、先生・主治医などが努力しても「先生などに任せます。」と言います。分かってもらえなくて攻撃したり、引きこもり、犯罪、非行(不良など)、暴走行為、いじめ、騒音、深夜徘徊、ストレス社会の日本などが増えています。 残念になれない。
    親が聞いてくれなくても親戚などの第3の立場に話しをしたり、回りに言ったら変わって親に言います。
    ASなど障害ですが親に理解されなくてもまずは、第3などの立場に話したらいいですよ。
    「親が分からなかったり、主治医、福祉スタッフなどに言えなかったのを第3の立場(親戚など)からいってほしい。」
    道は開けます。
    PS:地元の福祉保健所で発達障害サポートの医療機関を集めた会議はいつ行ないましたか教えてね。

    • 読みました。
    • 2010年 9月 02日

    始めまして。
    私は、HAと指摘された、
    10歳5年生。
    でも、先生がこれを書いてくれたお陰で、
    私、希望が持てるようになりました。
    今までは、薬とか、病院とかないときいていたので少しガッカリしたのですが、薬とかあると先生が、書いてくれたので、ああよかったと思いました。
    先生ほんとうにありがとうございました。
    先生にひとつ相談があります。
    私はいつも先を考えないで行動してしていると大人たちから注意をうけます。
    どうしたら先のことを考えて行動をすることができるようになるのでしょうか?
    私は頑張ってHAを治したいと思っているんです。

    • ぴよよ
    • 2010年 10月 10日

    悲観的と言われればそれまでですが、まだ不景気が続いて、まだ国が当事者に何もしない時代が続く可能性があります。
    今後更に輪をかけて景気や社会情勢が悪くなったら、軽度当事者にはどこに就労しても周囲か、自分の精神かどちらかを壊す結論しか見えない職種しか、残っていないことになります。
    勝手をすみません。ヤンバル先生にというよりは、読者のかたに問いかけたいのです。
    過去の記事に不要に話を戻してしまいますが、多数派社会から少し落ち目の所にいる人達と居心地良く暮らすことは非常に具体的で有効な一案です。
    当事者が経験していて、もしかすると実感していてもなかなか口に出せないことをヤンバル先生は正直に文に起こしていただきました。
    ただ、そういう場所も稀少になっているのが実情ではないのでしょうか。
    だから、そういう稀少で理想的な場所を人に迷惑をかけないで嗅ぎ分けて、医療や愛着対象におんぶしなくても自分で探せるようになることと同時に、多数派の中の多数派が占めているような場所でもあえて無理して割り込んでいく前例を今作っておく意味は、無いのでしょうか。
    行く場所によっては「普通」と言われ、場所が変われば「他人と違う」と言われ、識者がひとくくりにしようとすれば当事者個々が「自分はそんなサンプルと同じじゃない」と言い張り、“放って置いて欲しい派”と“細かく説明して欲しい派”の決着は何年経っても着かず(この件はヤンバル先生がお一人で担っていたようなものです。負担多すぎです。)、どんな単純そうな話でも、支障の無い漠然とした表現で括れば多数派には枝葉まで詳細が伝わらない。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2010年 10月 10日

    続けます。
    こんな扱いづらいジャンルだからこそ、扱いづらさが分かってきたからこそ、需要は増えているのに医療の情報は増える所か、静まり返ったように増加が止まっています。
    (どこかからの転載とか日常の日記ではなく、診療の実践の中から主張を発信しているブログも、他にはやっぱり見つかりませんね。だからもう探しません。いや、医療の皆様の通常業務がお忙しいのは承知しているつもりですが。)
    その一方で私の知らない所から湧いているらしい、発達障碍の枝葉に渡るような細かい情報は、もう把握しきれなくなったので気にしないことにしました。
    湧いても湧いても何かが全国的な変化に繋がる所か、当事者と一か所の支援者単位、マスコミ単位、出版社単位、研究者単位、小さくまとまって利害が一致する場所、場所ばかりで、(失礼を書きますが)それこそ自閉しているのかとさえ思わされます。
    対処療法できる場所は確かに増えています。ただ、現実の二次障害持ちはそれでは足りないので、挫折する。それか、合う場所を求めて際限無い移動を繰り返し、努力なのか逃避なのか分からなくなっていく。
    いや確かに努力なのですが自分で自分のしていることが分からなくなり、自分を見失うかもしれません。
    いずれ努力も努力だと評価もされなくなる。だから現実には孤立していても、対処療法先を作って社会が体裁だけは整えたので、孤立も孤立として成立しなくなっていくように思います。でもどこからも最終評価はしなくていい、そんなシステムになってしまいつつあるのでしょうか。
    つまりは結局私達当事者は何をしているのでしょうか?
    大きく遠回りをしながら我が侭でも言っていたのでしょうか?

    • のら
    • 2010年 10月 11日

    ぴよよさんが書かれてること難しい内容でしたが私も書かせて下さい。
    私(AS?)は社会人になって働いて仕事が出来なくても、仕事が出来てなかったことに気づきませんでした。自分はやれてるって思ってました。ただ対人関係が難しくてそれが辛くてやめました。次もその次の職場も私は仕事ができてると思ってました。ただ対人関係が不器用なだけだと思ってました。今、働いてる職場は同僚が心から優しい人達ばかりで、そんな人達にかこまれてようやく私は自分の問題に気づきました。。
    私は仕事ができない、対人関係も大人同士の関係じゃない(同僚がそうとう無理してる‥)私は周りの人のせいにしてたけど私自身の問題だった、と。私の一番の問題は注意欠陥じゃなく現実を現実として認識できなくて紙芝居でも見ているかのように存在していることだと思います。多数派の人とはまるっきり違う立ち位置だと思います。
    続きます。

    • のら
    • 2010年 10月 11日

    私がずっと感じてたことは多数派の人達に善意で優しくされればされるほど、人と仲良くなる能力に欠けがちな私はコンプレックスが刺激されて辛くて仕方なかった。また私が自分らしく感情をほとんど表現せず無口で仕事だけこなしてると周りの人を傷つけました。人を傷つけたときどうフォローしたらいんでしょうか?
    気づいたら自己不信と他者不信の固まりのような人になってました(T_T)
    今、優しい人達と働いてますがそれでもストレスがきつく、週に一度くらい号泣して感情を思いっきり吐き出して眠ってます。
    でも私の苦しみも、他の発達障害の人達の苦しみも、点と点の苦しみじゃなくつながっていくんでしょうか?他の人と共存できる場所を作っていけますか‥?
    自閉系だからかそんなこと考えたことありませんでした!
    世間体や常識にとらわれないで、ありのままの自分でいられる場所を当事者の人達同士で作れますか?まるでユートピアみたいだけど、どんな努力をしたら実現しますか?
    変な意見だったらすみません。

    • ぴよよ
    • 2010年 10月 12日

    のらさん、初めまして。
    私のようなやさぐれた人間に素直に語りかけてきてくれて、どうもありがとうございます。
    初々しい純粋な文章ですね。
    私も昔の、発達障害を知ったばかりの、スレてない、乾いたスポンジのような気持だった頃を、チラっと思い出してしまいます。
    新しい視点を見出してらっしゃるようですね。
    点と点で繋げて物を考えること、そういう思考回路は、こういうブログをコツコツと読んだ、のらさんご自身の努力で獲得したのですよ。
    楽しいでしょ?
    新しい思考回路を発見したり、発掘したりするのは、楽しいものなのですよ。それは、ご自分がそれに付いていける所までもう基礎を積んできているからではないでしょうか。
    今、多数派の目には見えない飛躍的成長を、のらさんはご自分の中でしようとしているのかもしれませんよ。
    発想は変ではありません。それに“変わった発想”は多数派の発達順序に照らし合わせると違和感がありますが、当事者はかなりが踏んできている道です。私だって、いまだに変人です。
    ただ、繋がりあえる場所ですが、そういう場所がどこかに実現しているのかどうかは、私も探している位なのです。
    ASがASに共感できる可能性はあると思います。国内外の当事者が書いた本には、声を上げられない場所にいる私達当事者が多数、救われています。
    でも例えAS同士でも共感力を実際に発揮するには、リアルで会える場所とか、インターネットの中でもふざけないでしっかり話し合える場所で少々場数を踏まないと、本当に会話が成立しづらい特性があります。
    ここに書き尽くせない位。和やかな会話になりづらい欠点があるのです。
    これからインターネットで(ああこういうことかな?)と目にすることはあるかもしれません。
    今、泣かせてくれる支援者がいる環境を大事にして、並行して本等から情報を吸収し、発想力や想像力に磨きをかけられていくのがベターだと思います。
    いつか、集まれる場所をどなたかが実現してくれたら、すぐその波に乗りたいものですね。お互いに。

    • のら
    • 2010年 10月 12日

    ぴよよさん、はじめまして(*´∇`)
    ややや、私自身はちっとも純粋じゃなくって。。でも文章ほめてもらって嬉しいです。ぴよよさんやさぐれてるって書いてあるけど、そしたら私もそうだからやさぐれ仲間です!
    発達障害の人にこの世はきびしい修行の場なんですよね。。
    ヤンバル先生のブログは生きてくバイブルになってます。考え方が変わると世界の見え方が変わって、昨日まで見えてると思ってた人も、全然勘違いして見てたことに気づき、冷たいと思ってた人が温かい人で、変わらなきゃいけないのは自分の考え方だと気づきました。ヤンバル先生ありがとうございます。おかげ様でちょっと考える力がつきました!
    私のコメントきちんとぴよよさんに伝わってますね‥。嬉しいです!ぴよよさんも発達障害の人達がつながりあえる場所を探してるのですね。ASの特性として会話が成立しづらいってことがあるんですね。私の周りにはASの人はあまりいないけど、私自身は人と会話してるようで自分のことだけ話していて会話が噛み合わないこと多いみたいです‥。コミュニケーションとりたい欲求が強いのになかなか難しいです。
    今の環境を大事にしますね。大事にするにはどうしたらいいか考え続けてみます(^O^)
    いつか集まれる場所をどなかた実現してくれたら、すぐその波に乗りたいものですね、という気持ち同感です!
    ぴよよさんありがとうございました!また明日から頑張ります(^^)v

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